80年代後半の「ネコババ事件」

パンジャーブ旅行にきて、ふと思い出したことがある。カリスターン運動が激しく燃え上がっていた80年代後半、インドのパンジャーブは、外国人にとって、事実上オフリミットとなっていた時期があった。

「事実上」というのは、内務省発行の入域許可書があれば、「3の付く日」つまり、毎月3日、13日、23日に国境近くのアムリトサルの街に直行するバス(基本的にはデリー発、場合によってはハリヤーナー州のアンバーラーから出ることもあったように記憶している)が出ていた。乗車することができるのは、降車してからすぐに国境を越えてパキスタンに行く人たちのみ。そんな具合だったが、状況によっては運休となることもときどきあった。

今の平穏なパンジャーブの様子からは想像も出来ないが、スィク教徒の分離活動家たちによる要人誘拐、殺害その他の乱暴狼藉が日常茶飯だったのだ。州の政治家、州政府役人、パンジャーブ警察、軍人の中にスィク教徒が占める割合が高く、同じスィク教徒の親インド派と先鋭化した分離独立派の抗争という側面もあった。

個人的な話になるが、そんな時代に「猫ババ事件」は起きた。

当時、ニューデリー駅前のパハールガンジ地区にあったハニーゲストハウスのドミトリーに泊まっていた私に、同じ大部屋に宿泊していた1人が声をかけてきた。
「俺、これからすぐに出てアムリトサル行きのバスに乗るんだ。○○号室の✕✕に渡さないといけないお金があるけど、奴は今部屋に居ないんだ。だからよろしく頼む。絶対渡してくれよな、頼んだぜ!」

私は一度は断った。確か50ドル相当のインドルピーだったと思うが、当時のバックパッカーにとっては、ちょっとした大金だ。ちょっと節約すれば、100ドルでひと月滞在することが可能だった時代だったので、半月分の生活費ということになったからだ。そうでなくても、よく知らない相手のお金を預かり、これまたよく知らない相手に渡すというのも実に困る。当時、駆け出しの旅行者(笑)であった私は、旅慣れた年上の男の押し出しの強さにすっかり腰が引けていた。

「今日の夕方に出て、鉄道でネパール国境に行くので・・・」と言っても、「いや、俺は今の今すぐに出なきゃならないから。よろしくな!」とベッドに現金を放って出ていってしまった。

そのとき、ドミトリーには私しかいなかった。すでにチェックアウトしていたのだが、出発の時間まで、空いているベッドに寝転んでいても何も言われないという、実に鷹揚な宿であった。実際のところ、宿泊者が何人いるのかマネージャー自身が定かではなく、ドミトリーに「点呼」しに来ることもあるといういい加減さであった。

さて、私は✕✕という男の顔さえも知らない。しばらくしてから、彼が滞在しているという部屋をノックしてみたが、やはり不在だった。私が宿を出る時間まで、ドミトリーには誰もいなかったので、後を託すこともできなかった。

仕方がないので、ネパールに入ってからは、ネパール通貨に両替して、自分の旅費の足しにしたのだが、カトマンズにあったストーンハウスロッジのドミトリーに滞在していたとき、同宿の人たちと食事に出ると、こんな話が出た。

「俺なぁ、日本人にネコババされたでぇ。」
彼が言うには、デリーで泊まっていた宿で、どういう経緯なのかよく判らなかったが、同宿の日本人から返してもらわなければならないお金があったものの、相手の男は彼が宿に戻る前にドロンしていたのだと言う。

場所はまさにハニーゲストハウス、時期もだいたい同じくらいなので、どうやら私に無理やりお金を押し付けたあの男のことのようであったが、金額は私が預かったものの倍くらいのことを言っている。彼が話を膨らませているのか、それともあの男が半分の金額だけ私に預けたのかは知らない。

ここで「あぁ、僕が預かったのはその半分だったけど」などと口にすると、ロクなことにならないのは明らかなので、黙って相槌を打ちながら話を聞いていたが、たいそう居心地が悪かった。

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2 Responses to 80年代後半の「ネコババ事件」

  1. 遠藤 孝子 says:

    いつも楽しく拝読しております
    懐かしい思い出~~~そのころは、確かにそんな感じの空気でしたよねぇ~~
    何事もグルグル回っているから~~
    インドやネパール、スリランカ80年代に初旅行した時の事思い出してまする♡♡
    ギラギラしてるパンジャブにも行きたくなりました

  2. ogata says:

    当時は、パンジャーブ州が不穏でしたし、反政府活動が盛んであった北東州は、入域制限が厳しく、アッサム州でさえも訪れるのは難しい時代でした。デリー、カルカッタその他の大きな都市で、モンゴロイドの顔立ちをした「インド人」と出会うと、そうした人たちが暮らす東北部には、とてつもなくミステリアスな光景が広がっているかのように感じられて、ワクワクしたものです。
    また、インド全体として、まだ華やかさはなく、ほとんどすべてのモノが国産品で、外資系企業も極めて少なく、テレビ等のメディアも自国のもので完結しているような具合でしたから、外界とはかなり縁薄い、「インド世界」であったように思います。
    時代とともにずいぶんいろいろと変わるのは、どこの国も同じですね。

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