インパール市内に戻り、インパール戦争墓地を訪れる。ここは英軍(ならびに連合軍)側の墓地だ。中国国民党軍への援蒋ルート遮断のため1944年に実行に移されたインパール作戦は、あまりに杜撰かつ無謀なものであったということが後世の評価として定まっている。
だが1941年から1942年にかけての旧日本軍によるマレー作戦、シンガポール攻略、同時期にビルマへの強襲といった立て続けの攻撃により、これらの地域から駆逐されるという辛酸を舐めてきたイギリス側にとっては、非常に強い恐怖を持って迎え撃つことになったことは想像に難くない。
強敵の旧日本軍による侵攻であることとともに、彼らがスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)とともに進軍してきたということは、当時独立機運が頂点に達しつつあったインドの内政面でも大変憂慮されるものであったはずだ。
そうしたこともあり、当時の英軍は各地から兵力を増強して、総力戦で当たったことが墓石に刻まれた墓標からもうかがえる。埋葬されている兵士たちは、地元インドの様々な連隊所属のインド兵、グルカ兵たちとともに、遠くマレーシア、ローデシア、東アフリカに駐留する連隊からやってきたイギリス兵、各地植民地軍の地元兵の名前もある。
墓石は亡くなった日付ごとに並べられていることから、どの日に大きな戦闘があったのか、おおよそ判るようになっている。その中で所属連隊ごとに配置されているのだが、中には中国人の名前もあった。どういう経緯で戦闘に参加することになったのかわからないが、香港の植民地軍出身か、あるいはビルマで英軍と共闘していた中国国民党軍関係者だったのか?
この墓地は英連邦戦争墓地委員会(CWGC: Commonwealth War Graves Commission)が管理しており、見事なまでに美しく整備されている。
<続く>