男児か女児か?

三歳の女児の父親が『娘を殺す』と脅迫
目にしたとたん嫌な気分になるニュースであるが、いろいろと考えさせられた。
 ラージャスターン在住の夫婦の間に女の子がふたり。夫は妻に避妊手術を受けさせたが、それでもふたたび身ごもってしまった。生まれてきたのはまた女の子。夫は施術した病院に補償を求め、それがかなわないならば経済的に支えることができないため末娘の命を絶つと州首相を「脅迫」した。
 この事件はあまりに極端な例ではあるが、インドでは就学率・識字率の男女格差、(非合法とされるが)出生前の性別診断による妊娠中絶等から生じる男女出生率のアンバランスなど、根強い男子偏重の傾向が見て取れる。
 結婚持参金問題を含めた慣習のみに原因であるわけではなく、相続について定めた法律、地域の社会と経済の構造、およそ人びとの生活を取り巻く要素が複雑に作用しているため「差別だ」と単純に切り捨てることはできない。
 こうした風潮は保守的な田舎に残っている……というわけではない。パンジャーブやハリヤナ州のような先進地域にあっても、人口の男女比には不自然な差があるのだから。
 跡取り息子の役目は、家督を引き継いだり、親の火葬の場で薪に点火したりすることだけではない。就労機会や賃金の上でも、一部の例外を除けば一般的に男子のほうが有利であることは間違いない。
 都市部では核家族化が進み、かつてインドの大家族のありかたの典型のように言われてきた「ジョイントファミリー」なんてもう昔話だが、家族が小さい単位になれば少子化という現象が出てくる。
 子どもが少ないほど、ひとりひとりにかける期待が大きくなるものだ。田舎に残る幼児婚の習慣はまさに別世界の話で、親によらず自らの意思で配偶者を選ぶような都会の若夫婦たちでさえも「できることならば男の子を」と願うのは自然なことかもしれない。
 また社会保障制度がしっかりしていない現状では、もっとも有効な老後の保障という面もあるだろう。外に嫁に出してしまう娘よりも、跡継ぎで新婚家庭の主である息子の方が親の面倒を見てくれそうだし、こちらの言い分も通り易い…と思うのは無理もない。


サンチーの村娘 / photo by Tamon Yahagi
 「性差別」とは感情的、観念的なものではなく、実社会でどちらが有利かという現実的な要素が強いはずだ。誰もが本当はそういう選り好みはするべきではないと思っていても、ひとりで突っ張っていてもどうにもならないのが世の中というものである。
 人びとが家柄、立場、信条、性別などにかかわらず「平等」「公平」であることは、日本でもインドでも公の建前ではあるが、そうした理想がはたしてこの地上のどこに実現されているだろうか?
 「平等」「公平」という定義もそう簡単ではない。国によって人びとの肌の色や装いが違うように、社会の価値基準もまた違ってきて然り。すべてを同じ枠組みに押し込もうとすれば、それこそ「文明の衝突」が生じる危険だってないとはいえない。
 男女の等しい社会参画が進むことを世の中は是とするが、家庭という小さな単位で見れば旦那ひとりが外で働いてくれれば事足りていた前時代に比べて、共稼ぎが当たり前になっている現代社会。物質的に多少豊かにはなっても、世帯の中から倍の稼ぎ手を毎日外に送り出さないといけないというのは、はなはだ効率が悪いという見方もできる。
 かつて社会主義が、労働者の理想郷として喧伝されていた時代があった。確かにある一部の整備が進んだ社会主義国では、国営企業で働く人びとには住宅が安い家賃で貸与され、職場のすぐそばに託児所や学校なども併設され、夫婦共働きしやすい環境が整えられていたと聞く。
 これは勤労者たちに与えられた恩恵ともとれるが、同時に社会半分を構成する女性たちに有無をいわせず労働の場に引きずり出すための方策であったと見ることもできるかのではないだろうか。
 世の中というものは往々にして理想と現実が乖離しているものだ。社会の流れの中で、原理原則のゴリ押しではなく、いかに上手な妥協点を見つけるかというところに、人びとの知恵が試される。

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