父親が中文の新聞編集にかかわっていたため、中華食材屋を営むCさんは、学生のころからペンネームでちょくちょく記事を書いていたという。日々の生活のこと、在印華人たちのこと、そして詩などを掲載していたということだ。そうした古い新聞をいくつか見せてくれた。活字が擦り切れていたり、該当する活字がない部分は黒い四角、つまり『■』で印刷されている。『前後の文脈からそこにどういう字が来るのか想像できるかどうか、語学力が問われるところなのよ』とCさんは笑う。その部分は自筆で正しい文字をボールペンで書き入れてあった。華人が減り読者が少なくなると経営が立ち行かなくなり、この新聞はすでには廃刊となっている。
もうひとつの中文新聞、『印度商報』はインドに現存する唯一の中国語による新聞である。数年前まで手書きであったという紙面を見せてもらったが昔々の日本のガリ版刷りみたいな感じだ。旧正月の号は印刷すべてが赤字で刷られており、中国らしい雰囲気を醸し出している。現在はほとんどが活字になっているものの、ところどころ手書きの部分が残り非常に素朴な印象のわずか4ページから成る新聞だ。
紙面からはカルカッタ華人たちが中文紙にどんな記事内容が記載されることを期待しているかが見て取れるようである。これはタイやマレーシアなどの中文で書かれたメディアが、それぞれの地元で何が起きているかを伝えているのとは性格を大きく異にしているのだ。インド全般のニュースはおろか発行元のコルカタのローカルニュースさえもほとんど掲載されておらず、大半は中国の『人民網』や台湾の『聯合報』といったインターネットのニュースサイトから引っ張ってきた中国・台湾記事である。
地元記事はわざわざ中文で書かなくても英字紙その他に沢山の情報が溢れているため、むしろインドのメディアが取り上げず、どうしても縁遠くなってしまう祖国の出来事を知るためのミニコミ紙というところに存在意義があるようだ。もっともインドにおけるさまざまな一般名詞・固有名詞等を漢字に置き換える作業も大変そうだ。華人人口が大きくないこともあり、よほどメジャーな地名・人名等でないと漢字での表記が定まっていないのではないだろうか。
定価は一部2ルピー半。しかしこの新聞は宅配のみで路上等での販売はないようだ。ただ海外に移住したカルカッタ華人の間での需要もあるため、一週間分ずつまとめて航空便で外国にも届けられているという。
Cさんのところで今回もいろいろと興味深い話を聞かせてもらった。丁重に礼を言って店を後にした。界隈ではいくつかの中国寺院や同郷会館などが目に付く。『××醤園』『××金舗』と書かれた大きな店もあった。どちらも醤油の卸売店だ。まだ9時前ではあったがこれらはすでに営業を開始している。プラスチックのジェリ缶に詰めた醤油が店の前にいくつも置かれており、使用人たちがトラックに積み込んでいる。額に汗して働く人たちは目に付くかぎりすべてインド人であった。
次第に人通りが多くなってくるにつれて、朝市ではポツポツと見かけた華人たちの姿がインド人の大海に呑み込まれて、ついにほとんど目に付かなくなってしまう。漢字の看板や華人たちの住居らしきものが散在していながらも、界隈を行き来する彼らの姿を滅多に見かけない。非常に中国色が希薄な『チャイナタウン』である。

カテゴリー: society
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再びコールカーター中華朝市へ 3 華語新聞
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再びコールカーター中華朝市へ 2 中華食材屋のCさん

朝市で、どこかで会った記憶のある人と幾度か擦れ違った。『はて誰だったか?』といくら考えても思い出せない。そんなわけで声をかけそびれてしまったのだが、朝市が開かれている場所のすぐ目の前にある店に入ったとたん、その謎が解けた。この店の女主人Cさんであった。50代くらいの華人女性である。
『あれ?いつかここに来なかった?』Cさんも私のことを即座に思い出してくれた。
『さっき何か食べているのを見かけたけど、どこで会ったかよく思い出せなかったから・・・』と私と同じようなことを言っている。
彼女の店では中国の食材、薬、茶その他日用品や雑貨などを手広く販売している。置いてある品物だけではなく、年季が入って黒光りしている内装といい、中文のカレンダー、ポスター、店内の陳列具合、勘定台後方の壁の中国式の祭壇や祖父の写真などといったたたずまいが中国の雰囲気を醸し出している。加えて彼女の風貌もあいまって、コルカタの街中ではなく、どこか中国の地方都市にでもいるような気がしてくる。そのためこの界隈出身で外国やインドの他地域に移住した人たちの多くが、旧正月に帰郷する際にここに立ち寄り『ああ子供のころから変わらない』と喜んでくれるのだそうだ。
彼女によれば『90年近く続いている店だからね。祖父が引退してからは父、そして父が年取ったら私にこの店を譲ってくれた。店の中の様子は祖父のころからほとんど変わらないのよ。少なくとも私が物心ついたあたりからずっと同じ』とのことだ。
彼女の親戚も幾人かカナダに移住しているらしい。中印紛争あたりでインドと中国の関係が険悪になってから外国に出た華人たちが多く、その結果としてコルカタの中華系人口は激減することになったが、移住先としてカナダを選んだ人が多いことは以前から聞いたり本などで読んだりしたことがある。また新天地で『コルカタ華人コミュニティ』の繋がりも強く、その中で結婚する人もかなり多いと聞く。
コルカタに住む華人たち以外にも日本や韓国など東アジアから来た留学生たちもしばしばここに買い物に来るのだそうだ。『定期的にシャンティニケタンからわざわざ買出しに来る日本人学生たちもいるわよ』私は好物の乾燥させたオレンジの皮『陳皮』を購入した。台湾製だがラベルにはタイ文字が書かれている。『お茶でもいかが?』と Cさんは温かい中国茶を勧めてくれた。
客家人のCさんは三代目の店主である。祖父が1890年代前半に中国広東省の梅県から移住してきた。他国ではなくインドを選択した理由は彼女自身もよくわからないと言うが、先にこちらにやってきた人のツテはあったらしい。当時バンコクなどを経て海路で入ってきた人たちはコルカタに近いアチプルの港に上陸していたものだが、祖父の場合ははるばる陸路で渡ってきたとのことだ。
インドに来た当初は非常に貧しく『まさにゼロからのスタートであったと聞いている』とCさんは言う。今日よりも明日、明日よりも明後日は少しでも良い暮らしをできるようにしようと、日々努力と工夫を積み重ねて懸命に働き、ようやくこの店を持つことができたのだという。
『もちろんいくら頑張ってみたところで一個人が成し得ることはタカが知れているじゃない。異郷にやってきた華人たちはみんなで支えあったからこそ生きていくことができたのよ』
中華系の人々は、銀行や貸し金業者などが相手にしてくれなかったので、同郷の人たちでお金を出し合って頼母子講のようなものを作り、互いに融通するシステムを作り上げたのだという。そうしたコミュニティの中でリーダーとなる人たちがきちんと仲間をまとめあげてきたのだそうだ。これは他の地域、たとえば東南アジアなどの華人コミュニティと共通している。政府その他公共の機関に頼ることなく、自分たち自身の力で運命を切り開いてきたという自負がある。
祖父がかなり年齢を重ねてから一度中国に帰郷したことがあるという。しかし故郷では彼のことを記憶しているのは80代の年老いた女性ひとりだけであったという。インドでかなり成功したつもりであった彼にとって相当ショックだったらしく、インドに戻ってから孫娘の彼女にこう言ったそうだ。『豊かになったら故郷に帰れ。きっとみんながお前を覚えていてくれる。でもそうでなければ決して戻るな。誰もお前のことを思い出さないだろう』と。
裸一貫で外地に渡り、そこに根付いて店を構えたとはいっても、『故郷に錦を飾る』というのはそう易しいことではないようだ。
ともあれCさんは三代目だが甥や姪に子供が生まれており、コルカタで五代続いている彼女の家で、広東省から渡ってきた祖父はすでにこの世になくとも、親族たちの絶大な尊敬を集める偉人なのだ。
おしゃべりなCさんは、こちらから尋ねずとも界隈の住民たちについてもいろいろ説明してくれる。『ここで売られている肉まんは、ほらあの人が全部作ってる』と示す先にはこれからバイクにまたがろうとしている華人の中年男性の姿があった。彼は肉まんとシュウマイの製造だけで生計を立てているのだそうだ。
『でもあの人はかなり手広くやっているよ。朝市の露店業者たちだけじゃなくて、市内あちこちの中華料理屋にも卸しているんだからねぇ。たいしたものよ』
そんな話を聞いていると、常連らしきインド人紳士が店に入ってきた。
『こんにちは。今日は醤油を下さい。それに中華スパイスと・・・』
『何を作るの?』とCさんは尋ねる。
『ええ、ローストポークでも作ってみようと思って』と彼は言う。そんな本格的な中華料理に挑戦する地元男性がいることに、私はちょっと感心した。
Cさんはヒンディー語を理解はするものの、ちゃんとインドの国籍を持ち大都会に暮らしているにしては、失礼を承知で言えばかなりつたない。自身は市内の中文学校で教育を受けたという。郊外のテーングラー地区ではなく、ここからそう遠くないところにかつては華人学校があったのだそうだ。しかし中華系人口が減少した結果、すでに廃校となっている。時折店の中にやってくる同胞華人たちとの会話を耳にする限りでは、昔その学校で身に着けたマンダリンのほうが比較にならないほど流暢であるように感じられた。 -
再びコールカーター中華朝市へ 1

せっかくコルカタに来たので中華朝市に出かけた。ラール・バーザール・ストリートにあるコルカタ警察本部から歩いて数分のところのある一角で、それは毎朝6時から8時過ぎまで開かれている。地下鉄はセントラル駅が近い。パークストリートから来ると進行方向左側の出口がこの『中華街』の入口にあたる。もっとも華人人口はかなり少なくなっており、界隈にときおり見られる漢字の看板が目に入らなければそれとは気付かないだろう。
昨年来たときと同じように朝市で鶏肉入りの肉まんを買って食べる。鶏肉入りのものと豚肉入りのものとありどちらもなかなかおいしい。何故か『ソースは要るか?』と聞かれる。水分の少ないおかずやごはんをそのまま食べることがあまりないインド人たちには、こうしたものを食べる際にも何かしらかけるものが欲しいようで、あたりにいるインド人たちは皆『ソース』でベタベタになった饅頭をほおばっている。人々の大半は立ったまま食べているが幸い売り子の横の席を勧められたので、ゆっくりと腰掛けてあたりを観察することができる。
客は二割弱くらいが中華系でその他はインド人たち。雰囲気からしてどちらも大半がこの界隈で暮らす人々といった感じで多くが購入してそのまま持ち帰っている。売り子たちのほうはインド人と華人が半々くらい。前者のおよそ半分くらいは華人の売り子たちの手伝い役で、その他は中華のスナックや食材以外のものを商っている。例えば野菜や魚といった生鮮食品である。華人の売り子たちはもちろん誰もが中華系のスナック、肉まん以外に海老しゅうまい、揚げパン、中華ソーセージ、中華菓子といった食べ物あるいは雑貨類などを売っている。
露店で商う華人たちは相当混血度が進んでいるように見える。モンゴロイドをベースにインド系の血が入るとネパールあたりでよく見かけるような風貌になるようだ。ここで売られている食べ物、ホカホカと温かい蒸気が上がる蒸篭からのぞいた点心類はやたら食欲をそそる。私が到着したときはまだ薄暗い6時ごろで閑散としていたが、時間が経つにつれて次第に賑わいを増してきた。

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ゴアの地引網
朝6時前に起きた。外はまだ暗い。海岸にはもう人々の姿があった。総勢40名程度といったところだろうか。眠い目をこすりながらサンダルを引っ掛けて見物に出ることにした。砂浜では毎日地引網漁が行なわれているのだ。
船で海の中にU字型に網をかける。網の引き綱には木製の取手がいくつも付いており、浜で人々がこれをどんどん引っ張って魚を追い込んでいく。漫然と引いているのでもなく、様子を見ながら引き手がジワジワと、あるいは一気に内側へと追い込んでいくのだ。そうした動きを人々に指示するのは、海の中に入りそうした動きを指示するリーダー格の者たちだ。引っ張って、引っ張って砂浜の最後端まで来た人たちは、そこで手を離して再び波打ち際の最前列に入る。
こうした動きを幾度も繰り返した後、海中で地引網から成る『輪』が小さくなり、岸に追い込んで引き上げる。岸近くの浅瀬で行なうため大騒ぎした割には雑魚ばかりで数も少ない。労多くして実入り少ないとはいえ労働という行為の原点である。獲れた魚の中に海ヘビがいた。波間の向こうへ投げ返していた。毒のあるものなのかよくわからないが。
漁が終わってから、セリが始まる様子はない。販売用ではなく自家消費用だということだ。参加した男たちがグルリと並び、親分格の男がその前の砂地に少しずつ置いていく。そしてカゴの中が空になったあたりで、皆でそれぞれの分け前を見比べる。「あそこが少ない」「彼のはちょっと多いんじゃないか」といった声に耳を傾けつつ親分は男たちの間での分け前の調整をしている。明解かつ民主的な方法だ。眺めていても実に気持ちがいい。
参加者たちの間には、村の同一コミュニティ、カースト、その他いろいろな要素があるのかと思いきや、少なくともここコラヴァの浜はそういうわけではないようだ。父祖伝来の「メンバー」や伝統的な漁民でなくても、この「朝の地引網」に参加できるのだという。
皆プロの漁師というわけではないし、地元っ子ばかりというわけでもない。漁が終わってくつろいだ表情をした人々に直に話を聞いてみると、彼らの中の半数ほどが昼間建設現場の労働者や付近のホテルの従業員といった人々だということがわかった。しかもこのあたりの村の出ではなく、カルナータカ、マハーラーシュトラ、ケララ等々各地の出身者が多く、現在この付近に在住しているということ以外にあまり接点はないらしい。とかく人手が要る作業なので外部の人々の参加も大いに歓迎されるのだろう。
男たち輪の外で、魚のおこぼれにあずかろうと野犬がじっと様子をうかがっていた。 -
ユニバーサルな禅寺
兵庫県新温泉町という山間の町に外国人たちにAntaijiとして知られる人気の曹洞宗の禅寺があるそうだ。この安泰寺を導いているのはドイツ出身のネルケ無方住職。今から四年ほど前に八代目の無外信雄住職から引き継いだという。
このお寺のウェブサイトにアクセスしてみると、8ヵ国語でのコンテンツが用意されており、ずいぶん開かれたお寺という印象を受ける。そもそも仏教、そして禅というものが日本の『民族宗教』であるわけではない。地元の人であろうが外国からやってきた人であろうが、教えに関心を寄せる人々をオープンに受け入れてくれるのはありがたいことだと思う。
ちなみにこのお寺では、欧米を中心とする各国からやってきた人たちが地元日本人たちと滞在しているようだが、この国際性がゆえに『共通語』は英語だという。
私自身、このあたりに行くことはまずないのだが、いつかチャンスがあればぜひ訪れてみたい。 -
『国』ってなんだろう?
今月下旬に中国の胡錦涛国家主席の訪印が予定されている。未解決の国境問題の早期画定、経済協力、軍事交流などといった戦略的関係の強化を目指すものとされており、すでに実務レベルでは相当踏み込んだやりとりがなされていることだろう。
だがそんな中で孫玉璽駐インド大使によるアルナーチャル・プラデーシュ州の帰属をめぐる発言がインド側の強い反発を生むなど、近年良好な関係にあるとはいえアジアで覇を競い合うふたつの大国同士の間には一筋縄ではいかないものがあることがうかがわれる。
もともとこの地域についてはマクマホン・ラインによる線引きにより1914年に当時英領下のインドとチベットの間に決められた国境線を認めない中国が『わが国の領土である』として旧来より主張してきた。その根拠となるものは『チベットは歴史的に中国固有の領土であり、その中の地方政権(つまり当時のチベット政府)に国境画定の権限などなかった』というものである。
つまり当時のインドとチベットとの間の合意に妥当性を認めないものであるからこういう論が成り立つことになるのだ。しかし地元の人々にしてみればニューデリーと北京というどちらも遠くはるか彼方のふたつの街のお偉方たちの間で自分たちの帰属が云々されるという不条理はいかんともしがたいものだろう。自分たちの土地がインドに属するならばそこに暮らしてきた人々は『インド人』となり、その同じ土地が中国の領土となればやはり同じ自分たちが『中国人』ということになる。
現代の民主主義のシステムの中で『主権在民』ということにはなっている。だが係争地帯に住む人々に自らがどちらの国に属するか決めることはできず、ただ暮らしてきた土地がどちらの領土になるかにより自らが何国人であるかが明らかとなる。土地の帰属は自分たちとは縁もゆかりもない遠く離れた大きな街で、見た目も言葉も違う人々によって自分たちのあずかり知らぬ国家同士の損得勘定を背景にしたさまざまな駆け引きにより勝手に決められてしまう、あるいは現状を承認されていくというのはいかがなものだろうか。
そうした土壌であるがゆえに『国』に対する忠誠心は薄く、それがゆえに実効支配する勢力に対する反感という一点において利害をともにする国境の外からの支援などを受けて地下組織による反政府活動が行なわれ、『国』はそれに対する取り締まりを強化するとともに政情不安を理由に強権で押さえ込もうとする。そこで地元の意識がさらに高まるとこれをうまく利用しようと外部の勢力がさらにあちこちに触手を伸ばす。そうした動きを口実に地元当局はさらに強引な手法で弾圧しようと試みる・・・という図式は、係争地が人々の住む地域である限り世界中どこでも同じ構図が見られる。こうした動きの中で誰に理があろうとも、多大な迷惑を蒙るのは地元にずっと暮らしてきた人々だ。
その地域を実効支配している『国』あるいはその土地を外から『自国の領土だ』と主張するまた別の『国』があろうとなかろうと、人々は昔からずっとその土地に暮らしてきたわけである。『うるさいから出て行ってくれ!』と叫んでみたところで、今の時代どの土地もどこかしら『国』に属することになっているのだからそうはいかない。
もちろん『国』にもいろいろ言い分はあるのだろうが、これは人間の尊厳にかかわる大きな問題だと思う。
India and China row over border (BBC South Asia) -
百年前の日印交流

さきほど日印協会の会報第一号の復刻版を手にする機会があった。奥付には今からさかのぼること一世紀近く前の明治42年(1909年)発行とある。同協会は明治35年に組織された日印倶楽部を前身(翌35年に日印協会として改組)とし、当初は熊本藩主の分家にあたる長岡護美子爵が会長を務めていたが、没後は大隈重信伯爵が会頭、一橋大学教授であった神田乃武男爵が副会頭として率いていくこととなった。当時の会員名簿も掲載されているが、こういう時代だけあって伯爵、子爵、男爵といった爵位を持った人たちの名前がところどころに目に付く。当のインドは英国統治下にあったため顧問はイギリス大使のサー・クロード・マクドナルド。名簿には服部時計店(現セイコー)創始者の服部金太郎、この号にて『インド綿花輸入及びボンベー航路起源』と題した文章を執筆し、実業家として広く知られた渋沢栄一男爵の名前もある。個人情報保護という観念がまだなかった時代であり、主に会員たちの内輪で出回る小冊子であるためもあろうが番地まで入った詳細な住所が記載されている。日本在住のインド人としては『バナジイ』『エダルジイ』といったベンガル人らしきも名前が見受けられる。インド在住の日本人の名前には、駐ムンバイーの外交官や『印度ラホール市』在住の貿易商の名前など記されている。日印両国以外のところでは『清国天津』駐在の三井物産幹部の名前も。
また『印度ボンベイ市』の会員として『ターター』の名前もあるが、これはもちろんあの財閥のターターのことだ。前述の渋沢栄一の文章の中に、日印貿易のはじまりとなる綿花取引にあたり、ジャムセートジー・ターターや彼の甥のR.D.ターターの好意と協力があったことが記されている。 -
名は体を表す?
私たち日本人と違い多くの場合インド人の名は信仰、カースト、地域などといった個々の出自を色濃くあらわす。そのため『名前』の持つ重みは相当なものである。
『Indian Names』や『BOOK OF HINDU NAMES』といったインド人の名前の綴りや意味などについて書かれた本はいろいろ出回っているが、ここのところウェブ上でそうしたサイトをよく見かけるようになってきているし、インターネット上の百科事典Wikipediaでもインド人の名前に関する記事を閲覧することができる。
『Indian names』というエントリーでは、インドの人々の名前のありかたや地域ごとの特徴などについての概説がなされてお
り、『Indian given names』 においては各個人につけられた名前の意味のリストが掲載されている。そして『Indian family names』 では姓についての解説だ。最後のファミリー・ネームの記事中で、たとえば『Agarwal』をクリックしてみよう。すると同姓についての詳しい記述が出てくる。Agarwal姓の起源や歴史といった背景、この苗字を名乗る著名人、同じコミュニティに属するさまざまなゴトラの苗字のリストなどが出てくる。
後者のふたつ(Indian given namesとIndian family names)については、ともに一応の骨格はできあがっているようだが完成までの道のりは遠いようだ。名前のエントリー数が少ないことや土地の言葉での綴りが書かれていないことはもちろんのこと、それ以上に目下未記載で空白になっている部分、ほとんど記述がなされていない項目などがあまりに多く実用にならないのが残念。
それでも広く世間の人々の好意と貢献に支えられて日々絶えず進化を続けているオンライン百科事典だけに、インド人の名前に関する記事群が突如目覚しい発展を遂げて『とっても充実していてびっくり!』することが近い将来あるかもしれない。
インドと重なる部分が多く密接な関係にある『Pakistani family names』 の記事では地域ごとの固有のもの、アラビア起源、ペルシャ起源、トルコ起源といったさまざまな氏族名の解説がなされており興味深い。こちらもあわせて今後さらなる発展を期待したいところだ -
たかが名前されど名前 ポンディチェリー改名
1954年にインドに返還(1963年から連邦直轄地)された旧仏領ポンディシェリー(Pondichéry)は英語ではポンディチェリー(Pondicherry)と言い、タミル語ではパーンディッチェーリ(பாண்டிச்சேரி)と呼ばれる。『新しい町(村)』という意味だそうだ。
ここにきて再びその名前が変わることになる。8月半ば成立した法案が発効を迎えたことから新しい名称はプドゥッチェーリ(புதுச்சோரி)となり、仏領以前の地名に戻ることになる。
外国統治下はともかくとして、インド返還後半世紀近くも経ってからその名を変えることにどれほどの意味があるのかとも思う。近年改名された地名は少なくないのでこれに限ったことではないのだが、名称変更後ただちに・・・とはいかなくても、段階的に役所その他の公共施設での表示や公文書における表記を改めていくことになる。そうした手間が行政コストに跳ね返ってくるムダ、また地図、住所表示その他民間にも余計な出費や面倒をかけることになるが、区画整理や自治体の合併などで地名の変更を余儀なくされる場合はともかく、長いこと呼び習わされてきた土地の名前について、こうした代償を支払っても充分ペイする効果があるのかどうかははなはだ疑問だ。
改称については政治屋さんの思惑や気まぐれに振り回されて『ああ迷惑な・・・』と感じる人も少なくないことと思う。そもそもPondichéry、Pondicherryあるいはபுதுச்சோரிで一体誰が不便や不都合を感じていたというのだろう。あえて大昔の『プドゥッチェーリ』という名称を復古させることにどれほどの合理性があるのだろうか。
Destination Puducherry (The Hindu) -
バーバー・ハルバジャン・スィン

バーバーのお寺はスィッキム州の海抜4000mのチャングー湖畔にある。毎年多数の信者たちがお参りに訪れるという。バーバーはこの国境地帯とそこを警備する兵士たちの守護神として知られている。
だが驚いたことに、そのバーバーことハルバジャン・スィンはなんと勇敢な兵士でもある。陸軍に1966年に入隊した彼は、スィク教徒たちから成るドーグラー連隊に所属し、今年12月1日にいよいよ除隊を迎える。そんな彼は例年と同じく2ヶ月の年休を過ごすべく、9月14日にパンジャーブ州カプルターラー地区にある故郷の村へと出発した。現在は軍人として最後の休暇を郷里の家族たちとともにゆっくりと過ごしているところだ。
しかしこのバーバー・ハルバジャン・スィンは今晩もスィッキムの湖畔にある彼のお寺を制服姿でパトロールしているのだという。でも一体どうやって・・・?
実はこのハルバジャン・スィンの肉体はとっくの昔にこの世から消え去ってしまっている。陸軍入りして2年後の1968年に(メディアによっては彼の死亡時期は1962年の中印紛争時とするものもある)ナトゥラ峠近くで物資運搬のためラバを誘導していた際に行方不明となった。遺体は後日発見されたが、死因は付近の氷河に滑落したためとされる。
そんな不遇な彼は連隊の同僚たちの夢の中に出てきた。同じ夜に複数の兵士たちが安住の地が欲しいと懇願する彼の姿を見た結果、彼を祀る祠を建てたのが現在チャングー湖のほとりにある通称『バーバー・マンディル』の始まりである。 -
近ごろ日本で増える人力車

1860年代後半、横浜で走り始めた(日本橋のほうが早かったとの説もある)のが世界最初とされる人力車。インドでは今でもコルカタで走っているのを見ることができるが、同国で最初に『リクシャー』が出現したのはシムラーであったという。リクシャーという新たな交通機関が普及しはじめたころ、日本から各地にその車両を盛んに輸出していたということだ。
のちにアジア各地で自転車によって引く『サイクルリクシャー』『シクロー』として発展してからは仕様やスタイルなどにそれぞれの地域色が出てくる。しかしオリジナルの『人力車』についてはどこを走っていたものもほとんど差がなかった。それどころか今コルカタを走っている人力車についてもほとんど形を変えていない。日本発の人力車は輸出先各地で地元の職人たちが模倣して作るようになってもほとんど改良の余地がないくらい完成された機能性とデザインを持っていたということになるのかもしれない。
その人力車は今では日本の浅草や鎌倉といった行楽地で見かけるようになって久しいが、ふと思い立って調べてみると、こうした観光人力車のサービスは全国各地でずいぶん広がっていることがわかった。北は北海道から南は沖縄まで、その形態は個人営業から各地に支部を持つ企業組織までさまざまである。また横濱人力車くらぶのように車夫ならぬ車婦が頑張っているところもある。 ちかごろのインドでは女性のタクシーやオートの運転手も出てきているものの、日本にはリクシャー・ワーラーならぬリクシャー・ワーリーもいるなんて聞いたら腰を抜かす人もいるのではないだろうか。
ネットで検索してみると以下のような観光リクシャーのサービスの案内が見つかる。
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えびす屋(函館・小樽・浅草・鎌倉・京都・奈良・北九州・湯布院)
時代屋(浅草)
くるま屋日本橋(日本橋)
横濱人力車くらぶ(横浜)
横浜人力車 太郎(横浜)
人力車 ねこ屋(小田原)
川越陣力屋(川越)
ごくらく舎(飛騨高山)
谷口人力車(出石)※兵庫県
人力車まつもと(真庭郡勝山町)※岡山県
俥屋(長崎)
俥宿 天十平(萩)
灯八(宮古島)
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こうした人力車はどこで作っているのかと思えば、19世紀にさかのぼる『匠の技』は途中長い中断はあったとはいえ、今の日本でしっかり健在のようだ。美しいフォルムと細部に渡っての美しい仕上げを目にすると、購入しても置く場所がないどころか『一体何に使うの?』ということになってしまうのだが、ぜひ一台所有してみたくなった。
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株式会社 升屋製作所
俥宿 天十平
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人力によるタクシーとして『Velo Taxi』の名で知られるサイクルリクシャーが東京、名古屋、京都の市街地のごく一部で運行しているものの、人力車については決まった観光ルート以外の行き先を指定して走らせるようなサービスは今のところ耳にしたことがない。
もちろん人力車もサイクルリクシャーも市街地の広がりや人々の往来が広域化したことなどにより人々から必要とされなくなって次第に姿を消していったのだから、今の忙しい時代に往時のままのカタチで復活なんていうことはありえない。
だがそういう時代だからこそ、単なる懐古趣味あるいは物珍しさといった理由のみではなく、休日くらいはヒューマンな速度で運転手と世間話でもしながら見物を楽しむのは悪くないだろう。夏の間は炎天下で客待ちするのも市内を駆け回るのも骨が折れる仕事であったに違いない。秋口に入ってだいぶ楽になったのではないかと思うが、晴れる日もあれば雨もある。これから先に待ち受けているのは辛くて寒い冬である。リクシャー引きの方々には、くれぐれも身体と往来のクルマやバイクに気をつけて頑張って欲しい。 -
達人たちのバンド 2

予約していたホテル玄関は蛇腹式のシャッターを閉めてあり休業中みたいに見えるが、門番がカギを開けてくれて中に入れてくれる。グラウンドフロアーにあるレセプションとレストランでは通常通り人々が働いていた。
この日のバンドはムンバイーでの連続爆破テロへの抗議と与党への圧力なのだとホテルの従業員は言う。うまくそれにタイミングを合わせた感じではあるが、固く閉ざされた焦点のシャッターに無造作に貼られたシヴ・セーナーのバンド呼びかけのポスターには、留保制度反対!牛殺し反対!物価上昇に対する対策を講ぜよ!などといった内容のものもあった。
テレビをつけてみると確かに国会のモンスーン・セッションのはじまりに合わせて、シヴ・セーナーの友党であるBJPの人々が鐘を鳴らすなどして政府、つまりコングレスとその連立政権に対するアピールとしてなにやら騒いでいる様子が映し出されているため、こうした動きと歩調を合わせて行なわれているものであるらしいことはわかる。
バンドの達人たるシヴ・セーナーだが、実はこの半月ほど前の7月9日に地元ムンバイーでバンドを試みて失敗している。バンドの理由が党幹部関係者の個人的な問題に起因するものであり『公共性』を欠いたものであったということもあるが、このところナラーヤン・ラーネー、ラージ・タークレーといった大物幹部が離反して党を離れていったため、求心力が大幅に低下してしまったのがその原因と言われている。
そこで『セーナーは本拠地を遠く離れたこんなところでも威力を振るうことができるのだ』と、彼らにしてみればまさに面子回復を賭けているのが今回のバンドかもしれない。
2000年11月にU.P.州から分かれて成立したウッタラーンチャル州の州都となったデヘラードゥーン。それまで学園都市として知られてきたことを除けば分割以前の旧U.P.州に数多く存在する中規模の街のひとつにしかすぎなかった。この街で前例のないトータルなバンドであったらしいが、やはり『州都』ともなれば政界への影響やパブリシティーといった面でこの類の行動を起こすメリットが出てくるのだろう。
家族をホテルの部屋に置いて出歩いてみた。暴徒に出くわしては困るのであまり遠くまで行くつもりはないのだが、そうでなくてもバスやオートは一台も走っていないので徒歩圏内しか訪れることはできない。雨が降っては晴れての蒸し暑い気候の中、喉が渇いても店がどこも開いていないので水さえ買うことができない。だから結局ホテルの近所をウロウロするほかないのである。十字路では交通警官がヒマそうに椅子に座っていた。『バンドは日中一杯。午後5時で一応終わりらしいよ』とのことだ。
静かな往来をボーッと歩いていて道路の突起でつまづいてしまった。すると靴底が三分の一ほど剥がれてしまった。こういう日なので路肩にデンと座り込んだ修理屋も見当たらない。突然壊れてしまった靴がうらめしくなる。
通りには誰もいないがガーンディー公園ではヒマつぶしにトランプに興じている中年男性たち、デート中の若い男女などの姿をチラホラ見かけた。街地中心のクロックタワーのあるあたりは大きな商業地になっている。ここでは消防車や『ダンガー・ニヤントラン』と書かれた暴徒対策の機動隊車両が駐車してある。このクルマの天井には催涙弾とその発射装置が搭載されているのが見える。治安部隊の人々がこのあたりに集結して警戒していた。
どこも歩いてみても閑散としていたが、午後4時過ぎあたりになると一部の商店が扉を開き始めていた。3年前、ムンバイー・バンドが終わるあたりで次第に街が息を吹き返していった様子を思い出す。だがインド随一の商都とは違い、デヘラードゥーンでは本日一杯休みにしたところのほうが多いらしい。のんびりした地方都市らしいところだろう。少しずつ人通りが出てくると新聞屋の姿もチラホラ見かけるようになってきた。
ウェーリー・メール(वैली मेल)というというタブロイド版ローカル紙を手にとってみると『未明から90台ほどのバイクに分乗したシヴ・セーニク(シヴ・セーナーの活動家)たちが出動。午前4時半にISBTに到着して2台のバスの窓ガラスを割るなどの破壊行為を働いた』『デヘラードゥーン市内複数の地域で公共バスを破壊』等々、今日のバンドについていろいろ書かれていた。こんな具合でシヴ・セーナーのバンドをまだ良く知らない市民たちにお得意の強烈な先制パンチで明け方前から存在感を示したわけだ。
記事には『朝から学校、郵便局その他の公私さまざま機関、会社、商店などが閉まっていた。路上の物売りたちも一部を除きことごとく姿を消していた。オートリクシャーやタクシーもいなかった。シヴ・セーナーにしてみれば彼らのバンドは大成功』ともある。
破壊行為で逮捕された活動家がポリスのクルマの中に座っている写真も掲載されていた。まだ20代に見えるが、シヴ・セーナーの創設者であり現在同党を率いる息子のウッダヴ・タークレーの後ろ盾でもあるバール・タークレーばりの細身で裾の長いクルターを着て粋がっている様子。シヴ・セーナーの連中にとってはあのBALASAHEBことタークレー親分のいでたちがたまらなく魅力的に映るのだろう。
パルタン・バーザールを抜けたところの ラーム・ラーイ・ダルバールという墓廟兼グルドワラーをしばらく見物して外に出てみると薄暗くなってきた。さきほどまでは人の行き来がまばらだった通りには、昼間まったく見かけなかったオートが何台か客待ちしている。
蒸し暑い中を歩きずくめで疲れた。ガタガタと揺られつつも腰掛けたシートに疲労が吸い込まれていくようだ。
<完>
