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投稿者: ogata

  • ラール・キラーが世界遺産に

    ラール・キラー
    本日6月28日、デリーのラール・キラーがユネスコの世界遺産に登録されたとの発表があった。以下、これを報じる各メディアの記事である。
    UNESCO declares Red Fort a World Heritage Site (Hindustan Times)
    Red Fort now a world heritage site (ZEE News)
    Red Fort is now a World Heritage site (Times of India)
    インドにとってこれが27番目の文化遺産登録となる。観光資源という部分から眺めてみるとインドの土壌は非常に豊かだ。先人たちが築いた財産でいかに多くの人々が恩恵を受けるのか、いかにその土地を潤わすことができるのだろうか。やみくもに『観光振興』を唱えてみたところで、その目玉を打ち出すことは容易なことではないのだが、インドにはこうした『特大の目玉』が無数に転がっている。
    まさに見事な遺産に恵まれているがゆえに残念に感じることも少なくない。こうしたメインストリームにある史跡については手厚く保護されるものの、歴史的に高い価値を持ち造形面からも興味深い旧跡であってもマイナーな土地にあり知名度も低いものなるとほとんど補修の手が入らず、目も当てられない状態にあるものも少なくないことだ。
    でもこれはやはりインドが史跡・遺跡の宝庫であるがゆえのことだろう。どこに出かけてみても、かしこに『歴史』が散見されて、いにしえの時代から現代までの連綿と続く人々の営みを肌で感じることができるのもこの国の大きな魅力のひとつだろう。

  • ミャンマーのインドな国鉄

    ヤンゴン駅発バゴー行きの7UPという急行列車に乗りこんだ。ここを出て2時間あまりで到着する最初の駅がバゴーである。モン族の王朝の古都で英領時代にペグーと呼ばれていた。
    アッパークラスの車両では通路左側に一列、右側に二列の大型な座席が並んでいる。リクライニングもついていてなかなか快適だ。この列車はバゴーを出てからさらに北上を続け、マンダレイなどにも10数時間かけて走るのだが、そんな長距離でもこれならば寝台でなくとも充分耐えられそうだ。これで空調が付いていると更に良いのだが。
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    ちょっと見まわしてみて、車両の造りがずいぶんインドのそれに似ているなあと思った。まず気がついたのは前席背面に付いている折り畳みテーブルである。ここに『SUTLEJ』の文字が入っているので、ひょっとしてこの車両はインド製ではないのだろうか。そう気がつくと、天井の扇風機、壁のプレートの合わせ目の細いアルミ板のシーリング、戸の引き手や窓の造 り、つまり外側の鎧戸、内側のガラス戸、そして座席番号を示すプレート等々、どこに目をやってもインド風である。
    果たしてトイレに行こうと出入口のほうに行ってみると、トイレのドアを開けるとそこにあったのはまさしくインドの車内風景であった。そして手を洗おうと差し出すとそこには見慣れた蛇口と金属の洗面台。シンクの縁にはインド国鉄のマークまで入っていて、ちょっとビックリ。上に目をやると、そこには『Railcoach Factory, Kapurthala』というプレートがあった。これは紛れもないインド製車両であった。

    (さらに…)

  • その電話はブータンに通じる

    ヒマラヤの小国ブータンにアメリカ向けのコールセンターが開設されるのだという。ちょうど隣国インドでイギリスやアメリカの会社によるアウトソーシングのサービスを行っているように。英語のアクセント等の訓練や一般常識等の基礎知識の訓練を行ったうえで、8月から業務が開始されるのだそうだ。
    ブータン初の英語コールセンターの運営等は、バンガロールを拠点に同事業を展開するインド資本によるもの。特別な関係にある二国間にあって、やはり他に一歩先んじるのはインド企業ということなのだろう。記事中には『英国やオーストラリア向けサービスも予定』とあり、頼るべき産業があまりなく、外貨獲得手段も限られているこの国にあって、一大産業に発展する可能性があるようだ。人口およそ70万人と規模は小さいものの、1970年代よりインドの協力もあって英語教育が普及しているブータン。現場で業務に従事する人材には事欠かないのだろう。
    同国は外国人の入国を厳しく制限しており、観光目的の入国でさえも通常はごく限られた短い期間のものとなり、滞在中の行動も制限されている。いわば鎖国状態にあるといえるこの国に暮らす人々が欧米の大企業のサービスを代行するというのは逆説的にも響く。だが国王主導とはいえ着々と民主化、複数政党制導入への道筋が築かれているこの国の将来を予見する重要なトピックではないかと思う。まさに大きな変化のはじまりとでも言えるのではなかろうか。
    従来の権力層とビジネス界を中心に台頭する外資を含めた新進勢力の綱引き、民族主義とグローバリズムの拮抗が予想される中、中国とインドという二大国の挟間にある小国が、旧スィッキム王国(現インドのスィッキム州)やネパールといった先例を見ながら、どういう国づくりを進めていくのか大変興味のあるところだ。
    ヒマラヤに問い合わせ ブータンに初のコールセンター (asahi.com)

  • 『FOR HIRE』 for sale

    インドの旧型タクシー・メーターが『楽天市場』で売りに出ているのを見かけた。『FOR HIRE』の日焼けした文字、幾度も塗り重ねてきた思われるペイントの具合といい、いかにも『インドで長年頑張ってきた!』という雰囲気が味わい深い。
    価格は7万円とのことで私にはチト手が出ないし、そもそも今どきのクルマにこのメーターが装着できるのかどうかわからないのだが、助手席側の窓から手を回して『ガチャコン!』とレバーを倒して出発するとけっこう気分かもしれない。ビニールでカバーした料金換算表があれば、一日の終わりに『おお、今日は×××ルピー分走ったな』なんて悦に入る向きもあるだろうか。
    タクシーやオートに電子メーターが導入されてから『走行距離のみでなく、混雑などで余計にかかる時間への課金という概念が初めて実現された』と思っていた。でも実は旧式のアナログメーターにも一応『時間に対するチャージ』の初歩的な概念はすでに折り込んであったのだそうだ。裏面下部のネジを巻くことによって可能となるとのことだが、時間による最初の課金がなされるまで1時間以上かかるとのこと。クルマが増えて都市部の渋滞が日常茶飯となった今の時代にはとても合わないが。
    しかしながらこのタクシー・メーター、クラシカルなスタイル、重厚な質感、職人さんたちによるハンドメイドな仕上げといい、実用の域を超えて愛用されそうなムードがある。使い込んだメーターもいいのだが、個人的にはツルツル、ピカピカの新品同様のこうした金属メーターがどこかで手に入らないものかと思っている。具体的な用途があるわけではないのだが、部屋の片隅にでもチョコンと飾っておきたいのだ。

  • Namaste Bollywood #6

    namaste bollywood #6
    ボリウッド情報専門誌『Namaste Bollywood』第6号が発行されている。今回はBollywood Beauty Part1と銘打ち、90年代から現在までのトップ女優たちが取り上げられている。マードゥリー、ジューヒー、マニーシャー、ウルミラーetc. ページを広げていると、頭の中でいろんな映画の様々なシーンが走馬灯のように駆けめぐる。
    他にも映画界大御所グルザール氏のインタヴュー、福岡で開催中のインドの現代絵画展、ボリウッド映画関連本の紹介等々、今回もまた盛りだくさん。巻末のBollywood Filmi Pedigreeで取り上げられているのはサンジャイ・ダットだ。なんとこの人にもネルー家の血が流れている(?)という話があるとはこれまで知らなかった。詳しくは今号誌面を参照願いたい。
    同誌は日本国内の主要なインド料理店、インド系通販サイト等で無料配布されているが、『毎号欠かさず読みたい』『置いているお店が近くにない』という方はこちらを参照いただきたい。
    この情報誌だけでなく、ヒンディー映画を楽しむオフ会『ナマステ・ラート』も開かれているとのことで、機会があれば私もぜひ参加してみたいと思う。

  • 9月最後の週末はナマステ・インディア

    ナマステ・インディア2007』の開催日時が公表されている。
    9月29日(土)と30日(日)の二日間とのことだが、『今年は日印交流年、The Festival of India インド祭の一環として、主催にインド大使館、ICCRが参画』とのことで、例年にも増して盛大なものとなる予定。築地本願寺から代々木公園に場所を移してから、このイベントの規模が広がったが、ここにきてこの会場もやや手狭になってくるのだろうか。
    6月18日現在、ウェブサイトにはまだ詳細は出ていないが、もうそろそろ出店申し込みの受付なども始まる時期なので、何か企画している人は要チェックだ。
    もはや東京の秋の風物詩となったこの催しのために、9月最後の週末は予定を空けておこう!

  • 危機一髪!?

    YouTubeで危険なランディングの動画が公開されている。インドの空港でのことらしい。(タイトルにはエア・デカンとあるが違う航空会社ではないかと思う)
    着陸時に突風でも吹いていたのだろうか。機体を大きく揺らせ、不安定な角度で降りてきて、滑走路でドンドンドンッとはねながらも無事に停止。
    様々な悪条件が重なってこういう着陸になったことと思うが、乗客たちはそれこそ生きた心地がしなかっただろう。飛行機がバウンドする間にケガをしたり失神したりした人もいるのではないだろうか。ああ恐ろしや。
    この映像と直接関係のないことではあるが、インドに限らず、世界各地でいわゆるグローバル化が進む昨今、各国の経済成長や航空会社数とフライト数の増加などともに空の交通が過密になってきている。そのスピードに対して既存の空港のキャパシティの不足、熟練したパイロットの確保などが最重要課題になっている。新興の格安航空会社などは利益がほとんど出ない自転車操業状態のところが多く、既存の会社にしてみてもこうした新手の勢力の台頭により収益の確保が難しくなってきている。 いずれ航空会社の淘汰の時代がやってくると言われているがどうなのだろうか。
    自由な競争による航空ネットワークの拡大と運賃の低廉化は利用者である私たちの利益にかなうものとはいえ、航空会社は出発地から目的地に到着するまで乗客たちのまさに命を預かっている。搭乗時のセキュリティチェックのみならず、運航時の安全の確保についても従来以上に慎重を期してもらいたいものだ。行政当局によるしっかりとした適切な関与も大切であることは言うまでもない。

  • ヤンゴンのインドなエリア 6

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    ミャンマーは東南アジアの西端に位置し、南アジアの東端のバングラーデーシュとインド東部と国境を接するなど地理的にも近いため景観や自生する植物などからインドを想起させるものも少なくない。またインド系の人々の存在、インドの血が混じっているとされるミャンマー西部の少数民族など人々の風貌、仏教やイスラームを通じて西から入ってきた文化の影響など、インド亜大陸起源のものがいろいろ目につくこともあるのだが、同時に英領時代の名残という部分も少なくないのではないだろう。それは植民地期の建物であったり街並みの造りだったりするが、特にヤンゴン河沿いのコロニアルなエリアでは、インド人街の外にあっても、ずいぶん強く『インドが香る』気がする。かつてインドからやってきたここに暮らした人々の存在感だけが、あたかもこの空間に残っているかのような。
    イギリスの植民都市としてはそれほど古いとはいえないのだが、現在ダウンタウンとなっているかつての行政中心地界隈は、港湾を中心とした街づくりがなされており、水際近くに英領時代の重要な施設がギュッと固まっているという感じだ。どことなくコーチンのような陸上交通が発達する以前に建設された都市とイメージが重なるものがある。統治機能以外に、ここから多数の産物を外界へと輸出する重要な港町であったことも大きいのだろうが、インドやスリランカなどに比べてかなり遅れて入手した領土であったため、鉄道や自動車が走れる道路の建設が後手に回り、こうしたクラシックなスタイルの水際都市を築くことになったのではないだろうか。
    1885年に英領インドに編入され、1937年にインドの行政区分から切り離されるまで、当時のビルマはインドの中のひとつのプロヴィンスとなる。まさに上から下まで各層のインド人たちが押し寄せてきて定住し、当時のラングーンはほとんど『インド人の街』となり、1930年代に入るころには市の人口のマジョリティをインド人たちが占めるまでになっていたのだという。
    イギリスの植民地であったビルマだが、インドがそうであったようにイギリス人たちの姿はごく限られており、市井の人々が政府機関に所属する白人を目にする機会はそう多くなかったようだ。それに引き換え中・下級官吏、軍人、警官としてインド『本国』からやってきたインド人たちは、彼らにしてみれば日常的に目にする支配者たちであった。ビルマが英領となるよりもずっと前から、イギリスが作り上げた社会システムの中で経験を積み、能力を高めてきたインドは各分野において人材の宝庫であった。イギリスが彼らを新たに編入した新天地に導入していくこと、インド人たちの間から『自国』の一部となり可能性に満ちた新天地に赴くことを希望する者が後から後から続くことはごく自然な流れであったのだろう。
    こうした人々が当時のビルマに近代的な統治機構、鉄道や道路といったインフラ、そして教育機関を次々に建設していくことになる。ちなみに1878年創立のラングーン大学(現在のヤンゴン大学)も元々はカルカッタ大学の一キャンパスという位置付けであった。1940年代から50年代あたりまでは、東南アジア地域きっての名門大学として知られ内外から多くの優秀な学生たちがここを目指してやってきたのだという。
    官の世界以外でも、商人、投資家、エンジニア、労働者その他としてやってきた人たちもまた都市部を中心に各々の領域を広げていく。こうした大勢のインド人たちの進出の結果、地元の人々の活躍の場、生活の糧を次第に蚕食されてしまうことになった。同様に大量に移住してきた中国系市民たちも地元の人々にとっては脅威であったようだ。
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    そうした動きの中でビルマの人々のナショナリズムが高まり、やがて1937年のインドとの分離へとつながっていく。ビルマの人々にとってひとつの快挙であり、独立に向けたひとつの節目であったのだが、インド系の人々にとっては印パ分離に10年先立ち、もうひとつの『分離』があったことになるのだろう。
    インド本土でも反英機運が高まる中、当時のビルマでは地元の人々による反英とともに反インド人、反中国人といったムードの中で、住み慣れた土地、不動産その他ここで築き上げてきた財産を手放してインドに戻る、あるいは他の土地に移った人々は多かった。これとは反対に、その時期までにインド本土に移住していたビルマ人たちも少なからずあったことだろう。政治の流れに翻弄された様々な人生ドラマがあったようで、訪問中に出会ったインド系の人たちからしばしばそうした話を耳にした。
    国が合併するのも大変だが、分離することもまた多くの痛みを伴うものである。インドと当時のビルマはもともとひとつの地域であったわけではなく、外来勢力であるイギリスにより合併させられたものである。印緬分離の10年後に起きた印パ分離独立のように元来不可分であった地域が、インドと東西パーキスターンに引き裂かれたときほどの強力なインパクトがあったとはいえないにしても、在住のインド系の人々にとっては非常に辛いものであったことは想像に難くない。
    現在のミャンマーによる自国の近代史の中における位置付けにあって、ナショナリズムの高揚による誇るべき快挙について、同国のマイノリティであるインド系の人々により『悲劇』として外に語られることはないだろう。
    現在のミャンマーによる近代史における視点からではなく、当時のインド系居住者たちにより書き残されたものがあればぜひ目にしてみたいと思う。
    〈完〉
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  • ヤンゴンのインドなエリア 5

    St. Mary's Cathedral
    インド人街を出てしばらく東に進むと聖マリア教会という立派な建物がある。四基地内で写真撮っていると男が手招きしている。聖職者か教会関係者であろうと思い、話でもうかがってみようと近づいてみると、『寄付をお願いしたいのですが』と言う。だがよく聞いてみると『彼自身に』ということだ。年老いた母親の面倒を見るためにお金が必要なので・・・』とか。彼自身は60歳前後あたりだろうか。欧州風の容姿から外国からやってきた教団関係者かと思ったが、この施設とは特に関係がないようだ。
    彼によれば父はイギリス人、母親はビルマ人であったそうだ。なかなか風格のある顔立ちで、ここの牧師だといえば『ああそうか』と信じてしまいそうだ。しかも非常に流暢な英語をミャンマー人らしからぬアクセントでしゃべる。かなり教養は高い人物なのかもしれない。今でも都市部では英国系ミャンマー人は決して珍しくないようなので、彼も本当にアングロ・バーミーズなのだろう。唐突にキプリングの小説『少年キム』を思い出す。これが『お金をくれ』と物乞いの手を差し伸べられる出会いでなければ、いろいろ話を聞いてみたいところではある。
    教会の扉は閉まっており周囲に誰もいない。初老男性とはいえいきなり強盗に早変わりすることがないともいえないので、穏便に相手をして適当な距離を保ったままそこを立ち去ることにした。

    (さらに…)

  • ヤンゴンのインドなエリア 4

    インド人街のムスリム地区にあるシナゴーグ
    インド地区のムスリムエリアの只中にシナゴーグがある。1896年に完成したThe Musmeah Yeshua Synagogueである。
    18世紀初頭あたりから現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたとされるが、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降である。その時代になると、ユダヤ教徒といってもインド人地区にあることが示すとおり、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒が多かったらしい。他にイランから来たもの、イギリスから渡ってきたものなども加えた一大集団が形成されていたという。1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、移民の流入にさらに拍車がかかった。
    第二次大戦前の最盛期には2500人ほどが生活していたそうだ。主に米、チーク材、綿花などの輸出業にたずさわっており、政府関係者としては軍人が多かった。19世紀初頭のユダヤ教徒移民たちはオピウムの取引にかかわる者も少なくなかったらしい。
    日本軍の侵攻前後に多くが国外、主にカルカッタへ逃亡したとされる。また1948年にビルマが独立して、彼らの商売の後ろ盾でもあった旧宗主国のイギリスが去ったこともコミュニティが敢えてこの地に留まる理由を失わせることになった。
    それでも当時新興国であったイスラエルとの関係が良好であったこと、そのころのビルマは東南アジア地域の中でも特に豊かな国のひとつであったことから、この地に残ったユダヤ教徒たちにとって比較的平穏な時が流れていたようだ。しかしビルマに残ることを選んだユダヤ教徒たちの多くに他国に出ることを決意させる出来事が起きたのは1962年に発生した軍によるクーデターである。それに続く基幹産業の国有化の波はユダヤ教徒たちの生業に対するとどめの一撃となったようだ。現在のミャンマーにはわずか8家族にして25名となったとされるユダヤ教徒である。
    前述のシナゴーグでは1960年代半ば以降、司祭は常駐しておらずかつては毎週行われていた礼拝もそれ以降中止されている。
    現地在住のユダヤ教徒はごくわずかとなっている今、この礼拝施設の維持等にかかる費用はここを訪れる海外からのユダヤ人観光客頼みになっているらしい。
    それも現在の政権と欧米先進諸国との関係において、非常に好ましくない状態が続いており、ここを訪れる団体客・個人客ともに減っているため、存続の危機にあるとも聞く。
    今回、私は訪れていないのだがMyanma Gone Yi Streetと交差する91st Streetにはユダヤ教徒墓地があるという。アウンサン・スタジアムの北東、Lutheran Bethlehem Churchの近くである。
    一時期インドの一部であったこともあるミャンマーだが、ユダヤ教徒を通じた印緬間の交流が盛んな時期もあったということは今回訪れるまで知らなかった。何かの機会があれば、いつかぜひ調べてみたいものだ。
    商業地の只中にある

  • ヤンゴンのインドなエリア 3

    バンコクのインド人街およびその他インド系の人々が多く暮らしている地域の場合、インド本国はもちろん、パーキスターンやバングラーデーシュとの間で人々の行き来は現在でも少なくなく、仕事や結婚その他で新たに定住する人のほか一時滞在者も多い。そのため古くからの居住者や数世代現地で生活しているインド系の人々が次第に現地化していっても、あとから続く新規移民たちによりコミュニティの中にインド(およびその隣国)の言葉、文化、生活習慣その他『現在進行形のインドらしさ』が新たに注入されていくことになる。
    1960年代に入るあたりまでは『タイより豊か』とまで言われていたというミャンマーだが、現在は周辺国に幾重もの周回遅れのトラックをヨロヨロと進むような有様。商業的にも生活水準においても、どこの国から見てもメリットを感じさせるものは何もない。軍政下であることもさることながら(主要民族であるビルマ族による)民族主義的色合いが濃い政権下にあり、外来民族であることの懸念もあるだろう。この国に住む人々には失礼だが、今の時代に南アジアの国からわざわざこの国に移住しようなどという考えを持つ人はまずいないだろう。
    そのため、常に新しい移民が後から続いてくるバンコクとの最も大きな違いは、ヤンゴンにはごくわずかな商用や観光等で訪れるインド(およびその周辺国)の人々はいても、ここに定住するため流入するインド系人口はまずないと思われることだ。ここでは父祖から代を継いで語り継がれてきた『旧い時代のインド』の記憶がコンスタントに風化していき、やがてそれらが自ら生まれ育った現地のものと入れ替わっていくのではないだろうか。
    ヤンゴンのインド人地区で文語としてはすでに機能していないように見えるヒンディー/ウルドゥー語ではあるが、この地域で保守的なムスリム、知識人、富裕層といった条件が加わると、とても流暢かつ語彙豊かにして本場風(!)アクセントで話す人もいるようだ。
    ヤンゴンの場合外は数は多くないもののインド(およびその周辺国)から商用や観光で訪れる人々以外に、新たに現地に定着するインド系人口はほとんどないものと思われる。
    地域に数多いモスクはそれぞれ先祖の地域ごとのトラストに属しており、信仰の場であるとともに同郷組織的な役割も果たしているのではないかと思われる。例えば『ベンガル人スンニー派モスク』といった具合である。
    祈りの場が父祖の地域性に直結するため、信仰心厚く知的にも経済的にもゆとりのある人が言葉の上での『インド人らしさ』をより強く保つことになるのは当然のことかもしれない。
    『ウルドゥーを理解すること』が彼らの信仰に結びついているがゆえではないだろうか、この地域のインド系ムスリムの人にしばしば『じゃああなたもムサルマーンなんだ!』(ヒンディー/ウルドゥーを理解することについて)と言われた。
    もとより地区では人口規模からヒンドゥー、ジェィンなどよりもはるかにムスリムの存在感が大きい。インド系以外にもペルシャ系、ごく少数ながらアラブ系の子孫も住んでいるそうだ。英領時代、繁栄した港町であったヤンゴンに希望を見出して移住してきた人たちの末裔なのだろう。
    外国人が利用できる宿が集まるエリアではあること以外、ここを訪れる旅行者の多くは特に興味を示すことはないようだが、意外にもかなり興味深い地域であるようだ。
    〈続く〉

  • ヤンゴンのインドなエリア 2

    インド人地区
    モスク
    ひとたび足を踏み入れると、コロニアルな建物+林立するモスク+亜大陸系の顔=インドのどこかで見たような空間・・・が広がっているのだ。
    街のあちこちで目にする黄金色の仏塔を持つパゴダと優しい顔をした仏様からなる世界とは打って変わり、アザーンの呼びかけが流れる街中を立派なあごひげをたくわえたオジサンや黒いブルカーを被った年齢不詳の女性が行き交う。次のブロックの辻では巨木のたもとにしつらえた祠にヒンドウーのカラフルな神像。『ああこんなところにインドが・・・』と思わず立ち止っているとプージャーリーが出てきて喜捨を求めるといった具合である。
    祠
    ミャンマーの総人口5300万人のうちインド系の占める割合はわずか2%というが、地域的な偏りが著しいようで、ヤンゴン、パテイン、マウルミャイン、シットウェーといった港町の商業地区に多いようだ。そしてヤンゴンのこの地区における彼らのプレゼンスの大きさときたら、まるでインドの飛び地であるかのような気がするくらいである。

    (さらに…)