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カテゴリー: politics

  • 新型コロナワクチン接種で観光客回帰?

    1月14日からセイシェル共和国は「新型コロナワクチン接種済」の観光客を検疫等の制限なしで受け入れることを開始した最初の国となったそうだ。

    One island welcomes all vaccinated travelers — but some may want to wait (CNBC)

    現在は同様の措置をネパールも検討中とのことで、これと同様の措置により接種済の証明書を持つ人に対してはPCR検査も隔離もまったく求めず、アライバルビザの復活も併せて検討中であるという。

    Nepal to allow unrestricted entry to vaccinated tourists (Kahmandu Post)

    とりわけこれまで観光に依存してきた国にとっては、今回のコロナ禍により経済が「生きるか死ぬか」になっているところは多い。同様の検討を勧めているところは少なくないはずだ。

    もちろんセイシェルがこのような措置を開始したといっても、観光客の送り出し国では帰国時に従前どおり「14日間の隔離」をそう易々と停止することも現状ではなさそうだ。加えて旅客機の国際間の定期便も激減している中で、セイシェルが期待しているとおりには事が運ばないように思われる。新型コロナウイルスについて、まだわかっていない部分も多く、始まったばかりの接種の効果も未知数の部分もある。

    今後、その効果と集団免疫の達成状況、そして各国間の合意等を経ることによって、「海外旅行」の機会が私たちのもとに戻ってくることになるのだろう。まだしばらく時間がかかるのだろう。

    個人的にはセイシェルには関心はないが、「早く接種してネパールを訪問したい」と思っている。しかしながら現状では、帰国時には2週間の隔離があるだけでなく、「自粛ムード」の中でたとえ航空券が手に入っても、行けるのか?という面も大きなハードルである。

    やはりまだしばらく先のことにはなりそうだが、それでも各地で接種が始まっていたり、開始が予定されているワクチンが大変有効なもので、「接種さえすれば海外渡航も行動も制限なしで当然」というムードが醸成される、ごくごく近い未来に期待したい。

  • 「ヒルステーション」としてのラーンチー④

    連合軍墓地を訪問するとき、Uberタクシーのアプリに「War」と入れたところで「War Memorial」と出たので迷わずタップしてクルマを呼んだら、まったく見当違いの場所に連れて行かれてしまったのだが、これが意外に良かった。

    到着してUberを降りてみると、連合軍墓地ではなくインド軍の駐屯地であったのだが、少し戻ったところに「War Memorial」なるものがあり、警備しているインド軍兵士が扉を開けて招き入れてくれた。なんでもシャヒード(殉死)した兵士に捧げる記念碑と小さな博物館があるのだと言う。ここは、独立後のインドの戦争で没した兵士の記念碑と博物館であった。(残念ながらこれら施設内は撮影禁止)

    博物館にはここに駐屯する師団に関する展示もあり、英領時代から現在までの指揮官の名前、ときには作戦の中での写真なども展示されていた。そう、インド軍は独立後から始まるのでなはなく、英領時代からずっと継続している組織であるため、伝統ある師団や連隊などの英領時代の将校は独立後のそれらと同じように尊重されるのだ。

    また、こんな例もある。1803年に構成された騎馬連隊、英印混血のジェイムス・スキナーが率いた通称Skinner’s Horseの流れを引く現在のインド陸軍の騎馬連帯を、まさにそのスキナーの子孫が率いるということが話題になったことがあった。スキナーの子孫が今でもインドにいて、しかも陸軍軍人というのには驚いたが、しかも先祖がかつて占めたポジションに就いたがゆえに、大変な話題となった。

    もちろん今の時代の騎馬連隊の活躍の機会は、儀礼や式典などではあるが、植民地時代にアフガン戦争、スィク戦争、1857年の大反乱の鎮圧等々、華々しく活躍した栄光の騎馬連隊の象徴は、やはり創設者の「ジェイムス・スキナー」であるがゆえに、その子孫が再び指揮を取るというのは、またとない奇跡であり、栄光の再来でもあったのだ。

    〈続く〉

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 「ヒルステーション」としてのラーンチー③

    「ヒルステーション」としてのラーンチー③

    英領期の名残を求めて次に訪問したのはゴスナー福音ルター派教会(Gossener Evangelical Lutheran Church)。「ゴスナー」という部分から想像できるとおり、ドイツから渡ってきた宣教師たちによる福音派の教会だ。植民地時代のインドでは、英国国教会だけでなく、実にいろいろな国からの教会が活動していた。

    中を見学してみるつもりだったが、ちょうど結婚式が進行中であった。しかも外で何組も待っているため、それぞれの式が順番に執り行われた後、それぞれの披露宴の会場へと向かうのだろう。敷地内は賑々しく、楽しげなムードに満ちていた。末永く幸せに!!!

    ラーンチーには、「War Cemetery」として知られる連合軍墓地もある。ここを訪問すると言ったら、地元の複数の人たちから「あのあたりはミヤーンローグ(ムスリムの兄ちゃんたち)が多いからバチケーレへナー(気をつけて)」と言われた。このあたりは確かにムスリム地区だ。ガラの悪いのが多いのかどうかは知らないが、ときどき問題が起きたりしているのかもしれない。

    兵士たちの墓碑を見て回ってみると、ずいぶん若くして亡くなった人たちが多い。18歳、19歳、25歳、21歳、23歳・・・。中には40代の者の墓碑もあるが、言うまでもなく最前線で戦うのは階級の低い若者たちなので、当然そういうこととなる。英国系の名前が多いが、英国人、豪州人、ニュージーランド人などが含まれる。墓標の多くには十字架が刻まれているが、少なからずダビデの星のものもある。ユダヤ教徒の兵士たちだ。また当時のアフリカの英領地域から出征した人たちのものもある。

     

    私たちの祖父の世代の人たちが、この墓碑の下に眠る人たちと死闘を繰り広げた。世話人によると、埋葬されているのはビルマ語戦線及び日軍によるインパール侵略の防衛にあたった兵士たちであるとのこと。日本ではインパール作戦は全く無謀な、最初から勝ち目のなかった作戦であったと言われているがそうではなかったという話が防衛する側にはある。

    守備側にとっては、インド東部全体が日本軍の手に落ちるかもしれないと、大変な危機感を持ってインド各地からはもちろん、東南アジアやアフリカなどの英領地域から兵員をかき集めて、これまた必死に防衛に努めるという、英国側にとっても「負けることの許さるない厳しい戦い」であったのだ。

    個人的には相互に傷つけ合う理由さえない若者たちが上官の命令により、国のためという建前のために大切な命を落としてしまったのだ。戦の大義はどうあれ、戦争で命を落すことは「究極の無駄」だ。個人の命の重さは国家の大義にはるかに勝る。何が起きても「国のために死ぬ」などということは決してあってはならない。

    以前、ナガランドのコヒマにある連合軍墓地を訪問したことがある。記念碑に刻まれていた言葉が胸を打たれた。兵士自身が残した言葉かどうかはわからないが、若くして亡くなった兵士たちの無念さが伝わる一文だ。

    WHEN YOU GO HOME

    TELL THEM OF US AND SAY

    FOR YOUR TOMORROW

    WE GAVE OUR TODAY

    命を投げ出すこととなった彼らへの供養があるとすれば、戦争のない未来が永劫に続くことしかあり得ない。

    連合軍墓地のすぐ近くには、英領期から続くクリスチャンの墓地もあり、広大な緑の芝生の敷地の中に白い十字架や墓標が散在していた。残念ながらここの場所に気が付いたときには夕方になっており、ゲートも閉鎖されていたため見学することはできなかった。

    こらちは英領期から続く現地在住クリスチヤンたちの墓地

    〈続く〉

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 「ヒルステーション」としてのラーンチー②

    「ヒルステーション」としてのラーンチー②

    おそらくラーンチーの英領時代の面影を色濃くの残す地域は、ラージバワン(州首相官邸=英領時代は統治責任者の舘)界隈なのだと思うのだが、それらしきものはあまり残っていないようだ。

    そんな中にオードリー・ハウスという建物があり、現在はラージバワンの敷地の一部となっており、ここの敷地内が往時をしのぶのにちょうど良さそうだ。外から見る限りでは、後世に加えられた不自然な構造物はほぼないように思われる。

    建てた当時とは社会環境が異なるのでかなり改変が見られるのが常。典型的なものとしては、「天井」の例がわかりやすいだろう。インドでは暑季に高温となる地域が多く、暑季節そのものも長いため、英国本国の同時期の建物よりも、かなり天井が高くなっているのが常だ。

    ところが今の時代になると、空調を使用することが多いが、果てしなく高い天井であってはエアコンをいくら回しても冷えないため、オリジナルの状態からは想像もつかないほど、低いところに天井をしつらえている。他にもいろいろあるが、英領時代とは仕事や生活のインフラが異なるので、建物の内外が必要に応じていろいろ改変される。

    だがラーンチーの比較的冷涼な気候が幸いしてか、このオードレー・ハウスは、建築当初ほぼそのままの姿を今に伝えているようだ。ゲートから向かって左側のウイングがアートギャラリー、右側のウイングは文化イベントの開催用に使用されている。建物自体がオリジナルの状態に近いため、オードリー・ハウスの敷地内だけは、今も「ブリティッシュ・ラージ」の雰囲気が濃厚に感じられる。

    前にも触れたが、かつてラーンチーは「ヒルステーション」として知られていた。政府や軍その他の業務に従事していた英国人たちの中で、熱病や結核はもちろんのこと、心を病む人も多かったという。慣れない土地での勤務からくる心労は多く、今でいう適応障害に苦しむ人もあれば、パワハラなどに悩まされた人たちも多かったことだろう。もとよりまだ「人権」の概念が確立していない時代である。

    そんなわけで、ヒルステーションにはサナトリウムや各種病気の治療のための施設は付き物であった。冷涼な気候が患者の負担を軽減し、治療に利するとされたのは言うまでもない。

    そんな中で、当時で言うところの「癲狂院」が沢山あったと言われるラーンチーだ。今となっては不適切な呼称だが、今でもヒンディー語では一般的にそう呼ばれている。「パーガル・カーナー」。文字通りの「癲狂院」であるが、驚くことに、新聞などメディアでもそう表記しているのを見かけたりする。

    〈続く〉

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 元大統領 プラナブ・ムカルジー逝去

    1935年に英領インドのベンガル管区に生まれた彼は、国民会議派政権で外務大臣、財務大臣、商工業大臣、国防大臣等の要職を務め、2012年から2017年まで大統領を務めた。党を越えて信頼を集めた大物。

    国民会議派の政治家(2012年に大統領就任に伴い国民会議派を離党)としては、もはや最後の「信条や政治的志向を問わず万人から別れを惜しまれる」人物かもしれない。

    広く尊敬を集めた彼であったが、最期は大往生というわけではなく、脳の血栓を取り除く手術を受けて成功したものの、容体が悪化して息を引き取った。手術前に新型コロナへの感染が確認されていたため、コロナ関連死ということになるのかもしれない。

    氏の葬儀については、コロナ感染下における通常の警戒のみならず、遺体についても新型コロナ感染者であったことから、厳重な対応を施したうえで執り行われるとのこと。

    ご冥福をお祈りします。

    Pranab Mukherjee: Former president of India dies after Covid diagnosis (BBC NEWS)

  • コールカーターの通りの名前

    ベトナムを訪問した際、とうの昔に「ホーチミン市」と改名したにも関わらず、誰もが「サイゴン」と呼び、文字でもそう書かれていた。ベトナムの独立の父として尊敬されている「ホーチミン」だが、政府がそれを市の名前にしようとしても、公式文書以外ではなかなか定着しないのだ。

    同様のことがインドでもある。ストリートの名前、地名が政府によって改称されても、それが本当に市民の間で定着するかどうかは別の話。

    たとえばコールカーターを例に挙げてみても、今でも英語で言及する際には「カルカッタ」と呼ぶ人は少なくないが、混乱するのはストリートの名前だ。

    コールカーターでは、ストリートの名前は同じ通りについてふたつあることが多いと思って良いだろう。なぜならば英国人に因んで付けられた名前はインドの偉人の名前に置き換えられて現地化が図られているし、そうでない場合でも変更されていることが多い。

    訪問者にとって面倒なのは、政府関係機関が印刷した地図(観光局でくれる地図を含む)に記されたストリートの名前がまったく世の中に浸透しておらず、植民地時代の名前で広く知られていることが多いことだ。また新聞等メディアや出版社から出た刊行物でさえも市民が普段使っている通称(=植民地時代の名称)で記すことが多いからだ。

    代表的な通りの名前でもChowringhee StreetをJawaharlal Nehru Roadなどと言ったら、「ん?」という顔をされるし、Park StreetのことをMother Teresa Saraniと言えば、一瞬間をおいて「もしかしてPark Streetのことかね」と言われるかもしれない。あるいは理解してくれない人もいるだろう。

    「Ballygunge Road」をタクシー運転手にAshutosh Chowdhury Avenueと告げたら、彼は「どこだそりゃ?」となるだろう。サダルストリート界隈ではFree School StreetをMirza Galib Streetと呼べば、首をかしげて「Free Shool Streetと言う」と訂正されるだろう。KYD STREETに至ってはDr. M. Ishaque Steetなんて呼んだら完全にアウトだ。おそらく誰も理解してくれない。政府が勝手に変えた名称ではなく、「元々こういう名前なのだ」として人々が知っている名前が堂々とまかり通るのだ。これは企業や商店などの所在地の表記においても同様で、普段市民の皆さんがなれ親しんでいるほうの表記で書いてある。

    そんな状況なので、政府の命名による不人気なほうの名称はいつまでたっても浸透しない。

    政府関係の機関ならば、政府の命名したもので表記しているかと言えば、そうではないのは、たとえば地下鉄の駅出口の表記を見ればわかるだろう。「なんとかストリートはこちら」というような案内版は市民の間で通用しているほうで表記されている。そうでないと表示する意味がないからであろう。もちろん駅名も同様で、先述の「Park Street」の名前の付いたメトロの駅がある。コールカーターでは政府による改名を拒絶するかのように、古い名前が多く現役として使われているのだが、インド全土でそうというわけではなく、むしろ改名されたら、そちらのほうが次第に優勢となるケースが多いだろう。

    だが不思議なのは、市民が「何が何でも昔ながらの名称」にこだわっているわけではなく、新しい名称のほうが通りが良いものもある。例えばBBD Bagh (旧称Dalhousie Squair) やChittaranjan Avenue (旧称Central Avenue)のような例もあるからだ。

    旧名が英国の特定の人物の名前が冠されている場合、対抗するようにインドの偉人、とりわけ地域ゆかりの人物の名前を付ける場合が多いが、デリーのQueens WayがJan Path(人民路)となったように、独立後の民主主義インドを象徴するような改名もあった。

    傑作はベトナム戦争時期に、当時ソビエトブロックにいたインドが示した北ベトナムへの連帯感だろう。コールカーターでは、アメリカ領事館が位置するHarrington StreetをHo Chi Minh Saraniに変更して、アメリカを激怒させた。当然、アメリカは強硬に抗議したようだが、「偶然による一致である」と涼しい顔であったと聞く。

  • コロナ禍の世界をインドが救うか

    パンデミック下の世界に対してインドが大きな貢献をすることになるかもしれない。

    いわゆる「クロロキン」として知られているマラリアの治療・予防薬が、新型コロナウイルス感染症の治療にも応用できるかもしれないからだ。

    なぜそこで「インドが」であるのかと言えば、毎年1,500万人もの人々が罹患する「マラリア大国」であるのだが、同時に世界有数の工業国でもあるインドは製薬の分野でも大きな存在感がある。おそらくクロロキンの生産、備蓄ともに世界一である。

    しかしながら、新型コロナウイルス感染症蔓延に伴い、自国消費が急拡大することが予想されるため、この薬品の輸出を一時的に禁止していた。

    そのため今月初めにアメリカのトランプ大統領がイントにクロロキンを大量に提供するようにと、半ば脅しも含めた依頼をしており、これに対してインドはアメリカに貸しを作る形で了承している。

    すると当然ながら他国からも同様のリクエストが相次ぐわけで、突如としてインドの「クロロキン外交」が始まったと言える。インドはこれまでの方針から方向転換して、国外へのクロロキン輸出を許可することを明らかにしている。国内の製材各社に対して、インド政府は大増産の発注をしている。

    果たして、本当にクロロキンが新型コロナウイルス感染症治療に対して顕著な効果を示すことができるのかはまた未知数だが、既存の医薬品が高い効果を示し、まさに「インドが世界を救う」ことを期待したい。

    Hydroxychloroquine: India agrees to release drug after Trump retaliation threat (BBC NEWS)

    Why the world is hungry for a coronavirus drug made in India (DW)

    India ready to help its friends in crisis: Modi (the pioneer)

  • デリーの暴動

    新型コロナ騒動に影に隠れて、あまり国際的に報じられていないが、1985年以来、デリーにおける最大規模と言われる暴動が起きた。先月下旬のことである。

    1985年の暴動とは、言うまでもないが当時のインディラー・ガーンディーが自宅でスィク教徒の護衛に射殺された事件への反応として発生した大規模な反スィク教徒暴動のこと。犠牲者を沢山出したスィクコミュニティの中で、この事件をきっかけとして「信仰はスィクだが散髪し、ひげも剃る」という人たちが増えたとも言う。

    デリー北東部、主にヤムナー河の東側にあるカジューリー・カース、ゴーグルプリー、マウジプル、ジョーティ・ナガル、カルダムプリーといったあたりが、その暴力の吹きすさぶ地となった。暴徒により、居住しているムスリムの人々への大がかりな攻撃が行われた。
    CAA(改定市民法)、NRC(国民登録簿)の問題と反対運動は、当初ヒンドゥー至上主義的な政策vs世俗主義の対立であったが、いつの間にかヒンドゥーvsムスリムというコミュナルな対立にすり替えられてしまったかのようだ。

    この暴動の際、先のデリー準州議会選挙勝利により、2期続いて政権を担うことになった庶民党(AAP)のイスラーム教徒の活動家が、ムスリム側の暴徒の一味として、自宅にたくさんの武器を隠匿していたとして逮捕された。

    これに対して党主のアルヴィンド・ケージリーワル他の指導部は関与を否定するとともに対応に追われたが、この「活動家」とは、比較的最近になってから庶民党に加わったらしく、対立する陣営から送り込まれた工作活動家では?という疑惑がある。

    こうした暴動の際、「事前にターゲットとなるムスリム所有の建物に目印が記されていた」とか「暴徒を率いるリーダーらしき者に地元の協力者が『この店はムスリム』、『こちらの店はヒンドゥー』」と案内していたとかいう話がまことしやかに流れるが、真偽のほどはよくわからない。

    個々の民家の場合は掲げられている標札の名前で居住者の信仰は判るし、地域的な属性さえも明らか(主にUPからパンジャーブにかけてのジャート、ベンガーリーのムスリム、ヒマーチャルのブラーフマン等々)なことが少なくないが、ビルや商店となると必ずしもそうではない。

    そのため、明らかに特定のコミュニティがターゲットとするため事前工作や協力者による誘導があったとすれば、そうした選別は可能となるだろう。

    リンク先記事中の一番下に掲載されている写真を見ていただきたい。
    卍の印がついたヒンドゥーの家は無事であるらしいことを示しているのは、報道者の意図だろう。おそらくこの現場では、明白な選別が行われていたことを伝えたいのだと推測できる。

    こうした暴動の最中にも、襲撃されそうになっていたムスリムの人たちを大勢、安全なエリアに避難させたというスィクの若者、近隣のムスリム家族を自宅にかくまったというヒンドゥー紳士などの話もテレビニュースで伝えられていたのは幸いではあった。

    今回の暴動について、政治の関与についても言われているが、思い出すのはちょうど18年前の同じ時期に起きたグジャラート州での暴動。当時、同州のトップとその右腕は今の中央政府のそれとまったく同じコンビであった。これは単なる偶然か、それとも・・・。

    Delhi’s shame (INDIA TODAY)

  • 大王の叛乱

    大王の叛乱

    インディア・トゥディ(ヒンディー語版)の3月25日号がタブレットに配信された。今号の目玉特集は、表紙にもなっているが新型コロナウイルスの感染症蔓延が与える経済への打撃。これは誰もが気になるところだ。

    表紙にもなっている「コロナによる深刻な影響」

    そしてもうひとつは、「大王の叛乱」と題して、グワリヤル(日本のガイドブックなどでは「グワリオール」と表記する例が多い)王国の「世が世なら」の「王子」いや父君はすでに他界しているため「王」として君臨していたはずのジョーティラーディティャ・スィンディヤーが長年所属してきた国民会議派を脱退、翌日にBJPに入党したニュースが流れたのは先日のこと。

    大王の叛乱

    インドのテレビ番組「Aajtak」で、そのニュースを見てひっくり返りそうになった。
    現執行部と折り合いがよくないことは聞いてはいたものの、こういう人が脱退するようでは、国民会議派はもう終わりという気がする。

    さて、王家は王家でも、なぜこの人が「大王」と表現されるのかという部分には、若干の説明が必要かもしれない。

    英領インド時代、儀礼の号砲数が厳格に定められており、たとえばインド皇帝、つまり英国国王に対する号砲は101発と定められていた。
    101というのは、さすがに別格で、王妃やらその他の王族はガクッと減ってインド総督と同じ31発。そして他国の王、インド国政府の中枢の役職にある者たちなどが、その格に応じての21発、19、17、15、13、11・・・と奇数が続く。

    グワリヤル王国を率いたマラーターの系譜のスィンディヤー家は、まさにその21発待遇で、同格の王家は他にハイデラバードのニザーム、マイソール王国など、他に四つしかなかった。英領インドの藩王国で最も高い格付けが21発なのだ。
    ラージプートのジャイプルやウダイプルなどの王家は19発、ジャイサルメールは17発なので、グワリヤルのスィンディヤー家には及ばない。まさにそうした格付けでもインドのラージャーの中でも最高レベル、正真正銘の「マハーラージ」(大王)なのだ。ただのラージャー(王)ではない。

    王家の出自で政界に出た人、どこかの王家の血を引く人は、ままあるのだが、この人は何しろ英領期に21発号砲待遇の王家で、しかも嫡男でスィンディヤー家の当主。後述するが「マハーラージャー」のタイトルを持っている。他の「王家出身者たち」とは、出自の面で役者が違う。
    元国会議員で、昨年の総選挙で落選したため、現在は公職にはないが、今年予定されているMP州議会選挙に出馬予定だ。

    先に「王として君臨していたはず」と書いたが、彼はスィンディヤー家の当主であるため、今のインドの社会において公式なものではなくプライベートなタイトルということにはなるが、父君の死(父も国民会議派の議員。交通事故で亡くなった)の後にこれを継いで、もう20年近く前に「戴冠式」を済ませた「現役のマハーラージャー(大王)」でもある。
    それはそうと、「大王」がBJPに入党して「駅のチャーイ売りのせがれ」であったモーディーの「足塵を拝する」(目上の人に対するインド式の挨拶)のだから、今のインドというのは実に民主的である。

    この関係でインディア・トゥデイの英語版ウェブ上での記事はこちら。
    Scindia’s Saffron Gamble (INDIA TODAY)

  • 映画「ホテル・ムンバイ」

    映画「ホテル・ムンバイ」

    現在日本で公開中の「ホテル・ムンバイ」を観た。2008年11月にムンバイで起きた同時多発テロ事件について、犯行現場となったいくつかのロケーションのうち、タージマハル・ホテルを舞台に主にホテルマンたちの視点からストーリーが展開していく。

    この作品は2018年に公開されたものだが、ホテルマンのひとりで主人公であるアルジュン役で出演しているのは、2008年公開の「スラムドッグ・ミリオネア」の少年ジャマール役だったデーヴ・パテールだと言えば、「ああ、彼ね」と覚えている人は多いだろう。
    大変重たい内容の作品であり、消化しきるにはしばらく時間がかかりそうだ。

    平日の昼間なのに満員であったことから、この作品への注目度はとても高いことがうかがえる。究極の危機の中で、これでもか!とハードなストーリーが展開していき、心臓への圧迫感が大変強いものであった。

    お客のために危険を省みず、これまで体験したこともない過酷な職務にあたるホテルマンたちのプロフェッショナリズムが描かれている素晴らしい作品だ。(ネタバレになるので詳述はしないが、事実に即したシナリオ)

    同時にこれを予備知識なしに観た人たち(事件背景はもとよりムスリムに関する予備知識も)の間で、コミュナルなヘイト感情を掻き立てるのではないかとも感じられるもので、こうした特定のコミュニティ、思想を背景とした事件に係る作品作りというのは、慎重な配慮(主人公に準じる配役で危機一髪のところで最後に命だけは助かったザーラはその名のとおりムスリム女性であることなど)をしても、なおかつ難しいものであると感じる。
    テロリストたちを送り込んだパキスタンを拠点とする過激派組織ラシュカレトイバの名前を聞いたことはあっても具体的にどういう組織なのかを知る人は、日本の観衆(欧米でも)少ないだろう。

    映画の中でも描かれていたが、進行中のテロ事件についてメディアが逐一報じるのもいろいろ問題があると指摘された当時を思い出した。当時、私は日本でもネットで動画配信されるインドのTvニュースで逐一観ていたが、同様にパキスタンでテロ組織もそれを見ながら携帯電話で犯行グループへ指示していたことが判明したためだ。

    このあたりについては、報道の自由との兼ね合いで難しい。事件から11年が経過し、通信環境やガジェットの性能なども飛躍的に向上している。この部分については当時よりも深刻な状況になっているとも言えるだろう。

    親子(同作品は15歳以上という指定がなされている)や恋人同士で観に行くような作品ではないが、ぜひとも鑑賞をお勧めしたい秀作だ。

  • ダマン2 飲酒ツーリズム

    ダマン2 飲酒ツーリズム

    海洋性気候で高温多湿のダマン。暑さでフッと気が遠くなりそうなのでバーに入ると、冷たく冷えたびーるが迎えてくれた。この時期、ふんだんに酒類があるダマンだったからよかったものの、うっかりグジャラート州海岸の町を訪れたら逃げ場がないことを実感。

    現在インド首相のモーディー氏の御膝元だけあり、制度を整えて外資誘致に積極的なグジャラート州だが、禁酒州なので自国社員の飲みニュケーション上の障害、そして福利厚生上の問題から二の足を踏む日系企業は少なくないと聞く。飲む、飲まないは個人の問題だが、州法で一律禁止とするのは人権にかかわる由々しき問題だと私は考えている。

    禁酒のグジャラート州から中央政府直轄地ダマンに入った途端、酒屋やバーが沢山目につく。中央政府直轄地という扱いは旧仏領ポンディチェリーも同様で、ゴアも1987年に州に昇格するまでは、この扱いであった。

    英国以外の旧外国領であった地域について、背景となる法制度、文化習慣、教育など他の地域と異なるため、近隣州に編入するのではなく、中央政府が現地の特性を考慮したうえで柔軟な対応をしつつ面倒を見るというもの。

    1950年代にインドに返還されたポンディチェリー、1961年クリスマスに大規模な軍事作戦でゴアとともに奪還したダマンとディーウ。さすがにインド復帰後優に半世紀以上経過しているので、もういい加減こうした経過措置を外しても良いようなものだが、こうした措置がこれほど長く続くと独自の行政区としてのアイデンティティー、積み上げてきた歴史も出来上がってしまうので、近隣州への統合は今後もないだろう。

    そのダマンとディーウだが、1990年代以降、主にインド国内の保養地、とりわけ隣接するグジャラート州とマハーラーシュトラ州からの観光客を大きく引きつけて、それ以前はほとんど無に近かった観光業が振興した。負うところの大半は、税率が極端に低く、結果として安価な酒である。つまり飲酒ツーリズムだ。ダマンの繁華街の食堂、レストランの大半は飲み屋でもある状態の背景には、このようなことがある。そうした店がだいたい朝9時くらいにオープンするわけだが、「朝から酒場が開いている町」というのは、インドでは希少である。

    飲酒について、日本からは考えられないほど制約の多いインドでは考えられない環境だ。
    そのため週末にはグジャラート州からやってくる男性たちによる「飲み会」が朝食の時間帯から展開するのが特徴的だ。「一人飲み」の姿も多く、観光シーズンのピークには、訪れる家族連れも少なくないとはいえ、あまりファミリー向けの訪問先ではないように思える。
    けっこうキレイで快適なホテルであっても、いわゆる「バー」ないしは「パーミット・ルーム」があると「家族連れ向きではない」と言われてしまう。

    そんな呑み助天国でありながらも、風俗店が軒を並べるような環境ではないため、とても健全な雰囲気であるのはダマンとディーウの大きな特徴だろうか。しかしながら、やはりこういう場所なので、実は売春も盛んであるとは聞く。

    ダマンの繁華街。朝から晩まで酒を提供する店が多い。

    隣州で禁酒のグジャラートと異なり、酒の販売が出来るダマンとはいえ、生活文化や倫理観はグジャラート州と大きく変わるはずはない。ダマンっ子は日がな飲んだくれているわけではなく、朝から飲んでいるのは、近隣州からの訪問者たちなのだ。
    ダマンの飲み屋街といってもささやかな規模で、少し外れると普通の住宅地となる。そういうところには飲み屋はないし、酒屋も滅多に見かけない。

  • ダマン1   グジャラート州から越境

    ダマン1 グジャラート州から越境

    ヴァーピー駅にて下車。ここからオートでダマンへと向かう。途中、グジャラート州との境になっている町にゲートがある。そこまでがグジャラート州で、そこから先はユニオン・テリトリー(連邦直轄地)のダマンとなる。

    グジャラート州は禁酒州だが、ダマンに入るといきなり酒屋やバーがあり、あたかも飲酒運転を奨励しているかのように見えるし、グジャラート州への密輸を奨めているかのようにも感じられてしまう。

    グジャラート州から入った途端、境界のダマン側にはバーや酒屋がある。

    グジャラート州とダマンの間には、いくつも往来できるポイントがあるのだが、ここのように街中のゲートが境目になっていて、うっかりしていると気が付かないような場所もあれば、川に架かる橋が境になっていて、視覚的にもそうと判りやいすいところもある。

    ここのように、ひと続きになっている市街地の中にゲートがあるような場所では、普段は静かに家で飲んでいて、仲間たちとおおっぴらに飲んで騒ぎたくなったら、ひょいと境を越えた先でしこたま飲んで、酒臭い息を吐きながら再びボーダーを越えて帰宅というような人は多いことだろう。