『買う水』の価格が変わらない

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 初めてインドを訪れたのは1987年だった。歴史的な建物ではなくとも、街中は何もかもが古ぼけくすんで見えて『ずいぶんレトロな国だなあ』と感じた。当時のインドに較べて少なくとも都市部では海外から輸入された電化製品や日用品等が多く店頭に並んでいたパキスタンに足を踏み入れると『消費生活の豊かさ』を思ったりもしたものである。
 もちろんそのころのインドにだってひととおりのモノは揃っていた。だがあまり購買意欲をそそるものではなかった。見た目からして貧弱でひどく型遅れで、事実すぐ壊れるからそのたびに修理することを前提として売られているのだと思った。電化製品、時計、履物類といった様々な『壊れモノ』を修理する職人たちが街中にあふれていることが、これらの製造者と修理人たちがどこか私たちの目の届かないところで固く手を結び合っているのに違いないと疑ったものである。
 もちろん今でもいろんな修理屋さんたちは健在だが、外資や地場資本等が同じ土俵でより良い商品をとしのぎを削るようになってから、街中で見かける品物の質は向上してきたことは間違いない。人々も次第に豊かになり、これまで一台の自転車に妻子を乗せて走っていた人がバイクに乗るようになり、一家総出で一台のバイクに鈴なりになっていた人々がクルマに乗るようになった。そして昔旧式の国産車やスズキ自動車との合弁で生産を始めていたマルチに乗っていた人々はいまや大型のRV車を乗り回すようになったのだろうか。


 人々が以前より多くの現金を手にするようになれば、当然物価も上昇していく。肉、卵、野菜、果物といった食品類、衣類その他身の回り品、書籍や新聞に雑誌類等々、それなりに価格は上がっていくものである。またここ数年間、ルピーの対ドル相場に大きな変化はないが、90年代半ばくらいまでは外貨に対して毎年一割強くらい切り下がっていたように記憶している。1987年あたりでは、両替すると1米ドルに対して12〜13ルピーくらいにしかならなかったはずだ。
 20年くらい前と今ではルピーの持つ価値がずいぶん違ってきているし、モノの価格だってずいぶん異なる。それでも店頭で購入する『ミネラルウォーター』の値段は不思議なくらい変わらない。当時から1リットルのペットボトルで10〜12ルピー前後であった。 
 だから当時はずいぶん割高に感じた『店で買う水』である。この高い水は大きな街ではすでによく見かけるものとなっていたが、田舎では見当たらなかったりした。それでもメジャーな観光地では店に置かれていたものの、日付がとても古くて水道水のほうがよっぽど安全そうであるのに、ずいぶん高い値段を言う店のオヤジもいた。
 その『水』が今でも10〜12前後。外貨換算すると相対的にとても安くなった。当時の約四分の一くらいということになるのだから。
 80年代末ごろ、コルカタ郊外に住むベンガル人友人の家ではこんなことがあったそうだ。
『あるとき、アメリカ人と結婚したいとこが家族を伴って訪ねてきた。彼女はこの界隈で育ち小さいころからよく一緒に遊んだものだ。暑い最中にやってきた彼らをこの部屋に通して最初に水を出してあげた。すると彼女自身はもちろん、彼女の旦那も子供たちも顔を見合わせたまま誰もそのコップに手をつけなかった。家族みんながとてもショックを受けたよ』
 彼の家はバラモンだが、まさにその家人が出した水にお客が口を付けることができなかったというのがとても屈辱だったらしい。
『確かにこっちにも問題があった。何しろ普段ガブガブ飲んでいる水だよ。そういう普通の水が実は衛生上問題があるなんて思いもしなかったからね』
 それをきっかけに彼の家ではモダンなフィルターを通す浄水器を設置するようになったのだという。
『おかげでお客が来てウチの水が飲めないなんていう恥ずかしい事態はその後起きていない。それに自分たちとしてもキレイな水を飲んでいるっていう安心感はいいものだね』とのこと。
 
 ある程度経済的にゆとりが出てくると、日々の生活のありかたを見直すことも多々出てくるだろう。こういう時代に入ってから自宅に浄水器を置いたり、ミネラルウォーターを買ったりという層が増えてくるのは自然なことだ。店で販売される水の価格が変わらないというのはまさにその売り上げが急カーブを描いて上昇してきたことの証であろう。『より多くの人が買うようになった。だから安くなった。するとさらに多くの人々が買うようになった・・・』ということが繰り返されてきたのだろう。タイやマレーシアといった隣国からは一足(二足?)遅れて家庭やオフィス需要などをアテこんだ大ボトルも今や定着している。
 ここ20年ほどミネラルウォーターの価格がほとんど変わらない背景には、人々の暮らしや意識の変化が透けて見えるようである。 

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