コールカーターの通りの名前

ベトナムを訪問した際、とうの昔に「ホーチミン市」と改名したにも関わらず、誰もが「サイゴン」と呼び、文字でもそう書かれていた。ベトナムの独立の父として尊敬されている「ホーチミン」だが、政府がそれを市の名前にしようとしても、公式文書以外ではなかなか定着しないのだ。

同様のことがインドでもある。ストリートの名前、地名が政府によって改称されても、それが本当に市民の間で定着するかどうかは別の話。

たとえばコールカーターを例に挙げてみても、今でも英語で言及する際には「カルカッタ」と呼ぶ人は少なくないが、混乱するのはストリートの名前だ。

コールカーターでは、ストリートの名前は同じ通りについてふたつあることが多いと思って良いだろう。なぜならば英国人に因んで付けられた名前はインドの偉人の名前に置き換えられて現地化が図られているし、そうでない場合でも変更されていることが多い。

訪問者にとって面倒なのは、政府関係機関が印刷した地図(観光局でくれる地図を含む)に記されたストリートの名前がまったく世の中に浸透しておらず、植民地時代の名前で広く知られていることが多いことだ。また新聞等メディアや出版社から出た刊行物でさえも市民が普段使っている通称(=植民地時代の名称)で記すことが多いからだ。

代表的な通りの名前でもChowringhee StreetをJawaharlal Nehru Roadなどと言ったら、「ん?」という顔をされるし、Park StreetのことをMother Teresa Saraniと言えば、一瞬間をおいて「もしかしてPark Streetのことかね」と言われるかもしれない。あるいは理解してくれない人もいるだろう。

「Ballygunge Road」をタクシー運転手にAshutosh Chowdhury Avenueと告げたら、彼は「どこだそりゃ?」となるだろう。サダルストリート界隈ではFree School StreetをMirza Galib Streetと呼べば、首をかしげて「Free Shool Streetと言う」と訂正されるだろう。KYD STREETに至ってはDr. M. Ishaque Steetなんて呼んだら完全にアウトだ。おそらく誰も理解してくれない。政府が勝手に変えた名称ではなく、「元々こういう名前なのだ」として人々が知っている名前が堂々とまかり通るのだ。これは企業や商店などの所在地の表記においても同様で、普段市民の皆さんがなれ親しんでいるほうの表記で書いてある。

そんな状況なので、政府の命名による不人気なほうの名称はいつまでたっても浸透しない。

政府関係の機関ならば、政府の命名したもので表記しているかと言えば、そうではないのは、たとえば地下鉄の駅出口の表記を見ればわかるだろう。「なんとかストリートはこちら」というような案内版は市民の間で通用しているほうで表記されている。そうでないと表示する意味がないからであろう。もちろん駅名も同様で、先述の「Park Street」の名前の付いたメトロの駅がある。コールカーターでは政府による改名を拒絶するかのように、古い名前が多く現役として使われているのだが、インド全土でそうというわけではなく、むしろ改名されたら、そちらのほうが次第に優勢となるケースが多いだろう。

だが不思議なのは、市民が「何が何でも昔ながらの名称」にこだわっているわけではなく、新しい名称のほうが通りが良いものもある。例えばBBD Bagh (旧称Dalhousie Squair) やChittaranjan Avenue (旧称Central Avenue)のような例もあるからだ。

旧名が英国の特定の人物の名前が冠されている場合、対抗するようにインドの偉人、とりわけ地域ゆかりの人物の名前を付ける場合が多いが、デリーのQueens WayがJan Path(人民路)となったように、独立後の民主主義インドを象徴するような改名もあった。

傑作はベトナム戦争時期に、当時ソビエトブロックにいたインドが示した北ベトナムへの連帯感だろう。コールカーターでは、アメリカ領事館が位置するHarrington StreetをHo Chi Minh Saraniに変更して、アメリカを激怒させた。当然、アメリカは強硬に抗議したようだが、「偶然による一致である」と涼しい顔であったと聞く。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください