再びコールカーター中華朝市へ 2 中華食材屋のCさん

中華食材店内
朝市で、どこかで会った記憶のある人と幾度か擦れ違った。『はて誰だったか?』といくら考えても思い出せない。そんなわけで声をかけそびれてしまったのだが、朝市が開かれている場所のすぐ目の前にある店に入ったとたん、その謎が解けた。この店の女主人Cさんであった。50代くらいの華人女性である。
『あれ?いつかここに来なかった?』Cさんも私のことを即座に思い出してくれた。
『さっき何か食べているのを見かけたけど、どこで会ったかよく思い出せなかったから・・・』と私と同じようなことを言っている。
彼女の店では中国の食材、薬、茶その他日用品や雑貨などを手広く販売している。置いてある品物だけではなく、年季が入って黒光りしている内装といい、中文のカレンダー、ポスター、店内の陳列具合、勘定台後方の壁の中国式の祭壇や祖父の写真などといったたたずまいが中国の雰囲気を醸し出している。加えて彼女の風貌もあいまって、コルカタの街中ではなく、どこか中国の地方都市にでもいるような気がしてくる。そのためこの界隈出身で外国やインドの他地域に移住した人たちの多くが、旧正月に帰郷する際にここに立ち寄り『ああ子供のころから変わらない』と喜んでくれるのだそうだ。
彼女によれば『90年近く続いている店だからね。祖父が引退してからは父、そして父が年取ったら私にこの店を譲ってくれた。店の中の様子は祖父のころからほとんど変わらないのよ。少なくとも私が物心ついたあたりからずっと同じ』とのことだ。
彼女の親戚も幾人かカナダに移住しているらしい。中印紛争あたりでインドと中国の関係が険悪になってから外国に出た華人たちが多く、その結果としてコルカタの中華系人口は激減することになったが、移住先としてカナダを選んだ人が多いことは以前から聞いたり本などで読んだりしたことがある。また新天地で『コルカタ華人コミュニティ』の繋がりも強く、その中で結婚する人もかなり多いと聞く。
コルカタに住む華人たち以外にも日本や韓国など東アジアから来た留学生たちもしばしばここに買い物に来るのだそうだ。『定期的にシャンティニケタンからわざわざ買出しに来る日本人学生たちもいるわよ』私は好物の乾燥させたオレンジの皮『陳皮』を購入した。台湾製だがラベルにはタイ文字が書かれている。『お茶でもいかが?』と Cさんは温かい中国茶を勧めてくれた。 
客家人のCさんは三代目の店主である。祖父が1890年代前半に中国広東省の梅県から移住してきた。他国ではなくインドを選択した理由は彼女自身もよくわからないと言うが、先にこちらにやってきた人のツテはあったらしい。当時バンコクなどを経て海路で入ってきた人たちはコルカタに近いアチプルの港に上陸していたものだが、祖父の場合ははるばる陸路で渡ってきたとのことだ。
インドに来た当初は非常に貧しく『まさにゼロからのスタートであったと聞いている』とCさんは言う。今日よりも明日、明日よりも明後日は少しでも良い暮らしをできるようにしようと、日々努力と工夫を積み重ねて懸命に働き、ようやくこの店を持つことができたのだという。
『もちろんいくら頑張ってみたところで一個人が成し得ることはタカが知れているじゃない。異郷にやってきた華人たちはみんなで支えあったからこそ生きていくことができたのよ』
中華系の人々は、銀行や貸し金業者などが相手にしてくれなかったので、同郷の人たちでお金を出し合って頼母子講のようなものを作り、互いに融通するシステムを作り上げたのだという。そうしたコミュニティの中でリーダーとなる人たちがきちんと仲間をまとめあげてきたのだそうだ。これは他の地域、たとえば東南アジアなどの華人コミュニティと共通している。政府その他公共の機関に頼ることなく、自分たち自身の力で運命を切り開いてきたという自負がある。  
祖父がかなり年齢を重ねてから一度中国に帰郷したことがあるという。しかし故郷では彼のことを記憶しているのは80代の年老いた女性ひとりだけであったという。インドでかなり成功したつもりであった彼にとって相当ショックだったらしく、インドに戻ってから孫娘の彼女にこう言ったそうだ。『豊かになったら故郷に帰れ。きっとみんながお前を覚えていてくれる。でもそうでなければ決して戻るな。誰もお前のことを思い出さないだろう』と。
裸一貫で外地に渡り、そこに根付いて店を構えたとはいっても、『故郷に錦を飾る』というのはそう易しいことではないようだ。
ともあれCさんは三代目だが甥や姪に子供が生まれており、コルカタで五代続いている彼女の家で、広東省から渡ってきた祖父はすでにこの世になくとも、親族たちの絶大な尊敬を集める偉人なのだ。
おしゃべりなCさんは、こちらから尋ねずとも界隈の住民たちについてもいろいろ説明してくれる。『ここで売られている肉まんは、ほらあの人が全部作ってる』と示す先にはこれからバイクにまたがろうとしている華人の中年男性の姿があった。彼は肉まんとシュウマイの製造だけで生計を立てているのだそうだ。
『でもあの人はかなり手広くやっているよ。朝市の露店業者たちだけじゃなくて、市内あちこちの中華料理屋にも卸しているんだからねぇ。たいしたものよ』
 
そんな話を聞いていると、常連らしきインド人紳士が店に入ってきた。
『こんにちは。今日は醤油を下さい。それに中華スパイスと・・・』
『何を作るの?』とCさんは尋ねる。
『ええ、ローストポークでも作ってみようと思って』と彼は言う。そんな本格的な中華料理に挑戦する地元男性がいることに、私はちょっと感心した。
Cさんはヒンディー語を理解はするものの、ちゃんとインドの国籍を持ち大都会に暮らしているにしては、失礼を承知で言えばかなりつたない。自身は市内の中文学校で教育を受けたという。郊外のテーングラー地区ではなく、ここからそう遠くないところにかつては華人学校があったのだそうだ。しかし中華系人口が減少した結果、すでに廃校となっている。時折店の中にやってくる同胞華人たちとの会話を耳にする限りでは、昔その学校で身に着けたマンダリンのほうが比較にならないほど流暢であるように感じられた。

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