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カテゴリー: food & drink

  • コールハープル散策 1  王宮見学等

    コールハープル散策 1  王宮見学等

    チャトラパティ・シャーフー博物館

    宿からオートでニューパレスこと、チャトラパティ・シャーフー博物館にいく。コールハープルは藩王国の王都であっただけあり、その過去を思わせる建物は旧市街のそこここに残されており、ちょっとパティヤーラーを想起させるものがある。

    英領時代に定められた藩王を迎える際の礼砲数は19発。パティヤーラーは17発なので、こちらのほうが格上の藩王国ということになる。礼砲数21発のハイデラーバード、マイソール、グワリヤルなどの筆頭5藩王国のすぐ下のランク、つまりウダイプルやインドールなどと同格なので、とりわけ重要度が高いものひとつであったといえる。

    博物館は、そのまま藩王家にまつわる博物館である。外国人料金はなく、30ルピー。ダルバールホールは見事なものであったし、武器類や調度品、狩猟で仕留めた動物たちの剥製、そうした動物たちの牙、爪、足などを利用した燭台やグラスなどといった展示もある。せっかくなので建物内部も撮影してみたかったし、展示物も同様なのだが、別料金で写真撮影を許可する措置がないのは残念であった。

    気根がやたらと見事なバニヤンの木

    旧市街に戻る。ちょうど宿の近くにマハーラクシュミー寺院があるし、このエリアが旧王宮地域でもあることから、観光には大変都合がよい。

    旧市街風景

    ビリヤーニーにライタではなくラッサムが付いてくるのは初めて見た。

    本場ではないが、ドーサで軽食
    これまた本場ではないが、パンジャーブ料理の店にて。こんなことをしているうちに本場でコールハープリー料理を食べる機会を逃してしまった。
  • マドガオンからラトナーギリーへ

    マドガオンからラトナーギリーへ

    マドガオン駅

    ゴア州のマドガオンからマハーラーシュトラ州のラトナーギリーまでは、ラージダーニー・エクスプレスの3A(エアコン付き三段寝台)を利用した。快適である。午前10時に出発して午後1時30分に到着という、わずか3時間半の汽車旅だが、このエクスプレス自体は、マドガオンが始発駅で、ムンバイーを経由してデリーのニザームッディーン駅が終着駅となる。

    ラージダーニー・エクスプレス3A車内
    ラージダーニー・エクスプレス3A車内

    乗車券に込みとなっている昼食

    コーンカーン鉄道利用するのは初めてだ。赤土の大地と豊かな緑が延々と続く風景。やたらとトンネルや切り通しが多いのは丘陵地であるため。岩石を掘削しての工事は困難であったことが伝えられている。
    ラトナーギリー駅への到着は少し遅れて午後2時ごろだった。ラトナーギリーは特産のマンゴーが大変有名だが、駅のプラットフォームでも大量に販売されていた。

    ラトナーギリー到着
    乗車したラージダーニー・エクスプレス

    ラトナーギリーといえば、特産のマンゴー
  • マドガオン2

    マドガオン2

    マドガオンでの宿泊先で付いていた朝食。プーリーバージーなのだが、使われているのがココナツオイルであることに、なんだか不思議なエキゾ感を覚える。

    町中とくに繁華街やその周囲では、元々のゴアの人たちは何割くらいなのか?と思う。観光客ではなく地元で働いている人たちのなかで、明らかにゴアンであるとは思えない人たちがとても多いようだからだ。聴覚的にも、地元に住んでいると思しき人たち同士のヒンディーによる会話も聞こえてきたりする。

    ポルトガル時代の建物
    ずいぶん小さな教会があった。

    インド各地からの移住は自由で、人口圧力の大きな州から大勢流入してくるのは当然のことだ。またビジネスを展開しようという人たちも沢山やってくる。現在、この州がBJP政権下となっている背景には、そうしたこともあるはずだ。

    かなり南側に位置しているとはいえ、マラーティー語に近いコーンカーニー語のエリアなので、ヒンディー話者にとっては馴染みやすい言語環境(同様に地元でのヒンディー語受容度もすこぶる高い)であり文化圏であるため、北インドからを引き寄せやすい環境だ。

    そんなこともあることから、話は飛ぶが、ポルトガル時代末期には、インド側のスパイや工作員の活動を防ぐことは困難であったらしい。革新志向のインテリ層の若者たちの中で、『祖国復帰』の活動のため地下に潜行したり、インド側の内通者として活動したりした者も一部あったようだ。

    とはいえ、大方のポ領ゴアの世論はインドによる『返還要求』を脅威と捉えており、とりわけ受けた教育や社会的地位が高くなるほど、そうした傾向が強かったとのこと。

    そんなポルトガル時代末期に、ゴアとパキスタンは蜜月時代にあったことがある。インド独立後にデリーから強硬な返還要求を拒み続けていたポルトガルは、インドによる経済封鎖を受けて、各方面に渡る様々な物資の入手をパキスタンに依存した。パキスタンにとってもインドと敵対するポ領ゴアは戦略上においても大きなポテンシャルを持つ『友好国』であり、食料、生活物資等々、多岐に渡る供給を支援していたようだ。

    そんなポルトガル領ゴアとパキスタンの関係も1961年12月にインドが強行したゴア制圧の大規模な軍事作戦、『オペレーション・ヴィジャイ』により、粉砕されることとなる。

    当時の貧しかったインドに呑み込まれることを恐れたことに加えて、よくも悪くもポルトガルによる同化志向の強い政策により、ゴア人として独自のアイデンティティとポルトガル本国との強い絆が涵養されてきた歴史が背景にあった。こうした面で、インドネシアと東ティモールとの間にあるものと、似たような土壌かあったとも言える。

    復帰後のゴアは、中央政府による連邦直轄地となり、地元の社会・文化・政治環境等には配慮しつつも、16世紀から長く続いたポルトガル式統治のシステムと慣習をインド化することに力を注いだ。ポルトガル時代末期までの在地エリート層で、この時期に凋落してしまった例は少なくない。

    ポルトガル語で教育を受けた官憲が英語教育で育った者に置き換えられただけでなく、インドが独立後に実施した土地の分配と同様に、ゴアでも大地主たちが所有していた農地等が分配されたことなどもある。ロンリープラネットのガイドブックで紹介されているBraganza家の屋敷の当主もそんな具合だったのではないかと思う。
    ゴアがようやく『州』となったのは1987年のことだ。

    インド復帰後のパワーゲームをうまく処理してゴアを上手にインドへ統合させたことになるが、ゴアで2012年にBJP政権が成立したことはエポックメイキングな出来事であり、ゴア問題解消に至るゴールであったと言える。かくしてゴアは普通のインドとなった。

    さて、インドによる軍事侵攻に降伏してゴアを去ることになったポルトガル当局だが、1947年にインドを去ったイギリスと対照的なのは、ポルトガル籍を取得していた現地住民と一定ランク以上にあった政府職員への措置。

    当時のポルトガルが保有していた海外領、とりわけモザンビークへの移住、再就職を積極的にサポートしたと聞く。もっともそれからまもなくモザンビークはポルトガル支配への闘争から内戦状態となり、インドから移住した官憲は当然攻撃の対象となる。そしてモザンビークは独立を迎える。期待した新天地での明るい未来は無かったことになる。

    マドガオン駅は宿から徒歩すぐ。駅で大量に販売されていたが、ゴアのチッキーは、具材が豪華らしい。食べると歯の治療の詰め物が外れたりするのが悩ましい。

    チッキー

    ニザームッディーン行きのラージダーニーに乗車。Wi-Fiが利用できて良いと思ったのだが、しばらくすると使えなくなった。携帯電話を入れて、SMSで送られてくるIDとパスワードを入れてログインするため、結局はインドのケータイが必要となる。しかし発車してしばらくすると使えなくなり、シグナルも来ていない。駅だけのサービスというわけではないと思うのだが?

  • マドガオン1

    マドガオン1

    ゴアのダーボーリム空港からタクシーでマドガオンに向かう。デリーあたりとはまったく異なる南国の風景が広がっている。

    宿はまったく期待していなかったのだが、予想外に新しいというか、真新しい施設で、部屋も広々として気持ちが良い。

    マドガオンの宿

    ポルトガル時代の建物や町並みはほとんど残っていないマドガオンだが、ところどころに当時のお邸宅がお化け屋敷みたいな惨状で残っていたり、『ゴメス』とかのポルトガル式の名前の表札がかかる家などがあったりして、レガシーを感じさせてくれる。


    ポルトガル植民地時代からあると思われるショップハウス、小さな教会、インド化されたマリア様。マザーテレサも向かって右に控えているのも目にすることが出来る。

    せっかくゴアに来たとはいえ、宿付近にゴア料理の店は見当たらず、夕食は普通のベジタリアン食堂で済ませた。

  • デリーからゴアへのフライト

    デリーからゴアへのフライト

    デリーからゴアまでは2時間のフライト。ちょっと昼寝を楽しむ時間もあるし、読書をして過ごすのも悪くない。LCCなので機内食は付いていないが、カップヌードルを注文して食べてみた。なかなかイケる。日系企業の製品なので、日本で同じものを販売してくれたらなぁと思ったりする。
    到着近くなってから窓の下に見えるのは、緑したたる豊かな景色。この時期のデリーあたりの荒涼とした眺めとはまったく異なり、ヤシの木も目立つ緑と水に恵まれた大地である。

  • ウズベクレストラン TASHKIN

    ウズベクレストラン TASHKIN

    パハールガンジにあるウズベク&ロシアレストラン「TASHKIN」で食事。ここの料理はとても素晴らしい。
    マトンのサモーサーは生地がパイ状になっており、中には肉と肉汁が沢山詰まっている。チキンのシークケバーブのようなものは、インドのそれからスパイスをほとんどを除去して、香菜を加えたような上品な味わい。
    これらのアイテムがインドに伝わる前は、こういう感じであったのか、と想像力がふくらむ。
    水餃子風のものは、シルクロード伝いに広まったものではないかと思うが、スープにヨーグルトも使われており、中央アジアらしいムードがある。

    TASHKIN (Uzbek & Russian Restaurant)
    Laxmi Narayan Street, Krishna Cottage Hotel, Aram Bagh, Paharganj, Pharganj, Delhi 110055

  • マジヌーカーティーラーで夕食

    マジヌーカーティーラーで夕食

    マジヌーカーティーラーでマジヌーカーティーラーのチベット人居住区の食堂にて夕食。シャプタとテントゥクを注文した。
    宿泊施設に事欠かず、食事も楽しいのでデリーでの投宿先としては有力候補なのだが、私自身がなかなか泊まることがないのには理由がある。
    非常に建て込んでいるため、路地がとても細く、ひとりがやって通ることができるような奥まった通路の先に素敵なレストランがあったり、お得なホテルがあったりする。
    ここは他のエリアにも増して野犬がやたらと多い。昼間や宵の口の時間帯は特に問題ないのだが、犬が嫌いな私としては、夜出歩いて、辺りがすっかり寝静まった中、こうした犬たちの群れと対峙するのが嫌なので、それを思ってついつい敬遠してしまうのだ。

    チベット人地区の「メインストリート」はこんな具合
    美味なるシャプタ
    具沢山でうれしいテントゥク
    用事は済んだのでメトロ駅「ヴィダーン・サバー」へサイクルリクシャーで向かう。
  • ゴールカー

    ゴールカー

    バンディープルからドゥムレーに出て、ゴールカー行きのバスに乗り換える。所用時間は前者が30分、後者が1時間半程度。ゴールカーまでの最後のバスで乗り会わせた若い男性は、ヒンディーを話す人で、なかなかおしゃべりであった。決して上手ではないし、言い回しの間違い等も私さえ判るくらいだが、インドに暮らしたことがないというのに、これだけ話せるとはたいしたものだ。

    さすがに山のほうに入ってくると、とりわけ女性であまり裕福ではなさそうな層では、ヒンディーを理解する人は多くないようだ。しかしながらインド国内のタミルナードゥやケーララに比べると驚くほど広く通用するといえる。

    こちらが言うことはある程度理解しているようで、返事がネパール語で返ってくることはよくある。すると、こちらは知っている言葉を拾って、推測で理解したような、そうでもないような気分になる。

    部屋に荷物を置いてから、昼食は宿の階下の食堂にて済ませる。ここの主人の娘たちはふたりとも美人だ。

    宿階下の食堂では、一日中、ヒンディーのエンターテインメント番組かニュース番組を流しているようだが、それでヒンディーが普通に通じるかといえば、そうでもない。とはいえ、やはりある程度は理解しているから観ているのであり、返ってくるのがネパール語まじりだったりするが、一応のコミュニケーションはとれる。

    ゴールカー・ダルバールはけっこう離れているとは聞いていたが、長い石段を30分ほど登った先にある。途中の斜面からはゴールカーの町の眺めが素晴らしい。

    ゴールカー・ダルバールへと続く石段

    ゴールカー・ダルバール入口

    ゴールカー・ダルバールは、少しかしいでいたり、壁が湾曲していたりする部分もある。2015年の地震による被害だ。現在は修復作業が進行していて、建物内部を見学することは出来なくなっている。

    ゴールカー・ダルバール

    ひどく崩壊している部分もあった。

    先の大地震の震源地はここからすぐ近いところであったのだが、その割には町の様子からは被害の影響はほとんど見当たらない。

    町中では、小さな寺をいくつか見物。そうこうしているうちに、午後4時を回ると、たいていの商店が扉を閉じる。どうやらこのあたりの「定時」は午後4時らしい。下のほうにあるバスの発着場では、もう少し遅くまで開いているのだろうか。最後のバスで乗り会わせた若い男性が言うには、午後3時までは、カトマンズに直行するバスが出ているとのことだ。

    午後4時を回るとほとんどの商店が閉まってしまう。

    本日、夕食をしているとスペイン人男女ふたりずつのグループが食堂に入ってきて、少し話をしたのだが、スペインからの旅行者たちは感じの良い人たちが多い。彼らはバルセロナから来たとのこと。

    昔は、旅行中のスペイン人といえば、英語がほとんどわからないひとが多かったように思うのだが、現在はそうでもないように感じる。とりわけ若い人たちは流暢な英語を話す人が少なくない。英語、英会話は、かつてよりも更に広く普及していると言えるのかもしれない。

  • バンディープル

    バンディープル

    山の斜面にある小さな町。古い家並みがよく残っており、中世の雰囲気を今に伝えている。陸上交易時代の宿場町で、バクタプルから移住したネワーリーの人々の末裔が暮らしているという。古い町並みは、時代が下ってから建設された国道のルートから外れたがゆえに残ったとのこと。郊外にはノートルダム修道会の学校があり、長年、日本人シスターが教えているそうだ。

    中国の河北省鄭州から来ている馬興という女性としばらく話をした。彼女は、ごく最近までカトマンズで活動している中国系のNGOで仕事をしていたとのことで、来月、中国に戻るとのこと。昨日サファリであった中国人女性もそうであったが、最近の若い世代で個人旅行をしている人は快活で、とても感じの良い人が多い。

    マーケットで夜の眺めを撮影してしたら、ドゥムレーからのバスで一緒だったスペインのマドリードから来た夫妻、アルベルトとマリアを見つけたので一緒に夕食。旅行先では、このようにいろんな国から来た人たちと食事したりするのが楽しい。

    バンディープルでの宿泊先は、伝統的な家屋がそのまま宿になっており、オーナー家族の歴史が感じられるようなたたずまい。煉瓦作りの古い家屋で、外側はちょっとコロニアル風〈これを撮影するのを失念してしまった・・・〉、中は典型的なネワール式。ここに限ったことではないのだが、ある一定の時期に建設されたと思われる建物で、洋館風のファサードを持つもの見かけることが多いが、そういうスタイルが流行した時期があったのだろう。

    レンガ剥き出しの壁で、正直なところ快適ではない。

    町中はきれいに掃き清められており、ゴミひとつない。調和のとれた古い建物の町並みとあいまって、まるでスイスにでも来ているかのような感じだ。

  • チトワン国立公園1

    チトワン国立公園1

    ジャナクプルから早朝のバスで出発。カトマンズ行きの便だが、ナーラーヤンガルを経由する迂回ルート。国境と並行して平原部を走り、いくつかの河を超えるが、いずれもこの時期には水がほとんど流れていない。雨季には、広い川床となっている部分の端いっぱいまで水が来るらしいことは、そうした流れの跡から見て取ることができる。

    午前11時ごろ、少し早めのランチ休憩を取ったダーバーのあたりからは丘陵地となり、その背後に山脈が見える。

    ランチ休憩先

    サウラハーの少し手前にあるラトナナガルでバスを下車してミニバスに乗り換えるが、すでに通路まで満員であるうえに、天井が私の背よりも低いので、大変窮屈な姿勢となる。

    あとひと息でサウラハーの町に着く。

    幸い、最終目的地のサウラハーはここから15分程度。あまり広がりのない町だが、かなり良さそうなホテル、ちょっとアップマーケットなレストラン、両替屋やATMもある。さすが世界的に良く知られた国立公園訪問のベースとなる場所だけのことはある。

    このあたりではハチミツが特産とのことだが、本日の宿泊先では、部屋すぐ隣の建物の窓辺に生きたサンプルが見られるという、これまた幸運なロケーションだ。蜂が『クマのプーさん』に出て来そうな見事な巣を築いており、忙しく働いている様子を眺めることが出来る。

    翌日朝のジャングルウォークと午後のジープサファリを予約すると、食事以外にはすることがない町だが、さすがに国内外から大勢の観光客が訪れるところだけあって、いろいろ美味しいものには事欠かない。昼から夕方近くにかけて、数軒ハシゴして食べ歩いてみた。

    米を潰したカジャのセット
    左上はタースという水牛の焼肉

    水牛のビリヤーニー

    〈続く〉

  • コイル式電熱ヒーター

    コイル式電熱ヒーター

    昔、バックパッカーだったころ、これで毎日お湯(ペットボトルの水を買うお金なかった)沸かしてから水筒に入れたり、朝食用にゆで卵やインスタントラーメンを作ったりするなど、旅行中の必需品だった。タイ製のものはしっかりした作りで長持ちしたのだが、インド製はすぐにコードが断線してダメになった。壊れても、すぐに代わりのヒーターが街中で手軽な値段で入手出来るのは便利で良かった。ときどき感電して痛い目に遭うこともないではなかったが。
    あれからずいぶん長い歳月が過ぎたが、この商品はまったく進化することなく、昔のまんまであることが可笑しいような、嬉しいような・・・。

  • Meggi Restaurant

    Meggi Restaurant

    フリークストリートのMeggi Restaurantは、ずいぶん昔とから営業している。もしかすると、このエリアに70年代初頭、伝説のEden Hashish Centreがあった頃から営業していたのかもしれない。
    私はヒッピーの時代は知らないし、当時の雰囲気はフリークストリートのどこにも残っていないであろうことから、往時の様子は想像も出来ないが、ここで自由を謳歌していた当時の西洋の若者だった人が、青春時代を懐かしんで訪れたりすることもあるのかもしれない。