ダマン3 ポルトガルの名残り

植民地時代の遺物沢山のモーティー・ダマン(大ダマン)と違って、ナーニー・ダマン(小ダマン)では、いくばくかの家屋と城塞以外はポルトガル時代の建築物があまり残っていないとはいえ、往時を感じさせるメルカード(マーケット)がある。ここでは、ポルトガル人やメスティソのお客相手にポルトガル語をおぼえた土地の物売りたちが商っていたことだろう。

MERCADO J. M. FALCAO DE CARVALHO CONSTRUIDO 1879とある。

こちらはナーニー・ダマンの要塞。ダマン・ガンガーがアラビア海に注ぐ河口近くにあり、高い壁に囲まれた敷地内には教会と墓地がある。1961年12月にゴアやディーウとともにインドが軍事力で奪還したダマンだが、ここの墓地を散策すると判るのだが、1980年代くらいまでは墓碑がポルトガル語で記されることが多かったようだ。その後はほぼ英語が使われるようになっている。かつては隣にあった古風なリーディングルームを持つ図書館は取り壊されており、新たに公園を建設中であった。

ナーニー・ダマンに残るポルトガルの要塞「ST. JEROME FORT」

要塞内部

要塞を囲む高い壁の上はこうした通路になっている。かつて歩哨が立っていたのだろう。

要塞の中にある教会

要塞内にある墓地

ダマン・ガンガー河口付近

徒歩で橋を渡り、モーティー・ダマンへ。ゲートをくぐって通りを進んでみる。ラテンアメリカの街と同様、「セントロ」があり、公園を中心にして、主要な役所、大きな郵便局、立派な教会などが配置されている。

市役所、郵便局、銀行、教会などが四角い広場に面していて、そこが街の中心となっている・・・というパターンは南米と同じ。ローマンカトリックの聖堂がいくつもあり、インドではなくラテンアメリカに来ているような気にさえなる。ここには刑務所もあるが、立派な建物で歴史的な価値も大きい。

この公園の周囲に役所その他の大きな公共施設が配置され、「セントロ」が形成されている。

こちらは、ポルトガル領の1581年から続くダマン市役所。貴重な歴史的価値の高い文書なども保存されているのだろうか。そういう行政資料は当然保管されているべきものであるが、当時の体制が継続しているわけではないため、どこか別の場所に移管されているのかもしれないが、そこのところはわからない。

438年の歴史を持つダマン市役所

ゴアと同じく旧ポルトガル領のダマンだが、建物のどこかがゴアと大きく違うと思い、よくよく考えてみると、石材であった。コンカン地方にふんだんにあり、赤茶色のラテライト石。大きな気泡を含むが硬質で、ゴアの建築でふんだんに使用され、畳や建物外の階段のように剥き出しになっているところ、メンテナンスが悪くて漆喰が剥げ落ちているところなどに、その荒々しい石肌が姿を見せる。グジャラート界隈でその石は採れないため、ここでそれを目にすることはない。

ここの教会では、カメラによる写真撮影は禁止だが、スマホでならばOKと言われる。こういうケースはたまにあるのだが、カメラではダメでもスマホならば良いという論理がよくわからない。商業使用する場合には撮影両を徴収したいが、ケータイならば画質が大きく落ちるのでそういう利用には向かないであろうから可ということなのだろうか?もっとも最近のスマホは、ちょっとしたコンデジを凌ぐ写りのモデルが少なくないのだが。

教会のミサの時間帯等が貼り出されていた。このあたりのカトリックの人たちとなると、すべてグジャラート語で執り行なうことができるはずだが、他の言語でのミサもあったりするのは、その言葉がわかる、わからない以外の象徴的な意味とともに、そして参列者たち自身の選別の意味合いもあるはずだ。

意外だったのは、ポルトガル語でのミサの時間帯がけっこう多いことだ。ポルトガル語世代といえば、ダマンがインドに復帰した1960年代初頭以前に教育を受けた人たちで、今では相当な高齢者層だ。

教会の世話人に尋ねてみると、モーティー・ダマンのフォートの南側に暮らすコミュニティがあり、彼らは老いも若きもポルトガル語でのミサにやってくるとのこと。若い人たちについても「あの人たちは、普通にポルトガル語がわかりますよ」とのこと。

ちょっと興味がわき、そのポルトガル語での礼拝時間に潜り込み、終わったら突撃インタビューをしてみたいような気持ちになるが、今回の旅行の目的はそこではないし、時間もない。肝心のポルトガル語はまったく知らないので、ホントに通じるのか検証さえできない。

こちらはダマン解放記念碑。1961年12月のインドの陸海空三軍による電撃作戦(Operation.Vijay)により、ゴア、ダマン、ディーウはインドに復帰、450年間続いたポルトガルによる支配は終焉した。もっとも「復帰」といっても、今でいうところのひとつの国としてのまとまりの「インド」の概念が出来上がる前からポルトガル領であったがゆえに、軍事作戦敢行以前から高圧的に返還交渉を進めていたインドによる「侵略」に対して、ゴア等の市民は戦々恐々としていたらしい。「インドが侵略しようとしている!大変!!!」という具合に。文化も習慣も違う、しかも貧しいインドに征服されるという恐れのみならず、ポルトガル体制下で繁栄していたエリートや官吏などについては、財産や職を失う危機とも映ったようだ。

ダマン解放記念碑

軍事力で排除されたポルトガルだが、自国領インドの官吏に対しての面倒見は悪くなかったようで、希望者には当時まだポルトガル領だったモザンビークでの仕事を斡旋したそうだ。(だがこの後モザンビークは内戦に入り、移住したゴア人たちは散々な目にあっている。)
インド側にとっては輝かしい「解放」であったが、地元側にとっては侵略であり征服であったため、インド政府はこれらの土地を中央政府直下の連邦直轄地とし、情勢を細かくモニターしていくとともに、教宣活動にも取り組むこととなった。(連邦直轄地ゴア、ダマンとディーウからゴアが抜けてゴア州成立したのは1987年)
日々歴史は刻まれていくが、これを書き綴るのは、常に勝者の側である。

蛇足ながら軍事作戦前、インドがポルトガル領ゴアの返還交渉がうまく進まない中、インド本土からポルトガル領インドへの物資の移送を禁じて兵糧攻めにしていたとき、ポルトガル領インドと当時のパキスタンとの間の蜜月期間があった。つまり食料等の物資不足に悩むポ料理インドへ、カラチからいろいろな品物が海路で輸送されたのだ。まさに敵の敵は味方という構図だ。

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