シェカーワティーに行こう2 見どころいろいろ

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 ラージャスターン各地に割拠した藩王たちの宮殿のような壮大さはないし、建築や装飾の洗練された美しさや職人の技の精緻さに圧倒されるとまでは言えない。しかし平民の中からたくましくのし上がっていった当時の新興階級のみなぎる力、そして彼らの進取の気性を目の当たりにするようだ。まさに中世インドにおける民間活力の勃興の証であるともいえるだろう。
 ここで力を蓄えた人々の中からは、大都会に出てより大きなビジネスチャンスを狙う者も出てきた。不断の努力により得た富をせっせと故郷に送金したことから、豪華なハヴェリー建築に更に拍車がかかった。
 彼らが建設に励んだのは、自らの大邸宅だけではなかった。寺院建築のための寄進や井戸を作ることによる地元社会への貢献もあった。カラフルなハヴェリーとともにシェカーワティー地方の風景を特徴づけるのはユニークな井戸である。地面から高く積み上げられた基檀の上から空の方向へ堂々と伸びている大きな四本の尖塔が目印だ。遠目にはモスクのミナレットかと思うような造形だが、その足元では深くて暗い井戸がポッカリと大きな口を開けている。


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 大型のものは、基檀でちょっとした集会を開けるくらいのスペースをとってあるうえに、チャトリ(あずま屋)も備えている。強い日差しを避けて社交の場を人々に与える役割も果たしていたのだろう。尖塔にしてもチャトリにしてもかつてはハヴェリーと同様、どれにも美しい絵が描かれていた痕跡がある。
 生活用水を汲み上げることさえできれば用は足りるのに、これほどの大掛かりなものを造ったということには、乾いた気候風土の中で水がとても貴重であったこと、そしてコミュニティのために井戸を造るという行為が、いかに社会の注目と尊敬を集める大事業であったかということを思わずにはいられない。
 現在のシェカーワティー地方は貧しい後進地域となっているにもかかわらず、巨大なヒンドゥー寺院が散在しており、往時の繁栄を彷彿させるものがある。しかし維持していくことが経済的に困難なのだろう、学校など他の目的に転用されているものをいくつか見かけた。
 ムガル帝国が衰退していく一方、イギリスの支配力が亜大陸に深く浸透しつつあった時代、それまで重要な地位を占めていたグジャラート湾岸の貿易港が、後者によって開かれたボンベイやカルカッタなど新興の港町に取って代わられることになる。
 イギリスにはじまった産業革命のため、インドの他地域同様に綿加工業が盛んだったこの地域も大きな打撃を受けた。軽工業を飛躍的に発展させた石炭、蒸気機関などの動力源が移動手段にも応用されるようになる。亜大陸で1850年代に始まりその後急速に発展した鉄道ネットワークにより、ラクダや馬の隊列による長距離輸送は用済みとなる。
 そうした時代の変遷により、物流のハブとしての機能を失ったシェカーワティーの交易地としての繁栄は終わる。地元の商人たちの外部への移住と過疎化が進んだ。有力なビジネスマンと資金の流出は、地元経済をさらに冷え込ませるとともに地元の雇用機会をも減少させ地域は凋落へと向かう。時代は下り1930年、ローカル支線がジャイプルとの間を結ぶのみ。ジュンジュヌはその終着駅であった。
<続く>
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