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カテゴリー: politics

  • 大統領宮殿での記者会見

    大統領宮殿での記者会見

    一昨日のタリバーンによる大統領宮殿への入場と記者会見の動画。アルジャズィーラが放映したもの。田舎侍みたいな男たちがきらびやかな宮殿内で、少しオドオドしながら記念写真を撮っていたり、物珍しそうに眺めていたりもするように見えるが、彼らを率いている立派な身なりをした3名(4名?)の偉そうな人物たちはタリバーン幹部なのだろう。彼に随行している兵士たちも組織内ではかなり上の存在のはず。市内ではこれまで警官がやっていた交通整理や検問の実施などもタリバーン兵がやっているという。そんな場ではなく、こんな「勝利宣言」の席の幹部の護衛で来ているのだから、「エリート」兵士たちのはずだ。

    この大統領宮殿。これまでは権力の中枢であった場所で、タリバーンにとって平和裏に実権が移行したことを内外にアピールするにはもってこいの場所だ。そこに「PRESS」と背中に書かれたクルーとインタビュアーを伴ってやってきているわけだ。

    こうした形でメディアとその先にいる世界中の視聴者たちを明らかに意識した姿勢は、かつて政権にあったときのタリバーンとはちょっと違うような気がする。「怒れる若者たち」だった幹部上層部も中高年になって成熟したのか、世の中の変化とともに彼らも多くを学んできたのか。

    これからタリバーンが何をしようとしているのか、どんな統治をしようとしているのかは、まだしばらくわからないかもしれないが、まずはメディアに対してどのように振舞おうとしているのかについても注目していきたいと思う。タリバーンが目指しているのは首長国なので「情報公開」のような意識のかけらすらないかもしれないが、少なくとも国外とどのように付き合っていこうとしているのか、そういうつもりはあるのかについては見えてくるかもしれない。

    Taliban enters presidential palace in Kabul (Al Jazeera)

  • モーディー改造内閣

    一昨日、インドのモーディー政権の改造内閣が発表された。今回一番大きな目玉はジョーティラディティヤー・スィンディヤーの入閣。

    グワリヤル藩王国の最後の王、ジヴァージーラーオ・スィンディヤーの孫で、現在のグワリヤル王家であるスィンディヤー家の当主。

    グワリヤル王家は、インドで数多く存在していた藩王国の中で最も高位の王家のひとつ。英領時代の「礼砲数」が最高格の21号砲。同格で並んでいたのは、バローダ、マイソール、カシミール、ハイデラーバードだけだ。まさに文字通りの「大王」の家柄。

    見た目は若く見えるが、もう50歳。2019年の総選挙で負けたため国会議員の立場を失っていたが、昨年3月に国民会議派を離党する際に、地元マッディヤ・プラデーシュ州議会で議席を占める取り巻きたちも脱党させたうえで、それらの者たちとともにBJPに加入。これにより同州の国民会議派政権は瓦解して改めて選挙が実施され、現在はBJPが政権を取っている。この一件は「大王の叛乱」としてメディアで大きく取り上げられたのは記憶に新しい。

    国民会議派中枢のラーフル・ガーンディー、妹のプリヤンカーとも同世代であり、個人的にも家を行き来する親密な仲であっただけに、2019年の選挙敗北後に彼が国民会議派執行部と疎遠になっていく様子は懸念されていたものであった。彼の父親のマーダヴラーオ・スィンディヤーは国民会議派の重鎮で国会議員だった。父の事故死を受けて、その選挙区を引き継いだのがジョーティラーディティヤーだった。こういう人からも見離されるのだから、今の会議派は大変だ。

    今回の内閣改造で、入閣が予想されていたワルン・ガーンディーは外れてしまっている。ワルンの母親はメーナカー・ガーンディー。ラーフルの父親の故ラージーヴ・ガーンデイーの弟、サンジャイの息子だ。つまりラーフルとプリヤンカーのいとこにあたる。インディラーに可愛がられたソーニアーとは裏腹に、サンジャイの死後、メーナカーと義母のインディラーは折り合いが悪く、夫の兄の家とも疎遠になっている。国民会議派の「ポスト・インディラー」と目されたサンジャイの嫁でありながらも、後にBJPに加入、閣僚としても活躍することになったのは、ごく自然な流れだった。その息子がワルンなのだが、遠からず日の目を見る日がくるかもしれない。

    List of new Cabinet Ministers of India 2021: Check the updated list with Portfolio (JAGRAN JOSH)

  • ALLWYN

    ALLWYN

    インドのHMTという、かつて存在した国営時計メーカーの製品が好きなのだが、1990年代末までは、同じく機械式時計を得意とする「HYDERABAD ALLWYN」という公営企業もあり、「ALLWYN」というブランド名にて、なかなか個性的なモデルを作っていた。こちらの時計は購入したことはないのだが、今となれば1個くらい入手しておけば良かったと思う。ボディーが厚めでがっちりしたタイプのモデルが多く、個人的にも好みであった。国営ではなく「公営」なのは、アーンドラ・プラデーシュ州営企業であったからだ。本拠地はハイデラーバード。

    国営のHMTがトラクターを造っていた(現在時計部門はないが、トラクター製造事業は健在)ように、ALLWYNも多角的に展開する経営する会社だった。時計以外にトラック、バス、スクーター、冷蔵庫まで製造していたのだ。「政治は民主主義、経済は社会主義」で、混合経済とか揶揄されていた時代を象徴するかのような存在であった。今となると、「政府が時計やら冷蔵庫やら作るなんて?」ということになるが、1980年代後半までのインドでは、政府系企業がそうしたものを作るのは、ごく当たり前のことであった。なぜなら経済面で、インドがお手本としていた計画経済体制のソヴィエトで、そうやっていたからだ。

    だがインドで特徴的であったのは、計画経済体制でありながらも、「財閥」が存在していたことだ。それら財閥は政府からライセンス交付されたうえで、割り当てられた製品、産品を国の計画の一環として生産していた。当然、政府によって割当られる以上、基本的に財閥企業間の競争はなく、のんびりした時代であったといえる。まさに政・官・民が一体となっての巨大談合体制が、「混合経済」の正体。

    当然、そんなシステムが永劫に続くはずもなく、これが80年代末から90年代はじめにかけて破綻してしまう。ピンチをチャンスに変えるべく、一気に改革開放に舵を切って、うまく成長の波に乗せた凄腕設計者は、当時の財務大臣だったマンモーハン・スィン。高名な経済学者で、デリー大学教授、財務省顧問、中央銀行総裁、国家計画委員会副議長などを歴任するなど、元々は政治家ではなかったのだが、時の首相であったナラシマ・ラーオに抜擢され、1991年6月から1996年6月までの間、財務大臣として「経済危機のどん底のインド」から「高度経済成長を続けるインド」へと大きく変貌させた。

    マハートマー・ガーンディーが「インド独立の父」ならば、マンモーハン・スィンは「現代インド繁栄の父」なのだが、後に首相(2004年5月から2014年5月)となってからは「会議派総裁ソーニアーとガーンディー家の忠実な番頭さん」を演じるハメになったためか、今ではあんまり賛える人がいないのは寂しい限り。

    首相に就任した2004年5月だが、イタリア出身のソニアー・ガーンディー総裁率いる国民会議派が総選挙でBJPを破り、政権に返り咲いたが、ソーニアーの首相就任については、野党のみならず国民会議派党内からも異論が噴出し、「真の実力者(ソーニアー)の操り人形として首相の座に据えられることとなった。マンモーハン・スィンの傍らに常にしかめっ面で、影のように付き添うソーニアーの姿は、「首相に仕える秘書役」ではなく、「僕に代弁させる影の首相」であった。大きな手腕を奮った財務大臣時代と異なり、本来ならば内閣のトップであるはずの首相在任時のマンモーハン・スインは、2期合計10年務めたのであったが、結局最後まで自分のカラーを出すことはなく、主であるガーンディー家の忠実な番頭に徹していた。

    HYDERABAD ALLWYN社は、財務大臣時代のマンモーハン・スィンが造り上げた「成長軌道に乗ったインド」の時代の中で、分割したり、部門を民間に売却するなどして、生き残りを図るが、いずれも芳しくなく、21世紀を迎える前に消滅している。

  • 映画「ブータン 山の教室」

    映画「ブータン 山の教室」

    コロナ禍ですっかり映画館から足が遠のいていおり、今年度初めてのシネマホール。「ブータン 山の教室」のあらすじはリンク先のとおりだが、結論から言って、ひさびさに映画館で観る上映作品として選択したのは正解であった。

    秀逸なストーリーもさることながら、インドのスィッキム州からすぐ近くにあるブータン王国のティンプーの風景、そこに暮らす若者が教師として赴任する、最寄りの町から徒歩1週間のところにある寒村とその地域の風景。どちらもインドの山岳地域のチベット文化圏を思わせる風情と眺めも興味深かった。緑あふれる美しい山の景色、清冽な水の流れる渓谷、神々しい雪山の眺めをずっと目にしていたくなる。

    GNH(国民総幸福量)とかなんとかいう、いかにも白々しいブータンの官製プロパガンダとは違う角度から描かれた幸せのひとつの形。日本のそれとたいして変わらない都市生活。スマホでいつでもどこでも仲間たちや外国の情報に触れる都市育ちの若者と、電気すらなく村内以外との接触が片田舎の同世代の人たちとの意識の乖離を描きつつ、不便と不満から村人たちに失礼を働きながらも、何もないところに赴任してきてくれる若い教員を尊重して温かく接してくれる村人たちとの信頼関係を築くことができて、任期を終えて後ろ髪引かれながら村を後にする主人公。

    学級委員役のいかにも利発そうな女の子はブータンの有名な子役かと思いきや、そうではなく普通の村の子ということに衝撃のようなものを感じる。生徒たちの前で先生が英語でしばらく話をするシーンもあり、そこはやっばりのインドアクセントであるところが、いかにもブータンらしい。1970年代以降、近代化を目指したブータンの教育仲介言語は英語だが、導入時に「英語人材」を欠いていたブータンに対して、大勢の教員を送り込んでバックアップしたのは、面倒見の良い「兄貴 インド」であったからだ。

    The Endの後のクレジットには、制作陣に香港のメディアグループがあることになるほどと感じるとともに、技術系のスタッフのところにインド人の名前がいくつも並び、おそらくブータン映画産業に携わるインドの業界人は少なくないのだろうとも想像する。

    そういえばブータンで最初にテレビ放送が始まったときもインドによる丸抱えの援助であった。画面にインド人はひとりも出てこないのだが、ブータンとインドの絆が見え隠れするところもまた興味深い作品である。

    ブータン 山の教室」(公式サイト)

  • ラージーヴ・ガーンディー没後30年

    ラージーヴ・ガーンディー没後30年

    THE WEEK 2021年5月30日号

    インドのニュース雑誌「THE WEEK」5/30号は、没後30年ラージーヴ・ガーンディー元首相の特集。

    1984年に首相だった母親インディラー・ガーンディーが暗殺されたことを受けて、息子のラージーヴが担ぎ出されて、40歳で首相職(1989年まで)に就く。1980年にインディラーの後継者となると目されていた弟のサンジャイが自家用機で墜落死することがなければ、政治野心とは無縁で、国営インディアン・エアラインス(後に同じく国営エア・インディアと経営統合)のパイロットとしての生活を愛していたラージーヴは、定年まで航空会社勤務を続け、息子のラーフルも娘のプリヤンカーも民間人として生きることになっていたことだろう。

    国のトップとしては異例の若さ、政治家としての色がまったくついていないフレッシュさと清新なイメージが大衆には支持されたようで、比較的好評なスタートを切ったものの、当時は力のあった左寄り勢力に押されて1989年の総選挙ではナショナル・フロント(という政治連合)を率いるジャナタ・ダルを中心とする左派勢力に惜敗。しかし寄り合い所帯のナショナル・フロント政権は不安定な政権運営の後に1991年に瓦解という短命に。

    そんな中で政権復帰を目指す国民会議派総裁として全国遊説中、タミルナードゥ州での政治集会の場に潜り込んでいたスリランカのテロ組織LTTEの女性自爆テロ実行犯による標的となり死亡。享年46歳。「ガーンディー王朝」と揶揄された一家の嫡男。世界有数の大国インドを率いる立場にあり、今後さらに大化けしていく可能性を秘めた人物であったが、政治家としての評価が定まらないうちにこの世を去った。

    ラージーヴは若い頃に英国留学していた時期に、後に妻となるソーニアーと知り合う。結婚に際して、ソーニアーはラージーヴに対して「政治には一切関与しないこと」を条件としていたことはよく知られているが、結果として夫のラージーヴは首相となり、そして暗殺により逝去。跡を継ぐことを固辞していたソーニアーだが、中央レベルでは国民会議派の弱体化とBJPに代表されるサフラン右翼勢力の台頭、地方でも会議派の退潮著しく、州与党の座を明け渡すケースも相次ぐという党の危機の最中、会議派幹部たちに拝み倒されて政界進出を決めたのは1998年。いきなり国民会議派総裁に就任している。

    このときに外国出身のソーニアーが「ガーンディー家に嫁いだ」がゆえ、会議派トップに収まることを潔しとしない重鎮たちを含む反対派の多くが党を去っており、執行部の求心力と党勢も低下した厳しい環境の中での船出となった。そんな中、当時はお飾り、シンボルに過ぎないと目されつつも次第に実権を掌握し、2004年の総選挙で中央政府与党の座に復帰し、これが2期続くのだが、マンモーハン・スィンを首相に立てたうえで、これを操り人形の如く操作する「影の首相」として、インド政治を牽引する存在にまでなった。

    「イギリス遊学」していたイタリアの小金持ちの家の軽薄な女の子(というインドでの認識であった)が、インド政界の御曹司と知り合って結婚。当時のインドとしても露出が多過ぎる彼女の装いが注目され、「インディラーの息子のお嫁さんは今日もミニスカート姿」というような写真がしばしばインドメディア上で話題になっていたようだ。なかなかの美貌の持ち主でもあったことからも世間の耳目を集めやすかったのかもしれない。

    会議派入りの後は、それまでの洋装を改め、メディアを通じて流れるソーニアーの姿はいつもサーリー姿で、ぎこちないヒンディー語でのスピーチが「つたない」との評はありながらも、立ち振る舞いにも義母インディラーの面影を感じさせるようになっていった。

    そんな彼女が結婚後に予定していたのは、インディラーの後継者の妻ではなく、パイロットの奥さんとしての安定・安心の生活だったのだが、あれよあれよという間に、本来ならば夫の弟が継ぐはずであった「家業 国民会議派総裁」を任されて狼狽するも、ひとたび腹を括ると義母インディラーを彷彿させる「インドの女帝」へとのし上がっていくストーリーは、大変な驚きに値するものであり、まさに「事実は小説より・・・」であった。没後30年経つラージーヴ自身も、天界から自身の妻の活躍ぶりには感謝し続けているに違いない。

    そのソーニアーもすでに74歳。一度は会議派総裁の座を愚息ラーフルに譲るも、2019年の総選挙の大敗を受けてラーフルが総裁職を放り出すことにより復帰せざるを得ず現在に至っていることについては、ラージーヴも遠くから胸を痛めているのではないか、とも思う。

  • 高名なフリーダム・ファイターの孫

    インド人ならば誰でも知っているフリーダム・ファイター(独立の志士)であり、独立前のインドで国民会議派総裁を務めたこともある。またジャミア・ミリヤ・イスラーミヤー大学創設者のひとりでもあったムクタール・エヘマド・アンサーリー。その孫であるムクタール・アンサーリー。父親は共産党所属の代議士であったし、副大統領だったハーミド・アンサーリーも身内。それでいて、このムクタールはUP州きっての大ヤクザのひとり。しかも州議会議員でもあるのだが。

    大変な名家に生まれて、なぜヤクザになるのか。ヤクザになったのに、政治家にもなるのは、やはりその血がなせる業か。ただ、祖父や親戚は国に奉仕した偉人として知られているのに対して、バラマキと脅しで議員の椅子を複数期得てきた人。誘拐、ゆすりなど以外にも、不動産、採鉱(石炭)、酒造販売その他を非合法に営むグループの棟梁で、何億ルピーも稼ぎ出す「企業家」としても知られる。こういう人ならば、ちゃんと合法的な稼ぎもできるだろうに。

    同時にムスリムの貧困層に対して、気前のよい救貧活動をしていることでも知られており、彼らにとって脅威でもあるヒンドゥー右翼政党BJPは、ムクタールの仇敵でもある。そんなわけで「人情に厚く、頼りになるオヤジ」的な立ち位置もあるのだろう。やはりヤクザとはいえ、そのあたりは高名な「フリーダム・ファイター」の孫らしいところか。

    それでも殺人、誘拐その他の容疑を多いときは46件(今は10件)も抱えていた「州議会議員」というのは尋常ではない。インド政界にはヤクザ者も多いが、この人はちょっと別格。この人の伝記みたいなのがあったら読んでみたい。まんま映画の主人公みたいなワルなのだ。

    それで、このニュース。UP州のムクタールだが、現在収監されているのはパンジヤーブ州の刑務所だが、UP州が働きかけて自州の刑務所に移送されることについて。同州の刑務所に放り込まれていたこともある彼だが、今回の収監先は敵対勢力、BJPやムクタールと血を血で洗う抗争を続けてきたライバル勢力の影響下にある場所となるようだ。彼の悪運もここまでか?という評もある。

    しかし、このムクタール、人望も能力もあり、カリスマと任侠心も持ち合わせていて、しかも人々から尊敬される一族の出身。ちゃんとまともなことをやっていれば、本当に皆から尊敬される人物になれたはずなのに、と思うのは私だけではないだろう。

    Mukhtar Ansari may lose his UP Assembly membership, Yogi Adityanath govt’s action soon (INDIA TV)

  • 異宗教カップルの危機

    インドで宗教を異にする同士での結婚は、都市部のリベラルな層ではけっこう少なくない。しかしながら、それは容易なものではなく、多くは大変な困難を伴うものであることは「Interfaith marriage」という言葉が存在することからも見て取れることだろう。日本で漢字で「異宗教間結婚」と書くと「そうか」と分かるが、もともとそんなことを気にかけることさえないので、私たちの語彙にはそういう言葉は存在しない。

    インド人の誰もが信仰熱心というわけではなく、お寺などに行くのは私たちがそうであるように年に一度あるかないか、という人たちも少なくない。ただし大きく違うのは、特定のコミュニティーが長い歴史の中で担ってきた信仰上の役割があったり、通過儀礼でそうしたものが数多くある層もあったり、カーストや氏族の紐帯と深く結合していたり、古い村落社会生活において、ほぼその地域で完結していた経済・社会活動においての役割分担、現代の社会においてもカーストの繋がりで結ばれた同業コミュニティーが現存しているところもけっこうあることだ。

    核家族化が進み、生計を単一世代で営み、公務員、会社員といった形の就業をしている層、あるいは都会でクリエイティブな仕事をしている層においては、障壁は格段に低くなり、そうした今どきのカップル、夫婦を目にする機会は決して珍しくなくなる。

    そんな背景がある中で、BJP政権下にあるUP、MP、グジャラートなどの州では、いわゆる「ラブ・ジハード」(恋愛による布教・改宗活動 ※というのものがあると主張している)なるものを禁じる法律が成立し、「本人の意志によらない改宗の強制」を罰するものとなっている。これは恣意的に運用されることが多いようで、異宗教間での恋愛そのものが身の危険を招くこととなっているようだ。

    ここで言う「異宗教」とは、ターゲットになっているのは、ムスリムであり、主にムスリム男性とヒンドゥー女性という組み合わせがその焦点にある。異宗教といえば、「スィク教」と「ヒンドゥー教」はたいへん垣根が低く、親が決めた「Arranged marriage」によって、ヒンドゥー男性とスィク女性、あるいはその逆が結婚する例は昔から現在に至るまで多い。結婚してヒンドゥー教徒になっている女性で「実家ではスィクだったのよ」という人は少なくない。これはもともとスィク教がヒンドゥー教から派生した一派であると認識されているからなのだろう。特に総本山のお膝元のパンジャーブ州やその周辺ではよくあることだ。

    そのいっぽうで、近年のインドにおけるイスラーム教徒への冷たい対応は、近年の欧州におけるイスラーム教徒への不信感とは大きく異なるものがある。欧州において戦後の復興後に多くのイスラーム教徒たちが流入したという歴史の浅さ、多くは社会の底辺を構成する者が多いという社会層から来る馴染みの浅さと近寄りがたい感覚があるようだが、インドにおいては、イスラーム教徒と共存してきた歴史が長く、社会上層部を構成していた時代も長かった。

    人文科学、建築、経済、通商、さらには生活習慣その他の様々な分野で、イスラーム世界からもたらされた知識や知見が、インド社会を豊かにしてきた。そのため日常生活の中で常に身の回りにあるいろいろなモノや概念を表す語彙すら、アラビアやペルシャ起源のものがたくさん溢れているほどだ。たとえばメーズ(机)、ファルシュ(床)、カラム(ペン)、ザミーン(地面)、ドゥニャー(世界)等々、イスラーム世界からやってきた語彙なしには、簡単な会話さえも成り立たない。とにかくインドはイスラーム教世界、そしてムスリムの人たちから多大な影響を受けてきた。そのためヒンドゥーやジェインその他の人々の間で、イスラーム教、イスラーム教徒についての知見や造詣はたいへん深いものがある。

    それなのに現状はこのような具合であるため、インドのマジョリティーとイスラーム教との相性はかなり難しいものがあると言える。もちろんそう仕向けているのはヒンドゥー至上主義のサフラン右翼であるわけだが、彼らを支持しているのはマジョリティーの大衆でもあるため、一概に扇動であるとも言い切れないのは、なんとも気味の悪いところだ。

    India’s interfaith couples on edge after new law (BBC.COM)

  • ミャンマーは今後どうなるのか?

    「内戦の危機なんて、まさか?」とも言えないように感じている。

    アラブの春の一連の動きで、シリアで民主化要求運動が高まっていったころ、誰が内戦など想像しただろうか。アサド政権による厳しい管理社会に多数の武器や弾薬がどこかに隠匿されていたわけではなく、思惑をそれぞれ持つ各国がいろんな勢力に肩入れしていった結果、あのような泥沼になってしまった。

    ミャンマーにおいて、国軍による苛烈な弾圧と市民の抵抗という二極化した形で描かれる現在。これは大変なことなのだが、さらに悪い事態もあり得るのではないかと思う。国軍が割れて、つまり現在の主流派と対立する派閥が浮上して、非ビルマ民族の軍閥組織、近年、多くは政府と手打ちをしたり、武装解除したところも多いとはいえ、これらがそれぞれ利害関係でいずれかと手を組むようなことが。

    そのような事が起きた場合、ミャンマーに大きな権益を持つ中国が主流派を援護し、軍の第二勢力を、東南アジアとの接続のハブとして自国北東部で、道路やインフラの開発を盛んに進めているインドが支援するような構図が生じたりしないだろうか。

    自国北東部から見たASEAN世界の入口であるミャンマーには、親インド政権を樹立してもらいたいわけで、中国になびかない側に肩入れするのは自然な流れである。

    もちろん国防上の理由からも、ミャンマーがさらに中国へと傾斜するのとは是が非でも避けたい。主流派を見限って独自の動きをしようという第二勢力が国軍の中に出てくるようなことがあるとすれば、彼ら自身にとっても、やはり手を組む相手、救いの手を差し伸べてくれる国は、インドをおいて他にない。

    ちょうど、かつての東パキスタン内戦、つまりバングラデシュ独立運動が最高潮に達したときが、これに少し似た構図だった。西パキスタンからすると、東西に分かれていたパキスタン国内の東部での内乱であり、東の東パキスタンにしてみれば独立闘争、そしてインドにしてみると、東パキスタンを潰し、そこに親インド政権をそこに樹立したかった。国外から見ると、東パキスタンをめぐってのインドによる代理戦争。

    インドの思惑とは裏腹に、バングラデシュはインドの傀儡国家とはならなかったものの、反パキスタン国家となり、それ以前は東西を敵対国に挟まれていたインドにとって、自国東部の安全保障上の懸念は消滅した。独立後のバングラデシュは経済、水利、不法移民等々の問題は抱えているものの、自国に脅威を与える存在ではなくなり、東パキスタン内戦に介入した甲斐は大いにあった。あの抵抗はバングラデシュにとっては大きな成功であるとともに、インドにとっても「大成功した戦争」であったということになる。

    今回のミャンマー、経済制裁や周辺国等による説得により、国軍が自制して再び民主化へと舵を切るようになれば良いのだが、国内諸勢力や周辺国をも含めた複雑な対立による炎が燃え上がるようなことになると、取り返しのつかないことになるのではないか、と危惧せずにはいられないのである。

    ミャンマー騒乱を深刻化させた4つの理由――忍びよる内戦の危機 (YAHOOニュース)

  • 「ダバル・インジャン(Double Engine)」

    インドの州選挙キャンペーンで、BJP政権ではない州で、BJPがよく使うフレーズに「ダバル・インジャン(Double Engine)」がある。ダバル、インジャンいずれもインド式の読み方だが、要は中央政権と州政権が同一政党であることのメリットを訴えるものだ。反中央、反サフランの傾向が薄い州では、これが強くアピールする。

    しかしながら近年は反中央政府の気風が強かったアッサムが前回選挙で「ダバル・インジャン」の軍門に下る例もあり、西ベンガル州の選挙は本当に先が読めない。

    ほぼ同時期にアッサム州でも選挙だが、BJPには賛否あるものの、そのまま再選されそうに思う。CAAやNCRへの批判はあっても、やはり実行力が違うし、行政効率も良くなったということだろう。おそるべし「ダバル・インジャン」。

    ただし、州政権が現地政党であれば、州の権限が日本の県とは比較にならないほど大きいインドでは、中央の意志を相当程度遮る防波堤となってくれる。タミルナードゥ州では学校教育で「ヒンディー語」すら導入されていないし、西ベンガルではヒンディー語の授業はあっても、そのスコアは進学の際に参考にすらならないようだ。

    そんな具合なので、「ダバル・インジャン」は、選挙民への強いアピールともなるし、「そんなことさせてたまるか」というブレーキにもなり得る。こうした背景があるため、最近のBJPの地方での宣伝はかなり巧妙になっている。

    選挙ウォッチングもなかなか面白いインドである。

    ‘BJP’s double-engine govt will build ‘Sonar Bangla’ in 5 years’: Amit Shah (Hindustan Times)

  • ハザーリーバーグ周辺の民俗画の村巡り⑨

    ハザーリーバーグ周辺の民俗画の村巡り⑨

    ヴィラーサト・トラストでは、村々で民俗画保存の活動を進めるとともに、インド各地や欧州を含む海外でも展覧会やワークショップを開催するなどして、ハザーリーバーグ周辺の村々の民俗画への認知を高める取り組みを実施している。

    また、アーティストたちによる作品を空港、鉄道駅などに展示するたともに、バザーリーバーグの公共施設の塀などにも描かせることにより民俗画への認知度を高める試みを実施している。

    行政もこうした活動については前向きのようで、活動のために資金その他の支援に乗り出しているとのこと。ジャールカンド州ではまだ存在しているとは言い難い観光業の振興への貢献も期待される。

    しかしながらスポンサー側にも都合や思惑があり、本当は鉱物由来の染料で描くところ、ペンキを使うように言われたり、ジャールカンドのアーディワースィー(先住民)のヒーロー、ビスラ・ムンダーを描くよう頼まれたりしたりと、当惑するようなことがいろいろあるようだ。

    しかしながらこれまでの取り組みが功を奏して、ハザーリーバーグ周辺の民俗画がGIタグ(Geographical indication Tag)取得することとなり、この地域固有の文化としてさらなる認知が高まることが期待される。

    GI tag for Jharkhand’s Sohrai Khovar painting, Telangana’s Telia Rumal (The Hindu)

    ハザーリーバーグのソハラーイー・ペインティング、コーワル・ペインティングについては、これに関する研究を長年続けてきたブル・イマーム氏による以下の文章をご参照願いたい。

    Comparative traditions in village painting and prehistoric rock art of Jharkhand (XXIV Valcamonica Symposium 2011)

    コロナ禍のため、しばらくの間はインドと諸外国との間の往来が困難な状況が続いているが、長期的にはインドの新たな魅力として広くアピールするポテンシャルに満ちているはずだ。

    絵が商業化されて、男性の描き手が続々参入してくるという、ミティラー画等と同じ轍を踏むことになるのかもしれないが、これらの伝統を維持してきたアーディワースィー(先住民)の人々の暮らしぶりや村でのライフスタイルなどといった生活文化も合わせてトータルにアピールできるようになると良いと思う。

    得てして、商業化、観光化というものは、外部からの資本とマンパワーの進出を招き、もともと現地に暮らしてきた人たちのメリットが顧みられないようなケースが少なくないのだが、そのあたりのバランスをどう保っていくのか、今後の進展に注視していきたい。

    既出だが、ドウジーナガル村すぐ外の民家。訪問当時、ホームステイ受け入れを打診中とのことであった。まさにそれが描かれている家に滞在しながら民俗画を鑑賞できる機会が出てくると面白いかもしれない。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • ハザーリーバーグ周辺の民俗画の村巡り⑤

    ハザーリーバーグ周辺の民俗画の村巡り⑤

    ベールワーラーを後にして、ドウジーナガルの村へ。日本で言えば、神仏混淆のようなものだろうか。彼らの信仰はヒンドゥー教から入ってきたものと、部族伝来のものが入り混じっているそうだ。

    先住民族であるアガリヤー族の家屋だが、ヒンドゥーのシヴァ神のシンボルであるトリシュールこと三又の槍が見えるが、何本かの長い棒とともに中庭の細長い基壇に立てられている。右手の部屋の中は、この家のマンディル、つまり祭壇となっているのだが、ヒンドゥーの神像の姿はなく、スパンコール状の飾りが壁に貼り付けてあるだけだった。とりあえず何か祈祷をするための場所であることは明らかだったが、ヒンドゥーの祭壇というわけではないのだ。

    トリシュール(三叉のヤリ)とともに何本かの棒が立ててある。
    祈祷の場所だがヒンドゥーの祭壇とは異なる。神像もない。

    上の画像下部中央につま先がひっかかってしまいそうな崩れた突起みたいなのがある。何かここにしつらえてあったものが壊れて放置されているわけではなく、これはアガリヤー族の人たちの「祭壇」なのだそうだ。そう言われないと、大切なものであるとはまったく気がつかない。

    床面の「崩れた突起」みたいなものが「祭壇」とは信じられなかった。

    ジャールカンド州のハザーリーバーグ周辺の先住民たちと、チャッティースガル州バスタル地方の先住民とでは民族も文化も異なるのだが、後者でもこのような「ヒンドゥー教徒とはまったく違う」あるいは「ヒンドゥー教みたいに見えるけど実は違う」というものをよく目にした。だが、村を出て街に暮らすようになったりすると、元々持っていたヒンドゥー教との親和性の高さから、「対外的にはヒンドゥーとして生きる」人たちは少なくないのかもしれない。

    部族の村とハート(2) デーヴ・グリー (indo.to)

    もともとは金属加工(鍛冶屋)を生業にしていたというアガリヤー族だが、なぜか家屋の屋根が大変低いのが特徴的だ。入口しゃがんでくぐっても頭頂部をぶつけるほどだ。家の造りそのものは、クルミー族の家と変わらないのだが。

    とにかく天井が低いアガリヤー族の家屋。

    さらに面白いのは、彼らの村でもレンガ+コンクリの建物への建替えが増えているが、伝統的な家屋以外では、天井の高さは他の民族(少数民族でないインド人を含む)と同じとなり、なぜか「ものすごく天井が低い建物」にはしないのだ。

    村で見かけたEVM(電子投票機)の使い方の説明。こんな小さな村にも投票所が設置される。いろいろ行き届かないことが多いインドだが、投票する権利についてはかなり行き届いていると言える。

    ドージーナガル村の近く、畑の中に一軒だけポツンと存在する家がある。ドージーナガル村と同じくアガリヤー族の家屋だが、驚くほど手入れが行き届いていて、絵も素晴らしく充実しているだけでなく、床面の装飾にも凝っていた。

    案内してくれているヴィラーサト・トラストのご夫妻が「来月来るお客を泊めないかい?」と話を持ちかけており、バザーリーバーグの民俗画のある家で初の「民泊」のケースとなるかもしれない。彼らによると、周りは畑で他の家屋がないというロケーションも良いのだそうだ。何軒も並んでいると、「なぜ彼の家に泊めて、ウチには来ないのか?」となったり、お客の取り合いとなることが目に見えるからであるとのこと。

    それはともかくとしても、周囲が畑の緑に囲まれているのは気持ちが良い。たとえこうした伝統的な土壁の家でなくてレンガ+コンクリの建物であっても、こういう環境下にこじんまりとした簡素かつ清潔な宿があったら、ぜひ利用してみたくなることだろう。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

     

  • インドの偉大さ

    先日ミャンマーで発生したクーデター。せっかく民主化してから10年経つというのに、時計の針を一気に戻してしまうような、せっかく軌道に乗って明るい将来を描こうとしていた経済が、これからどうなるのだろうか。ミャンマーからのニュースを目にして、耳にして、ふと思うのは、年中ゴタゴタが絶えない割には、揺るぐことのないインドの安定ぶりである。隣国パキスタンやバングラデシュでは、クーデターあり、政変ありで、目まぐるしいことが多いのだが、インドは時の政権が不人気で政局が流動的になることはあっても、国の根幹が揺らぐことはない。

    いや、例外はあった。インディラーの時代に強権が独走した「非常事態権限」のころである。あのときは在野の政党や指導者たちと民衆が力を合わせてインディラーの独裁に抵抗した。決して長くはなかったが、そんな時期はあった。当時、軍の一部では不穏な動きもあったとのことで、もしかしから?という可能性はあったのかもしれない。

    また、隣国との係争地帯を抱えるカシミール、同様に中国その他からの干渉がある「動揺地域」である北東部のいくつかの州は、そうした周辺国と連動性のある分離活動のため、本来ならば国境の外に向いているべきインド軍の銃砲が、地元市民にも向けられる状態であったため、「インドの民主主義の外」にあった。いや、「あった」という過去形ではなく、地域によっても今もその状態は継続している。そんな地域では、警察組織ではない軍隊に市民を尋問したり拘束したりする権限が与えられていて、さまざまな人権問題も発生しているのだ。

    だが、そうした地域は例外的なもので、やはりインドといえば、独立以来ずっと今にいたるまで非常に民主主義的な国だ。

    90年代以降のめざましい発展が言われるインドだが、まだまだとても貧しい国だ。日本、ドイツに次いで世界第5位のGDPの経済大国とはいっても、13億を軽く超過する、日本の10倍もの人口を持つがゆえのことで、一人当たりのGDPにならすと、わずか2038ドル。9580ドルの中国はインドの4.7倍だ。もう比較にもならない貧しい国である。

    そして文字を読み書きできない人々は総人口中の23%。ひどい州になると33%にも及ぶ。今、西暦2021年なのに・・・である。そんな貧しい人の票もミドルクラスの裕福な人たちの票も等しく一票。投票所の投票マシーンには、政党のシンボルマークが描かれており、文字が読めない人でもそれを頼りに票を投じる。中央の選挙でも地方の選挙でも、ときどき不正があったのどうのという話は出るが、どんな不満があっても居座ったり、クーデターを画策するようなこともなく、敗者は退場していく。落選した議員、失職した大臣などが、政府から与えられた官舎から落選後もなかなか出ていかないというトラブルはあるようだが、公職に力ずくでしがみつこうとするような話はまずない。そのあたりは実にきっちりしている。さすがはインド。

    スーチーさんは母親のキン・チーさんがインド大使であったため10代の一時期をデリーで過ごしており、現地で学校にも通っていた。当時首相であったネルーとも家族ぐるみの親交を持ち、24 AKBAR ROADにあった屋敷がキン・チーさんの大使時代に与えられていた。青春時代にインドの首都で「デモクラシー」の薫陶を受けたスーチーさんにとって、「民主主義インド」は彼女の理想かどうかは知らないが、ひとつの重要なモデルであるとされる。

    それにしても、ネルーからこの24 AKBAR ROADの屋敷を使わせてもらっていたというのは大変なことだ。現在の国民会議派の総本部があるのが、まさにその場所なのだ。そのような重要なところに住まわせてもらっていたのが現在のスーチーさんを含めたキン・チーさん家族。インドと、そして初代首相のネルーと、実にゆかりの深い人だ。それだけに、今の時代になってもミャンマーでこのようなことが起きて、自宅軟禁となっているのは、なんとも皮肉なことである。

    同時に、常々いろいろな問題や不正に満ちていながらも、「総体としてはしっかり」しており、「根幹は良識と法で守られている」インドに対して、いつもながら畏敬の念を抱かずにはいられない。「JAI HIND !(インド万歳)」という言葉が自然と口に出る外国人は、実に多いのである。

    For Japan, Myanmar coup brings fears of threat to business, political ties (The Mainichi)