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  • マンドヴィー3 〈ディリープ氏の館〉

    マンドヴィー3 〈ディリープ氏の館〉

    マンドヴィー在住のディリープ氏のお屋敷を見学させていただく。ロンリープラネットのガイドブックに紹介されているが、日常的に公開されている家屋ではなく、社交的な氏が訪問者たちを快く受け入れているがゆえのことである。

    彼の許可を得たうえで、屋敷の写真を掲載させてもらっているが、かつて商家として大いに栄えたファミリーの豪邸そのもののたたずまいはもちろんのこと、このディリープ氏による語りも大変興味深かった。

    今はインドの西果ての片田舎となっているマンドヴィーだが、藩王国時代までは、広く外に門戸を開いたこの地域の窓口でもあり、現在のパーキスターンを含めた当時のインド国内各地はもちろんのこと、すぐ目と鼻の先にある中東地域とも盛んに交易を行なう港町であった。

    かつてカティアーワル半島ととに、このあたりの沿岸もまたアラビアやアフリカとのネットワークがあり、多くの大志を抱く商売人たちを外地に送り出してきた。失敗するものあり、また成功する者あり。そのまま外地に定住する者あり、故郷に錦を飾る者あり。

    曽祖父が抱えた負債に始末をつけるために、モザンビークへ渡ったディリープ氏の祖父。商売は成功して大きな富を築くこととなった。氏はその祖父の次男の息子であるとのこと。

    モザンビークで蓄えた富とともに故郷に凱旋し、この地域に大規模な綿花の栽培を導入したのと彼の祖父であり、貿易業とともに製糸業やムンバイーでの工場の操業や投資などで更にその富を拡大させていったとのこと。

    そんなわけで、祖父が自動車を購入したり、電話を引いたりしたのは当地の王家よりも早く、そのラージャーから物言いを付けられた、とは氏の弁だが、それをきっかけに王家と親交を結ぶようになったのだとも。

    その後、祖父は家業を息子たちに継がせたのだが、長男は商売に向いておらず散財に歯止めがかからず、次男でありディリープ氏の父親でもある次男は裁判沙汰に相次いで巻き込まれたこと、ヤクザとのトラブルなどもあり、次々にそのビジネスや財産を失っていくこととなったということだ。

    とりわけ強大な敵であったのが、かつてムンバイーのアンダーグラウンド一世を風靡したワルダーンバーイーとの対立であったという。現在で言えば、ダウード・イブラヒムのような人物ということになる。
    「外国の人にとってはカーストなんて悪だということになっているようだし、ここでも人と人の間に不要な垣根を作ったりするネガティヴな部分もある。けれども出自に関わる強いプライドを与えてくれることも事実じゃ。」

    ワルダーンバーイーの手下が強請に来たときに、父親が一喝して追い出した話、氏自身がワルダーンバーイーの家に一人で乗り込んだという武勇伝が続く。
    「クシャトリア、誉れある武人階級の生まれだ。たかがヤクザごときを相手に縮こまってしまうわけにはいかん。」

    裁判による係争については、「ハイデラーバードのニザームの次に豊かな弁護士」に依頼したところ、法外に高い報酬をむしり取られるだけで大損したということだ。
    「だからこそ、彼はそれほどの金持ちの弁護士になったということが解った」とも言う彼の話には多かれ少なかれ誇張が含まれているとしても、おおよその部分は事実を伝えていることと思う。

    この商家が栄華の極みにあった時代から、急坂を転げ落ちるように零落していった過程までを活写する話は、まるで映画かドラマのようにカラフルで大変興味深かった。

    今はずいぶん荒れてしまっているものの、素人目にも往時のきらびやかな様子が容易に脳裏に浮かぶ27部屋もあるハヴェリー(屋敷)の内部。各部屋ごとに異なるタイルが壁にあしらわれており、天井に描かれた絵、おそらく元々は高価であったはずの家具類の数々。彼の祖父夫婦が寝室としていた部屋の天井には、氏が言うところの「男女のロマンチックな光景」(春画の類ではない)が洋風のタッチで描かれたものが残っている。

    私が訪れたときには、文化財保護の調査にきた建築家にも話を聞く機会を得られた。何か具体的なプロジェクトがあるわけではないが、この家屋に対して何ができるかを調べに足を運んでいるのだという。アーメダーバードの大学も同様に文化財としての価値に注目しており、現在この屋敷を調査中とのことだ。

    かつての栄華をふんだんに感じさせる建物であるが、今の氏の暮らし向きは厳しそうだ。それがゆえにずいぶん家にもガタが来ていて、今すぐにでも修復が必要な状態にあるようだ。それでも、この家屋は2001年1月にカッチ地方を襲った大地震の際にも大して損傷することなくよく耐えたという。

    かつてはたくさんの使用人たちを抱えて、家の中もすっきりとまとまっていたことだろう。どの部屋も美しい装飾がなされているのだが、どこも例外なく散らかり放題となっている。そうした中にたくさんの骨董品、外国から輸入された高価な調度品などが埋もれている。氏が普段使用していると思われる日用品類は非常に簡素である。

    家屋の周囲は同家の敷地であったとのことだが、時代が下るとともに切り売りしていったそうで、現在は窮屈に建て込んだ中にディリープ氏の屋敷が残る形となっている。

    氏はガルフの国で働いていたことがあり、アメリカも訪れたことがあるのだと氏は言うが、現在の氏はかなり経済的に楽ではないようだ。氏は結婚していないため子供はおらず、氏は目の見えない妹さんと二人暮らし。氏も相当の年配であると思われるため、今後が大変だろう。

    階下のガレージには非常に古い、1931年式だというシボレーの乗用車がある。もう動くようなコンディションではなく、ボロボロだが、このような時代に外国からクルマを取り寄せるというのは大したものである。氏にとっては子供のころからの大変思い入れのあるクルマなのだと思う。

    本日はお昼が終わったばかりのところでお邪魔してしまい、長い時間にわたり、各部屋にて、そこにまつわる逸話について色々と話してくれた氏に大変感謝している。

    やはりカッチ地方は興味深い。「kutch nahin dekha to kuchh nahin dekha (カッチを見なければ、何も見なかったのと同じ)」という、アミターブ・バッチャンによるセリフを、ひとりで呟いて頷いていたりするこの日の午後であった。

    以下はディリープ氏の許可を得て、当サイトに掲載する屋敷の写真である。

    〈続く〉

  • YouTube インドのニュース番組のオンタイムで

    YouTube インドのニュース番組のオンタイムで

    スマートフォンやタブレットのアプリでインドの各種番組を視聴できるものは多いが、
    最近、YouTubeにてインドのいくつかのニュース番組のライヴ放送が開始されている。
    とりあえず確認してみた範囲において、ヒンディー語放送ではAAJTAK、そのAAJTAKのデリー首都圏ニュースのDILLI AAJTAK、テルグ語放送(私自身、テルグ語は解らないので理解できないが)ではTv9 、ETV Newsがこのサービスを提供している。どれも昨年12月から今年1月にかけてこれを開始しているため、英語を含めた他のニュース番組もこれに追従するところがいろいろ出てくることだろう。
    仮にエンターテインメント、経済、宗教その他のチャンネルも各自の番組をこうした形で流すようになってくると、どこにいてもテレビを通じた各種情報が際限なく入ってくることとなり、少なくともテレビ放送に関してインド国内と国外との「情報格差」が相当小さくなっていくことになる。
    もちろんテレビ放送に限ったことではなく、週刊ニュース雑誌等のデジタル版も豊富に出回るようになっている昨今、インドはおおまかな情報やトレンドについては、国外からもウォッチングしやすい国となってきているといえるだろう。

    ※マンドヴィー3は後日掲載します。

  • カッチ ナヒーン デーカー トー クュッチュ ナヒーン デーカー (カッチを見なければ、何も見なかったのと同じ)

    「kutchh nahin dekha to kuchh nahin dekha (カッチを見ないのは何も見なかったのと同じ)」とは、グジャラートのカッチ地方を訪れた際のアミターブ・バッチャンの言葉。カッチ地方の人々へのお世辞とはいえ、やはり地元っ子たちは、いたく気に入っているようだ。とりわけ、外から来た人によくこの言葉を使う。
    ともすれば、非常に寒いオヤジギャグになりかねないこの一言。市井の人が口にすれば、「ヘンなダジャレ」ということになるのだろうが、そこは父親が国民的な詩人であり、自身もインド映画界を代表する名優Big Bが口にすると立派な褒め言葉になる。
    「カッチ ナヒーン デーカー トー クッチュ ナヒーン デーカー」
    これを口にするカッチの人たちの表情を見ていると、Big Bに「よくぞこれを言ってくれた!」という感謝の意とともに、それを自身の深い郷土愛が感じられるようでいい。
    アミターブ・バッチャンはグジャラート・ツーリズムがオーガナイズするRann Utsavのイメージ・キャラクターも務めており、彼自身もこのカッチ地方はなかなかのお気に入りなのではないかと思える。
    これで見どころに欠ける土地だったりすると残念なだけなのだが、幸いにしてあまり手垢の付いていない魅力に溢れるカッチ地方だけに、この言葉は実にしっくりくるものがある。

  • グジャラーティー・ターリー

    グジャラーティー・ターリー

    インドで一番豪華なヴェジタリアン・ターリー。不思議なのは、おかずやご飯と甘い菓子類をいっぺんにサービスすることだ。またバターミルクも付いてきて、これらすべてが食べ放題で飲み放題なので、とても嬉しい満足感がある。品数多いおかずの味付けは、このグジャラート州以外のインド北部地域とはずいぶん異なる。ダールもやけに甘いのだが、それはそれで美味しい。おかずも店によってずいぶん異なるものを出しているし、同じ店でも日によって出てくるものがかなり違うところもある。

    おかずとチャパーティーやプーリーを食しながら、甘い菓子をかじり、ときどきバターミルクで口の中を洗い流すという作業を繰り返しているうちに、フラフラになるほど空腹だった自分がどんどん満たされていき、もうこれで充分と頭では思いつつも、ついついお菓子をもうひとつとか、いやあちらの菓子もいいなと次々にもらってしまうのである。

    ただ欠点もある。ご飯党にとってはちょっと残念なのは、ライスを所望すると「さて、これで私はおしまいにします」という合図となってしまうことだ。もちろん頼めばもっと運んできてくれるのだが、ご飯を頼んだからには、この人は当然これで食事はシメである、という了解がある。

    画像左上がプーラン・プーリー

    先述のとおり、店によって中身がかなり異なるので、各アイテムの見た目が美しい店もあれば、ボリューム感抜群の店もある。ボリューム感とはおかずや主食のみで醸し出されるものではなく、やはり大きな役割を占めるのはお菓子類である。

    こちらの写真の店では、人参のハルワーとともに糖蜜漬けになったローティーというか、プーリーというか、その名も「プーラン・プーリー (PURAN PURI)」というのだが、さらにこの中には黄色いダールで作られた餡子が入っている。この餡のような味は日本にもあったような気がするが、非常に甘くて脂分も大変多い。ダールでこのような餡を作るというのは初めて知った。

    インド広しといえども、おかずや主食とともに甘い菓子をパカパカ食べるのは、グジャラートくらいだろうと思う。

    私の隣のテーブルには、デリーから来たという中年カップルが座っていた。私と同じターリーを食べ始めているが、甘い菓子類はすべて断っている。
    「甘いものは苦手で?」と尋ねると、小声でこんな返事が返ってきた。
    「そんなことないけど、甘いものは食後に、当然別皿で食べたいもんだねぇ・・・」

    まさにそのとおり。私もまったくもって同感なり。

  • 白い塩の砂漠

    白い塩の砂漠

    朝9時の宿の前でオートがやってくるのを待つ。
    先日久しぶりにお会いしたジェーティーさんにオートのチャーターを頼んでみたところ、「日本人女性が予約しているのでシェアすることにしては?」と言われたので、そうすることにした。本日向かうのはブジの町から北へ90kmほど進んだところ、Great Rann of Kutch (大カッチ湿原)の周縁部にあたる地域。

    カッチ地方には、Great Rann of Kutch(カッチ大湿原)とLittle Rann of Kutch(カッチ小湿原)とがあるが、これらの「大」と「小」はあくまでもこれらふたつの面積の比較上の話であり、どちらも広大な湿原である。湿原とはいっても内陸部や高原などにある湿原と異なり、真水と海水が混じり合うものであることから、モンスーン期にはドロドロの湿地帯、乾季には広大な砂漠状態となるなど、季節によってその姿を大きく変化させる。

    これらの地域は、人間にとっては不毛な大地で、製塩業や風力発電くらいしか利用価値のない土地ということになるものの、農業を含めた人々の経済活動に不向きであるがゆえに、人口も非常に少なく、人の手が入る度合いが少なかったがゆえに、独自の自然環境が豊かに残っているとされる。

    カッチ湿原には野生動物の保護区が多く、以前カッチ小湿原にある野生のロバの保護区を訪れたことがある。

    Rann of Kutch 1(indo.to)

    Rann of Kutch 2 (indo.to)

    Rann of Kutch 3 (indo.to)

    Rann of Kutch 4 (indo.to)

    野生のロバ以外にも、ニールガーイその他の大型草食獣、オオカミ等も棲息している。またフラミンゴその他の大型の渡り鳥も多く飛来しては、乾季にはカラカラに干乾びた大地となるこの地域に点々と残る水場で羽を休めていることから、この時期にはバードウォッチャーたちにとっての楽園でもある。

    ホワイト・ラン、ホワイト・デザートと呼ばれるエリアまではかなり距離があるようだ。片道で90kmほどあるため、往復で180kmくらいになる。そんな長距離をオートで走ったことはこれまで私にはない。片道で3時間くらいかかってしまう。午前中はかなり寒いし、本当ならばタクシーのほうが良かったであろう。実際のところここに行く車両多かったのだが、私達以外はすべてバスか乗用車であった。速度も倍くらい違うため、移動に倍くらいの時間がかかってしまうことにもなる。

    多少の植物が繁っていたり、まったくのカラカラの大地であったりという程度の違いで、基本的には単調でまったくフラットな景色の中を進んでいく。ブジからあまり遠くないところに枯れ河があった。雨季には流れる河であるとのこと。ブジからの行程を三分の二くらい進んだところにはビランディヤーラーという村があり、道路から少し外れて立ち寄る。

    遠目には魅力的な伝統的なカッチの村に見えたのだが、実は観光客のためにしつらえてあるものであるという側面が強いことが判った。伝統を模したもので、それはそれで面白いのだが、ここでの稼ぎは女性たちによる手工芸らしく、どこの家でもそれらを販売している。売っていたものはビーズ細工であったり、刺繍であったりするのだが、稚拙な造りのものばかりであった。それなのにやけに高い値を言ってくるのだ。村の家屋内にはヒンドゥーの神の絵が壁に貼ってあるところもあったが、村の入口にモスクがあり、やはり運転手のバラトさんもこの村の住民たちは皆ムスリムであるという。なんだかいかにも観光向けの村といった具合だ。

    その村を出てから道路に戻って少し進んだ先がポリスのチェックポストで、ここでパーミットを発行してもらう。ここからさらに30kmくらい進むとホワイトランに着くようだ。チェックポストを少し過ぎたあたりでは、ラクダの群れを飼育している男たちがいた。ラクダに任せてパーキスターンとインドの間を往来する密貿易が行われているとのこと。人はつかずにラクダだけが移動するのだというが、本当なのだろうか。

    Rann Utsavの会場

    ホワイトランにつく前に、開催中のRann Utsavの会場で食事することにした。12月初旬から3月初旬にかけて毎年開催されている政府主導のイベントで、会場には沢山のテントがあるとともに、食事の模擬店がいろいろ出ている。あまりたいしたものはないにしても、こんなところでこのような大きな規模のイベントが開催されていること自体がちょっとした驚きかもしれない。

    Rann Utsavの会場から少し走るとホワイトランに着く。面白いのはそこに到着する手前までは塩のように見えるものは特にないのに、ある地点から急に真っ白になってしまうことだ。

    入口にはゲートがあり、ここから塩原に入る。ふたりのBSFの兵士が警備していた。こここまで来る少し手前に検問があるが、そこもBSFの詰所であった。

    どこまでも続く白、白、白・・・。
    塩の塊は少し水分を含んでいる。

    塩原はまるで雪原のようである。地平線の彼方(の方角はパーキスターン)までずっと白い塩原が続いている。なんとも不思議な光景だ。15日に一度の大潮の際に海水が流れ込んで、この広大な塩原を形成したのだという。塩の下を少し掘るとすぐに水が出てくる。この塩は不純物が多く、食用に適さないが除雪用、工業用として輸出されているとのこと。塩原には観光客をのせるための馬とその世話人たちがたくさんいた。白い塩の反射がまぶしく、目が痛くなりそうだ。満月の夜には塩原全体が銀色に輝くということだ。

    少し掘るとすぐに水が出てくる。

    ホワイト・デザート、塩で出来た砂漠があるというのは実際に目にするまで信じがたいような気がしていたが、こうして訪れてみるとこの光景は幻想的でさえあった。

  • ブジ市内

    ブジ市内

    Sharad Bagh Palaceシャラド・バーグ・パレスへ。着いたのは午後1時半くらいで、ちょうど昼休み時間であった。今でもインドではこうした場所に昼休みがあるところはときどきある。古き良きインドがここにまだ残っているという思いがする。門のところで寝ている老人がいて、ただの使用人あるいは門番かと思ったが、チケットを売るのがこの人であったので、実は職員であることがわかった。

    撮影隊のようなものが来ていた。何かと思えば、新婚さんたちの写真を撮るのだそうで、結婚記念アルバムにでも使用する写真を準備しているのだろう。夫婦どちらとも精一杯装っているようだが、非常に垢抜けないのは仕方ない。

    パレス敷地内で、パレスの手前にある様々な品物等が展示されている部分には、トラの剥製もあったが、やはりトラの毛というのはネコなみに細やかでキレイなものであることが、すでに変色してしまっている古い剥製からも見てとれる。

    シャラド・バーグ・パレスの背後部分は2011年の大地震でひどく破損したまま

    パレスは屋上の欄干の部分が崩落してしまっているが、まだ正面からはこれでも地震による被害は少なかったように見える。しかしひどいのは背後で、階段がまるごと落下していたり、柱がスライドしてしまっていたり、二階部分ですっかり崩落してしまっている部分があったりという具合。2001年に発生した大地震の前には中を見学できたように思うが記憶違いだろうか。

    その後、ここから旧市街に戻ってプラーグ・メヘルに行く。前回、2009年に訪れた際にはまだ修復作業中で、公開されている部分はあまりなかったように記憶しているが、作業はだいぶ進んだらしい。外も内もずいぶんきれいに直してある。地震以前よりもきれいになっているといえる。とりわけホールの部分は素晴らしくなっている。そのまま今でも王家のそうした場であるとして使えるようだ。しかし天井の崩壊が生々しい部分もある。天井の絵が無惨に落ちたままのところもあった。奇妙だったのは、壁がまるで木目のようにペイントしてあったりする部屋があったことだ。

    大地震前でさえも公開されていなかった塔に上ることができるようになっており、ここからのブジを一望する眺めは素晴らしい。人口14万7千の街であるが20数万人万人規模のタウンシップで2001年の地震で公式の発表で3万人が亡くなったという事実(この数字は政府による公式発表だが本当はもっと多かったらしい。中には死亡者10万人という説もある。)はあまりに重い。

    城壁に囲まれた旧市街から南は昔の王族たちが建てたチャトリ群

    夕方以降、上空では飛行機が飛んでいる音がする。民間機の発着はこの時間帯にはないはずなので、おそらく軍が国境警備のために飛ばしているのだろう。いかにもパーキスターン近くの最果ての地という感じがする。

    宿に泊まっている人たちの中にスコットランドから来ている中年夫婦。いかにも人柄の良さそうな面持ちのご主人は、実際話してみると、とても感じのいい人だった。奥さんのほうは中華系かと思ったのだが日系。祖父が日本人であったとのこと。それでも百年前とかなんとかで、神戸からカナダに渡った人で、そこで出会ったスコットランド女性と結婚。それが彼女の祖父と祖母であるという。よほど祖父の系質を強く引き継いでいるようで、見た目も仕草も日本人としか思えない奥ゆかしい感じの女性であった。

    とりとめのない世間話をしながら彼らと食事するが、旅行先では普段まったく接点のない人たちと出会うことができるのはいい。

    ブジで宿泊したホテル・マンガラムは快適であった。
  • ジェーティーさん

    ジェーティーさん

    ブジに来たので、以前幾度かお世話になっているプラモード・ジェーティーさんに会おうと、彼が働いているアイナー・メヘル内の博物館に出向いてみたが、すでに退職されているとのこと。

    もうすっかり引退して、悠々自適なのかと思いきや、すぐ近くで観光案内をしたり書籍を売ったりしているのだと聞いたので訪れてみる。アイナー・メヘルを出てから右手に少し進んだところの左手にある小さな店舗スペースでジェーティーさんは本を読んでいた。

    ブジを幾度か訪れた際に、彼にはお世話になっている。先述の博物館で学芸員をする傍ら、カッチ地方を訪れた人たちに旅行情報を提供したり、クルマやオートでのツアーをアレンジなどもしていた(執務中にこうしたプライベートな兼業が成り立つ鷹揚さがいいなぁとも思う)ジェーティーさんである。とにかくこの地域の旅行情報の生き字引みたいな人で、何を質問しても即座に的確な答えが返ってくる。彼が著したカッチ地方のガイドブックもまた良かった。

    久しぶりにお会いしたのだが、相変わらずお元気そうで良かった。彼は、26年間ここの博物館の学芸員として働き、昨年9月に62歳で退職したとのこと。
    「まだまだやらなくてはならないことが沢山ある」とのことで、以前の職場のすぐ近くにこうして案内所を開くことになったのだとか。

    「好きなように書物を読んだり調べ物をしたりしながら、いろいろと書いていますよ」という彼は、これまでの学芸員という「本業」から解放されて、長きに渡り続けてきた郷土史研究に専念することができているようだ。

    下の写真はジェーティーさんによるカッチ地方のガイドブックの最新版。訪れるインド人や外国人のお客の観光相談、カッチ地方の民族・文化・自然に関する書籍を販売したり、ツアーのアレンジをしたりしながら、自らが心から愛する郷土の研究にいそしむ毎日。実に素敵な老後だと思う。

  • ブジへ

    ムンバイーを午後早い時間に出るジェットエアウェイズのフライトでグジャラート州カッチ地方の中心的な町であるブジへと飛んだ。

    2001年の震災前にも幾度か訪れたことがあるが、前回訪れたのは2009年。震災から8年も経過していれば、ほとんどが修復されているのではないか、それともまだその痕跡は数多く残っているのかと、ちょっとおっかなびっくりで訪れた記憶がある。

    旧市街の趣のある町並みはほとんど消えていたと言って差し支えないような具合であったが、同時に驚かされたのは震災前の街区がきちんとそこに再現されていることであった。古い建物は軒並み消失してしまっているようであったが、その同じ場所にどれも同じような築年数で新しい建物が建てられているようであった。やはり地権というものがあるので、当然そういうことになるのだろう。

    ただ異なるようであったのは、おそらく震災後に大きなデヴェロッパーが進出してきたのであろうか、かなりの面積をひとまとめにしてコンドミニアムが建っていたりすることであった。政府も2001年の震災による被災地の復興にはいろいろと便宜を図っているようで、建物の新規着工にあたっての免税措置などが講じられてきたようだ。

    そんなブジの町だが、1980年代末に訪れたときには、とてもカラフルな経験であったことを記憶している。先述の古い町並みもさることながら、町の外からマーケットに買い物に来る、あるいは品物を売りに来る少数民族たちが、実にコミュニティごとの特徴あふれる衣装を身につけていたからだ。

    当時、すでにそうした少数民族の若者から働き盛りまでの年代の人々の多くが、洋服を着るようになっていたものの、女性たちは普遍的なパンジャービー・ドレス姿ではなく、さりとて大量生産のサーリーでもない、独自の背中が大きく開いた衣装であったり、またそれにはさまざまなミラーワークや刺繍などで飾り立てられていたりした。

    そうした人たちがどこからやってくるのかと思ったりもしたが、自転車を借りて町から少し走った先にある村々で、人々はそのような格好をしていたことから、この小さなブジの町から少し出ただけで、そういう暮らしがあることを知り、ちょっと感激したりもした。

    2009年に再び訪れたときのブジでは、周囲の村々との行き来は相変わらず盛んなはずだが、すでにそういう格好をした人たちはまず目にしないようになっていた。やはり工業化が進むと、近代的な工場で大量生産されたものが安く市場に出回るようになる。町の外でも現金収入を得る機会が増えてきて、経済活動そのものが活発になってくるに従い、手間暇のかかる民族独自の衣装は隅に追いやられてしまうことになるのは仕方のないことだ。また、そうしたマイノリティの人々、これがマジョリティから少し下に見られているということであればなおさらのこと、その出自を明らかにする衣装をわざわざ来て町に出るということを避けようということになってしまうのもまた致し方ないことだろう。

    こうした少数民族に限ったことではない。インドには今よりもっと様々な地方色豊かな衣装のバリエーションがあった。それがだんだんこのようなプロセス、つまりかたや商業・経済的な理由、かたや社会的に自分たちよりも上と認識される集団を模倣するというプロセスを経て、「現在のインドのような装い」が定着しているわけでもある。

    例えば、外国人の目には「インドの民族衣装のひとつ」と捉えられるパンジャービー・ドレスと俗称される女性版のシャルワールカミーズにしてみても、元々はインドの国民的な装いというわけではなく、「パンジャービー」という形容が付くことからも明らかなように、インドの西方から伝わったものである。そもそもこれがパンジャーブに入ってくる前には、さらに西方の主にイスラーム圏で用いられてきた衣装である。

    これが現在ではサーリーよりも優勢になっていることの背景には、人々のライフスタイルや意識の変化などがあるだろう。(サーリーについてもこれが全インドで太古から着用されてきたものかどうかについては、言及すると大変長くなってしまうため、また別の機会を設けてみることにする)

    また、このパンジャービー・ドレスについては、日常的にサーリーを着ていた地域でこれに置き換わる形で浸透していくだけではなく、サーリーを着ることのなかった「インド文化圏外」の民族の間でもこれが次第に一般化してきているという点も見逃してはならないだろう。それはたとえば北東インドのモンゴロイド系民族であったり、夏季のラダック地方(冬季はあまりに極寒となるため、こうした衣装はまったく適さない)であったりする。

    ともあれ、サーリーよりも行動的であり、洋服よりも洗濯後の乾燥が早く、また当然のことながら洋装のカジュアルよりも「慎み深さ」を演出しやすい、それでいながら柄やデザインのバリエーションが広く、お洒落着から日常着までいろいろなタイプのものが出回っているといった点が、この衣装が支持される理由であろう。

    話は逸れてしまったが、そんなことを思いながら、久しぶりに訪問するカッチ地方にワクワクしながらムンバイーからのフライトに搭乗した。

  • ムンバーデーヴィー寺院

    ムンバーデーヴィー寺院

    ムンバーデーヴィー寺院

    せっかくムンバイーに来たのならば、やはりこの街の名前の起源とされるムンバーデーヴィーの寺院を参拝しておくべきであろう。朝の時間帯に訪れてみた。

    ムンバーデーヴィー信仰は15世紀あたりにまで遡ることができるようだが、このあたりの土着の女神であったものがヒンドゥー教に統合されたものである。七つの島から成っていたこのエリアで、漁業、製塩業などを生業としてきた元々の住民たちが信仰してきたものであることから、ムンバイーというメトロポリスにありながらも非常に土俗信仰色の強い寺院ということになる。

    お寺から少し進むと、インド国内での金の取引の6割以上がここを経由するとされる、ジャヴェーリー・バーザール。昼間は非常に混雑しており、貴金属や装飾品の店がやたらと多いことを除けば、他の商業地とあまり変わらないように見えるかもしれない。

    ジャヴェーリー・バーザールからクローフォード・マーケットに抜けるあたりには壮麗な建築のジャマー・マスジッドがそびえる。

    ジャマーマスジッド

    このあたりは朝始まる時間が遅いのが幸いして、それほど早起きしなくてもガラガラに空いている道路をテクテクと歩いていくことができる。早起きは三文の得とはいうが、人出の多い商業地を散歩するならば、やはりひどく混雑するよりも前の時間帯に限るのである。

  • ムンバイーのシーア派モスク Moghul Masjid

    ムンバイーのシーア派モスク Moghul Masjid

    しばらく前まで、ムンバイーのタクシーの代名詞は、1960年代フィアットのインド現地生産モデル「パドミニー」であり、英領時代からの壮麗な建物の景色と相まって、この街らしいムードを醸し出していた。製造が中止となって久しい今では、すでにごく少数派になっており、ボディーを黄色と黒色に塗り分けられたスズキのマルティ、ヒョンデのサントロなどが走り回っている。

    さて、タクシーでイラン風のシーア派モスクに行く。場所はムンバイーのビンディー・バーザールである。 この建物はMoghal Masjid、Masjid-e- Irani、IranianMosqueなどといろいろ呼ばれるようだ。1860年に建てられた青タイルが美しいこのマスジッドは、シーア派モスク。これを寄進した人物、モハンマド・フセイン・シラーズィーはその名の示すとおり、イランのシラーズ出身。ムンバイーのシーア派モスクは他にもあるが、イラン式の建築はここだけだ。

    このあたりでは200年以上も前からイランからの移住者たちが定住しており、主にそうした同胞たちのために造られたモスクであるとされる。今でもビンディー・バーザールから少し東に進んだところにあるドングリー地区にはイラン系の人たちがかなり多く暮らしている。長らく存在してきたイラン系コミュニティの地縁・血縁などの繋がりにより渡ってきたケースが多いらしく、とりわけヤズド出身の家系が多いようだ。

    さて、話はモスクに戻る。アンクシュ・バット監督のヤクザ映画「BHINDI BAZAR」をご覧になった方は、作品中で幾度か入口部分が出て来ていたのをご覧になっていることだろう。ペルシァ風のタイルで飾られた、非常に美しい門構えである。

    ここを訪れる観光客は少ないようで、門番の初老の男性がチャーイを入れて持ってきてくれた。彼はUPのファイザーバード出身で、長い間ガルフで働いていたという。それで国に送金して、故郷に家族のために家を建てた。また三人の子どもたちはすべて大学にやっており、長男はMAまでやっているところだという。彼の人生はずっと外国に出稼ぎで、家族と暮らしたことはときどき帰郷するときくらいであったとのこと。今では外国での出稼ぎ生活から足を洗い、このモスクの門番をしているという彼は現在62歳とか。
    「何か私自身に残ったものといえば特に思い当たらんが、故郷に家は建てたし、息子たちを大学までやったので満足しているよ。義務は果たしたかな、と。」

    中を見学していると、造りは門だけではなくすべてがイラン式である。敷地に入ると門の内側にはイランの宗教指導者たち(ホメイニ師とハメネイ師)の写真が掲げられている。「セキュリティ上の理由によりカバン類持ち込み禁止」と書かれた札が立っているが、シーア派が異端であるとするワッハービーたちによる攻撃対象となり得るからだろうか。

    冬のイランに来ているようなすがすがしい清浄な気分になるが、外はやっぱりゴチャゴチャのインド。現在、中央政府主導で「スワッチ・バーラト (Clean India)」のキャンペーンが展開中だが、もう少しキレイになるといいな、と思う。

    本殿ではしばらく礼拝が続いていたため、しばらく外で待ち、終わってから中を見学させてもらう。キブラの方向を示す部分は青いタイル貼りで非常に美しい 内部で写真撮りやすいように電気をつけてくれたり、終わってから食事を勧めてくれたりしてくれたのは、ここのムアッズィーン。なぜか知らないが、さきほどここに礼拝に来た人たちはお堂の外で朝食を食べていた。毎日そうなのかどうかは知らない。

    外国人旅行者が多く宿泊するフォート地区、コラバ地区からのアクセスも非常に良く、規模は小さいながらも実に見応えのあるモスクなので、ムンバイーを訪問される際にぜひ立ち寄られることをお勧めしたい。

  • Maghen David Synagogue (Byculla, Mumbai)

    Maghen David Synagogue (Byculla, Mumbai)

    ムンバイーのMaghen David Synagogue訪問。1864年にバグダディー・ジューのムンバイーにおけるビジネスの基盤を整えた伝説の人物、David Sassonが建てさせたもの。このエリアは、かつてテキスタイル関係の産業で栄えたエリアで、労働人口を吸収するためのチャールと呼ばれる独特の集合住宅もまだ多く残っている。

    この街で現存するシナゴーグはシナゴーグといえ9つほどあるようだが、最も知名度が高いのはムンバイー証券取引所近くのKnesset Eliyahoo Synagogue。これはDavid Sassoonの孫であるJacob Elias Sassoonが1885年に建てたもの。 Maghen David Synagogue、プネーにあり1867年に完成したOhel David Synagogueと併せて、Sir Jacob Sassoon Synagogues and Allied Trustsという基金が運営している。

    ほとんど近くまで来たようなのだが、沿道で見かけた人に尋ねてもシナゴーグの場所はよくわからず、そうした中のひとりが、「ここからカーマーティープラーの方向で・・・」などと言うものだから、運転手は見当違いの赤線地帯の方向に走り出してしまう。それが違う方向であると判ったのは、スマホの地図に示されているシナゴーグの場所に近付くのではなく、逆に遠ざかってしまっているからだ。やはり街を散策する際にも、スマホは大変役立つものである。

    「おそらくこのあたり」と思われる場所まで戻ってもらって下車。そこから歩くとほどなく見つかった。さて、シナゴーグの敷地の入口あたりでは、数十人の警官たちがたむろ、いや警備している。すぐ付近に地域の警察署があるという地の利はあるものの、やはり多数の警察官たちを乗せた警察のバスも横付けされて待機していることから、他エリアからも警察官たちが動員されていることが察せられる。このあたりの住民はほとんどムスリムばかりだ。大半はシナゴーグと平和に共存しているとはいえ、いつ何時過激派による攻撃の対象となるかわからないということもあり、相当厳重な警戒が敷かれている。敷地内に入ろうとすると、チョーキーダールに止められて訪問の目的を聞かれた。そこに警官も出てきたので、シナゴーグの見学に来たということを説明する。

    地元との共存を象徴するものとして、Maghen David Synagogue敷地内にある高校の存在が挙げられるだろう。かつてはユダヤ人子弟のための学校であったようだが、インド独立後から現在にかけて、ユダヤ系の人口が激減しているため、現在ではユダヤ系の基金が運営する「普通の私立学校」となっており、ムスリムを含めた全てのコミュニティの子弟を受け入れている。

    建物入口のカギを開ける世話人がまだ来ていないとのことで、近くの店でチャーイを飲んでから戻る。すると、シナゴーグには数人のユダヤ人が来ており、そのうちの1人としばらく話したのだが、もともとはムンバイー生まれで子供の頃に両親とともにイスラエルに移住したという67歳の男性。ユダヤ教徒であることを示す帽子「キッパー」を被っている。

    この日は土曜日なのでユダヤ教の安息日のSabbath。 シナゴーグの世話人が堂内の照明を点けて、聖書を手にして祈りの時間が始まった。司祭はいないし、礼拝に必要な人数(というのがある)もいないため個々で祈りを捧げるのみである。

    このSabbath(土曜日)には、写真撮影等は禁止になっているとのこと。ヒンドゥー教徒の世話人は、ヒソヒソ声で「今日、本当はダメだけれども、正午過ぎに来たら写真撮らせてあげる」と言う。その時間帯にはユダヤ教徒はいないのだとか。夕方になると祈りのためにやってくるので、その前までにしてくれと言う。この人にとってそもそもSabbathの日には撮影そのものを許可していないという前提ならば、それがそのまま彼の小遣い銭となるわけだ。内部の写真のためにわざわざ戻ってくる時間はないので、これについてはパスすることにした。

    写真は100、ビデオは500と許可の料金を示す告知が壁に張り出してある。ところで、このようにカメラはいくら、ビデオはいくらと料金を定めているところは多いのだが、今やデジカメでもなかなかの画質の動画が撮影できるので、ビデオカメラという区分はもう意味がなくなっているのではないかと思う。

  • THE BOMBAY STORE

    THE BOMBAY STORE

    THE BOMBAY STORE

    ムンバイーのHorniman Circle近くでコロニアルな建物を見物しながら歩いていたら、たまたまこの店の前を通りかかった。外から眺めてもなかなか洒落ていていい感じのみやげもの屋である。

    広々とした店内の品揃えは大変良好。ラインナップは当然インド製品であり、かつ洒落ていて気の利いたものが大変多い。各種工芸品、彫像類、衣類、紅茶、香水、アクセサリー、家具、寝具類、キッチン用品、バス用品等々、実に多岐に渡る。

    値段の割には品物の内容が芳しくなく、値段も割高な中央政府によるCCIC (Central Cottage Industries Corporation of India Ltd.)が運営しているエンポリアムが、「品物を選ぶセンスが良くなり、デザインも品質も優れて、洒落たものを置く」ようになったとしたら、こんな具合になるのだろうか。店内の雰囲気や店員たちの態度も極めてしっかりしており、同店のウェブサイトにある「1905年創立、ボンベイ証券取引所に上場した最初の小売業者」という伝統もダテではなさそうだ。

    商都ムンバイーでは、インド関係のいろいろな品物について、それぞれの分野でいい物を置いている店は多いが、日本へのおみやげ購入のためにいろいろなアイテムを同時に見比べて一度に購入したいようなときには、このお店は重宝するだろう。THE BOMBAY STOREは定価販売でもあり、時間の節約にもなる。おススメのショップである。