続 劇場『雑踏』 2

さて、翌朝二日酔いで痛む頭を抱えて目覚めた私であった。前日は食事の後、宿の一階で彼らの与太話の続きに耳を傾けつつ、宿で知り合った人々とメコンウイスキーを飲んでいるうちに深夜になっていた。
ともあれ、この日は記念すべき初めての海外街歩きである。宿の一階で遅い朝食を済ませてから外に出る。すでに時計は11時を差しており、陽射しは強くジワジワと汗ばんでくる。小路を抜けて大通りに出ようかというところで女性が地図を手にしてキョロキョロしている。
「すみません!」と遠慮がちに声をかけてきたのは、当時の私よりもかなり年上の女性。
年のころ30前後くらいだろうか。きちんとした身なりの感じの良い女性だった。
「あの・・・この場所にブティックがあったのを知りませんか?」
彼女は以前この場所を訪れて気に入った店があったのだという。どう見ても住宅街の中の通りに過ぎないのだが、タイ国鉄のターミナスであるホアランポーン駅も至近距離にあるので、まあそういうのがあってもおかしくないだろう。
「土地の者じゃないのでわからないです」
そう私が返事をすると、彼女はバッグから取り出した地図とメモ帳とを見比べながら腑に落ちない表情。
彼女はシンガポールから旅行しに来たのだという。適当な世間話をしつつ、「暑い日差しの中でも何だから」と近くの店に誘って飲み物を注文した。
少し欧州系が混じったようにも見える風貌でやや大柄な美人、しかも明るくてとても感じの良い人だ。彼女は学生時代から旅行が好きで、近隣の国々によく足を延ばしていたという。「その中でもタイは特に好き」とのことで、結婚してからもときどきこうやって訪れているのだそうだ。「ご主人は?」と尋ねると「仕事が忙しいし、旅行嫌いだからたいていひとり旅になってしまう」とのこと。かなり裕福な人のようで、宿泊先も日本語のガイドブックにも出ているリッチなホテルだ。
今日はどうするつもりなのかと聞けば、「特に決めてないけど、もしよかったら一緒にどう?」ときた。きれいな女性と一緒に街を散歩できるとあれば、断る理由などどこにもない。すでに正午近くになっていた。トゥクトゥクで少し走った先にちょっと小ぎれいな店があり、そこで彼女と昼食。


食事を終えて外に出ると熱気が体中にまとわりついてくる。「暑いなぁ、こりゃ」しばらくウィンドウ・ショッピングをしていた彼女が突然体調の不具合を訴える。
「ごめんなさい。気分が悪くなっちゃって。暑さのせいみたい」
なんのなんの、高温多湿と二日酔いで調子が良くないのはこちらとて同じだ。
「もしよかったらホテルの部屋に遊びに来ない?涼しいし、フリッジに飲み物もいろいろあるわよ。シャワーでも浴びてスッキリすれば?」
冷たい飲み物とシャワーか、昨夜飲みすぎたことによる頭痛を抱えた私が今最も必要としているものだが、この際そんなものはどうでもいい。ひとり旅の奥さんの部屋に誘われた?なんかすごく面白いことになってきたではないか・・・と、いつの間にか手をつないで歩いている私の回らない頭の中で、彼女の豊かな胸元を意識しつつ、あられもない妄想がグルグルと行き来し始めた。
大通りを渡りしばらく歩いているうちに腑に落ちないものを感じた。彼女の言うホテルってこのあたりだっけ?昼食を食べていたときに広げたガイドブックの地図では、彼女の言うホテルはチャオプラヤー河沿いにあったはず。
「×××ホテルだったよね?」
「そうよ」彼女は涼しい顔で言う。
いつしか私たちはごちゃごちゃと建て込んだ下町に来ていた。近くに河が流れているとは思えない。また雰囲気からして高級ホテルがあるようなロケーションでもない。このあたりまで来て、ようやく脳裏に昨夜のSさんの情けない表情がフッと浮かんできた。
「コレって、ひょっとしてアレか?」
そう思うとス〜ッと背筋が寒くなるものがある。そういえばずいぶん出来すぎた話じゃないか。私がそんなにモテるはずがない。ちょっと冷静になって頭の中を整理してみなくては。
せっかくこんなキレイな人と知り合って、「ひょっとして?」と尻込みするなんて・・・という思いがあったし、もしもの場合でも勧められた飲み物に口をつけなかったら大丈夫だろうか?などというせせこましいことを考えなくもなかった。でも自分の身を賭してそんな大胆なことをするなら、当然どこかに武器を隠し持っているのではないか。そもそも女性が単身でこんなことをするとは思えない。相方に屈強な男性がいるだろう。しかも複数いるかもしれない。銃器なんかも手にしているのではないだろうか・・・?
すっかり我に返って緊張しまくっている私に彼女の腕が巻きついてきた。
「来て」
彼女が私の手を引いて行こうとする先は、道路反対側にあるタイ語の看板しかないちょっと煤けた建物であった。いかにも連れ込み宿といった風情だ。やっぱりそうか。こりゃいかん、逃げなくちゃ。
でもいきなり腕をふりほどいて走り出したら「泥棒!」なんて大声出されて、あたりの訳の分らない人たちに捕まって袋叩きになんていう展開になりそうな気がするし、そうでなくてもちょっと離れたところで動向を監視している彼女の仲間もあるかもしれない。いやすでにこの時点でヤバイかも?慎重に動きたいがすでにホテルは目の前だ。ここを切り抜ける妙案も浮かばない。
「ちょっとタバコ買ってくるからちょっと待っててね」
ついさきほど通り過ぎたところに雑貨屋があった。
「あ、これ持ってて」
ポケットに差し込んでいた地図を渡すと、彼女は腕を放してくれた。
歩いてきた方向へとひとりでゆっくりと戻る。店の前まで来て振り返ってみると、彼女はニッコリ微笑んでいる。
ダッシュ!
一目散に走り出すと、後ろから叫び声とも怒声ともつかない罵声が飛んできた。すぐ先の四つ角を曲がるときにチラリと目をやると、かなり後方を彼女が追ってきていた。さきほどまでの感じの良い笑顔に似ても似つかぬ般若のごとき形相で。
その後しばらく走り続けてホアランポーン駅があり人通りも多いラーマ四世通りに出て、ホッと一息ついた。
思えばあのころ、インターネットカフェやデジタルカメラもなかったし、バンコク市内を走るスカイトレインの工事は始まってさえもなかった。昨年スワンナープーム空港が開港するまで東南アジアのハブ空港のひとつとして君臨してきたドンムアン空港周辺はまだ農地ばかりだったと記憶している。当時とは街中の様子もずいぶん変わったが、今もどこかで似たようなことが起きているのだろう、きっと。
時が移れば新しい手口も出てきて、その気もないのにいつのまにか劇場『雑踏』の主演級の役を担わされている人もあることだろう。幕が下りるまでその舞台に立っていることさえ気づかずに・・・。
〈完〉

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