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カテゴリー: economy

  • チェルノブイリは今

    チェルノブイリは今

    今年の9月に、チェルノブイリの現状を写真と文章で綴った本が出ている。

    ゴーストタウン チェルノブイリを走る

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    ゴーストタウン チェルノブイリを走る

    http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0608-n/

    集英社新書ノンフィクション

    ISBN-10: 4087206084

    エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワ 著

    池田紫 訳

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    1986年に起きた原発事故から四半世紀が経過したチェルノブイリにガイガーカウンターを持ち込んで、バイクで駆ける写真家エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワがチェルノブイリの現状を伝えるウェブサイトを日本語訳した書籍だ。

    汚染地域に今も残る街や村。すでに暮らす人もなく朽ち果てていく建造物。家屋の中にはそこに暮らした家族の写真、子供たちの玩具が散乱しており、役場等にはソヴィエト時代のプロパガンダの跡が残っている。

    ソヴィエト時代、原発事故が発生する前のチェルノブイリは、中央から離れた周辺地であったが、それでも整然とした街並みや広い道路、広大な団地、病院その他公共施設、遊園地、映画館といった娯楽施設等々の写真からは、社会主義時代に築かれたそれなりに豊かであった暮らしぶりがうかがえる。

    人々の営みが消えてから久しい現地では、それとも裏腹に豊かな自然が蘇り、もう人間を恐れる必要がなくなった動物たちが闊歩している様子も記録されている。

    一見、のどかにも見える風景の中で、著者はそうした街や集落など各地で放射線量を図り、今なおその地が人間が暮らすことのできない危険極まりない汚染地であることを冷静に示している。

    これらの写真や文章は、著者自身のウェブサイトで閲覧することができる。

    elenafilatova.com

    チェルノブイリに関して、上記の書籍で取り上げられていないコンテンツとともに、スターリン時代の強制収容所跡、第二次大戦期の戦跡等に関する写真や記述等も含まれている。

    私たちにとって、チェルノブイリ原発事故といえば、今からずいぶん遠い過去に、遠く離れた土地で起きた惨事として記憶していた。事故後しばらくは、放射能が飛散した欧州の一部での乳製品や食肉などへの影響についていろいろ言われていた時期はあったものの、自分たちに対する身近な脅威という感覚はほとんどなかったように思う。まさに『対岸の火事』といったところだったのだろう。

    今年3月11日に発生した地震と津波、それによる福島第一原発の事故が起きてからは、原発そして放射能の危険が、突然我が身のこととして認識されるようになる。実は突然降って沸いた天災と片付けることのできない、それまでの日本の産業政策のツケによるものである。曲がりなりにも民主主義体制の日本にあって、私たち自らが選んだ政府が推進してきた原子力発電事業とそれに依存する私たちの日々が、いかに大きなリスクをはらむものであったかを思い知らされることとなった。

    順調な経済成長を続けているインドや中国その他の国々で、逼迫する電力需要への対応、とりわけ先行き不透明な原油価格、CO2排出量への対策等から、今後ますます原子力発電への依存度が高まることは、日本の福島第一原発事故後も変わらないようである。もちろん各国ともにそれぞれの国内事情があるのだが。

    原発事故後の日本では、食品や生活環境等様々な面で、暫定基準値を大幅に引き上げたうえで『基準値内なので安心』とする政府の元で、放射能汚染の実態が見えにくくなっている中で、今も収束にはほど遠く『現在進行形』の原発事故の危険性について、私たちは悪い意味で『慣れつつある』ように見えるのが怖い。

    事故があった原発周辺地域の『風評被害』云々という言い方をよく耳にするが、実は風評などではなく実際に無視できないリスクを抱えているということについて、国民の目を塞ぎ、耳も塞いでしまおうとしている政府のやりかたについて、被災地支援の名の元に同調してしまっていいものなのだろうか。

    これまで原子力発電を積極的に推進してきた日本の政策のツケが今になって回ってきているように、見て見ぬ振りをしていたり、『どうにもならぬ』と内心諦めてしまったりしている私たちのツケが、次の世代に押し付けられることのないように願いたい。

    同様に、これから原子力発電への依存度を高めていこうとしている国々についても、将来もっと豊かな時代を迎えようかというところで、予期せぬ事故が発生して苦しむことにならないとも言えないだろう。今の時代に原発を推進していこうと旗を振っていた人たちは、そのころすでに第一線から退いているかもしれないし、この世にいないかもしれない。一体誰が責任を取るのか。

    もっとも今回の原発事故で四苦八苦しており、原子力発電そのものを見直そうかという動きになっている日本だが、それでも他国への積極的な売り込みは続けており、すでに受注が内定しているベトナムでの事業に関するニュースも流れている。

    チェルノブイリが残した反省、福島が私たちに突き付けている教訓が生かされる日は、果たしてやってくるのだろうか。

  • レストラン流行るもシェフは人材難

    先日、日本の新聞社のウェブサイトにこんな記事が掲載されていた。

    求む、英国カレー調理人 移民規制で不足し国民食ピンチ (asahi.com)

    移民規制の厳格化によりヴィザの取得が難しくなったことで、インドをはじめとする南アジア系料理店でシェフを招聘するのが困難になっているとのことだ。こうした傾向は今に始まったものではなく、2004年にはインディペンデント紙が以下の記事を掲載している。

    The big heat: crisis in the UK curry industry (The Independent)

    また2004年にもBBCのこうした記事があり、2000年代を通じてのことのようである。

    Britain’s curry house crisis (BBC NEWS South Asia)

    チキンティッカー・マサーラーは英国の国民食・・・なのかどうかはさておき、人々の間で定着したお気に入りのひとつではあるようであり、インド料理そのものがイギリスにおける人気の外食となっているなど、需要は大きいにもかかわらず、シェフが人材難であることを原因に店をたたむ例が後を絶たないとは皮肉なものだ。

    通常、イギリスでU.K. Asianといえば南アジア系を指すように、インド系をはじめとするこの地域にルーツを持つ人々が多数居住しているとはいえ、地元にいるインド系コミュニティの中からシェフを調達するのはこれまた容易ではないようだ。

    そもそも思い切って外国に移住する勇気を持ち合わせている人々は得てして上昇志向が強いもの。単身でしばらく稼いだ後に帰国する人たちはともかく、家族を伴って来た人たちともなれば、往々にして息子や娘の教育には力を注ぐようだ。親と同じ苦労はさせたくないと。

    そういう点では日本にそうした具合にやってきている中国人料理人たちも同様だ。子供たちは中国あるいは日本で大学まで行かせて『もっと割のいい仕事』に就くことができるようにと頑張らせるのが常だ。日本のバブル期以降、日本の移住し条件を満たして帰化した中国出身者は多く、その中に飲食業に関わる人たちも相当数あるのだが、彼らの子供の世代で、厨房で包丁を握ることを仕事にする人はごくごく少ないだろう。このあたりの事情はU.K. Asianたちの間でも同様らしい。

    ところでチキンティッカー・マサーラー、イギリス人たちの好みに合うというのは単なる偶然ではないようだ。もともとこの料理の起源がインド在住のイギリス人家庭発祥(調理人はインド人)という説がある。その真偽はともかくとしても、主にパンジャーブ地方のアングロ・インディアン(インド在住のイギリス人のこと。時代が下るとやがて英印混血の人々のことを指すようになった)たちが好んだアイテムであったらしく、元々彼らの舌によく合うものであったため、イギリス本国で受け入れられるのは必至であったのだろう。

  • バーングラーデーシュ初の原子力発電所建設へ 果たして大丈夫なのか?

    近年、好調な経済成長が伝えられるようになっているバーングラーデーシュ。地域の他国にかなり出遅れてはいるものの、失礼を承知で言えばスタート地点が低いだけに、ひとたび弾みがつけば、今後成長は高い率で推移することは間違いないのだろう。日本からもとりわけテキスタイル業界を中心にバーングラー詣でが続いているようだ。

    これからが期待される同国だが、やはりインフラ面での不安は隠しようもないのだが、電力供給事情も芳しくない。発電電力の約4%は水力発電、他は火力による発電だが、その中の大半を自国産の天然ガスによるものが占めている。開発の進んでいる東部の電力事情はいくぶん良好なようだが、西部への電力供給の普及が課題であるとされる。

    産業の振興、とりわけ外資の積極的な誘致に当たっては、電力不足の克服は是が非でも実現したいところだろう。長らく雌伏してきた後にようやく押し寄せてきた好況の波に乗り遅れないためにも、1億5千万人を超す(世界第7位)人口大国であり、世界有数の人口密度を持つ同国政府には、国民の生活を底上げしていく責任がある。

    そこでロシアと原子力エネルギーの民生利用に関する政府間協定に署名することとなり、2018年までに二つの原子力発電所の稼働を目指すことになった。

    Bangladesh signs deal for first nuclear plants (NEWCLEAR POWER Daily)

    実のところ、この国における原発建設計画は今に始まったものではなく、東パーキスターン時代にダーカー北西方向にあるループプルに建設されることが決まっていたのだが、1971年にパーキスターンからの独立戦争が勃発したため立ち消えとなっている。新生バーングラーデーシュとなってからも、1980年代初頭に原発建設を目指したものの、資金調達が不調に終わり断念している。

    同国にとっては、建国以前からの悲願達成ということになりそうなのだが、折しも日本の福島第一原子力発電所の事故以降、原発そのものの安全性、他よりも安いとされてきたコスト等に対して大きな疑問を抱くようになった日本人としては、本当にそれでいいのだろうかと思わずにはいられない。

    同時に国内であれほどの大きな事故が起きて、その収拾さえもままならないにもかかわらず、また原子力政策そのものを根本的に見直そうかというスタンスを取っていながらも、原発の輸出には相変わらず積極的な日本政府の姿勢についても信じられない思いがしている。ベトナム政府は原発建設を日本に発注することになるのは今のところ間違いないようだ。

    『日本でさえ不測の事態であのようになったのだから・・・』などと言うつもりはないが、大変失礼ながらバーングラーデーシュという国での原子力発電の稼働は本当に大丈夫なのだろうか?

    事故さえ発生しなければ、原発稼働は同国の電力事情を大きく好転させていくことになるのかもしれないが、電力供給の分野でロシアの技術力・資金力両面において、大きく依存しなければならなくなる。

    どちらも憂慮されるものだと思うが、とりわけ前者については大いに気になる。本当に大丈夫なのだろうか、バーングラーデーシュでの原子力発電所の稼働は? サイクロンや水害といった大規模災害がよく起きることもさることながら、頻発するハルタール、その背景にあるといえる政治的な問題、不安定な政局等々、国内の人為的環境面での不安も大きい。

    決して遠くない将来に起きる(かもしれない)大惨事への序章でなければよいのだが。これが杞憂であることを願いたい。

  • あとはアルナーチャル・プラデーシュが門戸を開けば・・・ 2

    観光業とは、ひとつの街、地域、州で完結するものではなく、広く周辺地域が相互に依存する関係にある。ひときわ魅力的な地域が新たに加わることにより、そこを訪れた人々が次なる目的地として隣接州に流れていくことになり、経済的収入、関連産業の活発化、雇用の促進といった果実を各地域で分け合うことになる。

    ベンガル北部からアッサム西部に至る、バーングラーデーシュの北側を迂回する細い回廊部で、まさに『首の皮一枚』でインド本土と繋がる北東諸州だが、この地理条件と現在のインドヴィザに係る『2か月ルール』は、この土地の観光業振興という面に限っては、決して悪くない効果をもたらすかもしれない。

    つまりインドの他地域から一度北東州に入ってきたならば、空路を除けば北東諸州の外に出るのはなかなか手間と時間がかかる。中国、ミャンマーと長い国境線を接していながらも、外国人たちはそれらの国に陸路で出ることはできない。複数の地点から容易に出入国が可能なバーングラーデーシュにしてみたところで、一度出国すると2か月はインドに戻ることができない(事前に所定の手続きを踏んでいれば可能)という制限のため、『せっかく近くまで来たから』と、思いつきでフラッと浮気することもできない。

    私自身、この地域についてあまり詳しくは知らないのだが、トレッキング等はもちろんのこと、雨季には多雨の地域であるためシーズンにより条件は大きく異なるが、風光明媚で気候が良いところはいくつもあるように思われる。個人的には、乾季にメーガーラヤ州都のシローンから日帰りしたことがあるチェラプンジー(世界で最も多雨とされる土地)は、切り立った断崖絶壁の台地から成り、町をぐるりと囲む風景が面白いことと、この地域に暮らすカーシー族というモンゴロイド系の人々の暮らしぶりが興味深く、何日か滞在したいと思った。

    観光の大きな目玉はあまり無いとはいえ、インドの他の地域と大きく異なるため、そこにいること自体が楽しいといえる。よく『多様性の国』と言われるインドだが、まさに北東諸州を訪問することによって、それを実感できることだろう。もちろん北東諸州といっても、それぞれの州に様々な異なる民族が暮らしているし、アッサムやトリプラーのように、州内にベンガル系の人口が多く、パッと見た感じではベンガルにいるのかと思うような地域も少なくないなど、この地域自体が実に多様なものを内包している。

    この地域に接するブータンも近年は計画的に観光客の数を増加させている。今のところは従前どおりに西欧等の富裕層をターゲットにしてのツアー客呼び込みだが、先代の国王自らが着手した民主化が進展していけば、観光業の進展やそのありかたについて、いつか必ずや根本的な議論とこれによる包括的な見直しが入ると考えるのが自然だろう。

    アルナーチャル・プラデーシュに加えて、ブータンが『誰でも普通に入って自由に観光できる国』となった暁には、この地域の注目度は今と比較にならないほど高いものとなるはずだ。とりわけ後者、つまりブータンについては、それがいつになるのかわからないが。

    <完>

  • ユニクロ 遠からずインドに出店

    一部では『2012年にもインド出店か?』という話もあったユニクロだが、ベトナム、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランドなどと合わせて『3年以内の出店』を検討しているとのこと。

    目下、洪水の状況が気になるタイでは、今年9月にバンコクで一号店をオープンさせている。地元の日本、海外ではアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、シンガポール、中国等に続いて11か国目(香港は中国に含む)となる。

    インドについては商品のマーケットとしての店はもとより、製造拠点としても工場の選定に着手している模様。

    インドの街中で『同じ格好』をした人たちが溢れることになるかどうかはさておき『生産地インド』ならではの素材やデザインのアイテムが、インド国外の店舗に陳列される商品の中にも沢山加わることになれば、ちょっと嬉しい。

    ユニクロ、3年内にインドやベトナムに出店検討=柳井ファーストリテ会長 (MORNINGSTAR)

     

    ※『あとはアルナーチャル・プラデーシュが門戸を開けば・・・ 2』は後日掲載します。

  • あとはアルナーチャル・プラデーシュが門戸を開けば・・・ 1

    2011年は、ナガランド、マニプル、ミゾラムの3州にて、従前は入域に際して外国人に義務付けられていたPAP (Protected Area Permit)、RAP (Restricted Area Permit)が暫定的に不要になっている。インド人も同様に必要であったILP (Inner Line Permit)も同様に要らなくなっているようだ。これは2011年末までの1年間に限った臨時的な措置ということになっている。

    3年ほど前にアルナーチャル・プラデーシュが近くなる?と題した記事で書いたとおり、近年は簡略化される傾向が認められていたものの、RAP取得にはいろいろ面倒な条件があった。かなり前から周到に準備しないと入ることができなかったし、複数の同行者が求められたり、現地のかなり高額なツアーに参加することが必要であったりもした。

    今はインドの他州と同じように普通に出入りできるアッサム、メーガーラヤ、トリプラー(一部に不穏な地域も抱えているが)の3州についても、かつてはオフリミットの地であった。それが90年代前半に先述の中央政府内務省からの特別な許可が不要となった。

    ここ数年の間に許可取得の条件が緩くなってきていたことから、ナガランド、マニプル、ミゾラムの3州への入域に関して、今回の暫定的な措置が今後も延長あるいは恒久的なものとなることを期待したい。

    この措置により、地域の観光業の振興が期待されているところである。もう何年も前からインド政府観光局はインド北東部の魅力を積極的にアピールしてきていたが、アッサム、メーガーラヤ、トリプラー以外の州については、入域に厳しい制限があることから、まさに絵に描いた餅といった具合であった。

    許可なしで簡単に入ることができるようになっても、肝心の観光資源のほうはどうなのかといえば、あまり華やかなものではないような気もするが、中国の雲南省やタイ北部のように山岳少数民族の存在自体が、観光業発展のための大きな力となるように思われる。

    ただしインド北東7州、俗にセブン・シスターズと呼ばれる地域(アッサム、メーガーラヤ、トリプラー、ナガランド、マニプル、ミゾラム、アルナーチャル・プラデーシュ)の中で、個人的には一番興味深いと思われるのは、やはりアルナーチャル・プラデーシュだろう。

    中国占領下のチベット(中国は『チベット自治区』を自称)に突き出す形で位置する、ブラフマプトラ河流域の低地から海抜4,000mを越える高地までを抱える、主にチベット・ビルマ語族から成る65もの(100以上という説もある)異なる部族が暮らす土地だ。

    同州西部にはチベット仏教を信仰する人たちが多く、タワン僧院という有名な寺院があることでも知られているが、いっぽう州東部には南方上座部仏教を信仰する人々が暮らしている。さほど広い地域ではないにもかかわらず、伝播したルートの異なるふたつの仏教が同居しているのは興味深い。その他の人々は土地ごとのアニミズムを信仰している。

    他の東北州と異なり、内政面での不安は少ないにも関わらず、未だに外国人ならびにインドのその他の地域の人々の入域が厳しく管理されている背景には、この地域が中国との係争地帯であるという現実がある。アルナーチャル・プラデーシュの人々に対して、中国がヴィザ無し入国(中国にしてみればアルナーチャルは自国領なので自国民の国内での移動という解釈ができる)を認めたり、同州議会選挙についてこれを否定する声明を出したりといった活動等により、『アルナーチャルは我が国固有の領土の一部』であると内外に主張を続けている。

    また中国占領下のチベットに大きく張り出している地理的な条件により、軍事的な要衝であるということも、たとえ観光目的であっても外部の人々を積極的に呼び込むのは容易でないという部分もあるのかもしれない。

    それでも先述のように、民族的にも文化的にも非常にバラエティ豊かな土地であり、気候条件も多様性に富んでいるため、もしアルナーチャル・プラデーシュが観光客に対してオープンになる日が来たならば、やや大げさな言い方をすれば、アジアの観光地図にひとつの国が新たに書き加えられたような効果をもたらすのではないかと、私は考えている。

    <続く>

  • ジャイプル・メトロ

    昔々のデリーは、とてもクルマが少なかった。スズキのマルティが独り勝ちしていた頃のことだ。他の自家用車といえば通常はアンバサダー、パドミニーくらいと、非常に車種も少ない時代で、今やもう大昔ということになる。二輪の類も古いヴェスパのモデルをバジャージがインド現地生産したスクーター、あとはバイクといえば排気量125cc程度の小さなものくらいしか見かけなかった。

    乗用車にしても、バイクやスクーターにしても、購入できる層が限られていたため、道路は閑散としており、「渋滞」という言葉さえも知られていなかった。同じ頃、まだ首都圏の高速道路網が無く、BTSや地下鉄もなかったバンコク市内は各所でひどい渋滞で、どこに行くのも一苦労。それに比べてインドの大都市の道路は何て空いているのだ!と思ったものだ。市バスでもオートでもビュンビュン飛ばしてすぐに目的地に着くことができた。

    やはり転機は90年代前半以降であった。経済成長が軌道に乗り、デリー首都圏の人口が急増、人々の可処分所得も急上昇していく中、政府の外資の積極的な導入姿勢と外資による新興市場インドへの期待感から、様々な四輪・二輪メーカーがインドに続々進出していき、それとともに道路を急速に様々なクルマたちが埋め尽くしていった。

    そんな中、デリー・メトロ建設の槌音が聞こえてくるようになったときには大きな期待感を抱いた。このネットワークが完成した暁には、昔みたいにスムースにあちこちに出かけることができる、いやバスのルートを知らなくても、簡単にどこにでも行くことができるようになるのだろうと。

    そして現在、デリー・メトロのネットワークが広がり、市内の長距離移動が格段に楽になった。とりあえず目的地の最寄駅まで乗車して、後はオートでも利用すれば非常に短い時間で到着することができる。便利なものである。

    昨年10月からはラージャスターン州都のジャイプルでも建設が始まっている。市内各地で工事が進行中だ。

    Jaipur Metro

    完成時のネットワークはこのような具合になる。

    他にもムンバイー、バンガロール、チェンナイ、ハイデラーバード等でメトロ建設が進められており、同様にアーメダーバード、ラクナウー、コーチン、ルディヤナー、チャンディーガル等でもメトロ建設着工の計画がある。多少の紆余曲折があっても、これからも引き続いて右肩上がりの経済成長が見込まれるインドはまさに日の出の勢いといった具合だ。

    一昔、二昔前を振り返れば、現在との大きな違いを実感でき、今後も更にベターな明日を思い描くことができるインドが、とても眩しく見える。

  • 旧くて新しいホテル4

    旧くて新しいホテル4

    また、近年になって新築された『宮殿風』ホテルも各地でしばしば見られるようになっている。これらを『ヘリテージホテル』と呼べるものかということもあるかもしれないが、ずいぶん前に『築浅の宮殿風ホテルもいいかも?』として、マッディヤ・プラデーシュ州のオールチャーにあるAmar Mahalというホテルについて触れてみたことがある。

    インドの人々の間で90年代に起きた旅行ブーム以前は、農地と荒蕪地の間に崩れかけた遺蹟が点在している状態だったオールチャーだが、今では地域のメジャーな観光地のひとつになっている。これについて『再訪1寒村からリゾートへ』で述べたことがある。この記事中にある「ペルシャ庭園風の見事な中庭を備えた同クラスのホテルも2003年6月に開業」とは、先述のAmar Mahalのことだ。観光資源の存在と同様に、こうした宿泊施設の存在も観光による地域振興に寄与するところは大きいだろう。

    Shahpura House

    ラージャスターンのジャイプルの閑静な住宅地、バニー・パーク地区では近年観光客向けの宿泊施設が増えている。特に1952年築の建物をホテルに改築したShahpura Houseは評判が高いようだが、個人的には以下のふたつのホテルがとても印象深かった。

    Umaid MahalUmaid Bhawanである。どちらも近年になって建てられた新しい施設だが、上手にヘリテージ風に仕上げてある。どちらも同じ退役軍人が所有している。

    Umaid Palaceのエントランス

    華麗な外観が目を引くとともに、ひとたび足を踏み入れれば、ラージャスターンならではの絢爛な装飾とクラシックな装いがマッチした空間にすっかり参ってしまう。料金は1800~3000 Rs超といった程度の中級レベルで、このクラスの料金帯の部屋ないしは施設自体が『宿泊する人を魅了する』ということは、他ではまずあり得ないことだ。

    Umaid Bhawanの道路に面したゲート
    Umaid Bhawanのスイートルーム(ソファ背後のカーテンの奥は寝室)

    こうした味わいのある『ご当地ホテル』が増えてきている中で、当たり外れもあるだろう。また他のインドの宿泊施設同様、ノウハウの欠如か意識の問題なのかはさておき、経年劣化が著しいところも今後出てくることと思う。それでも泊まって楽しいヘリテージホテルが増えていくことは、宿の選択の幅が広がるという観点からも喜ばしい。

    <完>

  • 旧くて新しいホテル3

    旧くて新しいホテル3

    メヘラーンガルを仰ぐ絶好のロケーション

    このほど、そうしたハヴェーリーから転用されたホテルに宿泊する機会を得た。場所はジョードプルである。Krishna Prakash Heritage Haveliというそのホテルは、マールワール藩王国時代の1902年に警察幹部が自宅として建築した屋敷。後にその身内で藩王国の内務大臣の職を務め、インド独立後は国会議員を務めた人物の居宅でもあった。

    この大きな建物の中には身内の複数の世帯の人々が暮らしていたに違いない。中庭を核にして周囲にいくつかの部屋が並ぶ形になっているセクションが複数あり、それなりのプライバシーは保たれていたものと考えられる。

    今のオーナーはこの屋敷をホテルに転用して現在に至っている。部屋はいくつものタイプがあり、その手前に小さな中庭があるものもある。ひとつひとつ違うので最初に見せてもらうといいかもしない。暑い時期には敷地内にある小さなプールで涼む宿泊客も多い。

    メヘラーンガルの城壁を間近に仰ぎ見るロケーション。夕方から午後9時くらいにかけて美しくライトアップされた雄大な城砦を眺めながらの夕食は実にロマンチックだ。

    最初からホテルとして建てられた施設の場合、部屋間のグレードの差はあれ、ある程度標準化されているのに比べて、ハヴェーリーの個人の屋敷であったがゆえに、部屋のサイズや居心地は様々だ。館の主やその直近の家族が寝起きしたところもあれば、どちらかといえば隅に置かれていた身内もいたかもしれない。もちろん使用人部屋だっていくつかあったはずなので、部屋に荷物を置く前にいくつか部屋を見せてもらったほうがいいだろう。

    同じ旧市街で付近にはHeritage Kuchman HaveliやPal Haveli等、古いハヴェーリーを転用したヘリテージホテルがいくつかある。ちょっと覗いてみると、きっと宿泊してみたくなることだろう。

    <続く>

  • 旧くて新しいホテル2

    そうした中、古いハヴェーリー、地域の伝統的な屋敷がホテルに転用される例が相次いでいるようだ。今からだいぶ前にシェーカーワティー地方を訪れたことがある。この記事を書いたのは2005年であったが、初めて訪問したのはそこからさらに4年前なので、今から10年くらい前のことになる。

    かつてその地方が陸上交易で栄えた時代に富を築き上げた商人たちによって建てられたハヴェーリー(屋敷)が沢山残っていることで知られている。家の内外を問わず、壁のあらゆるところがカラフルな絵や模様で飾られているため、『オープンエア・ギャラリー』として知られている。

    訪問時、地元の土豪の洋風の館の他に、ごく新しい宿泊施設で内部をハヴェーリー風に仕上げたものを見かけた。旧商家のハヴェーリーについては、博物館となっているものをひとつ見学したが、あとは今でも間借人たちが屋敷内を細分化して賃借しており、ほとんどは内部を見学できるような状態ではなかった。

    そうした現在でも人々が暮らしている住居については、『ハヴェーリーに興味がある』と話した相手がたまたまそうした家屋の賃借人だったため好意で連れて行ってくれたり、あるいは道端で少し話をした子供に『君の家はどこ?』と尋ねると連れて行ってくれて、大人の家族たちの困惑したような表情を横目に、内部をチラリと見せてもらったくらいである。

    どちらにしても、現在間借している人たちは、たいていの場合、これらを建てた人たちの子孫でもなければ身内でもない。陸上交易の時代が終わってからは商家の人々は都会に出てしまっており、血縁でもなんでもない人々が賃借しているのが普通だ。

    それだけに建物の内外は荒れるに任せているといった具合で、もう少し文化的、歴史的な価値が見直されることがあってもいいのではないかと思っていた。それらを少しでも広く知ってもらうために、こうしたハヴェーリーのうちのいくつかが宿泊施設として転用されれば、その用を足すかもしれないし、シェーカーワティー地方の魅力の内外に広める役目も期待できるのではないかと思った。当時、この地方のマンダーワーという町のあるハヴェーリーでは大掛かりな改修作業が進行中だった。

    『これからホテルになるのだ』という話を聞いて、これからはシェーカーワティーの宿泊先の目玉はこういうタイプの施設になると確信したものだ。

    ロンリープラネットのガイドブックを開いてみると、シェーカーワティーの記事にはいくつものハヴェーリーを転用した宿泊施設の紹介がある。2000年及び2001年に私が訪れた際、ここ多いカラフルなハヴェーリーをホテルに転用したらどんなに良いことかと思ったものだが、今ではそれが実現されている。 ヘリテージホテルの新しい流れである。

    ラージャスターンの北東端に位置し、デリーやハリヤーナー州から週末を利用して訪問する家族連れ、友人連れなどが多い。距離的に近いのに、ずいぶん地域色の濃い地域である。こうした建物が比較的エコノミーな料金で利用できることも、かなり喜ばれているのではなかろうか。

    もちろん、見事なハヴェーリーが残っているのはシェーカーワティーに限らない。他のところにもそれぞれの地域のテイストの興味深い屋敷が沢山残っている。だがそれらの多くは今も個人の邸宅であるがゆえに、通常私たちがそれらの中を見物する機会はあまりないのである。

    <続く>

  • 旧くて新しいホテル1

    インドでホテルといっても様々なタイプがあるが、かつて中級クラス以上のところは一部の例外を除けば、概ね洋風の宿泊施設が一般的であった。料金帯により建物、室内、接客その他サービス等のグレードが変わっていき、個人所有から大きなホテルチェーンが運営するものまで、経営母体は様々ではあるものの、宿泊施設としてはあまり特徴のあるものは多くなかった。

    一部の例外的なタイプのホテルといえば、ヘリテージホテルということになるが、大別してふたつに分けられる。植民地時代から主にイギリス人を初めとする欧州系の顧客相手に営業を続けてきた由緒ある『コロニアルホテル』あるいはインド独立時に併合された旧藩王国の地域で、王族の宮殿を宿泊施設に改装した『宮殿ホテル』がそれらの代表格だろう。前者も後者もトップレベルのものは高級ホテルチェーンが運営を担っていることが多いが、それ以下は政府系の公社や小規模な民間業者が請け負っていたりといろいろで、前述の洋風の宿泊施設と運営形態は大差ない。

    『コロニアルホテル』には欧印折衷の植民地建築を後世になってから宿泊用に転用したものも含めてよいだろう。またダージリンやシムラーのようなヒルステーションでは、植民地期に欧州人クラブであった建物ないしは欧州人が建てさせた邸宅などが宿泊施設となっているものもある。だが『宮殿ホテル』においても、ほぼ洋館といった風情の建物も少なくないため、両者の境目は判然としない場合もあるだろう。

    細密画の手法が盛んであった時代には藩王その他の貴人たちの横顔が描かれていたものだが、インドにおいてイギリスの植民地化が進むに従い植民地当局の庇護下に入ると、写真技術が伝わったこともあり、近代に入ったあたりでは肖像画が正面から描かれるようになるなど、西洋の影響が大きくなった。建物や調度品等も同様で、ある時期以降は洋風のものが多くなっている。

    ともあれ、従前はこれら『コロニアルホテル』『宮殿ホテル』を除き、地域色を感じさせるものはあまり多くなかった。

    だが90年代からの高度経済成長とともに始まったインドの人々の間での『旅行ブーム』が起きた。以降、旅行という行動は一定以上の可処分所得のある人々の間で余暇の過ごし方のひとつとしてすっかり定着している。

    災害、テロなどが起きれば、たとえシーズンであってもサーッと潮が引くように姿を消してしまう外国人旅行客に比べて、景気の変動があったり、異常気象が続いても人出にあまり影響の出たりしない国内客が増えたことは、観光業の安定的な発展には好ましいことだ。そもそもベースとなる顧客数自体が大幅に増えたことは、観光関連産業の隆盛に大いに貢献し、ひいては旅行インフラの整備へと繋がったことは言うまでもない。

    宿泊施設の数は増え、訪れる人々のタイプや好みも多様化する中で、それぞれの土地ならではの『ご当地ホテル』が次々に出てくるのはごくもっともなことであり、今後もそうした流れは続くことだろう。

    例えばゴアのパナジでは、ポルトガル時代に建てられた南欧風建築が次々に壊されて味気ない今風の建物に置き換わっているのとは裏腹に、それらをホテルやペンションに転用する例もまた増えている。

    もっともこれは建物のタイプは異なるものの、旧植民地家屋という意味で、先に挙げたヒルステーションに点在する英国的な建築物から転用されたものと性格は共通するものがある。ゴアの外から来た人たちにとっては、ポルトガル風建築自体が普段馴染みのないエキゾチックなものであることは間違いないが、これとてコロニアルホテルの一種ではある。

    <続く>

  • チャット高

    チャット高

    とりあえず両替と食事のためにダウンタウンのボーヂョー・アウンサン・マーケット界隈へ向かう。

    以前は引く手あまたであった外貨両替だが、今回はかなり事情が違っていた。普段ならば随時ドル買いをしている貴金属や宝石等を扱う店で尋ねてみると、両替はしませんと即座に断られたり、レート調べると言ってどこかに電話してから「今日はやめておきます」などと言われたりもした。

    昨年以前は1米ドルあたり1,000 ~ 1,100チャット台であったと記憶している。それ以前は1,200 ~ 1,300チャット台の時期もあった。ところが現在は820 ~ 840前後くらいで推移しているようだ。

    あまりドルを歓迎するムードではないことにいささか驚きながらも、とりあえずまとまった金額のミャンマー通貨チャットを手にした。

    ところで両替のヤンゴンにおける市中レートを日々更新して伝えているウェブサイトもあり参考になる。

    Today’s Market Rates

    このチャット高については、宿にガサッと置いてあった週刊英字紙ミャンマータイムスのひと月近く前の古新聞に興味深い記事を見つけた。今年に入ってから、ミャンマーでは空前のドル余り状態にあるのだという。

    旧英領ながらも、英語で読めるきちんとした現地メディアがほとんど不在といえるミャンマー(New Light of Myanmarという英字日刊紙はあるものの、中身は政府広報紙プラス新華社通信からの配信記事とインターネット上に掲載の各種メディアからの転載)で、唯一の英文によるクオリティ・ペーパーである。

    政治、経済、エンターテインメントその他各方面につき、なかなか興味深い記事と分析が掲載されている。日刊紙ではなく週刊というのは寂しいところだが。

    『ドル余り』といっても、常時外貨準備高不足および加えて先進国による経済制裁という苦難を強いられてきたこの国である。是非については色々取り沙汰されている昨年11月に実施された総選挙結果により『文民政権』が発足したことを受けて、近々経済制裁が解除されるのではないかという期待から、国外からの投資が急増しているらしい。

    加えて、今年1月から2月にかけて国有資産の大規模な売却があり、これについて海外から9億ドル近い大量の資金の流入があったと書かれていた。これが本当であるとすれば、外貨準備高20億ドル少々の国に、いきなりそれの半分近くの外貨が雪崩れ込んだことになる。

    具体的にどの国のどういった方面の資金が流入しているのかについては触れられていなかったものの、近年のドル安という外的要因に加えて、ミャンマー国内へのドル流入の急増という内的要因が作用していることはわかった。チャット高により、輸出関連産業は打撃を受けており、とりわけ10%の輸出税が徴収される国外市場向けの製造分野への投資には急ブレーキがかかっている状態であるとのことだ。

    そんなわけで外国人旅行者を宿泊させる許可を得ている宿や観光地の入場料、入域料といったものは原則ドル現金払いであるのだが、自国通貨ベースにすると著しく目減りしてしまうのを避けるためか、チャット払いを選好するところもある。従前の逼迫した外貨事情によるものであるものとはいえ、本来ミャンマー国内での支払いは、同国通貨チャットでなされるべきものなのだが。

    ここしばらく毎年ヤンゴンを訪れているが、旧市街で植民地時代に造られた建物の取り壊しと新しいビルの建設が続いており、街並みは確実に変化してきている。

    昔は苔むしたコロニアル建築が多い河港の街であることから、コールカーターのそれを連想させるものがあったが、今はそうした景観にシンプルなコンクリート仕上げのビルが多く混じり、中国ないしはタイ等の東南アジアの他の国々の街を思わせるものがある。

    かつて英領インドの一部を成していたこともある植民地時代の残滓を、今の時代になってようやく脱ぎ捨てようとしているかのようである。また今のミャンマーに影響を与えている国はどこであるかを示しているともいえるだろう。

    現在のチャット高には、各国の経済界から『東南アジア最後のフロンティア』市場としての大きな期待感があるのだろう。果たして経済制裁が解除される日が近いのかどうかについては何とも言えないものの、それでもこの国が大きな節目を迎えつつあることは間違いはずだ。