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カテゴリー: society

  • コールカーターのダヴィデの星 2

    コールカーターのダヴィデの星 2

     

    英領のインド帝国首都であったがゆえに、バグダーディーの人々を引き寄せる商業的な誘因があったようだが、英領期以前からベネ・イズラエル、コーチン・ジューといったユダヤ系の人々が定着して活動していた亜大陸南西部と違い、コミュニティの人口規模はコンパクトなものであったようだ。 

    1798年にコールカーター入りしたシャローム・コーヘン以降、英国本国から極東の香港や上海までを繋ぐ拠点としてのこの街で、オピウムやインディゴといった当時のインドならでは物産をはじめとする商品の国際取引、ラクナウを首都としたアワド王国、ランジート・スィン率いるパンジャーブのスィク王国との商売等で順調に成長していく。 

    1826年にはこの街で最初の正式なユダヤ教礼拝施設、ネヴェー・シャローム・シナゴーグが建設された。だがその時点でもこの地のユダヤ人口は200を数える程度であったという。その建物は今も残っており、マガン・ディヴィッド・シナゴーグのすぐ隣にあるのだが、すでに廃墟といった状態で内部は公開されていないのは残念だ。 

    しかしその後、1860年あたりでは600人、19世紀末には1900人を越えるまでに成長している。その頃にはパークストリートからサダルストリートにかけての地域で仕事場や住居を構えるユダヤ人たちも多くなっている。 

    初期のバグダーディー・ジューたちの多くは、出身地の言葉であるアラビア語を話し、装いもアラビア式であった。だがこのあたりになると英語に洋装となり、疑似西洋人といった具合になってくるとともに、資本を蓄積してジュート工場、タバコ産業、保険業、不動産業等といった分野で大きな商いをする人々が増えてくる。 

    1880年代には最初のユダヤ人学校がオープンする。それから20世紀前半にかけていくつか出来たユダヤ人学校の中には閉校してしまったものがあるいっぽう、ユダヤ人子弟の入学が皆無であるにもかかわらず、経営母体の民族色を薄めた一般的なイングリッシュ・ミディアムの学校として存続しているものも少なくない。 

    タイムス・オブ・インディアによる以下の記事などはまさにその典型だろう。生徒たちのマジョリティがムスリムの『ユダヤ人学校』なのだそうだ。

    The schools are Jewish, its students Muslim (The Times of India) 

    1940年代前半、コールカーターのユダヤ人人口は最盛期を迎えるが、当時この街が彼らにとってそれほど魅力に満ちていたというわけではなく、日本軍によるビルマ侵攻から逃れてきた同国在住の同朋たちが逃れてきた結果である。彼らはもともとコールカーターやムンバイーから移住した人たちであったが、戦争という不幸な原因により『出戻り』となったわけである。 

    インド独立といういわば『プッシュ』要因に加えて、イスラエル建国という『プル』要因もあり、それ以降はユダヤ人たち、とりわけ財力と能力に恵まれた人たちほど、インドを出てイスラエル、米国等に新天地を求めて流出する動きが続いた。 

    もともとパレスチナ・イスラエル問題の進展により、もともとパレスチナに暮らしていたアラブ人と帰還運動に関わるユダヤ人たちとの衝突が始まるまでは、アラビア各地でユダヤ人たちはアラビア人たちと平和裏に共存してきた。それ以外の国々においてもムスリムとユダヤ人の関係はごく近いものであった。 

    今でもシナゴーグの管理人や雑役などを引き受けている人たちはたいていムスリムであるし、ユダヤ人地区とムスリム地区とは隣り合っていたり、重なっていたりもする。 

    それだけに2008年11月26日にムンバイーで発生したテロにおいて、ユダヤ教徒のコミュニティ施設として機能してきたナリーマン・ハウスがイスラーム過激派の犯行グループの標的のひとつとなり、司祭夫妻とそこに居合わせた訪問客が犠牲となったことは大変な衝撃であったことは想像に難くない。 

    <続く>

  • 休業補償

     今月19日からクリケットのワールドカップが開催される。

    ICC Cricket World Cup 2011 

    前回2007年はカリブ海の8ケ国による開催であったが、今回はインド・スリランカ・バーングラーデーシュの三国での共同開催となる。 

    サッカーの場合は、2002年の日韓共同開催の後にも先にも同時に複数の国がホストとなっての開催はないが、クリケットの場合は1987年の印・パ共同開催にはじまり、以降7回の大会すべてが隣接する国々による共同開催となっている。

    そうした大きなスポーツの大会の際、行政にとって一番の問題となるのは治安維持に加えて、開催地周辺での風紀の維持ということになるだろう。 

    今回のクリケットのワールドカップのホスト国のひとつ、バーングラーデーシュにかかわる以下のようなニュースが目に付いた。 

    Bangladesh city to pay beggars during cricket World Cup (BBC NEWS SOUTH ASIA) 

    同国のチッタゴン市では、300名ほどの身体に障害のある乞食たちに対して、大会期間中1日当たり2米ドル相当の『休業補償』を与えて、しばらくお休みしてもらうことにしているのだとか。また主都ダーカーでは、ワールドカップ期間中は彼らに福祉施設に収容する予定であるとも。 

    人道上の問題については言うまでもないが、現実問題として物乞いの人たちが開催地周辺に大挙して流入ということも予想できるし、スムースな大会運営を期するうえでも、そうした措置にはやむを得ない部分もあると思う。 

    ところでインドではどうなのだろう?とふと思ったりもする。それに昨年10月に開催されたCWGのときには何かそうした措置はあったのだろうか? 

    ※『コールカーターのダヴィデの星 2』は後日掲載します。

  • コールカーターのダヴィデの星 1

    コールカーターのダヴィデの星 1

     

    先日取り上げたコールカーターの旧中華街近くに、見応えのあるシナゴーグがふたつある。ベテル・シナゴーグ(Beth El Synagogue)とマガン・ディヴィッド・シナゴーグ(Maghen David Synagogue)である。それぞれ『神の館』『ダヴィデの星』といった意味の名のユダヤ教礼拝施設だ。 

    どちらも旧ユダヤ人街にある。先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街同様に『旧』としたのは、もはやそこはユダヤ人たちが住む街区ではなくなっているためである。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグに至っては、その外観がプロテスタントの教会にありそうな形をしていることから、これをユダヤ教会と認識している人は界隈にほとんどおらず、それとは裏腹にそこからふたつほど裏手の路地にあるアルメニア教会をシナゴーグと勘違いしている人たちがとても多いようだ。 

    もちろん今の市井の人々には何の縁もない施設であるため無理もない。またユダヤ人とアルメニア人とでは、信条や先祖のやってきた場所は違うものの、ともに民族意識が強く、ビジネスマインドに富む商業民族であること、植民地時代には政府当局との繋がりが深く、支配者にごく近い位置で儲けてきた人々であるなど、似ている部分がかなり多い。加えてインドの都市部では往々にして居住地域も重なっていることが多かったこともあるがゆえの勘違いということもあるのかもしれない。

    そもそもコールカーターのこのエリアは、植民地期には白人地区でもなく、かといって『ネイティヴ』の人々のエリアでもない、つまり当時の言い方にならえばWhiteではなく、かといってBlackでもないGreyな地区ということであったらしい。 

    この街にやってきた最初のユダヤ移民の名前や出自ははっきりわかっているようだ。その人物がシャローム・コーヘンという人物で、現在のシリアのアレッポ出身であることに象徴されるように、コールカーターのユダヤ系移民の大半はいわゆるバグダーディー・ジューと呼ばれる人々である。 

    インドのユダヤ人にはおおまかに分けて三つのグループに分かれる。2世紀にパレスチナの故地を離れ、そしてインドに渡ってきたということになっているベネ・イズラエルというインド化の度合いが非常に高い人々、そしてコーチン・ジューと称されるより高い職能集団ならびに商業コミュニティとして繁栄してきた人々。コーチンの藩王国で庇護を受けてきたグループだ。そして三つ目がバグダーディー・ジューで、主に比較的時代が下ってからアラビア地域からやってきた人々を指す。 

    『バグダーディー』と言っても、必ずしも現在のイラクのバクダードからやってきたというわけではなく、アラビアのアデン、アレッポ、ダマスカスその他さまざまな地域からやってきた人々が含まれる。さらには非アラブのイランやアフガニスタンからやってきたユダヤ人たちもこの範疇にあることには注意が必要だろう。 

    先に挙げた三つのカテゴリーの人々以外にも第二次大戦時には欧州からインドにやってきた人々もあった。ナチス勢力下での弾圧から逃れるため渡ってきたユダヤ人たちである。 

    他にもミゾラムには『ユダヤ教徒』を自称するモンゴロイド系のコミュニティが存在し、ユダヤの『ロスト・トライブ』のひとつではないか?という説もあるのだが、出自が深い謎に包まれているため、通常は在インドのユダヤ人の範疇に含まれないようだ。 

    <続く>

  • プリペイド・タクシー

    プリペイド・タクシー

     

    (挿入画像は記事中の出来事とは関係ありません)

    ふと思い出したのだが、深夜近くのコールカーターの空港から市内へのプリペイドのタクシーで感心しないことがあった。 

    プリペイドのカウンターで、サダル・ストリートまで240 Rsの料金を支払い、チケットをもらうと、なぜか当のクルマの番号が書かれていない。「行けば係の者が手配します」との返事なので、まあいいかと外に出る。確かにそういう男性がいるが、クルマの番号を書き込むことなく「この人が運転手です」と言う。 

    険悪な雰囲気の運転手の横にはこれまた感じのよくない若いチンピラみたいな若い男。「プリペイドだと運転手を選べないから嫌だな」と思った矢先、このチンピラは空港敷地を出て大通りに入ったところで、クルマ左側の窓から大きく身を乗り出して、道路脇に駐車しているタクシー運転手たちに「ニューマーケットまで100ターカー(西ベンガル州ではルピーのことをしばしばターカーと呼ぶ)で行くか?」と声をかけまくっている。 

    もちろん状況からして、彼がニューマーケットまで行きたいわけではなく、そのエリアまで行くお客を『買わないか?』ということだろう。さてどうなるのか?空港から数百メートルのところから市内中心部まで100 Rsという破格の料金で行くクルマはあるのだろうか? 

    何台かは150 Rsだの120 Rsだのという返事をしていたが、やがて100 RsでOKというクルマが現れた。私の乗っているタクシーの運転手は、案の定「ブレーキが壊れた。ここから先のクルマの料金は出すから乗り換えろ」となどとのたまう。 

    プリペイドの240Rsのうち、おそらく30~40Rs前後がカウンターの取り分であると仮定して、運転手には200~210Rs前後が渡るのだと思う。ほとんど走行することなく、空港敷地を出たところで他の運転手に100 Rs渡して引き継がせ、自分たちは空港タクシー乗り場にトンボ帰りして他の客を乗せるのだろう。 

    これが可能なのは、客の行先が繁華街かその付近であることに加えて、空港近くで客待ちしている他の運転手が「ガソリン代くらいでも出ればお客のいそうなところに移動したい」と思う時間帯であることだろう。もしかするとシフトの時間も関係しているのかもしれない。 

    空港からニューマーケット(私が向かおうとしていたのはそのすぐ近くのサダル・ストリート)まで100 Rsというのは、通常あり得ない金額であるが、この男自身がタクシー運転手であるがゆえに「繁華街での客待ちのために移動させるお駄賃」として受け入れられるギリギリの金額であろうと心得ているのだろう。 

    加えてプリペイドのブースでチケットを売る男、タクシー溜りで運転手にお客を手配する男もこれにつるんでいるのかもしれない。 

    運転手に「お前が連れて行け」と言い張ってみたところで仕方ない。最初からそういうつもりで走らせているので、そのまま走らせてもロクなことがないだろう。また彼には「ブレーキが故障した」という大義名分もある。 

    なぜならば最初の運転手はそういう人間なので、「このクルマで行く」と固執して行ったとしても、ロクなことがないことは明らかだからである。やれやれ、これではプリペイドの意味がないではないか。 

    だが乗り換えたところで、当初の運転手から渡された100 Rsという極端に低い金額で空港からサダル・ストリートまで行くということになった他の運転手が、道中であるいは着いてからガタガタと煩いことを言い出す可能性もある。 

    最初の運転手は私が手にしているお客用のスリップ(プリペイドのタクシー料金の領収書)を渡せという。クレームを付けられないようにということだろう。前述のとおり、これにクルマのナンバーは書かれていないのだが。しばらく不愉快なやりとりが続いたが、もう夜も遅いので、こんなことで貴重な時間を取られたくないため、最後はこれを相手に渡して出発。やれやれ・・・。 

    幸いであったのは、乗り継いだタクシーの運転手が至極まともな人物であったことだ。彼によると、私が想像したとおりの条件下でこうした姑息なことをする空港発のタクシー運転手はかなりあるのだそうだ。 

    「ほんの1キロ走っただけで100 Rs以上を手にして、他の運転手には残りの行程をわずか100 Rsで走らせるのだからひどいもんです。ああいう輩がいるからコールカーターのタクシーのイメージが悪くなってしまって困ります」

    朴訥とした話し方の真面目そうな中年運転手であった。

    ともあれ彼自身もそうしたタクシーが通りかかる沿道で客待ちしていたのは、都合のよい場所に多少なりとものお金を手にして移動できることを期待していたようではある。 

    以前、無線タクシーと題して、近年インドの大きな街でのサービスが広がっている無線タクシーのことを取り上げてみたが、従前からのタクシーの在り様からして、新手の「まともなタクシー」はインドのサービス業の中で最も高い伸びが期待できるもののひとつであるといっては大げさすぎるだろうか。

  • コールカーター チョウリンギーの放牧

    コールカーター チョウリンギーの放牧

     

    朝方、チョウリンギー通りを散歩していると、ちょうどヤギの大群を連れた人たちがチョウリンギー通りを南下してくるところであった。ヤギとヤギ飼いたちは悠々と大通りを進み、パークストリートの交差点手前あたりで道路を横断して広々としたマイダーンに行く。毎日決まった時間にこうして「放牧」に出かけているようだ。 

    マイダーンは植民地期に造られたものだが、その目的は単に市民の憩いの場ということのみならず、カルカッタを帝都としていた頃のイギリス当局にとっては、有事の際の最終的な防衛の拠点としてのフォート・ウィリアムを市街地から隔てたところに保つ目的があった。 

    デリーに遷都されてからも、また独立以降もマイダーンはそのまま残されたため、とりわけアジア諸国の中では稀有な桁外れに大きな公園が大都会の真ん中に存在し続けている。「市民のための広々とした公園」でありながらも、実はこの広大な土地を所有しているのは軍であるという意外な一面もある。人々にとっては夕方や休日の憩いの場、ヤギたちにとっては豊かな牧草地となる。 

    昔、初めてインドに来たときもびっくりした。てっきり遠く郊外から連れてきているのだろうと思ったヤギたちの棲家は都心であったからだ。路地裏の古ぼけた建物の今にも壊れそうな扉がガタンと開くと、その中にはヤギたちがワンサカ。棒を手にした男たちが「さあ出かけるぞ!」と追い立てていたのだから。今も彼らは都市の中心部に住んでいるのかどうかは知らないが。 

    着々と近代化が進みつつあるインドの他の大都市と比較して、コールカーターはその歩みがかなり遅く感じられる。その反面、長らく英領インドの首都であったことがあるゆえに、植民地期に建設されたインフラがあまりに偉大で、今の時代にまで残された街区、建築物等はことさら時代がかって見える。まさに「古色蒼然」という言葉がぴったりだ。 

    そんな環境のためか、世界有数の高い人口密度を有する大都会でありながらも、意外に顧みられることなく放置されている空きスペースが都心にけっこうあったりする。有効活用すれば高い需要と相当な収入を見込めるロケーションであっても。もちろん地権その他の問題等あってのことに違いないだろうが。 

    先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げてみた中華朝市が開かれるところのすぐ東には、コールカーターの伝説的な中華レストラン、1924年創業のNanking Restaurantの建物が、同店閉業後も40年ほど放置されていた。元々は駐車場であったと思われる敷地を含めて、ゴミ捨て場兼廃品回収分別場並びに不法占拠者たちの住居といった具合になっていた。それも最近になってようやく取り壊されて、今は新しい建物が出来ている。そんな具合なので、今でもひょっとすると「羊の群れと羊飼いたち」が都心で生き延びる余地はあるのかもしれない。 

    近年はずいぶんクルマも増えたし、運転する人たちもせっかちになった。羊たちも彼らを追う羊飼いの男たちも、どうか事故に遭ったりすることなく日々過ごしてもらいたい。 

    もちろんこれほど沢山のヤギたちを飼育する目的は食肉(および皮革?)としての用途であるはずなのだが、こんな大都会の真ん中で飼育することでコストは見合うか?という疑問が頭の中をよぎる。だが、これが生業として成り立っている以上、我々のものとは尺度の違う経済学が背景にあるのだろう。まことに懐の深い街・・・と私は思う。

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」4

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」4

     コールカーターの朝市に行くたびにお邪魔させていただいててる年配の華人Cさんに今回もまたお会いした。私がコールカーターの華人社会に少なからず関心を抱いていることを知っている彼女が今回こんな本を勧めてくれた。 

    書名:Chinatown Kolkata

    著者:Rafeeq Ellias

    出版社:Gallerie Publishers

    ISBN: 81-9019999-5-1 

    ムンバイー在住のフォトグラファー・ビデオ制作者による写真集である。書籍に同梱のDVDには彼自身が制作してBBCで放送されたコールカーターのチャイナタウンに関する番組が収録されており興味深かった。 

    番組の動画は、テーングラーの華人コミュニティが運営するDhapaのサイト経由にて、Youtubeにアップロードされている内容を参照することができる。 

    旧正月には、獅子舞いその他の催しが実施されるとのことなので、その時期にコールカーターに滞在される方はちょっと覗いてみるといいかもしれない。 

    <完>

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」3

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」3

     

    情勢としては大量流出が続くコールカーターの華人社会。最盛期には1万5千人とも2万人とも言われた人口は今や5千人を割り込んでいるということだが、ごくわずかながら現在もごく少数の大陸からの「流入者」があるのだという。 

    もちろんその中には今の中国の強大な資本力を引っ提げてインドにやってくる大陸のビジネスマンは含まず、この土地に根を下ろして長らく暮らしてきた「加城華人」コミュニティに加わる人々のことだ。 

    それらの人々は具体的には客家系、広東系を中心とする、コールカーター華人たちの父祖の故郷との縁が関係しているのだという。もちろんあまり一般的ではなく、ごく少数の例に限られるが、そんな遠い繋がりを頼りに中国の田舎からインドのコールカーターまで嫁入りしにくる女性たちがいるだという。すでに長きに渡って華人社会が確立されてきた街ではあるものの、出身地の環境とのあまりの違いに馴染めず実家に逃げ帰ってそれっきり、という例も少なくないと聞くのだが。 

    いっぽう、北米、オセアニア、欧州、東南アジア等へと流出した人々の中で、圧倒的に多い移民先がカナダである。なぜカナダか?という点についてはまだよく知らないのだが、資産や生産手段を持つ人の移住に対して寛容で、すでに出来上がった華人社会があり、かつ生活水準や期待できる収入レベルなど、好条件が揃っているのだろう。加えて、先行して移民していった人々の中に、移民ネットワークを取りまとめる成功者や有力者などが複数あることなどが推測できるが、後に機会があればこれについても調べてみたい。 

    そんなわけで、多くのコールカーター華僑にとってカナダといえば「身内や知人」がいるという身近な国ということになるらしいが、いっぽうコールカーター等からカナダに移民した人々にとってコールカーターひいてはインドへの「故郷」としての意識も強いようで、「インド華人」のコミュニティ内での様々な活動がなされているようだ。 

    ネット上にもこうしたコールカーター華人の移民たちによる印華文化發展協會 (The Indian Chinese Association)というものがある。過去の記事に遡って読んでいくと、ところどころにインドやコールカーターにまつわる記事が散見される。「インド出身客家人」「コールカーター生まれの広東人」などといった、グローバルな華人社会の中ではちょっと異色なアイデンティティを維持していることがうかがわれるようだ。 

    <続く>

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」2

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」2

     

    話は「魯迅路」と「中山路」に戻る。このふたつの通りを結ぶ、いくつかある路地の中のひとつで毎日朝市が開かれている。「魯迅路」ことNew CIT Rd.とLower Chitpur Rd.の交差点のから東側ひとつ目の路地である。コールカーター警察の本部もちょうどそのあたりにある。 

    かつて、ここは文字通りの「チャイナタウン」であったエリアだ。1959年に発生した中印紛争が1962年の大規模な武力衝突に至るにあたり、それまで近隣の人々と共存してきた華人たちだが、突如として「敵国人」としての扱いを受けるようになる。

     深夜、自宅に警官たちが突然押しかけてきて、有無を言わせずに連行してしまう。彼らは往々にしてラージャスターンのデーウリーにあった強制収容所に送り込まれてしまった。第二次大戦時に英領であった各地、主にマレーシアやシンガポールといった地域に暮らしていた日本人たちが収容されていたあの場所である。 

    カルカッタ以外にも現在のインド北東州の都市(アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、メガーラヤ)にも相当数の華人たちが暮らしていたようだが、このあたりは中国との国境近い地域ということもあり、同様に厳しい取り締まりがなされたようだ。 

    もちろん現金等を巻き上げる目的で華人たちを相手に荒らしまわった警官たちもあっただろうし、華人の商売敵を陥れる目的で警察に接触した個人もあったことだろう。戦争を機に官民挙げての「反中国」感情の嵐が吹き荒れた時代だ。たとえインド国籍をすでに取得していようが中国系という血筋自体によって、北京の回し者と疑われるのが当然であったという。 

    幸いにして具体的なトラブルに巻き込まれずに済んだ人たちも、いつ自分たちの身にも降りかかってくるかもしれない「深夜のノック」を恐れつつ生きていかなくてはならなかった。 

    屈辱と収容所の劣悪な環境の中で耐えて、ようやく釈放されて元々の居住地に戻ると、家、店舗、工場といった資産は知らぬ間に政府に取り上げられて競売にかけられていた、といったケースも多かったという。こうした華人に対する猜疑と弾圧の時代以降、華人たちが一気に国外へ出て行ったのは自然な流れである。 

    中国大陸での国共内戦以降、他国の中国人居住地で往々にしてそうであったように、コールカーターの中国人コミュニティの中で「どちらの祖国」を支持するかで、いろいろあったようではある。だが政府をアテにすることなく、自らの才覚、勇気と勤勉さをもって外国で道を切り拓いてきた多くの華人たちにとって、祖国の戦争にしろ政治にしろ、彼らが直接関わりを持つ類のものではない。 

    居住国であるインドに対して仕掛けた戦争に対する祖国の責任を負わされ、華人であるがゆえに商売がうまくいかなくなるどころか、警察に連行されて強制収容所送りで生命の危険もあれば、財産まで取り上げられてしまう・・・ともなれば、より安全で公正な土地を目指していくしかない。 

    これらの極端に行き過ぎた「華人排斥」時代はそう長くは継続しなかったものの、戦争をきっかけとする「中国の衝撃」のインパクトが強かったこと、中国がパーキスターンと親密な関係になっていったことなどから、華人たちに対する猜疑心、不信感や行政等による嫌がらせは続いた。

    中印紛争をきっかけとする弾圧以降は華人人口が大きく減っており、とりわけ財力や能力があり、社会・経済的な影響力の大きい層によるインドからの脱出が多かったこともあり、中華街の活力やコミュニティの経済力を大幅に削ぐことになったようだ。当時から現在に至るまで、特に若い世代ほど海外移住志向が強いとされる。 

    コールカーターのもうひとつの中華街、市の東南部のテーングラー地区には培梅中学という中文系の学校があるが、この「魯迅路」「中山路」を中心とする旧中華街にも、かつては華語で教える学校があったという。華人人口の大幅な減少とともに、英語を身に付けないと仕事ができないということから入学を希望する生徒が少なくなったことから消滅したという。 

    <続く>

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1

     

    ふと目が覚めると外はまだ暗い。早朝のコールカーターは、昼間の喧騒とクルマの多さがまるでウソのようにガラガラだ。人々は一体どこからやってきて、どこに帰っていくのだろうか?とさえ思う。 

    ともあれ早起きは三文の得なのかどうか知らないが、ともあれコールカーターの朝といえば、まずは中華朝市に向かうのが私の習慣になっている。 

    本当は日曜日が最も露店が多いし、休日のため華人たちの人出もやや多くて良いのだが、平日であってもなかなか楽しい。肉まん、シュウマイ、蒸し餃子、中華風スープなど本格的な中華軽食が待っていてくれるのはこの地域を置いて他にない。この朝市を簡単に紹介する以下のようなビデオがある。

    Kolkata Chinatown Breakfast (Youtube) 

    とりあえずタクシーをつかまえて朝市に向かう。地下鉄ならばセントラル駅北口に出て、目の前のNew C.I.T. Rd.(少し西に進むと通りの名がIndia Exchange Plaxe Extn.に変わる) を少し西に向かったところにある。この通りは別名Lu Shun Saraniと言う。 

    Lu Shunとは、中国のピンイン式の表記ならばLu Xun即ち20世紀初頭の中国の作家、鲁迅のことである。この「鲁迅路」のすぐ南にはSun Yat Sen St.がある。これまた中国に因んだ名前だ。Sun Yat Senとは孫逸仙こと孫中山、言うまでもなく孫文のことである。そのためSun Yat Sen St.とは、中国や台湾の街で言うところの「中山路」となる。いかにも「中華街」らしい。ここからしばらく西に進むと、Old China Bazar Rd.という通りも見受けられる。かつてこのあたりに華人たちが多数居住した名残だろう。 

    今でも華人たちによる食堂、靴屋、美容室、ドライクリーニング屋などといった、いかも華人的な商売の店が少なくない。加えて建築資材や塗料その他の店や小規模な会社のオフィス、中国寺院、同郷会館といったものが点在している。このエリアはムスリム地区に隣接しており、元々中国人たちの下で働くムスリムの人たちが多かったこともあり、旧来から出入りは多かったはずだが、「ここが旧中華街である」と言われなければ、ワーキングクラスのイスラーム教徒たちが多い地域だとしか思わないはず。 

    路地を歩きながらよくよく眺めてみると、苔むした中華風の雰囲気を漂わせるボロ屋を出入りする彼らは多いが、華人の姿はごくごく少ない。ゆえに「旧中華街」と表現するのが適当だ。それでも最近はコールカーターの外から来たインド人観光客がグループや家族連れなどが、わざわざ早起きしてこの朝市を訪れ、シュウマイその他のスナックをつまむというケースが増えてきているのだとか。 

    <続く>

  • 求人 ST限定

     Tribal Jobs Indiaというウェブサイトがある。留保対象となっているSTつまり指定部族対象の求人情報を集めたもので、金融、エンジニア、保険、IT、法曹、医療等、様々な分野での募集が掲載されている。 

    年齢制限についての部分で、しばしば『5 years relaxation for SC/ST』などと書かれているものがほとんどだ。こうした人々に対して留保枠そのものだけではなく、年齢上限についても緩和されるのだろう。 

    留保制度のありかたや意義についてはいろいろ議論のあるところだが、こうした留保による求人・就職について、今後機会をもうけて考えてみたい。

  • 違いを越えて

     以下の動画は、デリーの地下鉄の女性専用車両に乗車している男性たちに対する取り締まりの様子だそうだ。 

    Men beaten off women’s train in India (YouTube)

    車両の中の男性たちが手荒に叩き出されている。なんとも哀れというか、みっともない有様ではある。後半の映像では、おそらく他の車両がひどく込み合っていて、ここにしか乗り込むことが出来なかったりしたのではないかと思うが、ずいぶん沢山の男性たちの姿がある。 

    しかしラッシュ時にこそ女性専用車両の価値があるため、このくらい思い切った手立てが必要なのだろう。ジェンダーの違いによって生じる著しい不都合や不利益がある場合、これを是正する手段は不可欠だと思う。 

    今やどこの国でも男女平等ということが言われているが、たとえばこの女性専用車両のように、ジェンダーによるこうした逆差別もときには必要であることは誰も否定しないだろう。 

    そんなことからふと思ったのが、何をもって平等とするかということだ。雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(通称:男女雇用均等法)が1999年に大幅改正された。これによって従前は努力規定であったものが禁止規定となった。 

    あれから10年以上経つが、求人の際に性別は当然書かれていなくても、業務内容の関係上から実際に採用されるのはほとんど男性ばかり、あるいは女性ばかりというケースはよく耳にするし、待遇や昇進について事実上差があるというケースは少なくないようだ。もちろんそれも職場によりけりではあるが。 

    しかし総体的には、これにより女性の社会参画が促進されたとされるし、反対にそれまで女性の職場とされていた分野への男性の参加も増えたことも間違いないようだ。法の下に働く人々の間のジェンダーの違いによる格差が、少なくとも建前上は否定されたことの意味は大きい。 

    だが人は社会人であるとともに家庭人でもあり、その中での役割の違いというものもある。何も女性が家事の大半を担うべきであるなどと言うわけではない。子供に対して父親だからこそできること、母親でこそ可能なことなどいろいろある。また子供たちから見て父親にしてもらいたいこと、母親に期待することなどもいろいろ違うこともある。私たちの幼い頃を思い起こせば胸に浮かぶことはいろいろあるだろう。 

    そのあたりも考え合わせると、1日24時間という限られた枠の中で、世の中の男女が同じ働き方をすると、しわ寄せが行くのは結局のところ家庭ということになってしまわないだろうか。そもそも結婚することさえ難しくなってしまうことはないのだろうか。 

    不況が続き、雇用や収入に不安があるとはいえ、今のところ日本は平和で衣食住事足りた社会である。それにもかかわらず少子化に歯止めがかからないということは、生物学的には非常に矛盾した状況だろう。 

    そんな中で、私たちから見て二世代くらい前の『人々の暮らし』から学ぶことも少なくないのではないかと思う。社会のありかたや仕事のやりかた等は時代とともに移ろうが、昔の人たちのやりかたが間違っていたわけではなく、今とは違った豊かさや温かみがあったはずだ。文化や伝統と同じく、世代を超えて受け継いでいくべき先人たちの『ワークライフバランス』の豊かな知恵があるのではないだろうか。 

    ジェンダーの違いを越えた本当の『平等』や『均等』とは、必ずしも今の私たちがそうであると受け止めているものとは少し違うものがあるような気がしてならない。

  • 日本でムスリム観光客増加の気配

    クレセント・レーティングをご存知だろうか。『Halal Friendly Travel』をモットーに、イスラーム教徒が利用しやすいホテル、レストラン、空港、パッケージツアー、医療等に関する情報を提供しているサイトだ。ホテルについてはハラールな食事を提供しているか、ムスリムの礼拝に対する配慮があるか等々の観点による格付けもなされている。 

    同サイト内ではイスラーム教徒向けの旅行書籍(?)の販売も行なっている。 スリランカ出身のムスリムのビジネスマンが立ち上げたサービスだが、その目新しさからちょっと注目されつつあるらしい。 

    ところで、もともと土地っ子の間でムスリム人口がほぼ皆無に近く、これまでムスリムの人々による訪問も少なかった日本では、当然のことながら食事その他さまざまな面において『ハラールな』環境を得がたいのは無理もない。 

    その日本では、2008年10月に設置された観光庁が、ビジット・ジャパンというキャンペーンを通じて、訪日外国人3,000万人という目標を掲げているところだが、訪日外国人旅行者数の多い15の国・地域(アメリカ、イギリス、インド、オーストラリア、カナダ、韓国、シンガポール、タイ、台湾、中国・香港、ドイツ、フランス、マレーシア、ロシア)を重点国と定めてプロモーションを展開している。 

    それらの中でもっとも効果が顕著なのは、中国大陸からの日本渡航者に対する査証取得条件の緩和による中国人観光客の急増だろう。このところ尖閣諸島を巡る政治問題によって訪日予定者の中から多数のキャンセルが出ることによりブレーキがかかった感はあるが。 

    しかし中国が安定した経済成長を続けている限り、地理的に至近で有利であること、元々中国人たちの中で日本に対する関心が高いことから、今後とも急カーヴを描いて訪日者数が増加していくことは間違いないだろう。 

    さらには来年度からサウジアラビアとアラブ首長国連邦もこの『重点国』に追加されることが予定されているという。両国とも豊かな産油国で可処分所得が高く、滞在中の客単価が高いであろうことが期待されているようだ。 

    ちなみにムスリム観光客による旅行市場は、全世界で再来年あたりには8.5兆円という巨大なものとなることが予測されており、日本もその流れに乗り遅れないようにと、手始めにこの2か国(サウジアラビアとアラブ首長国連邦)を重点国に指定したという経緯がある。 

    同時に日本での観光客としてはあまり馴染みのなかった人々で、受け入れ側としてもムスリム客誘致のノウハウがほとんどないこともあり、訪問者を送り出す側の国では訪日関連、また受け入れ側となる日本のほうでもムスリム客誘致関係といった、新たな商機が生まれることが期待されている。 

    同時に、これまで日本国内では、ハラール食材、映画等の娯楽関連、安い国際電話カード等といった、主に在日の南アジアや東南アジアのムスリムたちの日常生活に必要なものをまかなう程度で、ごくごくニッチなマーケットであった『ムスリム関係市場』が、豊かな産油国からやってくる観光客という新たな顧客を得て、価格帯や品揃え等もこれまでとは異なる次元のものへと発展していく可能性も秘めている。