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  • Kasab: The Face of 26/11

    Kasab: The Face of 26/11

    Kasab : The face of 26/11

    パーキスターンのパンジャーブ州出身のアジマル・カサーブといえば、同国の悪名高き過激派組織ラシュカレ・トイバにより、2008年11月28日にムンバイーで発生した大規模なテロ事件の実行犯の中で警察に拘束された唯一のメンバーとして知られている。

    彼の生い立ち、過激派との接触と組織への加入、武闘訓練、ムンバイーへの潜入、彼が担ったムンバイーCST駅での銃乱射とそれに続く附近の病院での銃撃、市内での逃走と逮捕、警察による尋問と裁判の過程等々がつぶさに描写されたノンフィクション作品が、この『Kasab: The Face of 26/11』と題する一冊である。著者はムンバイーを拠点に活動するインド人ジャーナリスト、ロメル・ロドリゲス。

    ファリドコートという村で生まれ、10代で家を出てからラーホールでケータリング・サービスの職場で働いて自活する、どこにでもいる普通の少年であったカサーブだが、単調な日々に飽き足らず、知り合った仲間たちと「もっと割のいい仕事を」と窃盗を繰り返すようになっていった。

    反社会的な生活に浸かったカサーブは、やがて武器に興味を抱くようになり、銃器類の訓練を受けられるからという理由で過激派組織と接触するようになっていく。そうした反抗期の只中にあるような年代を巧みに扱うことに長けた組織の中で、各種のトレーニングを積んだテロリストとして養成されていく。カサーブ本人は、まさに自分の居場所を見つけたと認識していたのだろう。

    訓練地から訓練地への移動の間、あるいは休暇で帰省する際などに逃亡して姿を消すメンバーも少なくなかったようだ。それでもカサーブは脱落することなく組織の命令に従っていった。

    やがて組織は、他の選抜されたメンバーとともに、カサーブをスィンド州に送り、洋上での訓練とともに『ミッション』遂行のための最終訓練を施して、海路ムンバイーへと送り出し、中途でハイジャックしたインドの漁船、クベール号でムンバイーへの上陸を果たす。

    犯行グループのリーダーであったイスマイルとともにタクシーでムンバイーCST駅に乗りつけるまでの間、彼は車内に時限爆弾を仕掛ける。「釣りは要らない」と手渡された大きな額面の紙幣に喜んだ運転手は、駅の駐車場から発車して市内を走行する間に車体が爆破して帰らぬ人となる。

    タージマハル・ホテル、オベロイホテル、ユダヤ教関係施設のナリーマン・ハウスに乗りつけた他の犯行メンバーたちも、利用したタクシーに同様の手口で爆弾を仕掛けて、事件の「同時多発性」を高めることにより、警察の対応の攪乱を図っていたようだ。

    カサーブとイスマイルの犯行目標となったムンバイーCST駅や近隣の病院にしても、この事件における他の実行犯の攻撃目標となった高級ホテル等にしても、現場で誰彼構わず銃弾の雨を降らせて多大な死傷者を出す残忍極まりないものであった。

    この作品では、カサーブの家族や交友関係、パーキスターンの過激派組織内の人間模様、彼らの犯行の犠牲となった市民や彼らと果敢に対峙して殉職したインドの治安組織の職員等々の人々の生活背景にも踏み込み、誰もが忘れもしない『26 Nov.』とそこに至るまでの道のりの多角的な検証がなされている。

    こうした大規模なテロ事件の実行犯が生け捕りにされること自体が異例であったが、まさにそれがゆえに明らかになった部分もまた多い。

    あまりに大きな事件を引き起こした犯人たちのひとりであるカサーブに同情の余地はまったくないが、裁かれるべきは過激派組織のツールのひとつに過ぎないカサーブ自身だけではなく、その目的のために彼とその仲間たちを訓練し、犯行を逐一指導してきた黒幕の面々でもあるのだが、そこにはインドの司法は及ばない。

    こうした集団の存在を許し、排除どころか規制すらできないパーキスターン政府の機能不全ぶりには、怒りとともに限りない恐怖感を抱かずにはいられない。隣国にそうした行政・統治がある限り、インド側の市民が隣国に信頼を置くことはあり得ず、インドの情報機関もまた、こうした集団の所在や訓練地などについて精度の高い確信を抱きつつも、自国の権限が及ばないところにあるだけに、手出しが出来ないことをもどかしく思うのも無理はない。

    分離独立以来続くカシミール問題はともかく、パーキスターンにテロの実行集団を抱える過激派組織があり、これらの活動を同国の政府が野放しにしている限り、印パ間での善隣外交などあり得るはずもない。

     

    書名:Kasab: The Face of 26/11

    著者:Rommel Rodrigues

    出版社:Penguin Books

    発行年:2010年

    ISBN-10: 0143415476

    ISBN-13: 978-0143415473

     

  • ANA 成田・デリー、成田・ヤンゴン就航

    10月28日(日)から成田・デリー便(毎日)、それに先駆けて10月15日(月)から成田・ヤンゴン便(月・水・土)が就航する。どちらも直行便だ。

    デリーもヤンゴンも、かつては成田からANAがフライトを飛ばしていたのだが、採算が取れずに撤退した過去があり、再度就航ということになる。

    前者はともかく、後者については現在ブームのミャンマーだけに、目先の利益はともかく「この機を逃すな!」といった具合に、将来性を見越しての先行投資ということになるだろう。

    近年、非常にモダンなターミナルビルが完成したものの、規模は小さく滑走路も大型機の発着には長さが不足と思われるヤンゴンの国際空港だけに、現在の「ブーム」が今後も続くとすれば、遠からずパンクする事態になるかもしれない。

    もっとも、政治的に先行きが不透明な要素が多い国であるだけに、「ブームが続く」ということこそが肝心であることは言うまでもない。

  • Namaste Bollywood #33とJ-one 第3号

    Namaste Bollywood #33とJ-one 第3号

    今回で第33号となるNamaste Bollywood。特集記事『ボリウッドのBはビューティーの』と題して、ミスコン出身女優たちが取り上げられている。

    さすがに美の大国だけあり、神々しいまでに麗しい女優たちが多いボリウッドの世界だが、その中でミス・ワールド、ミス・ユニヴァースといったトップレベルのミスコンでの受冠経験を持つ女優は多い。

    だがミスコンの肩書は、映画界入りの際の看板にはなるものの、ただ美しいだけで成功できるわけではない。演技者しての高い技量、内面的からにじみ出る魅力、そしてカリスマ性といった要素に加えて、苛烈な競争の映画界で巧みに生き抜く「営業力」や「政治力(のようなもの)」を備えてこそ、スターとして輝くことができるのだ。

    嬉しいニュースも掲載されている。Ra. Oneの日本公開のお知らせだ。ボリウッド好きの人たち以外の間での関心度は今のところ無に等しいかもしれないが、公開が始まってから口コミその他で注目度が急上昇しそうな気がする。夏休みの映画の最大の目玉のひとつとなるのではないかと予想している。

    今号の「ボリウッド千夜一夜」は怪談仕立て。内容についてここで触れるわけにはいかないが、ぜひとも本誌を手に取って楽しんでいただきたい。

    社会問題をテーマにしたANTAR DWANDのDVDについても触れられている。TIRAKITAにてレンタル・サービスが行われているとのことで、こちらもぜひ利用したい。

    Namaste Bollywoodと同じくスタジオ・サードアイによるJ-one第3号もすでに発行されている。「ライフワーク企画 福島と生きる」「相馬高校放送局 今伝えたいこと」「劣化ウラン弾と内部被曝」等々、見出しを眺めただけでも中身の濃い内容が目白押しであることがうかがえるだろう。

    大飯原発の再稼働をめぐる政府のスタンスを見ていると、あたかも福島第一原発の事故後しばらく続いた「脱原発」の方向にあるかのように見えた一連の対応は、あくまでも世論を宥めるためのパフォーマンスに過ぎなかったのかと、忸怩たる思いを抱かずにはいられない。世界を震撼させる大事故であったにもかかわらず、そこから有益な教訓を得て変革を図ることなく、旧態に戻そうとするこんな政府に、この国の将来を託してよいのだろうか。

    変化を求める民心を惹きつけて政権交代を実現させた民主党だが、肝心の民意は彼らに届かない。党の迷走ぶりと合わせて、今から思えば、あれは一体何のための総選挙だったのかと思う。

  • IRCTC (再アップデート)

    またインド国鉄時刻表改定の時期の7月となった。先月末の時点で、同鉄道のウェブサイトにアップロードされているTrains At A GlanceのPDF版は、2012年7月以降(2013年6月末まで)の内容に改められた。

    ひところ、インド国鉄のウェブ予約を扱うIRCTCのサイトでは、インド国外発行のクレジットカードによる支払いができず不便であったが、cleartripという助け舟的な旅行予約サイトの存在があることは、1年半ほど前にIRCTC (アップデート)と題して取り上げてみた。

    だがしばらく前から、事前にIRCTCのサイトで手続きして、インドで入手した携帯電話に送信される認証パスワードを入力しないと購入できなくなっている。厄介なのは、インドの携帯電話でないとこれを受け取ることができないため、もともとそうしたものを所持していないとか、持っているけれどもインド国外にいるという場合だ。

    そうしたケースの場合は、IRCTCにその旨の電子メールを送れば、メール宛に認証パスワードを送信してくれることになっているのだが、パスポートの写しを送信しなくてはならないし、返信が来るまで1日か2日程度かかるので、「ああ面倒!」と思う人も少なくないだろう。

    そのあたりについては、『インド鉄道利用法:予約から乗車まで』というウェブサイトに詳しく書かれているのでご参照願いたい。

    予約内容をプリントアウトすることなく、携帯電話やiPad等に送信された予約内容をそのまチケットとして利用できるという措置が取られるようになっている一方で、予約手続き自体は利便性の向上と逆行しているのがもどかしいところだ。

    目的は、クレジットカードの不正利用、そして乗客に対するセキュリティ対策の一環といったところに尽きるのだが、運用されるシステム自体はいかにも「お役所的」である。つまり何か対策が取られるべき問題があるとして、それに対していかに効果的に実施するかという方向ではなく、「これを実行しました!」「こういう対策を取りました!」といった具合に、場当たり的な『私たち、仕事してます』というアリバイ作りに終始しているように思われる。

    クレジットカードの不正使用はともかく、仮に犯罪をもくろむ人物が狙いをつけた列車のチケットを入手しようとするならば、駅の窓口や旅行代理店などいくらでもある。ちょうど、鉄道駅のセキュリティ対策と同じようなものだ。

    大きな主要駅のエントランスから入場する乗客たちに大げさなセキュリティチェックを施していても、実は沿道からプラットフォーム脇に入ることができるようになっていたり、駅構内にテナントとして入っている食堂等を経由したりすれば、保安要員の検査を受けることなくプラットフォームに入ることができてしまうことが往々にしてある。また中途駅ではそのような措置さえないところが少なくない。

    ペーパーレスのチケットが有効となっているならば、いっそのことIRCTCがAppleのiPhone / iPad用あるいはGoogleのアンドロイドの予約用アプリケーションでも開発して、それらを経由して予約・支払いができるようにでもしてくれたら、販売側も管理は楽になるだろうし、利用者側ともによほど助かるのだが。

    今のところ、IRCTC用のそうしたスマートフォンやタブレットPCからアクセスできるIRCTCのモバイル用サイトを除けば、アプリケーション自体でインド国鉄のスケジュールや路線のチェック、PNRステイタスの確認等が出来るものはいくつか存在しているのだが、直接予約をできるようにはなっていない。

    今後の進展に期待したいところだ。

     

  • ヴィラート・アンコール・ワット・ラーム

    だいぶ前のことだが、こんな報道があった。

    India starts Angkor Wat replica in Bihar (BBC NEWS INDIA)

    ビハール州のヴァイシャリー地区のハジプル近くに、カンボジアのアンコール・ワットのレプリカが建造されるというプロジェクトだ。

    10年がかりで完成されるというその建物は、アンコール・ワットを模したヒンドゥー寺院であり、カンボジアにある本物は元々シヴァ神の寺院として建立されたものが後に仏教寺院へと変遷していったのに対して、こちらはラーマ神を祀る寺となるとのことだ。その名もヴィラート・アンコール・ワット・ラーム。

    費用2千万米ドル相当の資金を注いで建築、本家アンコール・ワットを凌ぎ、世界最大規模のヒンドゥー寺院が出来上がるとされている。もちろんビハール州の建設現場における最大級の投資額ともなることだろう。

    だが気になるのは、その費用の出処。民間の資金によるものとのことだが、その大半はビハール州外からのものと見るのが妥当だろう。

    80年代末から90年代前半にかけて、ラーマの生誕地であったとされるところに立地していたムガル朝時代に建てられたバーブリー・マスジッドの存在とラーマ寺院の再建運動(結局、再建運動にかかわる活動家たちにより1992年に破壊されるが、その後寺院建立には至らず)により、コミュナル暴動の嵐が吹き荒れた隣州のウッタル・プラデーシュとは対照的に、政治面では宗教色が薄かったビハールに地殻変動をもたらそうという動きが水面下にあるように思われる。

    1990年代から今世紀に入るあたりまで、上げ潮の勢いがあったサフラン勢力の伸びが頭打ちになって久しいが、人口1億人を超える人口稠密なビハール州は、政治的にも治安面でも安定しているとは言い難い。

    それでも近年はインドという国自体の経済成長に引っ張られるように、あるいは長らく停滞と混乱をもたらしたラールー・プラサード・ヤーダヴ氏率いるRJD (Rashtriya Janata Dal)の時代とは打って変わり、2005年からJanata Dal党首のニティーシュ・クマールが州首相を務めて実績を上げている効果もあってか、他州を凌ぐ成長率が伝えられているビハール州だ。

    ヴィラート・アンコール・ワット・ラームの建立の背後に、新たな政治勢力の台頭の影がチラついているように感じるが、完成までの10年の歳月の間に、その姿が次第に明らかになってくるのではないだろうか。

  • ブータン ウォンディ・ゾンの大火

    非常に残念なニュースである。

    ブータン中部に位置する374年の歴史を持ち、同国の重要な寺院のひとつに数えられるウォンディ・ゾンが、6月24日午後4時ごろ発生した火事により全焼してしまった。現在までのところ出火の原因は不明であるとのこと。

    この火事に関する記事と動画は、BBS (Bhutan Broadcasting Service)がウェブサイトにて閲覧することができる。

    Wangduephodrang Dzong completely gutted (BBS)

     

  • チャウンター・ビーチ3

    チャウンター・ビーチ3

    やがて陽が傾いて夕暮れ時になった。時間の経過とともに刻々と様子を変えていく空。一瞬として天空のすべての色合いが同じ時間帯はない。そうした中、水とたわむれる女性たちのシルエット、家族連れの姿、浜辺をそぞろ歩く人たちの様子がとても絵になる。みんなこのひとときを心ゆくまで楽しんでいる。自転車から降りて、そうした人々を眺めながらビールを傾ける私にとっても至福のひとときだ。

    ああ、時間よ、止まれ!

     

    <完>

     

  • チャウンター・ビーチ2

    チャウンター・ビーチ2

    ビーチ到着は午後1時。疲れて横になりたかったが、とりあえず昼食を取る。よく冷えたビールを飲み干して、ホッと一息。

    ボリューム感たっぷり!
    ビールをグイッと飲み干すと生き返った気分
    さきほどまで足元にジャレついていたネコが、気が付くと寝ていた。癒されます。

    ビーチに出てみると、どこまでも広がるベンガル湾の大海原に解放感!貸自転車屋があったので、ビーチの端から端まで走ってみることにした。想像していたよりも海岸で商う人々の数は多く、砂浜の裏には宿やレストランが散在しているが、まだまだのどかな雰囲気だ。訪れている人々の多くはミャンマーの人たち。ヤンゴンからハネムーンでやってきたという幸せそうな新婚カップルにも出会った。

    ベンガル湾を望む
    ミャンマーを代表するビーチのひとつとはいえ、まだ混雑している感じはない。

    砂浜の南端には、泳いでも渡れそうなほど近いところに島がある。うっそうと茂る深い森になっているが、ここもやがてはリゾートとして開発されてしまうのではないかと思う。このあたりは漁村だが、島に渡るボートを貸していたり、ここからモーターボートで観光客を案内したりする者もいる。

    漁村
    几帳面に並べてある

    彼らは漁民なのか、それとも外から来た人たちなのか傍目にはよくわからないが、漁村から浜に出入りしていること、海によく慣れているらしい様子からも、漁村の住民であると考えるのが妥当だろう。浜では魚を干しているが、ここうした風景もやがては過去のものとなってしまうかもしれない。当分の間、半分は漁業、半分は観光で収入を得るという具合になるのかもしれない。

    目下、経済面でブームになっているミャンマーだけに、このビーチも今後はメジャーな観光地として、ますますいろんなものが出来てくることだろう。それについて余所者である私がとやかく言う筋合いではないし、地元の人々にとっても収入を得る機会が増えることは悪いことではないし、観光をテコに地域社会の振興を図るのは当然のことだ。

    だが都市部から大資本がここにやってきて観光開発するとなるとどうだろうか。漁村がそのまま存続すると思えない。ある人はお客の案内や世話を請け負ったり、スタッフとして雇用されたり、またある者は他所に働きに出るといった具合になるのかもしれない。全国各地から投資機会や就労先を求めて、様々な人々がやってきて、それまでここに暮らしていた住民たちとすっかり入れ替わってしまうという現象は、他国でもよくあることだ。

    地域社会と隔絶したコスモポリタンかつ無秩序な空間が出来上がることとなり、観光公害と呼ばれる様々な社会問題が出現してくることにもつながる。あと5年、10年してから再訪してみる機会があれば、まったく別のところになってしまっているのかもしれない。

    午後の陽射しが眩しい

    <続く>

     

  • チャウンター・ビーチ1

    チャウンター・ビーチ1

    マウラミャインを出た夜行バスは、午前3時少し前にヤンゴンのアウン・ミンガラー・バススタンドに到着。当然、まだ真っ暗ではあるものの、この時間帯に到着するバスは少なくないので、待ち構えていたタクシー運転手たちが集まってきて、続々降車するお客たちに声をかけている。

    ヤンゴンからそのままデルタ地帯の西側にあるチャウンター・ビーチに行くので、市内の西側を流れる河を渡った先にある、もうひとつのバスの発着場、ラインターヤー・バススタンドに向かう。途中、街灯も少なく真っ暗な無人の路上を女性が一人で歩いていたり、女性二人が自転車に乗っていたりする姿をたびたび見かける。これから朝早い仕事に向かうのか、夜遅くまで出かけていたのだろうか。ヤンゴンは、東南アジアの中では治安の良い街ということになっているが、確かにそうなのだろう。

    チャウンター・ビーチに行くバスが出発するバススタンドに着いたが、まだ午前4時前なので真っ暗である。40分ほど待っていると、私が乗るバス会社の事務所兼待合室は、中からシャッターが開けられた。従業員は中に住み込んでいるようだ。2階が住居のようになっているのだろう。事務所の床に寝ている者もある。労働環境としては劣悪だ。

    バスは午前6時発。マウラミャインからヤンゴンまで乗ってきたバスのような快適なエアコン付きの車両を期待して「寝ていく」ことを想定していたが、車内外に散見されるハングル文字からして、おそらく四半世紀くらい前に韓国で走っていたらしいノンエアコンの古いバス。座席を思いきり詰めて設置してあるため、非常に窮屈である。夜行明けにこれはちょっとしんどい。

    ビーチまでおよそ7時間。どこまでも平坦な風景を眺めつつ、涼しい風が窓から入ってくる。それはそれで気持ちが良かったのだが、陽が高くなると次第に暑くなってくる。途中でパスポートチェックが2回あり、そのたびに車掌が車内の外国人、日本人の私、四人のフランス人、イングランド人カップル一組、の旅券をあずかって、車外に降りて行く。

    街道の物売りたち

    広大な田園風景が広がるデルタ地帯をひた走る。集落には高床式住居が多い。2008年のサイクロンではひどくやられたはずであるが、さすがに4年も過ぎているので、少なくとも沿道からはその痕跡は感じられなかった。

    デルタ地帯を抜ける直前の休憩地点で、ここから他のビーチに行くというイングランド人カップルが、バイクタクシーにまたがって出て行った。彼らはやけに荷物が少なく、二人合わせてデイパックひとつ分よりも容量は少ないようだった。あれほど身軽な西洋人はこれまでほとんど見たことがない。

    休憩場所を出ると突如、道路がダートになり、そこから先は丘陵地で、簡易舗装主体のジグザグの悪路となる。斜面を上り、そして下る、そして上るといった具合の繰り返しで、ポンコツのバスが痛めつけられて悲鳴を上げているようなキシミ音がする。

    途中、橋がいくつかあった。最後のふたつは大型車両の車輪の幅に古タイヤのゴムを貼り付けて、舗装風にしてある。一方通行の橋であるため、向こうからのクルマが渡り終えるのを待ってから橋を越える。

    <続く>

  • マウラミャイン

    マウラミャイン

    先日、泰緬鉄道のミャンマー側の終着地点であったタンビュザヤのことについて書いたが、ここへはモウラミャインから日帰りした。

    モウラミャインへは、ヤンゴンから夜行バスで到着。ヤンゴンを出発したのは午後9時。「バス岐阜」と書かれた、日本の中古バスだったが、まだ新しくて快適であった。クーラーの効きも良く、運転席上部に設置されているテレビからは、午後11時くらいまでミャンマーのポップスのビデオが大音響で流れていた。

    ミャンマーで第二の人生を歩む日本の中古バス
    深夜過ぎのドライブイン。乗客のみなさんもお疲れの様子・・・。

    深夜過ぎにドライブインで休憩。空腹感ではあったものの、疲れ切っていて食事する気にはならなかった。30分ほどしてからバスは出発。しばらく寝ていたが、ハッと気が付くとどこかに停車している。クルマがガタゴトと揺れていると、心地よく眠ることができるものの、停まってしまうと目が覚めてしまうのは鉄道と同じ。適度な揺れに身を任せていると心地よいものだからだろうか。腕時計に目をやると、午前3時過ぎを指していた。

    外に出てみると、前方には同じく停まっている車両が数珠繋ぎだ。河を越えてマウラミャインに渡る橋は、夜遅くから午前4時まで閉鎖されているとのこと。現在、モッタマーという町の郊外にいるらしい。まとまった雨が降ったらしく、足元はかなり濡れている。

    午後4時過ぎに、ようやく車列が動き始めた。かなり年期の入った鋼鉄製の橋を渡ると、まもなくマウラミャインのバススタンドに着いた。まだ真っ暗だが、この時間帯に発着するバスはいくつもあるようで、いくつかの店はすでに営業している。バスで一緒だったイギリス人青年のS君と、乗り合いオートをシェアして河沿いにあるホテルを目指す。

    こんな時間帯なので、朝までの間に一泊分取られないかと思ったが、そんなことはなく良心的な宿のようである。とても空腹であったので、部屋に荷物を置いてから近所でこんな早い時間帯から開店していた華人経営の茶屋に食事に行く。コーヒーを啜りながら肉まんを二つ食べて、ようやく人心地ついた。

    ずいぶん朝早くから茶屋に集う人々

    まだ夜明けまでかなりあるのだが、店内はかなり客の入りは良かった。若い人たちはこれから仕事に出かけるのだろう。その他は近所に住む、早起きのご老人たちのようだ。古ぼけた店のたたずまいといい、お客の面々といい、ずいぶん昔の時代にタイムスリップしたかのような気分になる。ホテルの部屋に戻り、エアコンのスイッチを入れる。室内の蒸し暑い空気が次第にサラリとした心地よい冷気に変わっていくのを感じながら、しばし眠りに落ちていく。

    目が覚めると、すでに陽は上っていた。階下に降りると、フロント業務に従事する者、宿代に含まれている朝食の準備にいそしむスタッフ、清掃をしている人たちなど、インド系の顔立ちの人々が多く働いていたが、オーナーは華人であった。英語はあまり上手とはいえないが、話好きでフレンドリーな好々爺だ。

    この場所には、もともとは映画館があったのだという。「映画が好きでね、若い頃には初期の007なんかよく観にきたもんだよ。洋画ばっかり観てたなぁ」とのこと。このホテルの隣も映画館だったとのことだが、そちらは建物がそのまま残っていて、地上階部分が中華料理店になっている。スクリーンと客席があった上階は倉庫として使われているらしい。

    乗り合いのピックアップ。市内のミニバス的に走行するものもあれば、中距離バスのような役割のものもある。

    マウラミャインは、イギリスが上ビルマを平定して統合するまで、ビルマ支配の中心地としていた街だ。河沿いのストランド・ロードには、鉄道敷設前に建設された植民地都市の常として、水際に主要な役所、公共施設、教会、当時の植民地で操業していた大手企業等の立派な建物が連なっている様子を想像していたが、少々期待外れであった。

    確かに水際にいろいろ集中していたことを思わせる片鱗はあるものの、その水際が寂れている。木材が豊富な土地であるため、木造建造物が多かったため、後世にまで残りにくかったということもあるのかもしれない。また、東南アジアから南アジアにまたがるこの地域の中では、比較的後発の植民地であったがゆえに、歴史の重みや格の違いという部分もあるのだろう。

    ストランド・ロード沿いのちょっと素敵な感じの建物。現在は宿になっている。

    だが、河から見てストランド・ロードよりも一本内側にあるサウス・ボーヂョー・ロード(旧名ロワー・メイン・ロード)には、いくつかの立派なモスクがあり、イギリスによる支配とともに、西隣のインド亜大陸から移住してきた人々が栄えた様子がうかがえる。

    KALADAN MASJID

    礼拝の時間になると、どこからともなく立派なヒゲを蓄えた紳士やオニイサンたちが集まってくる。その中のひとつ、カラーダーン・マスジッドは、グジャラート系のムスリムが寄進したと伝えられるもので、ここに集う人たちの中にもグジャラートをルーツに持つ人が少なくない。訪れたときに案内してくれたモールヴィーも、やはりグジャラート移民の子孫であるとのことであった。

    SURTEE SUNNI JAMA MASJID

    植民地期に、英領あるいはその強い影響下に置かれた地域が広がるということは、自国インドと共通性の高いシステムの社会が広がるということなることから、当然の如くインド系の人々が、様々な形で海外に雄飛していくこととなった。インド西部から距離的に近い中東の湾岸地域や東アフリカ、そして東寄りの地域からは東南アジア方面に進出する人たちが多かった。

    西側のグジャラートから見て、亜大陸の反対側に面しているマウラミャインへ渡ってきたのには、それなりに合理性のある理由があったことだろう。あるいは、すでにコールカーターに進出していたクジャラート人たちの中で、更に東進した者もあったかもしれない。

    もっとも、その後1937年のインドからの分離、1948年の独立、そして1962年の軍によるクーデターと続く、当時のビルマの国粋化の動きの中で、次第に不利な立場に追い詰められていくようになった外来の人々は、大挙して父祖の国や第三国に移住していくこととなった。

    そうした人々の移民史やそれぞれの土地での生活史は、インド系の人々のエスニシティや文化を尊重しない現在のミャンマーでは、取り上げられることはないだろう。またそうした歴史はコミュニティの中で次世代へ、細々と口伝されていく程度のことであろう。

    それでも、街にある複数の大きなマスジッドは、この地で繁栄したインド系の人々の栄華を、今の人々の目に見える形で伝えている。

    MOGHUL SHIAH MASJID

     

  • 泰緬鉄道終点

    泰緬鉄道終点

    ヤンゴンから夜行バスでモウラミャインに着き、宿に荷物を置いて少々仮眠してからタンビュザヤ行きのバスに乗り込む。

    混雑していても、そこは人々のマナーの良いミャンマーなので、ガサついた感じはないのだが、窓から差し込む強い陽射しを避けようと、車内窓際の座席で日傘を広げる女性が少なくないのには閉口する。邪魔なだけではなく、危険ではないか!

    このバスは、沿道の人々の貴重な移動手段となっているため、あちこちで客を降ろしては、少し先で乗せてということをチョコチョコと繰り返しながら進むため、行きは3時間もかかってしまった。帰りは乗り合いのピックアップを利用したのだが、その半分の1時間半ほどでモウラミャインに戻ることができたのだが。

    それはともかく、モウラミャインの町に着いた。かつて泰緬鉄道で使われていたという蒸気機関車、ミャンマー側の終着駅であった場所、連合軍墓地などを見物したかったので、とりあえずバイクタクシーにそれらの場所に向かってもらうことにした。

    タイでもミャンマーでも、揃いのベストを着用した運転手たちによるバイクタクシーは各地にある(走行するバイクを見かけないヤンゴンを除く)が、ふと思ったのは、インドにおいては、ゴアのような一部の地域を除けばこうした開業が手軽で、利用者にとっても手頃な交通手段がないのかということ。とりわけ、山間部にあるヒルステーションのように、街全体が斜面にあり、道路は狭くて勾配も急であったりして、バスやオートリクシャーなどが往来できないような土地では、ずいぶん重宝される可能性がある。

    だが、よくよく考えてみるまでもなく、インドにおいては、運転手との距離が近すぎて、身体的な接触があることについては、とても抵抗感があるはずだ。もちろん公共交通機関に関する法的な規制等の関係もあることだろう。私自身、運転手とのこの距離感はどうも馴染めないし、それにタイの若いバイクタクシーの運転手のようにカッ飛ばす者に乗せてもらいたくないので、やはりミャンマーでも落ち着いた感じの中年運転手に頼むことにしている。

    町中から少し出たところに、かつて泰緬鉄道で使われていたという日本製の蒸気機関車がひっそりと置かれていた。C56型のこのタイプの機関車は泰緬鉄道に導入され、第二次大戦が終わってからも、タイ・ミャンマーそれぞれの国鉄で用いられていたという。この車両が置かれているところから、古びた単線のレールが南方向に延びているが、少し先からは茂みの中に消えていく。

    C56蒸気機関車
    おそらく泰緬鉄道のレール

    タイで走っていた機関車のうちの二両は、その後タイから日本に「帰国」し、一両は靖国神社の遊就館に展示されており、もう一両は大井川鐵道にて現役で走行している。

    タイのバンコクから北西方向、カンチャナブリーを経て、タンビュザヤに至った泰緬鉄道は、第二次世界大戦時に日本軍がその建設を決行するより以前から、当時のビルマ(現ミャンマー)を統治していたイギリス当局により、このルートの鉄道敷設の構想はあったものの、地理条件により断念されていたとされる。

    建設にあたり、日本の担当者は5年程度の歳月が必要であると見積もっていたが、日本軍はこれをわずか1年とひと月で強行した。これにより、連合軍捕虜1万6千名ならびにアジア各地から徴用された8万人を超える労働者たちが死亡することとなった。

    この鉄道建設については、デヴィッド・リーン監督による1957年公開のThe Bridge on the River Kwai(邦題:戦場にかける橋)にも描かれており、旧日本軍による苛烈な捕虜虐待と戦争犯罪の一例として、世間でよく知られているところである。

    タンビュザヤ駅

    市街地に戻り、そこから少し西に進んだところには駅舎があった。新しい枕木が置かれていたり、レール上部が光っていることからもわかるとおり、とうの昔に泰緬鉄道は廃線となっているものの、この駅自体は遺蹟化しているわけではない。モウルメインからイェー経由でダウェイに向かうルート上にあり、今でも毎日数本程度の客車や貨物車が往復しているようだ。

    ダウェイへと続く鉄路

    さらに西­方向に行くと連合軍墓地がある。広大な敷地の奥に慰霊塔では、オーストラリアの国旗が掲げられるとともに大きな花輪が捧げられていた。何かの記念日に当たるのか、セレモニーが開かれているようであった。参列している人たちの多く、といっても十数名程度だが、白人の人たちであった。おそらくオーストラリアの人たちなのだろう。リーダー格と見られる人は中年男性、その他は小さな子供を含めた家族連れであった。

    広大な連合軍墓地
    慰霊塔に掲げられたオーストラリア国旗と花輪

    ちょっと話をしてみようかと思ったが、集っている人たちも私も戦争を知らない世代ではあるものの、ここに埋葬されている人々にとって、彼らを散々苦しめた加害国の人間であるがゆえに、非常にためらわれた。結局、声をかけることなくその場を後にした。こうした場でのセレモニーであるだけに、日本人であることを非常に重荷に感じてしまう。

    数多くある墓標の中には、やはり名前がわからず記されていないものも多い。身元がわかっている人物の場合、記されている享年は多くが20代あるいは30代。またある墓標には花が供えてあった。ちょうど開かれていたセレモニーに合わせて、誰か身内の人が訪れたのかもしれない。

    花が供えられていた

    タンビュザヤから乗り合いのピックアップでモウラミャインに戻る。着いたのは午後4時。見物に夢中になったり、適当な食事処が見当たらなかったりで、昼食を抜いたり、ずいぶん遅くなってから食事したりということは多い。

    この日も、ほとんど夕食に近い時間になってしまったが、河沿いにある食堂に入ると、ヤンゴンからの夜行バスで一緒だったイギリス人青年がちょうどビールを飲んでいたので相席する。よく冷えたビールが喉に心地よい。彼と軽食をつまみながら二杯ほど飲んでから、午後8時くらいに付近にある他の場所で待ち合わせて一緒に夕食をすることになった。

    1943年の泰緬鉄道を建設に関わった旧日本軍の人々も連合軍側の人々も、やがてこういう平和な時代が訪れるとは夢にも思わなかったことだろう。すべての人々にとって不幸な戦争、国家の名のもとに敵味方に分かれて命を奪い合うような時代を繰り返すようなことは、今後決してあってはならない。そのためにも戦争の記憶を風化させてはならない、歴史を曲解させることがあってはならない、と私は常々思っている。

  • 英語で学ぶタイの大学

    ヤンゴンバスターミナルで、自分が乗るバスの出発時間まで時間潰しをしていたら、フランス人の若い女性の二人連れに会った。

    この人たちは、二日に一晩は夜行バスで移動しているとのことで、短い期間にバガン、マンダレー、カロー、インレー湖と来て、ヤンゴンに到着したところで、これから西の方角にある海岸に向かうのだという。

    ビーチで二泊した後、ヤンゴンに戻ってバンコクに飛び、さらに二日後にはラオスに向かうのだそうだ。なぜそんなに忙しい旅行をしているのかというと、バンコクに留学中で、フランスに帰省する前に、周辺国をあちこち訪問したいのだとか。

    タイに留学というからには、何かタイそのものに関することを学んでいるのかと思いきや、「経営学」だという。授業はすべて英語でなされるとのことで、主に外国人留学生(および英語で学びたいタイ人学生)の獲得を主眼に置いたコースであるようだ。そんなわけで、タイ語はほとんどできないとのことであった。

    近年、多くの国々で留学生の招致がひとつの産業として位置づけられ、様々な工夫がなされている。決して数は多くはないものの、日本でもそうした大学あるいは学部、研究科等あるが、公用語として使われているわけではない英語での授業となると、大学側には並々ならぬ苦労があるようだ。

    また学生にとっても、例えばそうした大学で学士号を取得しても、日本国内で学外の大学院に進学する場合、「やっぱり日本語が必要だった!」ということで、それまで軽んじていた日本語を、ほぼゼロから学ばなくてはならなくなったというケースも耳にする。

    留学生活は、クラスでの授業がすべてというわけではなく、そこでの生活もあり、交友関係等もあるので、英語が公用語として広く用いられている国々ならともかく、地元の生活との乖離がはなはだしい土地ではどうかな?とも感じる。

    しかしながら、本人の意欲と頑張り次第で、そこに暮らしていてこそ、地元の言葉を習得することも可能であるので、留学先としてこういう選択があってもいいと思う。「英語で学ぶタイの大学」の案内として、以下のようなウェブサイトがある。

    タイの大学へ行こう!英語で学べるタイの大学

    とりわけ今後の人生を、タイに関わりを持っていきたいと考えている方には、有力な選択肢のひとつかもしれない。