ヤンゴンのインドなエリア 6

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ミャンマーは東南アジアの西端に位置し、南アジアの東端のバングラーデーシュとインド東部と国境を接するなど地理的にも近いため景観や自生する植物などからインドを想起させるものも少なくない。またインド系の人々の存在、インドの血が混じっているとされるミャンマー西部の少数民族など人々の風貌、仏教やイスラームを通じて西から入ってきた文化の影響など、インド亜大陸起源のものがいろいろ目につくこともあるのだが、同時に英領時代の名残という部分も少なくないのではないだろう。それは植民地期の建物であったり街並みの造りだったりするが、特にヤンゴン河沿いのコロニアルなエリアでは、インド人街の外にあっても、ずいぶん強く『インドが香る』気がする。かつてインドからやってきたここに暮らした人々の存在感だけが、あたかもこの空間に残っているかのような。
イギリスの植民都市としてはそれほど古いとはいえないのだが、現在ダウンタウンとなっているかつての行政中心地界隈は、港湾を中心とした街づくりがなされており、水際近くに英領時代の重要な施設がギュッと固まっているという感じだ。どことなくコーチンのような陸上交通が発達する以前に建設された都市とイメージが重なるものがある。統治機能以外に、ここから多数の産物を外界へと輸出する重要な港町であったことも大きいのだろうが、インドやスリランカなどに比べてかなり遅れて入手した領土であったため、鉄道や自動車が走れる道路の建設が後手に回り、こうしたクラシックなスタイルの水際都市を築くことになったのではないだろうか。
1885年に英領インドに編入され、1937年にインドの行政区分から切り離されるまで、当時のビルマはインドの中のひとつのプロヴィンスとなる。まさに上から下まで各層のインド人たちが押し寄せてきて定住し、当時のラングーンはほとんど『インド人の街』となり、1930年代に入るころには市の人口のマジョリティをインド人たちが占めるまでになっていたのだという。
イギリスの植民地であったビルマだが、インドがそうであったようにイギリス人たちの姿はごく限られており、市井の人々が政府機関に所属する白人を目にする機会はそう多くなかったようだ。それに引き換え中・下級官吏、軍人、警官としてインド『本国』からやってきたインド人たちは、彼らにしてみれば日常的に目にする支配者たちであった。ビルマが英領となるよりもずっと前から、イギリスが作り上げた社会システムの中で経験を積み、能力を高めてきたインドは各分野において人材の宝庫であった。イギリスが彼らを新たに編入した新天地に導入していくこと、インド人たちの間から『自国』の一部となり可能性に満ちた新天地に赴くことを希望する者が後から後から続くことはごく自然な流れであったのだろう。
こうした人々が当時のビルマに近代的な統治機構、鉄道や道路といったインフラ、そして教育機関を次々に建設していくことになる。ちなみに1878年創立のラングーン大学(現在のヤンゴン大学)も元々はカルカッタ大学の一キャンパスという位置付けであった。1940年代から50年代あたりまでは、東南アジア地域きっての名門大学として知られ内外から多くの優秀な学生たちがここを目指してやってきたのだという。
官の世界以外でも、商人、投資家、エンジニア、労働者その他としてやってきた人たちもまた都市部を中心に各々の領域を広げていく。こうした大勢のインド人たちの進出の結果、地元の人々の活躍の場、生活の糧を次第に蚕食されてしまうことになった。同様に大量に移住してきた中国系市民たちも地元の人々にとっては脅威であったようだ。
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そうした動きの中でビルマの人々のナショナリズムが高まり、やがて1937年のインドとの分離へとつながっていく。ビルマの人々にとってひとつの快挙であり、独立に向けたひとつの節目であったのだが、インド系の人々にとっては印パ分離に10年先立ち、もうひとつの『分離』があったことになるのだろう。
インド本土でも反英機運が高まる中、当時のビルマでは地元の人々による反英とともに反インド人、反中国人といったムードの中で、住み慣れた土地、不動産その他ここで築き上げてきた財産を手放してインドに戻る、あるいは他の土地に移った人々は多かった。これとは反対に、その時期までにインド本土に移住していたビルマ人たちも少なからずあったことだろう。政治の流れに翻弄された様々な人生ドラマがあったようで、訪問中に出会ったインド系の人たちからしばしばそうした話を耳にした。
国が合併するのも大変だが、分離することもまた多くの痛みを伴うものである。インドと当時のビルマはもともとひとつの地域であったわけではなく、外来勢力であるイギリスにより合併させられたものである。印緬分離の10年後に起きた印パ分離独立のように元来不可分であった地域が、インドと東西パーキスターンに引き裂かれたときほどの強力なインパクトがあったとはいえないにしても、在住のインド系の人々にとっては非常に辛いものであったことは想像に難くない。
現在のミャンマーによる自国の近代史の中における位置付けにあって、ナショナリズムの高揚による誇るべき快挙について、同国のマイノリティであるインド系の人々により『悲劇』として外に語られることはないだろう。
現在のミャンマーによる近代史における視点からではなく、当時のインド系居住者たちにより書き残されたものがあればぜひ目にしてみたいと思う。
〈完〉
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