
YMCAに限ったことではないのだが、インドの建物で消火器が置かれている場合、大変クラシックな外見のものであることが多い。中に入っている消化液は現代的なものなのか、それともこれまたクラシックなものであろうか?


YMCAに限ったことではないのだが、インドの建物で消火器が置かれている場合、大変クラシックな外見のものであることが多い。中に入っている消化液は現代的なものなのか、それともこれまたクラシックなものであろうか?

あるホテルにて、宿代に込みの朝食を摂るため階下へ。トースト、オムレツを食べてからチャーイを2回おかわり。そこに居たのは15分程度だっただろうか。
部屋に戻ると、すでにベッドメイクがしてある。なんという早業!どこもかしこもキレイにしてある。こういう手際の良さは気持ちが良い。
外出前にハミガキをと思い、カバン置きに目をやると・・・。
ない!!!
貴重品は入っていないが、デジカメ充電器、USBコード、インド式の三叉ソケット、着替えなどの必需品が入っている。これまた何たる早業か!実に困った。
あ、スペアメガネも入っているし、上着類もその中であった。これは大変!
とりあえずレセプションに言おうと部屋の外に出ると、目に入ったのはドアに付いている部屋番号。
「206」

「あれ?」と思い、手元にあるカギに付いている金属プレートをあらためると「306」とある。異なる階の同じ位置の部屋なので作りが同一なのだ。

どうやらカギそのものが共通らしい。すべての部屋がそうなのかどうかは知らないが。管理上は楽に違いないが、大変よろしくない。宿泊の人たちみんながマスターキーを持ち歩いているようなものだ。
206号室は幸い空室だったが、誰か宿泊している部屋に誤って入室、ちょうど本人が帰ってきて鉢合わせになったら大いに困るところであった。
まあ、こういうのは初めてではない。
インドのどこかで、部屋でテレビを観ていたら、ドアがガチャガチャと鳴って開き、男が「誰だ、アンタ?」と目を見張り、こちらも「そういうアンタこそ誰だ?」とのけ反る、なんてことはあった。
とってもビックリしたのだが、306号室に戻ってみると、荷物はちゃんとあったので、これで良しとしておこう。






1902竣工のコロニアル建築、カルカッタYMCAの中にバドミントンコートがある。宿泊したことがあるならば、ファーストフロア(日本式に言えば2階)宿泊のレセプションの背後にあることに気が付いた人は少なくないだろう。
コートは古くからあるものではなく、近年になってしつらえたものだが、こうした古い建物の中にスポーツ施設が入っていることに「え?」「まさか!」といった意外感があって面白い。
私が見物したときには腹の出たオッサンたちがプレーしていたが、風貌にはまったくそぐわない激しい熱戦をくりひろげていた。若いころからやっているそうだ。まさに「継続はチカラなり」である。



【グレート・イースタン・ホテル】
カルカッタに現存する「ヘリテージ・ホテル」として大変有名なもののひとつに、1840年にオープンしたグレート・イースタン。ホテルがある。開館当時は欧州人専用の高級ホテルであり、シンガポールのラッフルズ、ラングーンのストランド、サイゴンのマジェスティックと同じような立ち位置であった。若き日のエリザベス女王が独立まもないインドを訪問した際にレセプションが開かれたことでも知られている。





1970年代には、グレート・イースタンは州政府に接収され、州政府関係企業のマネジメント下に置かれた。それに先立ち、銀行などの多くが国有化されたことに代表される社会主義路線を邁進していた(当時はそれがトレンドだった)当時のインドだが、この時期の西ベンガルでは共産主義への期待が高まり、共産党政権が成立して2011年まで途切れることなく継続した。
そんなグレート・イースタンだが2005年に閉鎖されるまでは、なんと1,500〜1,800Rs程度で宿泊できるロワーミドルレンジ(当時の物価)の宿に成り下がっていた。先述のエリザベス女王のレセプション以外にも、国賓(ニキタ・フルシチョフ他)が宿泊したことで知られる高級ホテルが、そこまで落ちぶれながらも運営が継続的していたという例を私は他に知らない。グレート・イースタンはBBDバーグにあり、閉館前にお茶を飲みに訪れたことがある。見事な建物とその堕落ぶり、スタッフの着ている制服も汚れてヨレヨレなことに、没落貴族的なムードを感じた。
2005年に閉館というのは、ホテルを所有していた州政府企業はかなり前から売却を画策していたものの、なかなか買い手がつかなかったことに加えて、労働組合との争議(新聞のウェブサイトでこの関係の記事を幾度か目にした)もあり難航していたのが、このときようやく決着したことによる。
買収したラリットグループは、全館大改修を実施し、再びオープンしたのは2013年。
表通りに面したファサードの部分は今なお工事中だが、営業している背後の部分を見ると、改修というより、新築したと言ったほうが適切なようだ。


ヘリテージ・ホテルとは、オリジナルの姿が大切に保存されていてこそのもの。「同じ場所にあり同じ名前で運営している」だけで、そう名乗るのはおこがましい。莫大な資本を投下しても本当の伝統は買えない。グレート・イースタン・ホテルは地上から永遠に姿を消し、今そこにあるのは「グレート・イースタン」を名乗る豪華な「別モノ」だ。私はこれをヘリテージ・ホテルとは呼びたくない。

デリーの空港からタクシーを利用すると、いつもといっても良いほど、態度や感じの悪い運転手が多い。それだからといって、何か問題が起きたことはないが、とりわけ夜の時間帯に女性がひとりで利用することに不安を覚えるのは無理もないだろう。実際、空港からのタクシーで乱暴されたり、最悪の場合、殺害されたりというような事件もあった。
今年1月10日からWOMEN WITH WHEELSというサービスが始まったとのとこと。SAKHA CONSULTING WINGSとAZAD FOUNDATIONによる取り組みだ。
現在までのところデリー、ジャイプル、コールカーター、インドールで操業しており、4時間あるいは8時間という単位でチャーターしての利用もできるようだ。
利用された方があれば、ぜひ感想をお聞きしたいと思う。ちなみに私は男性なので、この「女性専用サービス」は女性同伴でないと利用できないため、なかなか縁がない。
Delhi airport has an all-women cab service now (The Indian EXPRESS)

【カルカッタのYMCA】
1847年に発足したカルカッタのYMCA。「セポイの反乱(1857年)」が起きる10年前からあるわけだ。現在、ホステルとして利用されているこの建物は20世紀初頭の1902年に完成している。当時は在住の英国人をはじめとする欧州人たちの利用が主たるものであったのかもしれないが、基本的にキリスト教のバックグラウンドを有する人たちの集会施設及びホステルであることは今も同じだ。


居室も廊下も階段も、目にするものすべてが重厚な「本物」であり、この建物の設計・建造が進んだ19世紀末ムードが香り、ちょっと「お化けが出そう」なムードがある。インドでは今でも窓の扉が手作りであるのは珍しくもないが、窓外の鎧戸まで手作りというはなかなか貴重。



しかも後世になってから宿に転用されたとか、どこかに買収されてとかではなく、150年前に落成してから一貫して、YMCAとして機能している施設である。電機系統が附設されたり、wifiが使えるようになっていることを除けば、竣工当時を容易に想像できる貴重品な空間である。












宿代は朝食込だが、それを食べるための部屋だけはまるで星付きホテルのような豪華さがある。ここは会員たちの会議室としても利用されているらしい。


実はここも一時期OYOに加入していたが4ヶ月くらい前に脱退したとのこと。
「OYOの人たちは泥棒だよ、泥棒!」とはマネージャー氏の談。
OYOに関するひどい話はよく耳にする。


コールカーターのYMCAで、上の階に泊まっているアメリカ人が外から帰ってきた。
インドは初めてのようで、「いやーもう暑くて暑くてたまんないねー!」と言う。
今の時期、そんなに気温高いかなぁ?
『お兄さん、アラスカから?』
「いや、気候じゃなくてね・・・。」
彼曰く、「The heat of the people」が凄いのだと。
そうか、インド人が暑苦しいと思う気持ちならば分かるなぁ。
(翌日わかったのだが、このアメリカ人はコールカーターがルーツの人であった。インドには親族訪問のためやってきたとのこと。)



革命揺籃の地カルカッタで、進歩的知識人や革命を志向する若者たちが集まったインディアンコーヒーハウスは、カレッジストリートのプレジデンシー・カレッジ向かいにある。
革命家とテロリストの違いは本質的にはない。謀議を企て実行して逃亡、潜伏するまで、やることは同じで思いも同じだ。後世の人たちが勝手にラベルを貼り付けて、英雄と祀り上げられたり、悪漢として罵られたりする。
中村屋のボースこと、ラース・ビハーリー・ボースも、日本亡命前には当然ここでコーヒー片手に同志たちと議論を交わしたことはあったはず。
そんなことはさておき、こういう古いカフェの英国式軽食はすこぶる旨い。
革命家もテロリストも、やはりおいしいものには目がなかったのだろう。画像は注文したコーヒー、フィッシュフライとマトンオムレツ。



もちろんここに出入りしたのは革命家ばかりというわけではなく、サタジット・レイやアマルティヤ・セーンなどに代表されるカルカッタの芸術家や知識人なども多数贔屓にしていた。
コルカタメトロの「MGロード駅」から徒歩5分程度。





沿線の混雑ぶりとコロニアル建築の量から最も眺めが面白いはずのBDDバーグの市電デポーが廃止となり、ここを起点としていた路線はすべて廃線となったのは残念だが、それでもまだトラムのルートが今もいくつか残っているのはコールカーターの良いところ。




エスプラネードのデポーからシャーム・バーザール行きに乗車してみた。レーニン・サラニーとニルマル・チャンドラー・ストリートの交差点まではガリヤーハート行きと同じルートだが、ここから先はガリヤーハート行きはここを右折し、シャーム・バーザール行きは左折となる。例の鉄棒持ったCTC(カルカッタ路面電車公社)制服の職員がレールをムギュッと押してポイント切り替えをするのがこの地点だ。
左折すると、市電は終点まで直進していく。途中、道の両側に書籍の露店がひしめき合うカレッジ・ストリートでプレジデンシー・カレッジを横目に見て、さらにまっすぐ進んでいくと、やがてシャーム・バーザールの市電デポーへと至る。この路線も左右にコロニアルな建物や古くからある住宅、由緒ありそうな教会などが建ち並び、なかなか情緒ある市電ライドを楽しむことができる。














またカレッジ・ストリートとM.G. Roadの交差点で下車すると、M.G. Road上を走るハウラーデポー行きの市内電車をつかまえることができる。市内電車で移動できる先は、バスに較べると限られるのだが、独自の味わいがあるのは、やはりトラムといえども鉄の起動上を走る電車であるがゆえのことだろうか。







始発駅から終着駅まで。(エスプラネードからガリヤーハートまで)路面電車堪能。運転席真後ろの席を得られたのが良かった。この位置の席のためにエスプラネードの始発まで行ったのだ。終点まで運転手のアクションをフォローすることができる。

交差点での直角カーブにもシビレる。これまで気付かなかったが、複数の路線が交わる地点では、鉄棒持ったCTC(カルカッタ路面電車公社)制服の職員がレールをムギュッと押してポイント切り替えをやっている。

まあ、それだけ専門でやってるのでヒマなように思うが、暑くても寒くても、はてまた大雨の日も、それだけのために立って待つ(作業は3秒)のだから大変だ。
最近、エアコン車両も導入されたとはいえ、やはりオリジナルバージョンの味わいが素晴らしい。夕方はまた格別のムードがある。電車は乗ることが自体がエンターテイメント。
バスは混んでいるのに、やはり路面電車はガラガラ。ウゥゥーという独特なモーター音と、チンチンという警報音。路面の揺れも心地よい。
「チンチン電車」という愛称の元となった特有の音は、運転手の足許のペダルを踏むと鳴ることによって鳴る。

終点のガリヤーハートのデポーに到着。そのまま折り返そうかとも思ったが、もったいないのでタクシーで少し先にあるダクシナーパンという工芸品/等のモールに行くことにした。
地元手工芸品やテキスタイルの店が入っているのだが、センスの良い伝統衣装やクルターなどを多数目にすることができる。
インドのウィークエンドマガジンで取り上げられていたDolly’s Tea Shopに行ってみた。カルカッタ市内を南下したところにあるダクシナーパンというショッピングコンプレックスの入っている。魚のフライとレモンティー(レモンを絞るだけでなく、レモンピールエキスが入っているようだ)どちらも美味しかった。
その名のとおり、ドリーという名の女性が始めた店で、近ごろよくあるインド版スタバみたいなチェーンよりも高いけど、ゆとりのある人たちの間で人気だという品の良い店だ。「ドリー」という名前に、グラマラスでセクシーな女性を想像していたが、いたのはガタイが良くて押し出しの強いダミ声のオバハンだった。
美味しい紅茶を楽しんでいると、「茶葉はいらんか?」「小袋もあるで」「どれにする、あ?」と、かなりうるさいので早々に退散することになった。
ガリヤーハートのトラムのデポーまで出てから、再びトラムに乗車。行きと帰りでは方向は逆だし、日没後は目にする眺めの印象も異なる。





始発から終点まで乗っても7Rs。往復14Rsで大変楽しめる。車内は趣があるし、バスよりもかなり速度が遅いためか、車内は比較的空いているのも良い。

サダルストリート界隈にあるミルザー・ガーリブ・ストリート(旧称フリースクール・ストリート)にあるアルメニア人学校。
「Armenian College」とあるが、大学ではなく1年生から10年生までの子供たちが通う学校だ。
インドと日本では学校制度が異なり、これに関することは割愛するが、日本で言えば小学校1年生から高校1年生に当たる学齢の児童生徒たちが通う。
「創立1821年」と記されているように、非常に歴史のある学校だが、これは英領期の旧帝都カルカッタにおけるアルメニア人のプレゼンスを物語るひとつの証とも言える。
もともとは現在のハウラー・ブリッジに近いバラー・バーザール地区にあるアルメニア教会近くにあったが、1884年に現在の場所に移転している。
サダルストリート界隈は、19世紀末以降からユダヤ人とアルメニア人が多い地域として知られており、この地域にあるフェアーローン・ホテルはアルメニア人家族が買い取った屋敷である。(2018年にオベロイ資本に売却)
インド独立後、ユダヤ人もアルメニア人も多くはインド国外に流出していることから、往時の繁栄ぶりを想像するのは容易ではない。

自転車ベースのサイクルリクシャーやその発展形であるスクーター(中にはバイクも)がベースのオートリクシャーは伝播した地域で相当広いバリエーションがある。
それに較べると、かつて香港やマレー半島のなどにも広がった人力車については、江戸東京博物館で展示されているもの、復元されて鎌倉などの観光地で走っているものと、ほとんど形は変わらない。
全体のフォルム、棹部分の長さ、車輪の径、座席や天幕の形状いずれをとっても、日本で開発されたオリジナルの人力車の完成度が高かったためかもしれない。(「だから日本は凄い」なんて言うつもりはない。最初に横浜で人夫を雇ってこの商売を始めさせたのは華人の商売人だったという説もある。)
人力車の営業が広まった地域の中で、ただひとつ今でも現役で走っているコールカーター。ずいぶん昔から新規登録はなされず、「遠からず消える」と聞いていたのに、21世紀に入ってもこれが続いてしまったどころか、この世紀もすでに五分の一を終えようとしているので、まだしばらくは街の景色の一部であり続けるのだろう。