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投稿者: ogata

  • カッチ地方西部4 〈ラクパト〉

    カッチ地方西部4 〈ラクパト〉

    港湾都市として栄えたラクパトを囲む城壁
    ラクパトの入口のひとつ

    コーテーシュワルから今度は北方向に向かう。このあたりまで来ると途中に集落は見かけない。しばらく走ると、40km位だろうか、やがて壮大な城壁のようなものが見えてきた。これがラクパトである。その威容に思わず息を飲む。長大な壁にしつらえられた門をくぐったところに小さなグルドワラーがあった。

    ラクパトのグルドワラー。スィク教の開祖、グル・ナーナクが中東方面に赴く際に立ち寄り、このラクパトから船出をしたということに因んで建てられたもの。グルドワラーのランガルで温かい食事をいただく。どこから来た人でも、どんな信条の人でもウェルカムな姿勢がありがたい。

    グルドワラーから少し西に向かうと小さな集落がある。今の時代にここで暮らしている人たちは、かつて繁栄したラクパトの時代から住んでいる子孫なのか、それとも衰退後に外から移住してきた人たちなのかはわからない。

    グルドワラー
    グルドワラー内部

    ラクパトを囲む7kmに及ぶ要塞のような外壁と外に通じるこれまた巨大な門構えから、港湾都市として、この地域の交易の中心のひとつとして栄えた過去を思わせるに充分以上の貫禄がある。

    スーフィーの聖者の墓
    スーフィー聖者の祝福により様々な色に変わったとの伝承がある池

    今では小さな村にわずかな住民たちが暮らしているだけだが、精緻な飾りが施されたモスクやスーフィーの聖人の墓やダルガーの存在から、ここに集積された富は相当なものであったはず。外壁に囲まれた内側だけではなく、外側にも人々の家や耕作地などが広がっていたことだろう。聖者の墓の前には小さな池があるが、その聖者の祝福により、池は様々な色に変わったという伝承があるとのこと。

    こちらもイスラームの聖者を祀るダルガー

    周期的にやってくるカッチ地方の巨大地震のひとつ、1819年に起きたそれは、ここを流れていたインダス河支流のコースを変えたことから、港湾都市としての機能を削いでしまうこととなり、急速に衰退へと向かう。えて当時、この地域の他の港町の台頭がそれに追い討ちをかけたという面もあるかと思う。

    ラクパトの周囲を取り囲む城壁内部
    Rann of KutchのKori Creekに面している。

    城壁に上ると海水と淡水が混じる広大な湿原が見える。Rann of Kutchの中のKori Creekと呼ばれる部分である。はるか彼方は見えないが、パーキスターンなのである。印パ間の係争地帯でもあるKori Creekの無人地帯が緩衝地帯として機能しているのだろう。

    ラクパトからは一路ブジへ。ラクパトへのパーミットはブジの町の警察署で取得したものの、行きも帰りもそれを提示するように求められることはなかった。しかしながらもし検問で引っかかったら困るので、やはり必ず取得すべきである。今回、私はクルマをチャーターしてナラヤン・サローワル、コーテーシュワル、ラクパトを訪れた。公共バスで行くと、本数と出発時間等の関係により、ナラヤン・サローワルとラクパトでそれぞれ一泊することになってしまう。

    辺境にあたる地域とはいえ、今日通った道路は非常によかった。軍用の目的もあるのかもしれないし、ここが先進州であることの証かもしれない。

    道路状況は良好

    〈完〉

  • カッチ地方西部3 〈コーテーシュワル寺院〉

    カッチ地方西部3 〈コーテーシュワル寺院〉

    ナラヤン・サローワルから2キロほど西に進んだところにコーテーシュワル寺院がある。コーテーシュワルの地名は神話の時代にまで遡ることができるものの、この寺院はそのような長い歴史を持つものではない。

    コーリー・クリークを臨む

    コーリー・クリークに面した寺院のすぐ外には軍の詰所があり、遠くに軍用艦も停泊している様子が見える。彼方はパーキスターンのスィンド州だが、霞がかかっているためか何も見えない。

    本来は、ここからひと続きの世界であったはずだが、分離独立後のインドからするとすでに海のあちら側は異郷なのである。歴史に「もし」はあり得ないにせよ、あえてもし分離がなかったとするならば、ここは辺境ではなく、カラーチーへと続くルート上にあり、人々の行き来が盛んであったはずとするならば、カッチ地方のありようは現在とはかなり異なるものとなっていたことだろう。

    国境のあちら側、カッチ湿原の反対側にもこちらと同じような生活文化空間が広がっているはずなのだが、それを人為的に作られた国境とその分離以降の敵対関係により、これらが交わることなく、それぞれの「国」の一部として組み込まれるようになってしまっている。本来はここからひとつづきの大地のはずなのだが。そんなわけで、コーテーシュワル寺院はインド国内では最西端にあるシヴァ寺院ということになる。

    階段を少し登った先にある境内に入る。寺の本堂入り口に鎮座して本尊を見上げる形のナンディの耳を両手で囲い、女子学生たちが何やらひそひそとお願いごとをしている様子はかわいいが、中年以降の男性たちも同じことをしているのはやや滑稽に感じられる。

    〈続く〉

  • カッチ地方西部2  〈ナラヤンサローワル〉

    カッチ地方西部2 〈ナラヤンサローワル〉

    グジャラート州カッチ地方のナラヤンサローワルは、チベットのカイラス山付近のマーナサローワル、ラージャスターンのプシュカルサローワル、カルナータカのパンパサローワル、同じグジャラート州のビンドゥサローワルとともに、インドの五大聖池のひとつとなっている。

    アクセスすること自体が容易ではないカイラス山近くにある聖池は別格だが、ラージャスターンのプシュカルサローワルのようにあまりに有名で国内外から多数の訪問客が訪れる俗化したロケーションとは異なり、静謐な雰囲気を感じることができるはずだろう。満々たる水を湛えている時期であれば。

    乾季に干上がった池の底、聖水を汲むためにしつらえてある井戸

    この時期、つまり乾期のナラヤンサローワルは、すっかり水が干上がってしまい、ガートがただの階段となっている。もともとごく浅い池であるようで、ガートを下ってすぐのところが干からびた大地となっている。その乾いた「池」にあるごく浅い井戸から参拝客は水を汲んでは、ありがたい「聖水」を体にふりかけている。サローワルの手前には七つほどの寺院があり、どれもカッチ地方を支配した王族が建てたものだ。

    境内では女性たちがバジャンを歌いながら踊っている。中年以上の人たちばかりだが、楽しそうでいい感じだ。グジャラートの人たち、女性は着道楽な人たちが多く、地場の染め物や飾りの入った伝統的な衣装をまとっている。
    グジャラート州の寺院は概してカラフルで清潔にしている。日がな過ごしていても心地良さそうな空間だ。人々も概して穏やかながらもおしゃべりだ。とても居心地が良い。

  • カッチ地方西部1 〈出発〉

    カッチ地方西部1 〈出発〉

    午前7時に宿の前にクルマが迎えに来る。日帰りでカッチ地方西部を訪問する。

    ブジのスワーミー・ナラヤン寺院の前を通る。ずいぶん新しくてキレイでお金がかかっているお寺だが、デリーやアーメダーバードのアクシャルダム寺院で知られるBAPS
    (Bochasanwasi Shri Akshar Purushottam Swaminarayan Sanstha)の寺院であった。今の時代にこうした「歴史的な規模」の巨大寺院を建立する潤沢な資金はどこから来るのか。信仰の力というよりも、その集金力に感心してしまう。

    こうした宗教活動が盛んであるが、ここから最短で90kmほど離れた国境の向こう側ではヒンドゥーはごく少数派となり、その存在自体が陰に日向に圧迫されているわけなので、「政治」や「体制」といったものは本当に大切だと思う。

    クルマで走っていて、7時はまだ辺りは暗く、薄いフリースの上にジャケットも羽織って出たがこれでちょうどよかった。さすがに早朝はかなり寒い。

    荒野を走っていくと、デリーのクトウブミナールよりも更に大きな塔があった。これはテレビの放送電波の中継施設であるとのこと。最初に古いシヴア寺院に立ち寄る。規模の小さな石造り。

    次に同じ道沿いで寄ったのはマーター・マンディル。こちらもかなり古いのだそうだが、2001年の大地震のダメージによりひどく損壊した後に建て直したものであるとのこと。


    途中で2回ほど、休憩を取ってチャーイを飲み、クルマは一路西へと向かう。

    これも中途で立ち寄った階段井戸
    カッチ地方では風力発電が盛ん

    〈続く〉

  • マンドヴィー4  〈ダウ船〉

    マンドヴィー4  〈ダウ船〉

    ディリープ氏の屋敷を後にして、しばらく歩いたところにダルガーがあり、その横のところで若者たちがカッワーリーの演奏の練習をしていたが、これがなかなか上手くて聴き応えがあった。

    そこから少し戻り、バススタンドのほうに歩く。やはりここも2001年1月の震災でひどくやられたのかもしれないが、あまり伝統的な古い建物は残っていない。その前に来たときにはこんな具合ではなかったように思う。

    港湾として栄えた歴史を持つルクマワティ河の河口部分には、干潮時には広いスペースが陸地として現れる。ここではダウと呼ばれる木造船が昔ながらの工法で建造されており、海上貿易で栄えた港町の過去を彷彿させてくれる。本来は帆船だが、さすがに今の時代はエンジンを付けて航行するようになっている。

    〈完〉

  • マンドヴィー3 〈ディリープ氏の館〉

    マンドヴィー3 〈ディリープ氏の館〉

    マンドヴィー在住のディリープ氏のお屋敷を見学させていただく。ロンリープラネットのガイドブックに紹介されているが、日常的に公開されている家屋ではなく、社交的な氏が訪問者たちを快く受け入れているがゆえのことである。

    彼の許可を得たうえで、屋敷の写真を掲載させてもらっているが、かつて商家として大いに栄えたファミリーの豪邸そのもののたたずまいはもちろんのこと、このディリープ氏による語りも大変興味深かった。

    今はインドの西果ての片田舎となっているマンドヴィーだが、藩王国時代までは、広く外に門戸を開いたこの地域の窓口でもあり、現在のパーキスターンを含めた当時のインド国内各地はもちろんのこと、すぐ目と鼻の先にある中東地域とも盛んに交易を行なう港町であった。

    かつてカティアーワル半島ととに、このあたりの沿岸もまたアラビアやアフリカとのネットワークがあり、多くの大志を抱く商売人たちを外地に送り出してきた。失敗するものあり、また成功する者あり。そのまま外地に定住する者あり、故郷に錦を飾る者あり。

    曽祖父が抱えた負債に始末をつけるために、モザンビークへ渡ったディリープ氏の祖父。商売は成功して大きな富を築くこととなった。氏はその祖父の次男の息子であるとのこと。

    モザンビークで蓄えた富とともに故郷に凱旋し、この地域に大規模な綿花の栽培を導入したのと彼の祖父であり、貿易業とともに製糸業やムンバイーでの工場の操業や投資などで更にその富を拡大させていったとのこと。

    そんなわけで、祖父が自動車を購入したり、電話を引いたりしたのは当地の王家よりも早く、そのラージャーから物言いを付けられた、とは氏の弁だが、それをきっかけに王家と親交を結ぶようになったのだとも。

    その後、祖父は家業を息子たちに継がせたのだが、長男は商売に向いておらず散財に歯止めがかからず、次男でありディリープ氏の父親でもある次男は裁判沙汰に相次いで巻き込まれたこと、ヤクザとのトラブルなどもあり、次々にそのビジネスや財産を失っていくこととなったということだ。

    とりわけ強大な敵であったのが、かつてムンバイーのアンダーグラウンド一世を風靡したワルダーンバーイーとの対立であったという。現在で言えば、ダウード・イブラヒムのような人物ということになる。
    「外国の人にとってはカーストなんて悪だということになっているようだし、ここでも人と人の間に不要な垣根を作ったりするネガティヴな部分もある。けれども出自に関わる強いプライドを与えてくれることも事実じゃ。」

    ワルダーンバーイーの手下が強請に来たときに、父親が一喝して追い出した話、氏自身がワルダーンバーイーの家に一人で乗り込んだという武勇伝が続く。
    「クシャトリア、誉れある武人階級の生まれだ。たかがヤクザごときを相手に縮こまってしまうわけにはいかん。」

    裁判による係争については、「ハイデラーバードのニザームの次に豊かな弁護士」に依頼したところ、法外に高い報酬をむしり取られるだけで大損したということだ。
    「だからこそ、彼はそれほどの金持ちの弁護士になったということが解った」とも言う彼の話には多かれ少なかれ誇張が含まれているとしても、おおよその部分は事実を伝えていることと思う。

    この商家が栄華の極みにあった時代から、急坂を転げ落ちるように零落していった過程までを活写する話は、まるで映画かドラマのようにカラフルで大変興味深かった。

    今はずいぶん荒れてしまっているものの、素人目にも往時のきらびやかな様子が容易に脳裏に浮かぶ27部屋もあるハヴェリー(屋敷)の内部。各部屋ごとに異なるタイルが壁にあしらわれており、天井に描かれた絵、おそらく元々は高価であったはずの家具類の数々。彼の祖父夫婦が寝室としていた部屋の天井には、氏が言うところの「男女のロマンチックな光景」(春画の類ではない)が洋風のタッチで描かれたものが残っている。

    私が訪れたときには、文化財保護の調査にきた建築家にも話を聞く機会を得られた。何か具体的なプロジェクトがあるわけではないが、この家屋に対して何ができるかを調べに足を運んでいるのだという。アーメダーバードの大学も同様に文化財としての価値に注目しており、現在この屋敷を調査中とのことだ。

    かつての栄華をふんだんに感じさせる建物であるが、今の氏の暮らし向きは厳しそうだ。それがゆえにずいぶん家にもガタが来ていて、今すぐにでも修復が必要な状態にあるようだ。それでも、この家屋は2001年1月にカッチ地方を襲った大地震の際にも大して損傷することなくよく耐えたという。

    かつてはたくさんの使用人たちを抱えて、家の中もすっきりとまとまっていたことだろう。どの部屋も美しい装飾がなされているのだが、どこも例外なく散らかり放題となっている。そうした中にたくさんの骨董品、外国から輸入された高価な調度品などが埋もれている。氏が普段使用していると思われる日用品類は非常に簡素である。

    家屋の周囲は同家の敷地であったとのことだが、時代が下るとともに切り売りしていったそうで、現在は窮屈に建て込んだ中にディリープ氏の屋敷が残る形となっている。

    氏はガルフの国で働いていたことがあり、アメリカも訪れたことがあるのだと氏は言うが、現在の氏はかなり経済的に楽ではないようだ。氏は結婚していないため子供はおらず、氏は目の見えない妹さんと二人暮らし。氏も相当の年配であると思われるため、今後が大変だろう。

    階下のガレージには非常に古い、1931年式だというシボレーの乗用車がある。もう動くようなコンディションではなく、ボロボロだが、このような時代に外国からクルマを取り寄せるというのは大したものである。氏にとっては子供のころからの大変思い入れのあるクルマなのだと思う。

    本日はお昼が終わったばかりのところでお邪魔してしまい、長い時間にわたり、各部屋にて、そこにまつわる逸話について色々と話してくれた氏に大変感謝している。

    やはりカッチ地方は興味深い。「kutch nahin dekha to kuchh nahin dekha (カッチを見なければ、何も見なかったのと同じ)」という、アミターブ・バッチャンによるセリフを、ひとりで呟いて頷いていたりするこの日の午後であった。

    以下はディリープ氏の許可を得て、当サイトに掲載する屋敷の写真である。

    〈続く〉

  • YouTube インドのニュース番組のオンタイムで

    YouTube インドのニュース番組のオンタイムで

    スマートフォンやタブレットのアプリでインドの各種番組を視聴できるものは多いが、
    最近、YouTubeにてインドのいくつかのニュース番組のライヴ放送が開始されている。
    とりあえず確認してみた範囲において、ヒンディー語放送ではAAJTAK、そのAAJTAKのデリー首都圏ニュースのDILLI AAJTAK、テルグ語放送(私自身、テルグ語は解らないので理解できないが)ではTv9 ETV Newsがこのサービスを提供している。どれも昨年12月から今年1月にかけてこれを開始しているため、英語を含めた他のニュース番組もこれに追従するところがいろいろ出てくることだろう。
    仮にエンターテインメント、経済、宗教その他のチャンネルも各自の番組をこうした形で流すようになってくると、どこにいてもテレビを通じた各種情報が際限なく入ってくることとなり、少なくともテレビ放送に関してインド国内と国外との「情報格差」が相当小さくなっていくことになる。
    もちろんテレビ放送に限ったことではなく、週刊ニュース雑誌等のデジタル版も豊富に出回るようになっている昨今、インドはおおまかな情報やトレンドについては、国外からもウォッチングしやすい国となってきているといえるだろう。

    ※マンドヴィー3は後日掲載します。

  • マンドヴィー2 〈Vijay Vilas Palace〉

    マンドヴィー2 〈Vijay Vilas Palace〉

    マンドヴィー市街地に着いた。ルクマワティ河に架かる橋を越えたところで下車して、オートでヴィジャイ・ヴィラース・パレスに向かう。広くはない市街地を外れて、海岸線に平行して走る軍用の滑走路を左手に眺めながら進むと、やがて到着する。

    敷地に入ったところで乗り物の通行料を徴収されるが、ここから宮殿まではさらにちょっとした距離がある。ここのパレスは今も王家の所有であり、外国人料金の設定はなく、誰が訪れても入場料は一律である。そのため、インド人にとっては国有のものと比較して少々割高(入場料30Rs、カメラ使用料40Rs)ということにはなる。

    1929年にカッチの王家の夏の宮殿として完成したこのパレスは、幾度もヒンディー語映画のロケで使用されているため、何となく見覚えのある人もいるだろう。ラージプート建築と西洋建築のハイブリッドだが、上部の装飾に散見される大ぶりなベンガル風の丸屋根がアクセントになっている。瀟洒な外観の割に内部はやや地味ながらも、屋上からの周囲の眺めは実に素晴らしい。

  • マンドヴィー1 〈スマホと日記 〉

    ブジのジュビリー・サークルの交差点に出て、ここからバスをつかまえる。マンドヴィーまでは1時間半くらいかかる。

    このところ旅行中にSNSに長文で書き込みをしている。以前は、旅行中にあまりこうしたものに熱中してしまうのはどうかとも思っていたのだが、途中から考えを変えた。

    なぜかと言えば、夜に宿に戻ってから一日のことを思い出して書こうとすると、うっかり忘れてしまっていたりすることが多々あるので、なるべく日中にいろいろメモとして書いておくといい部分もあるということに気が付いたからだ。もちろん歩きながらなどは言うまでもなく、往来で立ち止まってスマホ操作するのも危険なのでそんなことはしないが、移動中のバス車内や食事を注文して待っている間など、「無駄な時間」「捨てている時間」にどんどん書いておくのは悪いことではないだろう。

    そうしてメモしておいたことを目にしながら、夕食後に宿泊先の部屋でその日にあったことをいろいろ書き進めてみるのもいいし、元々自分自身が書いたものなので文字通り「コピペ」してしまってもいいのだ。

    SNSであまりに大量な駄文やメモ書きを公開したりするのはどうかと思うし、気恥ずかしくもあるので、公開先を「自分のみ」にするような慎み深さは必要かと思うが、なかなか便利な時代になったものである。

    私自身も最近はフリック入力にもかなり慣れてきたため、両手を使ってかなり高速で長い文章を書くことができるようにもなっている。また、数年前であれば、インドで人前でスマホを取り出すのはちょっと憚られるところがあったが、今では町の人たちもずいぶんいいもの、たとえば6インチくらいの大ぶりのスマホを持っていたり、その他かなり高性能であったり、見栄えのするものを扱っていたりするので、何か気おくれするようなこともなくなった。

    〈続く〉

  • カッチ ナヒーン デーカー トー クュッチュ ナヒーン デーカー (カッチを見なければ、何も見なかったのと同じ)

    kutchh nahin dekha to kuchh nahin dekha (カッチを見ないのは何も見なかったのと同じ)」とは、グジャラートのカッチ地方を訪れた際のアミターブ・バッチャンの言葉。カッチ地方の人々へのお世辞とはいえ、やはり地元っ子たちは、いたく気に入っているようだ。とりわけ、外から来た人によくこの言葉を使う。
    ともすれば、非常に寒いオヤジギャグになりかねないこの一言。市井の人が口にすれば、「ヘンなダジャレ」ということになるのだろうが、そこは父親が国民的な詩人であり、自身もインド映画界を代表する名優Big Bが口にすると立派な褒め言葉になる。
    「カッチ ナヒーン デーカー トー クッチュ ナヒーン デーカー」
    これを口にするカッチの人たちの表情を見ていると、Big Bに「よくぞこれを言ってくれた!」という感謝の意とともに、それを自身の深い郷土愛が感じられるようでいい。
    アミターブ・バッチャンはグジャラート・ツーリズムがオーガナイズするRann Utsavのイメージ・キャラクターも務めており、彼自身もこのカッチ地方はなかなかのお気に入りなのではないかと思える。
    これで見どころに欠ける土地だったりすると残念なだけなのだが、幸いにしてあまり手垢の付いていない魅力に溢れるカッチ地方だけに、この言葉は実にしっくりくるものがある。

  • グジャラーティー・ターリー

    グジャラーティー・ターリー

    インドで一番豪華なヴェジタリアン・ターリー。不思議なのは、おかずやご飯と甘い菓子類をいっぺんにサービスすることだ。またバターミルクも付いてきて、これらすべてが食べ放題で飲み放題なので、とても嬉しい満足感がある。品数多いおかずの味付けは、このグジャラート州以外のインド北部地域とはずいぶん異なる。ダールもやけに甘いのだが、それはそれで美味しい。おかずも店によってずいぶん異なるものを出しているし、同じ店でも日によって出てくるものがかなり違うところもある。

    おかずとチャパーティーやプーリーを食しながら、甘い菓子をかじり、ときどきバターミルクで口の中を洗い流すという作業を繰り返しているうちに、フラフラになるほど空腹だった自分がどんどん満たされていき、もうこれで充分と頭では思いつつも、ついついお菓子をもうひとつとか、いやあちらの菓子もいいなと次々にもらってしまうのである。

    ただ欠点もある。ご飯党にとってはちょっと残念なのは、ライスを所望すると「さて、これで私はおしまいにします」という合図となってしまうことだ。もちろん頼めばもっと運んできてくれるのだが、ご飯を頼んだからには、この人は当然これで食事はシメである、という了解がある。

    画像左上がプーラン・プーリー

    先述のとおり、店によって中身がかなり異なるので、各アイテムの見た目が美しい店もあれば、ボリューム感抜群の店もある。ボリューム感とはおかずや主食のみで醸し出されるものではなく、やはり大きな役割を占めるのはお菓子類である。

    こちらの写真の店では、人参のハルワーとともに糖蜜漬けになったローティーというか、プーリーというか、その名も「プーラン・プーリー (PURAN PURI)」というのだが、さらにこの中には黄色いダールで作られた餡子が入っている。この餡のような味は日本にもあったような気がするが、非常に甘くて脂分も大変多い。ダールでこのような餡を作るというのは初めて知った。

    インド広しといえども、おかずや主食とともに甘い菓子をパカパカ食べるのは、グジャラートくらいだろうと思う。

    私の隣のテーブルには、デリーから来たという中年カップルが座っていた。私と同じターリーを食べ始めているが、甘い菓子類はすべて断っている。
    「甘いものは苦手で?」と尋ねると、小声でこんな返事が返ってきた。
    「そんなことないけど、甘いものは食後に、当然別皿で食べたいもんだねぇ・・・」

    まさにそのとおり。私もまったくもって同感なり。

  • 白い塩の砂漠

    白い塩の砂漠

    朝9時の宿の前でオートがやってくるのを待つ。
    先日久しぶりにお会いしたジェーティーさんにオートのチャーターを頼んでみたところ、「日本人女性が予約しているのでシェアすることにしては?」と言われたので、そうすることにした。本日向かうのはブジの町から北へ90kmほど進んだところ、Great Rann of Kutch (大カッチ湿原)の周縁部にあたる地域。

    カッチ地方には、Great Rann of Kutch(カッチ大湿原)とLittle Rann of Kutch(カッチ小湿原)とがあるが、これらの「大」と「小」はあくまでもこれらふたつの面積の比較上の話であり、どちらも広大な湿原である。湿原とはいっても内陸部や高原などにある湿原と異なり、真水と海水が混じり合うものであることから、モンスーン期にはドロドロの湿地帯、乾季には広大な砂漠状態となるなど、季節によってその姿を大きく変化させる。

    これらの地域は、人間にとっては不毛な大地で、製塩業や風力発電くらいしか利用価値のない土地ということになるものの、農業を含めた人々の経済活動に不向きであるがゆえに、人口も非常に少なく、人の手が入る度合いが少なかったがゆえに、独自の自然環境が豊かに残っているとされる。

    カッチ湿原には野生動物の保護区が多く、以前カッチ小湿原にある野生のロバの保護区を訪れたことがある。

    Rann of Kutch 1(indo.to)

    Rann of Kutch 2 (indo.to)

    Rann of Kutch 3 (indo.to)

    Rann of Kutch 4 (indo.to)

    野生のロバ以外にも、ニールガーイその他の大型草食獣、オオカミ等も棲息している。またフラミンゴその他の大型の渡り鳥も多く飛来しては、乾季にはカラカラに干乾びた大地となるこの地域に点々と残る水場で羽を休めていることから、この時期にはバードウォッチャーたちにとっての楽園でもある。

    ホワイト・ラン、ホワイト・デザートと呼ばれるエリアまではかなり距離があるようだ。片道で90kmほどあるため、往復で180kmくらいになる。そんな長距離をオートで走ったことはこれまで私にはない。片道で3時間くらいかかってしまう。午前中はかなり寒いし、本当ならばタクシーのほうが良かったであろう。実際のところここに行く車両多かったのだが、私達以外はすべてバスか乗用車であった。速度も倍くらい違うため、移動に倍くらいの時間がかかってしまうことにもなる。

    多少の植物が繁っていたり、まったくのカラカラの大地であったりという程度の違いで、基本的には単調でまったくフラットな景色の中を進んでいく。ブジからあまり遠くないところに枯れ河があった。雨季には流れる河であるとのこと。ブジからの行程を三分の二くらい進んだところにはビランディヤーラーという村があり、道路から少し外れて立ち寄る。

    遠目には魅力的な伝統的なカッチの村に見えたのだが、実は観光客のためにしつらえてあるものであるという側面が強いことが判った。伝統を模したもので、それはそれで面白いのだが、ここでの稼ぎは女性たちによる手工芸らしく、どこの家でもそれらを販売している。売っていたものはビーズ細工であったり、刺繍であったりするのだが、稚拙な造りのものばかりであった。それなのにやけに高い値を言ってくるのだ。村の家屋内にはヒンドゥーの神の絵が壁に貼ってあるところもあったが、村の入口にモスクがあり、やはり運転手のバラトさんもこの村の住民たちは皆ムスリムであるという。なんだかいかにも観光向けの村といった具合だ。

    その村を出てから道路に戻って少し進んだ先がポリスのチェックポストで、ここでパーミットを発行してもらう。ここからさらに30kmくらい進むとホワイトランに着くようだ。チェックポストを少し過ぎたあたりでは、ラクダの群れを飼育している男たちがいた。ラクダに任せてパーキスターンとインドの間を往来する密貿易が行われているとのこと。人はつかずにラクダだけが移動するのだというが、本当なのだろうか。

    Rann Utsavの会場

    ホワイトランにつく前に、開催中のRann Utsavの会場で食事することにした。12月初旬から3月初旬にかけて毎年開催されている政府主導のイベントで、会場には沢山のテントがあるとともに、食事の模擬店がいろいろ出ている。あまりたいしたものはないにしても、こんなところでこのような大きな規模のイベントが開催されていること自体がちょっとした驚きかもしれない。

    Rann Utsavの会場から少し走るとホワイトランに着く。面白いのはそこに到着する手前までは塩のように見えるものは特にないのに、ある地点から急に真っ白になってしまうことだ。

    入口にはゲートがあり、ここから塩原に入る。ふたりのBSFの兵士が警備していた。こここまで来る少し手前に検問があるが、そこもBSFの詰所であった。

    どこまでも続く白、白、白・・・。
    塩の塊は少し水分を含んでいる。

    塩原はまるで雪原のようである。地平線の彼方(の方角はパーキスターン)までずっと白い塩原が続いている。なんとも不思議な光景だ。15日に一度の大潮の際に海水が流れ込んで、この広大な塩原を形成したのだという。塩の下を少し掘るとすぐに水が出てくる。この塩は不純物が多く、食用に適さないが除雪用、工業用として輸出されているとのこと。塩原には観光客をのせるための馬とその世話人たちがたくさんいた。白い塩の反射がまぶしく、目が痛くなりそうだ。満月の夜には塩原全体が銀色に輝くということだ。

    少し掘るとすぐに水が出てくる。

    ホワイト・デザート、塩で出来た砂漠があるというのは実際に目にするまで信じがたいような気がしていたが、こうして訪れてみるとこの光景は幻想的でさえあった。