コトバそれぞれ 2 ヒンディー語紙はどこにある?

 新聞といえば、ヒンディー紙には他の地元語紙も同様のことと思うが、購買層が違うため全国規模で流通している英字のメジャー紙とはずいぶん違うカラーがあるのは言うまでもない。
 よりローカル色が強く、ときには「主婦がチャパーティー焼いたら表面にオームの文字が・・・」なんていう見出しとともに、脱力記事が掲載されたりするのは楽しい。「以前できたときは家族が食べてしまったけど、縁起がいいから今度はしばらくとっておくつもりなの」という奥さんのコメントもついていてなお微笑ましい。
 子供のころ毎年訪れた祖父の郷里三重県の「吉野熊野新聞」や「南紀新報」にもこんな雰囲気があったな、と少々懐かしくなる。それらを何十年と愛読していた祖母の話では「××さん宅で3日続けて茶柱が立つ!」という感じの記事が掲載されることもしばしばあったという。
 ニュースの精度や質に問題はあっても、庶民の新聞はまたそれで面白い。読むことができれば何語のものでも構わないのだが、インドの地元語ローカル紙で、私が読んでわかるのはヒンディー語紙しかないので仕方ない。
 だがこのヒンディー語紙、タミルナードゥでもケララでも、在住の人たちにはいろいろ入手できる経路や場所などあるのかもしれないが、私のようなヨソ者が探してみてもなかなか手に入らなかった。
 州都のチェンナイでは繁華街の売店でラージャスターン・パトリカー紙を購入できるスタンドはポツポツ存在するが、他ではなかなか見つからなかった。ママラプラムとマドゥライではごくわずかな部数を置いている店があることを確認できたが、後者ではなぜかチェンナイ版ではなくバンガロール版であった。それ以外の街では鉄道駅やバススタンドのような人の出入りの多いところの新聞スタンドで尋ねてみてもサッパリ見つからなかった。
 ところでこのラージャスターン・パトリカー紙、その名の示すとおりラージャスターン州をベースにする地方紙である。わざわざ南インドで販売するならば、同紙より地域色の薄いデーニク・ジャーグランのようなよりグローバル(?)なものではなくて、なぜラージャスターン・パトリカーなのか?とも思うが、とりあえず手に入れば何でもいい。
 ページをめくると南インド発のローカルニュース、そして全国ニュースに加えてラージャスターン州各地域の主な出来事をあつかうページもある。ヒンディー語を母語とする人々向けのメディアであることから、南インドの地域ニュースというよりも、まさにラージャスターン出身者たちの同郷紙といった色合いが濃い。
 使用されている言語だけではなく内容面からも異邦人向けの新聞ということは、日本国外で在住邦人相手に販売される「読売新聞衛星版」みたいなものか?とふと思ったりもする。
アウトレットも置かれている部数もごく限られているが、チェンナイ版、バンガロール版と発行されているからにはそれなりに需要があるのだろう。


 反中央感情が強いとされるタミルナードゥ州でヒンディー語があまり通じないといっても、そこはやはりインド国内である。テレビや映画などを通じてヒンディー語を耳にする機会はいくらでもあり、全国で人々の往来が盛んなこの時代、特に都市部では外部の人々の出入りが多いところでは程度の差こそあれ「憲法上の国語」が誰にもまったく通じなくて困るということはまずないので便利なコトバには違いないと思う。
 だが辺境ならいざ知らず、インドの中にあって重要な核心部分のひとつでありながらも、新聞という地元の人々の暮らしの中に密着したメディアの中での存在感に欠け、紙面での需要がほとんどない地方があることを思えば、憲法上の「国語」としてはずいぶん頼りない。
 だがひとつ面白いことに気がついた。「ヒンディー語を普及させよう」という中央政府のスタンスには冷淡でも、宗教というチャンネルからは意外にスムースに入ってくることもあるようだ。
 タミルナードウ州でも大きなモスクやダルガー周辺でイスラム教徒が固まって暮らしているような場所では、ヒンディー語と表裏一体の関係にあるウルドゥー語を話す人は多いように見受けられた。このあたりでもウルドゥー語の習得はイスラム教徒に必要な教養の一部とされているのかどうかよく知らないが、以前カルナータカのマドラサーで、ウルドゥー語を仲介言語にして授業が進められているのを見たことを思い出す。
 信仰はさておき、通常はコトバの普及にはやはり切迫した需要が必要なのではないかと思う。学校で英語教育が行われているうえに、書店に行けば様々な英語教材が並ぶ。駅前には数々の英会話学校が並んでいたりするように、英語を習う機会には事欠かないはずなのに人々の多くは「英語ができない」と自覚さえしている現状は、語学教育のありかたの問題だけではなく、英語を話すことができなくても日常生活に特に支障がないという、外国語を積極的に身に付けようとする動機の欠如が大きい。つまり語学習得の需要が少ないということになる。
 地域によっては憲法上の国語があまりに軽視されているという状況は、視点を変えればヒンディー語という話者人口からすると押しも押されもせぬ世界的な大言語を軽視しても充分生きていける相当広い空間があるということにもなり、まさにこの国の懐の深さを象徴しているかのようでもある。

「コトバそれぞれ 2 ヒンディー語紙はどこにある?」への1件のフィードバック

  1. インドの言語の多様性と各々のメンタリティーは本当に一言では言えないものがありますね。
    それにしてもogataさんが関西のそれもひときわ色濃い熊野に御縁があるとは、、、。

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