KAMRAAでCAMERA

カメラの語源はラテン語のCAMERA OBSCURAである。このCAMERAとは同じくインド・ ヨーロッパ語族に属するヒンディー語で言うところのKAMRAAと同じく部屋を意味しており、OBSCURAと合わせて「暗い部屋」ということになる。
初期のカメラは16世紀に発明された箱の形状をしたもので、ごく小さな穴を通して像を壁などに投影するだけであった。映像と感光剤を合わせて物質的に定着させるという写真機としての技術が実用化されたのは1840年代以降だ。日本語では銀板写真と呼ばれるダゲレオタイプ、最初のネガポジ方式であるカロタイプが登場した。
続いて金属板に代わりガラス板を使ったネガ版を作るコロジオン法が開発された。クリミア戦争やアメリカ南北戦争などで撮影する戦場カメラマンが登場したのはこの時期のことだ。インドでも1857年の大反乱直後、写真家フェリス・ベアトーが現地入りして、各地の戦跡や荒れ果てたデリーやラクナウの風景やなどを撮影している。たとえ作品の題材は生々しくとも、当時の写真から静謐な空気のみが漂ってくるように思われるのには訳がある。写真の感度が低く、少しでも動きのあるものを撮影することができず静止したものにレンズを向けるしかなかったのだ。
1860年代に来印して数々の作品を残したサミュエル・バーンズは、インドを題材にした最初のネイチャー写真家ということになるだろう。ヒマラヤの峰々に魅せられた彼は、雄大な山岳風景、ヒルステーション、スピティの寒村風景など多くの傑作が今に伝えられている。他にもムガル建築、港湾風景その他インド各地で撮影した秀作があるが、彼の真骨頂はやはり山の風景らしい。


その後1870年代初頭にはガラス板に乳剤を塗ったゼラチン乾板といった新しい技術がその後30年間で開発された。この技術でもって初めて屋外で動く人や動物などの撮影が可能になる。
以降、1880年代には紙に乾燥ゲルを塗布する方式が開発され、それまで写真撮影に使用されていた乾板の箱や有毒な薬剤等を持ち歩く必要がなくなる。このあたりから写真の大衆化がじわじわと進むことになったようだ。
1901年にはコダック・ブラウニーの登場により写真はひとつの産業となり、1925年に発売された35mmフィルムを使用するライカカメラと小型化、取り扱いやすさといったユーティリティが格段に向上するにつれ、報道や広告その他の業務用写真に加えて市民の間でもスナップ撮影等を目的とした需要が急速に増していくこととなった。
発明から160年余りで現在のデジタル時代にまで行き着いたフォト技術だが、HARAPPA.COMでは写真機草創期から英領時代のインドで撮影された画像が大量に閲覧できるようになっている。収録されているのはパーキスターンやスリランカ等を含めた南アジアで1860年代から1920年代にかけて撮影されたもの。
歴史的建造物や自然風景など今とあまり変わらないものもあれば、街中の様子や人々の装いなどこうした古い写真の中でしか見ることができない昔日のインドの姿もあり、とても興味深い。
これらに加えてリソグラフ、木版画、絵葉書といった当時の景色を伝えるものが収録されている。もちろんサイトの名の示すとおりハラッパーやモエンジョダローといったインダス文明関係の画像や記事も豊富(本当はこちらが主役なのだろう)で、ウェブ上に展開する博物館といった具合でなかなか見応えがある。気の向くままにクリックし続けていると、あっという間に半日くらい過ぎてしまいそうだ。同サイト内のHARAPPA BAZZARではインド亜大陸で撮影された古い画像を収録した写真集なども紹介されており、米国のAMAZON.COMを通じて購入できるようになっている。
自室でパソコン画面を前に、カメラの変遷とインド亜大陸の風物の変化に思いを馳せながら、これら古い写真の世界に吸い込まれ自室に居ながらにして時空を越えた旅を楽しむのもいいかもしれない
HARAPPA.COM

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