映画「PK」

映画館のポスター

12月19日に公開されて大きな話題となっている「PK」を観に行った。

宗教各界から上映中止を求める声が上がったり、あるヒンドゥー右翼団体による激しい抗議活動が展開されたりなど、様々な反響を呼んでいる作品である。

Protest against Aamir Khan’s ‘PK’ escalates, theatres in Gujarat vandalized (THE FINANCIAL EXPRESS)

あらすじを簡単に説明すると、このような具合だ。この作品をこれから観ようという方は、ここから先を読み進むとネタバレとなってしまうことをご了承いただきたい。

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地球の調査のためにラージャスターンに着陸した宇宙人(アーミル・カーン)が到着。だが間もなく、身に付けていたロケット(Locket : 胸飾り)を奪われてしまい、仲間と交信することが出来なくなってしまった。これなしには帰還することが出来ないため、彼にとっては死活問題となる。

これと同時並行で、ベルギーでパーキスターン人のサフラーズと恋に落ちたジャッグー(アヌシカー・シャルマー)が、サフラーズの裏切り(その時点ではジャッグーにとってそのように捉えられた)で傷心の帰国。そしてテレビリポーターとしてのキャリアをスタートさせる。

何か特ダネはないかと模索していたジャッグーは、「神が行方不明。ご存知の方は下記までご連絡を」と書かれた奇妙なチラシをデリーメトロ車内で配布する黄色いヘルメット姿の男、PKと出会う。

この男に興味を持ったジャッグーは、彼と接触を試みる。あるときお寺で賽銭箱から現金を抜き取ったPKが人々に袋叩きになりそうなとき、機転を利かせて自分の財布を賽銭箱の中に落とし、「彼は私の財布を探してくれようとしていたのだ。嘘だと思うなら賽銭箱を開けて調べてくれ」と言う。果たして、開かれた賽銭箱からはジャッグーの名前と顔写真が入ったIDが入った財布が出てくる。

これがきっかけとなり、ジャッグーに対して心を許しつつあるPKが自分の身の上を語り始めるようになった。最初は彼の言うことを信用していなかったジャッグーだが、彼が人の心を読み取る特別な能力があることを知るにいたり、彼が自分の星に帰還できるようにするため全面的に協力することを約束する。

このふたりが邂逅する前、PKはまず地球人の言葉能力を獲得するために協力してくれる人(数時間に渡り、その相手と手を繋いでいる必要がある)を見つけるために苦労を重ねる。その能力を得てからは、どうやら自分が取り戻そうとしているものを手にするためには、「神」という存在に頼らなくてはならないというように考えるようになったが、その神を祀る宗教施設、神との間を取り次ぐということになっている聖職者等は世間にたくさんあるものの、実際には誰ひとりとしてその神に直接接した者はいないことが判ってきた。

またその神に対する人々の態度も様々であり、それぞれ異なる方法で接していることから、どれが正解なのかPKには計りかねた。ある宗教(キリスト教)では清浄なものであるとされているワインがイスラーム教徒にとっては禁忌であったりする。いったい神とはどこにいるのか、また人々に何を説いているのか・・・。

やがてPKは、ある有名なヒンドゥー聖職者がヒマラヤで神が授かったものであるとして、自分のロケットを持っていることを知ることとなった。宇宙船からラージャスターンの大地に降りて間もなく、彼のロケットを強奪した男は、なんとこの聖職者にこれを高く売りつけていたのだ。

この後、ジャッグーが所属するテレビ局が、この聖職者とPKの対談の中継が実現し、ふたりは激しいバトルを展開していく・・・。

最後にようやく再びロケットを手にしたPKは、ジャッグーに見送られて宇宙に帰還する。
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大変良く出来た、腹を抱えて大笑いできるコメディー映画であるのだが、同時に非常に社会批判性の強い作品でもあり、信仰や人間性といったものに対していろいろ考えさせてくれる仕掛けがあちこちに散りばめられている。

自然界に存在しない、人間が創り上げた文化、つまり「信仰」「宗教」などと呼ばれるものが、人々を分け隔てしまっていることに対する痛烈な批判。万が一、神という存在がこの世にあったとしても、本来ならば個々がその神とやらに直接コンタクトすればいいところだが、宗教者やら宗教団体という、いわば「ブローカー」が介在して、人々から上前をハネていること、巨万の富を生み出すビジネスとなっていることなどについて、これまで少なからず疑問を抱いていた人たちは多かったことだろう。

そんなことから「神」と距離を置く個人はあっても、表立って異を唱えることが出来ないのは、所属する共同体とのしがらみであり、さらには家族の世間体への配慮ということになるのだが、これを軽々と乗り越えてしまうのが、様々な神々に自らの問題の解決を懇願しつつも果たせず、それぞれの宗教の矛盾を体感してしまった宇宙人であり、この世のそうした事柄とのしがらみを持たないニュートラルな存在であるからだ。

さて、神を信じようが信じまいが、信仰というものが、それぞれの国や地域における精神文化、思考や価値観と切り離せないつながりがあることはもちろんのことである。また、共同体意識、社会奉仕の精神、道徳観といった精神性の部分で果たす信仰の役割は決して悪いものであるとは思わない。それでも先述のとおり、宗教というものには、非常にネガティブな部分も多く、それを表立って糾弾しにくいものがある。

加えて、万人の平等やらなんやらを唱えつつも、信仰そのものは往々にして味方と敵を区別する旗印になっており、そのカラーの違いで向こう側の人たちを傷つけたり、殺めたりということがしじゅう世の中で起きていることは誰も否定できないだろう。

作品中でこんなシーンがあった。
アーミルが木のたもとに石板を置き、もうひとつ大きめの石をちょこんと立てて、その「額」にあたる部分に赤いティーカーを付ける。それで神像に見立てたうえで、その前の石版に幾ばくかのコインを置き、「これで投資が何倍にもなる」とつぶやく。

やがて通行人たちがこれを見つけて、次々に祈りを捧げ、賽銭を置いていく。中には地面に身体を投じて、つまり腹ばいになって祈る人も出てくる。観客たちは大笑い。
そうした中で、チャーイワーラーもあらわれて、そうした人たちにチャーイを売るようになる。

アーミルが仕掛けた「石」は、結局のところ、人が「でっち上げた」怪しげな宗教団体なり、施設を示唆しており、そこには神など存在しないのに盲信してしまう人々を象徴する。

そのお金を生みだす「石」と、おなじくお金を稼ごうとするチャーイワーラーの比較で、「あの人、あのひと(チャーイワーラー)は、お客を呼び込むためにへつらい、腐心するけど、あちら(神像に見立てた石)のほうは人々にへつらうことなく、向こうからやってきて、しかもお客のほうが媚びへつらっている」と揶揄する。

また信仰の典型的な装いを、それとは異なる信仰の人たちに着せて登場させてみたりするシーンもあった。そうした見せかけのカタチにとらわれていると、事実を見誤ってしまうこと、本当に大切なのは××教徒という装いではなく、もっと本質的なことであることを私たちに悟らせてくれる。だがこの映画が唱えているのは無神論であるかといえば、そうでは決してないことが判ることと思う。

アーミル演じるところの宇宙人は本来、裸であるというところで、本来人々自らが何ら自身を偽って飾り立てることない清らかな存在であるらしい思わせるところで、生のままの自らに内在しているはずの神性や善性を示唆していたりするなど、すべてのシーンやセリフ回しに、数え切れないほどのメッセージがこめられている。

だが、それらがまるでそれぞれの水源から始まった川の流れが次第に合流して大河となって、やがては大海に注がれるように、きれいに統合されていく展開は見事だ。それでいて、まったく説教臭くないのも素晴らしい。
ここに描かれているのは信仰に関する事柄のように見えるが、実は世の中あちこちで普遍的に存在する不条理な「常識」「因習」「しがらみ」への挑戦でもあり、インド国外でもグローバルに支持される内容だと思う。基本的にはワッハッハと腹を抱えての笑いをとるコメディー映画だが、あちこちに散りばめられた鋭い社会党批判とエンターテイメント作品中としての両立に、いたく感激した。

また、その後の現実社会の展開も興味深い。宗教勢力の一部から映画の中での表現を巡って物言いがついているが、その内容はごく表層的な部分への批判にしかなっておらず、作品が指し示した本質的な部分に関しては、手も足も出ない状態のようだ。まさに映画「PK」のファイナル部分での展開と同じになっているのが興味深い。こうした勢力から上映差し止めの請求が出されたものの、裁判所は「観たくなければ、観なければいい」とこれを却下している。

まさに「PK」の痛快なストーリーが今度は現実社会で続いているわけで、ここでまた大笑いなのである。いつか日本で上映される日も来るであろうから、皆様にもぜひご覧いただきたいと思う。

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