サウス・パーク・ストリート墓地 2

サウス・パーク・ストリート墓地
 
埋葬されているのは往時には権勢と栄華を誇った人々やその家族などが多いが、今やそれら大半の名前を知る人は歴史家くらいとなった。この世に存在しない以上、今の人々に影響を与えることもない。同時代に生きた人たちも今の世の中には存在せず、忘却の彼方へと消え去った人々がかつてこのコルカタに暮らしていた証、それがここに散在する墓石なのである。まさに『つわものたちが夢のあと』といった具合である。
彼らが生きたカルカッタとはどういう街だったのだろう。その当時の世相は、街中に住む民族構成はどうだったのか。やはり当時からヒンディーベルトから出てきた人たちがとても多かったのか、北東インドのモンゴロイド系の人々もけっこういたのか、カルカッタ市内でもイギリス人地区以外では今もベンガル農村に普遍的に存在する茅葺屋根の家屋が立ち並んでいたのか、欧州人が居住する地域で地元民の流入はどうやって抑えられていたのか。最盛期のチャイナタウンはどれくらいにぎわっていたのか、今や多くがボロボロのコロニアル建築は当時定期的にメンテナンスされてきれいだったのか等々と当時の市内の様子について他愛もないことをいろいろ想像してしまう。


支配層といえども、乳幼児にとって当時のカルカッタでの生活は厳しかったのだろう 
この世を去るにはあまりに若すぎる
墓標には生まれた土地や生前の職業が書かれているものも多い。中には70代まで生きた人もあるが、40代や50代で亡くなった人が多いようだ。の墓標にも死亡年齢が刻まれている。当時は平均寿命が短かったので、今と比較するとかなり若くして彼らは要職に就いていたともいえる。また乳幼児や10代くらいで亡くなった人も多いようであることが目に付く。早死にした身内を悼む言葉が刻まれているものも少なくなく、家族たちの悲しみと苦痛をしのばれる。はるか昔の出来事であっても、今の人々とその気持ちはなんら変わることはないものだ。どイギリス人は几帳面にこういうところもちゃんと記録しているので、後世の人が見てもいろいろ思うところは多い。
こんなに長い墓標もある
当時の社会上層部にあっても、カルカッタでひいてはインドで生きていくこと自体が相当大変なことであったのだろう。まだ病理学が発達しておらず、病気の原因や治療法も確立していなかった時代である。今のような衛生観念も無く、イギリス人たちも地元の人々同様に生水を普通に飲んでいたようだし、蚊によって媒介される病気についてもよく知られていなかったころでもある。熱帯特有の病が多いこの地にあって、はるか北の国から来た人々は相当苦労したのだろう。
サウス・パーク・ストリート墓地

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください