オートでGO!!

オートリクシャーを利用する際、せいぜい街中の移動かちょっと郊外まで足を伸ばす程度だろう。だが今年に限ってはチェンナイから乗り込んでムンバイーまで疾走させている人たちがいるらしい。しかも自分たちで運転して・・・。
8月4日にチェンナイからスタートした『マドラス・ボンベイ・オートリクシャー・ラリー』に世界各国から70名が参戦しており、およそ1900kmのルートを経てムンバイーを目指し力走している。せっかくの珍しいイベントなのに、インド国内からの参加者は一人もいないのだそうだが、まあわかる気がする。インドの人々はこれがカッコいいからとか面白いから乗っているわけではなく、廉価版のタクシーとして利用しているだけだ。オートリクシャーに魅かれるのは物好きな外国人たちくらいだろう。しかし主催者はこのイベントを毎年開くことを目論んでいるようなので、条件によってはどこかの町のオートリクシャーのユニオンが出走させるなんてこともあったら面白い。仕事で日々運転している「プロ」は外国人参加者たちなど足元にさえ寄せ付けないのだろうか。
非力なオートリクシャーで1900kmもの道のりをひたすら走るというのは想像しただけで気が遠くなりそうだし、スタート時にはピカピカの新車でも、それだけの距離をガタゴト走った後にはすっかりポンコツ化しているのではないだろうか。
だが自由になる時間と費用が充分にあれば、私もぜひ参加してみたいと考えている。「マイ・オート」欲しさがゆえという部分もあるが、素人でもエントリーできそうな(技術面・資金面ともに)国際ラリーなんて滅多にあるものではないからだ。まかり間違って優勝するようなことでもあればどうだろう?他に同種のラリーは存在しないらしいので、文字通りオートリクシャー・ラリーの世界チャンピオンになってしまう。こりゃ大変だ!!
Challenging Times! (MADRAS PLUS DIGITAL)

エヴェレストが不調?

エヴェレスト
 かつて世界最高峰エヴェレスト(8850m)登頂は『不可能』であるとされていた。しかし『奇跡』を達成したのは1953年に頂上を目指したエドムンド・ヒラリー、テンズィン・ノルゲイ両氏。1969年にアポロ11号が世界初の月面着陸に成功したのと同じく、彼らは人類の歴史に燦然たる足跡を残したと言って差し支えないだろう。
 その後、山岳や気象等に関する情報や知識の充実、登山技術の発達や装備の進歩などにより登頂がより容易になるにつれて、各国の登山隊が登頂を記録するようになり、世界最高峰征服は『快挙』に格下げとなる。
 エヴェレスト他の八千メートル級の峰への登山経験の蓄積がクライマーたちの間で共有されるようになるとともに、登山隊を送り出す各国の経済発展を背景に、登山隊の資金力も増大したことがこの傾向に拍車をかける。
 英国山岳会により1921年から始まった登山史だが、当初は測量や地理調査などを目的とし、究極的には政治的・軍事的な意図を背景とする事業であった。だが第二次大戦後は登山という行為そのものがスポーツとして世の中に定着することになった。男性たちにやや遅れてやがて登山の世界に進出してきた女性たちも果敢に挑戦し、その中から次々と登頂者が出てくるようになってくる。
 このころには単に頂上を目指すのではなく、無酸素登頂やどのルートから登るかということに新たな価値が出てくることになった。つまり頂上という同じ地点を目指すにあたり、より難しい条件を付けて他者よりも高いハードルをクリアすることが目標とされるようになってきた。
 そうした中で近ごろ一番ホットなのは、ここ数年次々と記録が塗り替えられている『スピード登頂』記録ではないだろうか。ベースキャンプから頂上に到達するまで20時間台であったものが、12時間台、10時間台、そしてついには8時間10分と、どんどん短くなっていく。このあたりは若手シェルパの独壇場で、他国のクライマーにはつけ入る余地はないようだ。
 またエヴェレストをどう攻めるかだけではなく、2002年に63歳で頂上に立った渡邉玉枝氏(女性最高齢登頂)、2003年5月に70歳で登頂した三浦雄一郎氏(世界最高齢登頂)といった年齢に挑戦するものもあれば、世界の他の名峰を含めた『七大陸最高峰征服』という荒行や『全八千メートル峰制覇』などという神業であったりもする。ところで地球上に存在する八千メートル級の山14座、つまりエヴェレスト、K2、カンチェンジュンガ、ローツェ、マカルー、チョオユー、マナスル、ダウラギリ、ナンガーパルバット、アンナプルナ、ガッシャーブルム?&?、ブロードピーク、シシャパンマとすべてがヒマラヤ山脈にあるのだから、まさに『世界の屋根』の偉大さを感じずにはいられない。
 これらの中で最も広くその名が知られているのはいうまでもなくエヴェレストだが、登頂すること自体が達成可能な現実となるとともに、この山の『大衆化』(・・・といってもズブの素人である一般大衆がそこを目指すわけではないが)が始まることになった。今ではいわゆる『ヤマ屋』の人たちがそれぞれのレベルで実行可能な『目標』となったと言って差し支えないだろう。それなりの素質とガッツのある人たちにとって、もはや『信じることができる』現実的な夢なのだ。現在、エヴェレストでは1シーズンに数百人ものクライマーたちが行動するのだという。初登頂から半世紀以上経った今、エヴェレスト登頂の意味は大きく変わっている。
 エヴェレスト登山の裾野の広がりは、同時にいくつかの問題をも生んでいる。 登山家の野口健氏の『エベレスト清掃登山』http://www.noguchi-ken.com/message/cate/ev_clean/index.html活動により日本でも広く認知されるようになったように、『世界の屋根』という本来ならば辺境であるはずの地域におけるゴミ問題もそのひとつだ。シーズンにおいては登山許可の申請が込み合うことのみならず、登山ルートで物理的に渋滞が起きていることも一般に知られるようになった。
 また登山の大衆化による事故の増加も懸念されている。Jon Krakauerによるノンフィク ション作品『Into Thin Air』(ISBN ISBN: 0385494785)で取り上げられたように、 1996年は不順な天候のためもありエヴェレスト登山史上最悪といわれる年であった。このシーズンはエヴェレスト以外でもヒマラヤの各地で多くの事故が相次ぎ、日本人女性も犠牲になっている。  世界的に有名なクライマーが経験の浅い登山者を率いて頂上を目指すいわゆる『ガイド登山隊』が増えてきていることについて、一般に知られるようになったのもこのころからである。
 2003年のシーズンにはエヴェレスト頂上に立ったクライマーは過去最高の261名を数え、翌2004年には登頂者数が通算2200名を超えたと日本山岳会会報(2005年2月号) に記されている。
 物理的に『地域振興』が難しいヒマラヤ地方にあって、現実的な『村おこし』とはやはり観光ということになる。登山人気は単に頂を目指す玄人のみならず、日帰りのハイキングから始まり一週間程度の軽いトレッキング、あるいは山岳の景色をゲストハウスのベランダから眺めて満喫、滞在先付近の山里の様子を見物するなど、様々なカタチで風光明媚な土地を楽しみたい観光客たちをもひきつけてくれる。いや数のうえではむしろそういう人たちのほうがはるかに多く、本格的な登山の季節以外でも日々地元にお金を落としてくれるのだ。
 自国の高峰を舞台にした登山家たちの活躍のニュースとともにメディアに流れるヒマラヤの風物は、そうした観光振興のため非常に有効な宣伝にもなることは言うまでもない。こうしたものがなければ、この地域の自然や風物、人々の暮らしや文化が今ほどに外の人々の関心を引くこともなかったのではないだろうか。
 登山家ならずとも、私たちそれぞれの興味の範囲でいろいろと楽しむことができるヒマラヤは、それをいただく国々はもちろんこの大地に暮らす私たちみんなが共有する貴重な財産でもある。
 だがこのエヴェレスト周辺地方で近年の気象の変化が懸念されている。それは氷河の後退や降雪の減少であったりするが、ここ数ヶ月の間でも従来はなかった現象が見られるのだという。それはほとんど雪が降らない冬と春先の豪雪。はてまた4月に入ってから3日間続いた吹雪などである。
 気候というものは毎年同じものではなく、時に暑くときに寒く、多雨であったり少雨であったりといろいろデコボコがあるもの。『平年並み』とは近年の平均値でしかなく、何をもって異常気象と呼ぶのかよくわからないこともあるが、とかく自然や気候といったものは相互に作用しているもの。ヒマラヤの変調については、私たちもちょっと気にかけていたいものだ。海原や大地でさえぎられていても、結局ひとつづきの同じ地球なのだ。
Everest weather’s ups and downs (BBC South Asia)

ハインリヒ・ハラー氏逝去

 1月7日、オーストリアのハインリヒ・ハラー氏(Heinrich Harrer)が93歳で亡くなった。相当な高齢者となっていた彼は、山登りをやめてからずいぶん長い時間が経っているのに、やはり山屋はいくつになっても「登山家」と表現されるものらしい。
 多才な彼はスキーヤー(1936年ドイツで開催の冬季オリンピック代表として選出されたものの、事情によりオーストリアのスキーチームがボイコットしたため参加できず)としても活躍しており、またゴルファーとしても鳴らした。1950年代後半には、オーストリアのアマチュアチャンピオンに輝いたほどの腕前であった。 
 スポーツ以外でも活躍分野は広く、地理学者として知られるとともに、作家としても20冊の本を著している。その中の一冊がかの有名な「Seven Years in Tibet」だ。
 1938年、彼の祖国オーストリアがドイツに併合された結果、現在パキスタン領内となっているヒマラヤの秀峰ナンガーパルヴァト遠征に「ドイツ隊員」として参加したハラーは、翌39年に第二次世界大戦が勃発すると、当時のイギリス植民地当局に「敵性外国人」として捕まってしまう。
 当時の国籍が「ドイツ」であっただけではなく、後年自身が「あれは間違いであった」と回顧しているように、彼はナチス党の親衛隊メンバーとして名を連ねてもいた。
 1944年に収容所を脱出して、同僚とともに実に21ヶ月もかけてチベット潜入に成功。彼は当時まだ少年であったダライラマに会い、家庭教師役を任されることになる。
 1950年に起きた中国によるチベットに侵攻後は母国に戻り、チベットでの体験や見聞などを「Seven Years in Tibet」としてまとめる。これは48もの言語に翻訳され、300万部を超えるベストセラーとなり、世界各国で愛読されるようになる。この本は、現在でもネパールやインドのヒマラヤ地域で、観光客向けの書店店頭に必ず並ぶ「定番」図書だ。
 97年には映画化され、ブラッド・ピット主演で南米のアンデス地帯で撮影されたが、これを映画館でご覧になった方も多いことだろう。
 このハインリヒ・ハラーという人は、雄大なヒマラヤのみならず、英領時代のインド、そして中国による占領前の独立チベットをも身をもって知る人であった。この機会に今一度、彼の本の扉を開いて彼が見聞した世界を垣間見てみるのもいいかもしれない。
訃報:ハインリヒ・ハラーさん93歳=登山家(毎日新聞)

実現するか インド→ミャンマー→タイ

 今年11月、東インド・マニプル州インパールから、ミャンマーを抜けてタイまで5000Kmにおよぶラリー大会が開催されるという。
 第二次大戦時で多数の死者を出したインパール作戦のルートをほぼ逆にたどり、インド東北→ミャンマー→タイと、隣接していながらも、通常、旅行者は陸路で越えることが許されないルートを爆走することになる。関係各国相当力の入ったプロジェクトであることは間違いない。
 こんな計画が可能になったのは、インドとアセアン地域の交流が活性化したこと、インド東北部・ミャンマーなど反政府勢力を抱える辺境地域の政情が安定しつつあることが背景にあるのだろう。
 合計100チーム程度の参加を想定しているとのことだが、参加チームはインドとアセアン各国に限られるので、ローカルな大会になりそうだ。それでも両地域とも、世界各国の自動車メーカーがしのぎを削る激戦区なのだから決してあなどることはできない。
 下記リンク先記事中には「開発が遅れているインド北東部に外国投資を呼び込むPR作戦」というくだりがあるが、めぼしい産業はなく、外国人の出入りも少ないこの地域で「投資」といえば、地下資源開発を除いて、観光業以外まず考えられない。
 外国人が観光目的で入ることができるアッサムのような地域が、今後広く開放されてゆくのだろうか。このあたりは東南アジアと南アジアの境目に位置する地域。民族、文化、風俗習慣のどれをとっても興味深いことがあるに違いない。
 これまで東南アジアからインドに入る場合は、バンコク、クアラルンプル、シンガポールといった都市から飛行機で飛ぶしかなかった。しかし今後は「陸路でのんびりとインドへ」という夢のルートも可能になるのだろうか。
 期待させておいて、実際フタを開けてみれば、ルートや治安関係の難問続出。今回こそは「やはりダメでした」なんていうことのないよう願いたい。
▼今秋にも「インド・タイラリー」ミャンマーの協力が成功のカギ
http://www.asahi.com/car/news/TKY200404050227.html
▼Indo-ASEAN car rally (The Sangai Express)
http://www.e-pao.net/GP.asp?src=2.10.240304.mar04
▼First INDIA-ASEAN Motor Car Rally in November (IBEF)
http://www.ibef.org/artdisplay.aspx?cat_id=35&art_id=1830