サウス・パーク・ストリート墓地 1

サウス・パーク・ストリート墓地
サウス・パーク・ストリート墓地に出かけてみた。墓地が設立されたのは1767年。そのころごく付近のフリー・スクール・ストリート(現ミルザー・ガーリブ・ストリート)界隈はまだ竹林でトラが出没することもあったという。カルカッタの街の草創期、ここは周囲を湿地帯に囲まれており、墓地の前の通りがパーク・ストリートと名付けられる前にはベリアル・グラウンド・ロードという陰気な名前で呼ばれていたそうだ。
この墓地ではイギリス統治下のカルカッタに生きたイギリス人たち(一部アルメニア人やアングロインディアンたちも埋葬されている)がここに眠っている。今もパーク・ストリートとチョウリンギー・ストリートの交差点近くに存在し、東洋研究の拠点として開かれたアジアティック・ソサエティ(創立当時はロイヤル・アジアティック・ソサエティ・オブ・ベンガルl) の創設者ウィリアム・ジョーンズ(1746〜 1794))やインド狂のイギリス軍人チャールズ・スチュワート少将(1758 ? 〜1828)などがこの墓地に葬られていることは良く知られているところだ。


インド研究の大先達である前者については言及するまでもないが、後者については生前相当な『インドかぶれ』として有名で、ヒンドゥーに『改宗』してから毎朝ウッド・ストリート(現ドクター・マーチン・ルーサー・キング・サラニ)とシアター・ロード(現シェイクスピア・サラニ)が交わるところに建っていた自宅を出てフーグリー河で沐浴をしていたという。
沢山のクルマがビュンビュン走って実に危なっかしい今と違い、当時はのどかな散歩を楽しむことができたのであろう。でも実際にその場所から『彼はこのあたりを歩いたのかな?』と河岸まで徒歩で進んでみるとかなりの距離があるから、相当熱心な『ヒンドゥー』だったのだろう。
休暇でイングランドに帰郷した際にもヒンドゥーの神像をジャラジャラと持参しプージャーを欠かさず行なっていたなどということも伝えられ、実名よりもむしろ『ヒンドゥー・スチュワート』というニックネームで広く知られていたようだ。彼の墓石はいかにもそれらしく、イギリス人のものとしては実にユニークな形状である。
ヒンドゥー・スチュワートの墓
ヒンドゥー・スチュワートの墓標
ちなみにウッド・ストリートには1878年に在住イギリス人のクラブとしてオープンしたサタデー・クラブ が現存している。インド独立前までは『Europeans only』のクラブで、インドに来たばかりの若いイギリス人たちや白人のビジネス関係者たちが主に出入りしていたらしいが、現在はもちろんインド人向けの娯楽施設となっている。
インド独立後、この墓地は一時期顧みる人もほとんどなく荒れ放題になっていたそうだが、1980年代に大規模な修復の手が入り現在に状況に至っている。墓地を見学するのに入場料や撮影料などは不要だが、まずはパーク・ストリートに面した正面入口から入り、この墓地を概説する案内の小冊子を手にしてから墓石をめぐってみると面白いかもしれない。
 官尊民卑の植民地時代らしく、ここに葬られているのはビジネスで大成功したごく一部の裕福な民間人を除き、行政官、裁判官、軍幹部、東インド会社幹部といった人々やその家族たちが多いようだ。今こうして大きな墓が建っているところに彼らの親族、友人、関係者たちが集まって牧師が弔辞を挙げて涙していたのだ。要人や家族たちの墓だけあり、立派なものが多い。それらは記念碑のように大きなもの、ローマン風のもの、インド建築風のものなどいろいろある。
サウス・パーク・ストリート墓地

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