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カテゴリー: travel

  • ビカネール10 Bhanwar Niwas

    ビカネール10 Bhanwar Niwas

    さて、本日目指すのはコーターリーのコミュニティーから出た豪商たちのハヴェーリー。途中で道を尋ねた相手の初老の老人が、実はコーターリーの出で、この地域のハヴェーリーについて、かなり詳しい方であったのは幸いであった。機会があれば、屋敷の中を見学する機会があればいいのだが、あいにくそういう知己はこの地の商人コミュニティーにいない。

    ゆるやかな坂をしばらく下りたところには、ラームプーリヤーのコミュニティーの商人のハヴェーリーのひとつが、Bhanwar Niwasというホテルになっている。ハヴェーリーの中を見学したいと思っていたので、しばらく拝見させてもらう。

    ゴミゴミした旧市街にあるのだが、敷地に一歩踏み入れると全くの別世界となる。今も所有しているのはラームプーリヤーの人物であるとのこと。屋敷というよりも宮殿と表現したくなるような華やかさだ。私はここに宿泊してはいないが、一泊4,500Rsくらいからのようだ。

    屋敷と呼ぶには壮麗過ぎる。

    クラシカルなベッドと床のタイルが魅力的な客室

    この部屋はお客がチェックアウトしたばかりでベッドメイキングはまだ。
    浴室はこんな感じ
    ダイニングルーム

    こんなホテルが無数にあると言って差し支えないのが、ラージャスターンからグジャラートにかけての地域である。また地域ごとに独自の特徴やカラーに溢れているのも素晴らしい。

    〈完〉

  • ビカネール9 現代に生きる職能コミュニティー

    ビカネール9 現代に生きる職能コミュニティー

    前回、ハヴェーリーを飾る彫刻を造り上げるスタールという職能コミュニティーについて触れたが、今でもそうした仕事をしている人たちが少なからず存在している。そのスタール出身で、しばらくは家業ではなくエンジニアの道に進んだラジェーシュ・クマールさんだが、ここ数年は伝統技術を伝える職人(彼はその人たちを「アーティスト集団」と呼ぶ)を率いるリーダーとしてのプライドを胸に、自らの先祖伝来の技とコミュニティーの人々の活力を生かした事業に専念中。元々は石工集団だが、木材を用いて、先祖が代々伝えてきたスキルを展開。スタールの職人たちを集めた工房では窓飾りなどを作成中。私が訪問したときには、5、6人くらいが作業中であった。隣の敷地では、ショールームを建設しているところだ。

    職人さんたちが働く工房

    出来映えを確認するラジェーシュさん

    工房はヴィシュワカルマ・コロニーという郊外のエリアにあり、ここにスタールの人たちが固まって住んでいる。昔からの居住区ではなく、郊外に出来たごく新しい新興住宅地なのだが、それでもコミュニティー特有の場所というものが形成されるのは興味深い。同族の長たる人物がリードしてこういう地域を形成するのだろうか?

    この地域の名前となっているヴィシュワカルマだが、ブラフマー神の息子であるヴィシュワカルマのことであり、スタールの人たちにとって、これが氏神となっているとのことだ。ビカネールにはこの神を祀るヴィシュワカルマ寺院もある。

    ラジェーシュさんは言う。
    「昔、私たちは、富裕な商人コミュニティーに頼って生きてきました。彼らの屋敷の壁を飾る彫刻について、今の時代でも高い評判を得ていますが、評価されるべきはこれらを注文した彼らではなく、この技を代々受け継いで育んできた職人たちです。今後も技術を継承していくには、自分たちで仕事を創り出していかなければならないのです。私はこの技術を生かした事業を計画しています。」

    ラジェーシュさんは、元々は電気関係のエンジニアで、職人としての修練を積んできたわけではないという。アフガニスタンで、インドが同国で関わる復興事業に関係して、カーブルで仕事をしていたことがあるという。国会議事堂の電装関係の仕事を任せられ、「アフガニスタンという国の歴史を刻む建物の建築に関わる仕事が出来て良かった」とのことだ。

    2008年にカーブルのインド大使館で発生した自爆テロ(58名死亡、141名負傷)が発生した際には、現場から300m離れた宿舎にいたとのことで、「家族に電話して無事を知らせたものの、とても心配されてしまって・・・」という具合で大変困ったとのこと。

    スタールのコミュニティーに生まれながらも、自身は職人ではないラジェーシュさんはこう言う。
    「私は彼らとは異なる道を歩んできました。しかしながら、これまでいろんな人たちを指揮して仕事をしてきた私、自らを売り込んで仕事を獲得してきた私だからこそできる役割があるのです。」

    電気技師としてのキャリアを捨てて、父祖伝来の道に入ったラジェーシュさんの事業の本格的な立ち上げはまだこれからなのだが、今後の彼の活躍と成功を期待したい。

    〈続く〉

  • ビカネール7  Royal Cenotaphs

    ビカネール7 Royal Cenotaphs

    बीकानेर राज परिवार का विश्राम-स्थल つまりResting Place of Bikaner’s Royal Family

    ホテルになっている宮殿の前をぶらりと歩いてから、オートに乗ってRoyal cenotaphsに行く。Sagar Chhatriという名前で知られている。ここはビカネールの王家の人々の火葬場であり、歴代の主要な人々を記念するチャトリが沢山建ててある。ヒンドゥーは通常、墓は作らないため、ここは亡骸や遺灰は格納されていないものの、事実上の墓所のようなものであるともいえる。

    天井に描かれた模様も見応えがある。









    当然のことながら、藩王国の当主であった人物やその正妻の記念碑はどれも大きく、それ以外のものとは規模が著しく異なる。また若くして亡くなった王女の記念碑はそれらに較べて気の毒なほど小さかったりする。男性のチャトリの内部中央には石碑が立てられており、女性の場合はこれが地面と平行に埋め込んである。
    1972年生まれで2000年に28歳で亡くなったディクシャー・クマーリーという王女のチャトリ

    また時代が下ってからのものには、大理石ではなくコンクリート造りのものもあるなど、時代とともに変遷していく様子がうかがえるのも興味深い。
    こちらはコンクリート造り

    2009年に亡くなった人物のチャトリもあり、今後も王族の直系の人たちについてはこのような措置がなされていくのだろう。
    だが歴代の王は、インド独立前には複数の妻があり、中には19人も抱えていた王もあったが、側室は対象外であるらしい。

    〈続く〉

  • ビカネール6 Lalgarh Palace

    ビカネール6 Lalgarh Palace

    LALGARH PALACEを訪れる。宮殿なのになぜかガイドブックに掲載されていないと不思議であったが、その理由は着いてみて理解できた。現在、ホテルになっているのである。

    ラールガル・パレスはホテルになっている。






    それでも博物館が併設されており、小さいながらも写真等がなかなか見応えがあった。ビカネール流派の細密画も展示されていて、その解説も良かった。最初はムガルの影響で導入されたそうだが、やがてムガルが凋落していくことから、技術を習得する対象ではなくなり、独自の技法が発達することになったわけだが、具体的な違いについても例示を挙げて解説してある。

    また、アウラングゼーブがラージャスターンの王たちのイスラームへの改宗をもくろんでいたこと、彼によるアフガン方面の出征に他の王国の王たちと参戦したビカネールの王はその策略に気が付き、ヒンドゥーは外地にいかないことをタテマエに船を破壊したという故事。ここではビカネールの王がそれをリードしたとある。

    また第一次世界大戦に、ビカネール藩王国も参戦したとは知らなかった。スエズの防衛のためにラクダ部隊を送ったとのことで、船からクレーンで降ろされるラクダの姿やこの部隊を率いた王族のことも紹介されている。

    ここはホテルとともに今もラージャーの家族の所有。Princess Rajyashree Kumariという王女、もうかなり年配の人物だが、このパレスのことについて書いた本、ビカネールの歴代の王について著した本などがある。これは広く市販されているものらしい。博物館では王たちの偉業を伝える内容に終始しているが、これが政府の所有であったならばもっとニュートラルな内容になっていたことだろう。博物館内には王家が利用した鉄道専用車両も展示されている。

    〈続く〉

  • ビカネール5 近郊の町デーシュノークのネズミ寺

    ビカネール5 近郊の町デーシュノークのネズミ寺

    昨日の夕食の際もそうであったが、Hotel Jaswant Bhawanの宿泊者たちは母屋にて食べることになっている。オーナー家族の生活空間なので、ホームステイ風でいい感じ。朝食で同席となったのはアメリカ人カップルとフランス人カップル。食事の際に話し相手がいると大変うれしい。しばらく楽しい会話を楽しんでから、ビカネールから30kmほど離れたデーシュノークという町にあるカルニー・マーター寺院へ向かう。バスで1時間程度の道のりだ。

    カルニーは14世紀に実在した人物であるといい、後にドゥルガー女神の化身であるとして神格化された。主要な神格と結び付けたローカルな神格を目にすることは珍しくないため、インド全国規模で眺めると、まさに「やおよろずの神」状態となる。

    さて、カルニーは、息子のラカンが溺死したことを受け入れられず、彼をこの世に生き返らせることに成功。以降、この一族は亡くなるとネズミに生まれ変わり、永遠の生命を享受するとされる。現在もこの寺院が位置するデーシュノークの町には、カルニーの子孫を自称する人たちが少なからず暮らしているとのことだ。

    寺院の入口の上にはシヴァのシンボルである三又の槍、そして周囲をムガル城壁風の壁で囲んで、白亜の門がある奇妙な寺院だ。何かの通過儀礼で参拝に来たらしい着飾った子供たちがいた。



    堂内に参拝する人たちの行列

    境内に入るとバジャンの演奏が奉納されている。和やかな雰囲気だ。小さな窓の前に人々が集まっているので何かと思えば、そこにネズミたちか沢山。足元には水たまりがあり、おそらくそこにはネズミの糞尿がたまっているに違いない。これは気持ち悪い。

    境内でバジャンの演奏



    お堂に参拝してみたが、どこもかしこもネズミたちがたくさん。あちこちに配置されていたり、参拝客が与えたりする餌をモグモグと食べ続けている。生まれたときからこのように大切にされているため、目の前まで近づいてもまったく逃げることはない。ネズミらしくないとてもくつろいだムードである。

    フワフワした姿は見た目可愛いのだが、ネズミの糞尿が散らばっているであるはずのお寺の床を裸足で歩くのはあまり気持ちが良いものではない。かなりユニークなお寺であるが、聖性と衛生の観念は異なるので、ビカネールに戻ってから、食事前には手を入念に洗おうと思う。

    寺院前にいくつかある売店では、この寺のシンボルでもあるネズミのマスコットが売られていた。

    ネズミにちなんでドラえもんなのか?

    ネズミのぬいぐるみもある。

    バスでビカネールに戻る。帰りは少し早くて40分程度で到着。こうした移動でもそうだが、かつては州公社によるバスがほとんどであったものの、今ではプライベートのバスが非常に多い。どちらが良いかについては何とも言えないが、州営のほうがまだ良かった部分もある。満員になるまで発車しないということはなく、ダイヤに従って運行していた。

    路線を民営化することにより、とりわけ採算路線では便数が増えるのではないかという仮説もなりたつ。いっぽうでそうではない地域では反対の流れになるということも言える。

    バスの民営化は、どのような観点からどういう路線を民営化していったのだろうか。これもまた興味深い研究対象となり得る。また州による政策の違い(州によって右から左まで、様々な政権がある)や地域的な特異性(山岳地等)といった部分も合わせると、インドのバス事業民営化について書かれた本があるならば、ぜひ読んでみたい。

    〈続く〉

  • ビカネール4 Junagarh Palace

    ビカネール4 Junagarh Palace

    同じオートでビカネール市内に戻り、ジュナーガル宮殿を訪れる。ラージャスターン州各地でそうだが、最近は訪問者たちをまとめてガイドツアーをするようなところが増えているが、ここもまた同様。そのぶんキレイに展示されているし、落書きなど悪質ないたずらをするようなケースも少なくなっているはずだ。良い状態で見学できるし、いろいろ質問も出来るため、こういう措置は賛成したい。














    その後、併設されている博物館を見物してから、市内を散策。裁判所、その他の役所などが藩王国時代の勇壮な建物を利用しており、いかにも旧藩王国の都といった面影があって良い。シュリー・ガンガー・シアターという、今はどうやら閉鎖されているらしい映画館が裁判所のすぐ近くにあるのだが、これもまたラージプート建築で見事だ。ラージャスターンの他の主要な街に較べると、交通量は多くなく、歩きやすいのもありがたい。

    〈続く〉

  • ビカネール3  National Research Centre on Camels

    ビカネール3 National Research Centre on Camels

    食事を終えてから、オートでNational Research Center on Camelに向かう。市街地からかなり離れたところにある。午後2時から午後6時までという短い公開時間。うっかり午前中に出向いたらアウトである。着いたときにはまだ10分ほど早かったので少し待たされた。

    広い敷地内は、大きく分けてみっつのエリア、事務棟、研究施設、飼育施設で構成されており、私たち外部の人間が見学することができるのは、事務棟の脇にある小さな博物館を除けば、当然のことながら飼育施設のみである。

    小さな博物館、餌場、えさの時間以外に入れておく柵などがある。また餌置き場、そして餌のペレットの工場などもあるようだが、後者については公開されていない。博物館内の表示から、ラクダには4種類あることがわかるが、実物を眺めてもどれがどれなのかさっぱりわからない。

    せっかく来たのだが、正直なところあまり面白くなかった。内容はさておき、農業省の関連施設なのに、外国人料金があるのも癪である。

    入口
    券バイカウンターの横でラクダミルク製品を販売
    事務棟
    研修施設
    飼育施設

    ラクダの診療所
    ラクダの寄生虫に関する説明
    この地域のラクダはどれも同じに見えるが、実はいろいろ種類があるらしい。

  • ビカネール2 旧藩営鉄道

    ビカネール2 旧藩営鉄道

    宿から見て、鉄道駅がすぐ裏手なので、列車の汽笛がよく聞こえてきて風情がある。英領期には旧藩王国でも藩王国立の鉄道が敷設されたりなどしていた。開明的な君主が先端技術を導入したということもあろうが、これらの路線がイギリス当局により、藩王国の大きな負担により建設させたという部分も多いにあると思う。

    こうした鉄道の多くはメーターゲージであり、各地にあった鉄道会社が独立後に統合されてインド国鉄となった後、ブロードゲージの幹線と軌道幅の相違から直接乗り入れできない不便を長いこと甘受してきたわけだが、同時に着々と全国路線のブロードゲージ化の事業は進行していき、近年はほぼ完成したといえる。ジャイサルメール、ビカネール、シェーカーワティーなどにもデリーからブロードゲージの直通列車が走るようになっている。シェーカーワティー地域においては、デリーからメーターゲージでジュンジュヌー経由でジャイプルに走っていたものだが、この路線も近年ブロードゲージ化された。ジュンジュヌーはまだメーターゲージのため、路線から外れることとなり、各駅停車の路線のみが残っている。

    統合といえば国鉄だけではない。藩王国が割拠し、イギリスが間接統治を行なった旧ラージプータナ地域だが、インド独立後は行政組織も新生のインド共和国と統合させられることになったことから、旧藩王国により役人たちの明暗は分かれたのではないだろうか。有力な旧藩の役人たちはどんどん上のポストを占領して、そのラインで人事が進んでいく、あるいは冷や飯を食わされることになった旧藩の役人たちは不満たらたら・・・。そんな今の会社社会でもよくある悲喜こもごもが、ここでも展開されていったりしたのではなかろうか、と想像している。

    〈続く〉

  • ビカネール1  旧藩王国最後の宰相の屋敷

    ビカネール1 旧藩王国最後の宰相の屋敷

    バスはシェーカーワティーを出てしばらく細い道を進むと、やがて舗装が非常に良質で道幅が広い国道11号線に出た。スピードが出る分、運転席真後ろの狭いスペースにいると怖い。片側三車線区間が一部、あとは片側二車線が大半。ときどき一車線になったりもする。

    昔のように「道路に穴が空いているのか、穴が空いているところに道路が通っているのかわからない」と首相在職時(1998年3月~2004年5月)のヴァジぺーイー氏が発言したようにひどい時代があったが、もはやそれは遠い過去のことになっている。インド各地の主要幹線道路はとても良くなった。

    そのいっぽう、沿道の動物たちには危険なようで、30分に1回以上は、轢かれて死んでしまった野犬や牛などの哀れな姿を目にする。誰も処理しないのでそのままになっているのだが、ゾッとする光景だ。

    シェーカーワティー地方を出てしまったことは、ハヴェーリーや塔のついた井戸が風景からなくなることでよくわかる。デリーやハリヤーナーに近く、ラージャスターンの他の地域にも囲まれているのに、どうしてこういう独自の伝統がここに残ったのか、それでいてなぜ他の地域にも広がることはなかったのかと不思議に思う。それとは反対に、ごく狭いところから周辺部に伝播した範囲で、シェーカーワティーの文化が形成されたのかもしれない。

    やがてビカネール(正確に書くとビーカーネールだが、字面があまりに冗長になってしまうため、今後はビカネールと表記)までの距離表示が、すでに20キロを切った。道路の状態が良いので、もう目と鼻の先だ。

    プライベートのバスであったためか、本来のバススタンドではない空き地に停車して、「ここが終点」とのこと。鉄道駅近くの宿まではずいぶん遠かった。

    本日の宿は、Hotel Jaswant Bhawan。駅の北口近くとはわかっていたが、鉄道用地のゲート出たところであった。

    ビカネール藩王国最後の首相であったラオ・バハードゥル・ジャスワント・スィンが暮らした家がホテルとなっている。築200年というこの屋敷だが、現在もオーナーであるファミリーの居間に通されて食事が出来るのを待つ。

    ここは運営を外部に委託しているわけではなく、ここの家族、特に奥さんと主人の若夫婦が対応してくれる。アットホームな雰囲気で、食事の場所や居間スペースが家族のところなので、ホームステイに近い感覚だ。部屋もまずまずで、ちゃんと蛍光灯が入っているので日記を書いたりする際にとても助かる。

    料理のメニューは、同じ並びのすぐ隣にあるジャスワントという名のレストランのもの。中は薄暗く、バーと兼用なのであまり雰囲気の良い店ではなく、上品な家族の所有らしからぬ感じがするが、尋ねてみるとやはりそこも家族で所有しているとのこと。この宿で供される料理はレストランから運んでくるのではなく、ここの家のキッチンで作っていた。奥さんが使用人たちを指揮して、出来上がるとせっせと運ばせてくれる。

    居間には勲章なども飾ってあり、藩最後の宰相が受けたものであったり、この家から出た軍人が与えられたものであったりするようだ。最近はWi-Fiを用意している宿が多くなったが、ここのホテルも同様だ。宿泊先に必ずWi-Fiがあれば、インドの携帯電話がなくてもなんとかなる部分はあるのだが、やはり移動中に観光地を調べたり、観光中に検索したり、そして電話も使いたいので、やはり今の時代は旅行中でも地元のSIMは必需品である。

    〈続く〉

  • チャーイは世の中を変えた・・・かもしれない

    チャーイは世の中を変えた・・・かもしれない


    旅先で、食後にチャーイを啜りながら、この日はあと何をしようか?どこに行こうか?と考える。

    お茶やコーヒーがなかった時代、私たち人類は、何を手にして思考していたのだろうか。19世紀以降に急激に加速した社会の進展、技術の進化には、茶、コーヒーの普及と深い繋がりがあるにちがいない。 欧州の有産階級が、茶、コーヒー出現以前にランチで嗜むのはアルコール類だったそうではないか。それはそれでいい時代だったのかもしれないが。

    茶、コーヒーで思い出したのだが、茶葉の大産地インドで、喫茶の習慣が地元の人たちに普及し始めたのは1920年代末から1930年代にかけてのことらしい。かつて貴重で大変カネになる作物であった茶も、このあたりになるとインド・スリランカでの算出量増大、この地域外においてもマレーシア、ケニア等々の英領各国での生産が広がったことから、価格が下落していくとともに、在庫がだぶつくようになってくる。

    そこで当時のインド紅茶局が全国で喫茶習慣普及推進の旗振りを始めて、各地でデモンストレーションを始めたとのこと。それまではマーケットになっていなかった茶葉生産のお膝元での需要拡大を図ることになった。当初は英国式の飲み方を導入しようとしたらしいが、地元の人々の嗜好から現在のチャーイの形で広まることになって現在に至る。

    その背景には、欧州ではすでに値崩れして買い手が少ない低級品の大量処分という狙いがあったとともに、当時の庶民の購買力の関係もあったはず。お茶はお茶でも、本当に下のクラスのものは、カフェイン入りの色付きのお湯でしかないがゆえに、マサーラーで香りを付けるとともに、ミルクと砂糖で味付けする必要があったということにもなるのかもしれない。

    西欧では、カフェ文化の浸透により、様々な市民が集まり議論を交わすようになったことが、民主主義運動を拡大させるとともに、労働組合活動を盛んにしていったと言われているように、インドでもチャーイの文化が広がる中で、反英独立運動が勢いを増していったということもあるかもしれない。

    チャーイを啜りながら、そんなことをぼんやり想ったりする。

  • 田舎町の悩殺

    田舎町の悩殺

    ラージャスターン州の片田舎の町で、しばらく待っているとバスはやってきたが、すでに満員状態。なんとかぐいぐい押し込んで、ようやく乗車するとともに、運転手のキャビン内でなんとか居場所を確保できた。ちゃんとした席ではないため、実に苦しい体勢だ。

    キャビンのすぐ後ろにガラス窓、そのすぐ背後に立って窮屈そうにしている豊満な若い奥さんが、胸元からガラケーを取り出して通話を始めた。取り出すときにムニュムニュ、ボヨヨーンという、大きなバストの元気良い動きに胸が高鳴ってしまう。

    キャビンの中、私の隣に陣取っていた乗客がひとり下車していくと、私がそうしたのと同じく、彼女もまた無理矢理周囲の人たちを押しのけてこちらに入ってきて、私に密着して腰を下ろした。やがて車掌が乗車賃を集金に来ると、豊かな胸をプルプルと震わせて、深い谷間からお札を取り出すので、ちょっとドギマギしてしまう。「釣銭がない」と断られると、また同じ動きで胸の違う場所から小額紙幣を取り出す。別に見ようとは思わないのだが、とにかく狭い車内スペースで視界に入ってきてしまうのだ。

    一度そういう所作が目に付いてしまうと、また次に何か取り出すらしきときには、ついつい視線が泳いでしまったりする。田舎では今でも胸元にお金とかいろいろ入れている人が多いが、とりわけグラマラスな感じの人がこうしていると、もう大変な悩殺シーンである。もっとも、地元の男性たちにしてみると、田舎の女性の粗野な振る舞いに過ぎないようだが。

    しばらくすると、再び携帯電話が鳴り、彼女が乳房の左側から取り出す際に、引っ張られた豊かな部分がプルプル、ドサッと弾み、どうもいたたまれない。

    ※画像は文中に登場する人物とは無関係です。

  • シェーカーワティー地方へ 7 〈ラームガル〉

    シェーカーワティー地方へ 7 〈ラームガル〉

    ファテープルで、鉄の欄干のある屋敷に面した四つ角からバスをつかまえて、ラームガルへと向かう。ふたたび30分くらいの道のりである。

    ラームガルへバスで移動

    ラームガルはファテーブルよりも活気のあるところで、人々の行き来も多い。ここでは内部見学できる屋敷は見当たらなかったのだが、大変規模が壮大なものが多い。いくつかの寺を見学してみる。シェーカーワティー地方のどこの町でも感じるのだが、タウンシップの広がりや人口規模に対して、ハヴェーリーの壮大さもさることながら、これらが建ち並ぶ地域のしっかりとした区画と直線的で幅広い道路には、やはり驚かされる。片田舎でながらも、こういう地区でだけは都市的な雰囲気さえ感じる。



    シェーカーワティー地方で特徴的な塔に囲まれた井戸

    井戸そのものはこんな具合

    こちらはヒンドゥー寺院

    これもまたヒンドゥー寺院




    通常、こうした小さな町では国道に面した部分以外では、細い道がクネクネと続いているものなので、それだけこうした屋敷の主たちは実行力があり、いかに開明的でもあったということにもなるのだろう。

    18世紀や19世紀、シェーカーワティーが陸上交易で栄えていた時代、荒地や貧しい耕作地に囲まれたこの地に、周囲の眺めとはまったく不釣合いな豪壮な屋敷群、あまりに立派な寺院などがそこここにあることについて、当時の訪問者たちはさぞ驚いたに違いない。すっかり衰退してしまっているとはいえ、過去に築かれたそれらのものは今でも人々を圧倒するものがある。

    〈完〉