軍人ガーンディー

ちょっと古いもので恐縮だが、昨年12月22日のヒンディー紙『サンマールグ』にてこんな記事があった。
1889年に英軍に所属していたマハートマー・ガーンデイー
救護部隊所属で優れた業績により表彰
非暴力運動の指導者は、彼がまさにその人生を賭けて打倒した帝国主義の、その尖兵の軍服に身を包んでいた時期があったという、これまでほとんど知られていなかった事実をこのほど防衛省が明らかにした。
防衛省が発行する機関誌『軍報』が2009年1月2日に創刊100年を迎えるにあたって発行する記念号では、歴史の影に埋もれた貴重な史実に光を当てており、その中にガーンディーが英軍の救護部隊の業務に従事したことについても触れており、アフリカでのボーア戦争終了後、彼はその優れた業績により表彰されたとのことだ。
この記事によれば、ガーンディーが軍に入隊すること、加えてそれを自らの軍隊であると認識することは、ガーンディーとイギリス双方に取って困難なものであった。しかしこの時代の状況下、いたしかたないものであった。救護部隊の創設は、ガーンディーの提案によるものであったと伝えられている。当初、イギリス当局はそれを鼻にもかけなかったが、ガーンディーに共感する行政幹部がいたことから、これが実現する運びとなる。
ガーンディーがどうして英軍に参加したのか、その目的が何であったのかについても、この軍報100年記念誌で綴られる。ボーア人たちのふたつの共和国(トランスヴァール共和国およびオレンジ自由国)がイギリスによる干渉を嫌ったことに始まった戦争において、2万8千人の兵士を擁するイギリスは、4万8千人もの兵隊を抱えるボーア人の軍隊の前に劣勢。
こうした情勢下、イギリスは自らの最も優れた司令官たちをその戦いに投入せざるを得なかった。その時期にガーンディーは救護部隊の創設を思いついた。この時期、イギリス兵とインド兵がともに力を合わせて闘うということは考えられなかったが、最終的にこの部隊が結成されることとなった。
ガーンディーはこの部隊の所属となる。そこには800名の契約労働者を含む1100人のインド人たちがいた。イギリス人指揮官はこの部隊の勇敢な仕事ぶりを称えた。彼らは、25マイルもの距離を徒歩で進み、新任の最高司令官ロバート閣下の戦死した息子の遺体を搬送したと伝えられている

以下、この記事に掲載されていた写真である。右の円の中が当人であるのだとか。
20090114-gandhiji.jpg
ガーンディーに軍歴があったとは知らなかった。ニュースの出所はしっかりしているのかもしれないが、一般に知られている彼の履歴とちょっと整合しない部分があるようだ。
1869年生まれのガーンディーは、彼が従軍したとされる第二次ボーア戦争開戦の1889年10月に20歳になったばかり。この戦争が終結したのは1902年の5月。
しかしガーンディーは、18歳になった1887年にロンドンに渡り、法曹界を目指してロンドンにて勉強を始めており、1893年には南アフリカで弁護士として開業している。
留学を始めてから最初の2年間を除き、法曹界で身を立てるための留学・修養期間と重なる。
もっとも戦争期間中を通じてずっと軍に身を置いていたのかどうかについては、この短い記事中では触れられていないし、ガーンディーのような精神的にも能力的にも卓越した人物の行動を凡人のモノサシで測ること自体が大きな誤りであるのかもしれない。詳しくは当の軍報の創刊100年記念誌(今月2日に発刊されているはず)に掲載されているのではないかと想像される。もしこれを手にする機会に恵まれたならば、ぜひそれをじっくり読んでみたい。
ただちょっと不思議なのは、まさかその『100周年記念』のネタとして、『軍人ガーンディー』を何十年間も封印してきたのではあるまいし、どうしてまた今になってそんな話が出てきたのだろうか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください