インド独自の具材のこともあるが、やはり特徴的なのはヴェジタリアン専用カウンター、ノンヴエジ専用カウンターに分かれていること。スタッフもそのようにヴェジ専門とノンヴエジ専門となっているようだ。社会規範としてそうなっているだけに、きちんと対応している。
カテゴリー: society
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手書きの看板

味のある手書きはインド人のオハコ。それぞれに異なる魅力があり、自分も何か1枚欲しくなってくる。こうした職人たちが今でも大勢いること、彼らの仕事の需要がたくさんあるがゆえのこと。こうしたものもひとつの豊かさだと思う。

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エジプトの医学生
オールドデリーのレストラン「アル・ジャワーハル」で一緒になった医学生としばらく話をした。エジプトの医科大生で、インドにひと月の研修で来ているとのこと。アフリカやロシアなど各国から同じような立場で来ている学生が多くて楽しいそうだ。たしかにインドの上のクラスの大学は国際的な学びの中心という性格も強いので、こういう短期プログラムもあるのだろう。
デリーについては「カイロの下町みたいで親近感がわく」とか「誰も僕のことを外国人と思わないので気楽」とも。たしかにアラビア人はインド人の大海に入るとまずわからない。しゃべるとコテコテのアラビア訛りの英語なので、すぐに外国人とわかるのだが。
コロナの時代とはいえ、こんな具合に外国のキャンパスで過ごしたり、休日に街巡りなどする経験自体も、若い彼にとって貴重な財産となることだろう。インドの食事もエジプト人の彼にはとてもよく合うとのこと。そんなわけで、こうしたイスラーム系料理の有名店にはよく足を運ぶそうだ。
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華麗なる電線アート

ここまで大きくかつ複雑に取り回すことができるのは、相当な猛者とみた。日々発展を続けており、2030年までに日本とドイツを抜いて世界第3位の経済大国になると予想されているインドだが、こういう風景がなくなる日は来るのだろうか。いや経済が伸びているだけに、電力需要も増していくがゆえに、電線アートはさらに巨大化、複雑化していくのかもしれない。
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金曜礼拝

金曜礼拝終えて出てくる人々。基本的にキリスト教の日曜礼拝と同じ。「啓典の民」なので、理論的には「同じ神」を信仰するユダヤ、キリスト、イスラームの3宗教。装いや雰囲気が異なるのは、それぞれが伝播して発展した地域が異なるので当然のこと。
教義や伝統の継承というのは、ある意味「伝言ゲーム」のような性格もあり、その中で新たな解釈が加わったり、これまでにはなかった派が生じたりして、歴史を紡いでいく。
宗教に限らず人々の食事や身にまとう衣類についても同様で、民族性、地域性、自然環境等々の要因が加わり、時代とともに変遷していくわけなので、長い年月が下ると同じ祖を持つ同士が、大きく異なる、隔たったものになったりしていくのは、私たちが日々使用している言語も同様だ。
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電動サイクルリクシャー
デリーの街でペダルを漕ぐことなく滑るように進んでいくサイクルリクシャーの姿があり目を疑う。よくよく見るとハンドルの上に足をのせている者すらあり、Eリクシャーと並走できるほどの速度が出ている。
そんな1台の上で客待ちをしている運転手にインタビューしてみた。
彼によるとだいたい1万7千Rs前後で自転車から電動に変換できるとのこと。もちろん使用する材料によって費用は異なるようだが。自転車の前部を小型バイクのそれに換えて客席の下にバッテリーを収納。1回の充電で100kmまたは12時間の稼働、使用後にフル充電するためにかかるのは3時間程度なのだとか。
いまどきの都会には、いろんなものがあるものだと感心してしまう。 これは免許や営業許可などはどうなっているのだろうか。また行政への登録はサイクルリクシャーのままなのだろうか。

通常のサイクルリクシャー 
電動化したサイクルリクシャー 
通常のサイクルリクシャー 
電動化したサイクルリクシャー 
電動化したサイクルリクシャー -

シールマール
オールドデリーのシールマールの店。高ければ高いほど素晴らしいものになる。一人で来ていると食べきれない。常温でも15日間保存できると言われると心が動くのだが、最近体重増加中なので腹周りの贅肉さんと相談中。




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雨季の野菜たち



雨季のインドの野菜は宝石のように美しい。とてもぴちぴちしていて魅力的。これらで料理したらどんなにおいしいものが出来上がることかと想像してしまう。
そんな野菜を撮っていたら、手いっぱいの品物を手にしたサブズィーワーリー(野菜売りの女性)が商品のダニヤーを手にして「私も撮りなさい。ほら、こっち」と、いろんなポーズを取りながらずんずん迫ってきた。

ずんずん迫ってくるのはたいてい男性たちなので珍しい。ごくあたりまえの野菜を喜々として撮影している私にいろいろ質問を投げかけてくるので、こちらがタジタジになる。たまに「公式通りでない人」がいるものである。
露店を後にするときも明るい笑顔で見送ってくれた。







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BHARAT JODO YATRA (インドを繋ごう!行脚)
インドの政治のデモンストレーションには、単なる往来でのデモンストレーション以外にダルナー(座り込み)、ハルタール(ゼネスト)、ブーク・ハルタール(ハンガーストライキ)等々の手法があるが、最も準備と覚悟が必要なものは「ヤートラー(行脚、行進、旅)」だろう。
本来、ヤートラーは「アマルナート・ヤートラー」「チャールダーム・ヤートラー」等のように聖地を巡礼したり歴訪したりする宗教行為だが、政治におけるヤートラーは各地を歴訪して支持を訴えながら、そして賛同する人たちを巻き込みながら進んでいく政治行脚となる。これは聖地巡礼と同様、基本的に「パド・ヤートラー(Pad Yatra)」となり、長期間に渡る徒歩での移動となるため、これを実施する場合には周到な準備と断固たる覚悟が必要だ。
斜陽の国民会議派がこのたび「バーラト・ジョーロー・ヤートラー (Bharat Jodo Yatra)=インドを繋ごう行脚」、をスタートさせた。明らかに植民地時代にマハートマー・ガーンディーが率いた「バーラト・チョーロー・アンドーラン(Quit India Movement)」を意識したものだ。後者は英国に対してインドを放棄するように求める行脚であったのに対して、今回のものは、「インドに憎しみと分裂をもたらす政治(BJPによる)に反対して、インドのコミュニテイーや地域をしっかり繋いでいこう」というもの。ヤートラー(行脚)を主導するのはラーフル・ガーンディー。全行程てこれを率いるとみられており、彼とその側近がこのヤートラー(行脚)の核となり、総勢120人から150人程度とみられる。
すでにカニャークマリーをスタートしているが、これから12の州を通って終点はカシミールのシュリーナガルまで。150日間つまり約5カ月かけて、タミルナードゥのトリバン、コーチ、ニーランブル、カルナータカのマイソール、ベーラッリー、ラーイチュル、テーランガーナーのヴィクラーバード、マハーラーシュトラのナーンデール、ジャルガーオン、ラージャスターンのコーター、ダウサー、アルワル、UPのブランドシェヘル、デリー、ハリヤーナーのアンバーラー、バンジャーブのパターンコート、J&Kのジャンムーといったところが主な経由地で、最後はスリーナガルで行脚を終える予定。距離にして3,570kmという壮大なものだ。
こうしたヤートラーがどんな効果を生むかといえば、インド現代史においては大きな役割を担ってきたといえる。ガーンディーが幾度となく繰り返したヤートラーで、それまで存在しなかったと言える「我らインド人」というナショナリズムを醸成させて独立へと向かう大きなうねりとなっていった。
大きく時代が下ってからは1990年9月から10月にかけて実施されたラーム・ラト・ヤートラー(ラーマの神輿の行脚)の影響力は凄まじかった。当時は小政党だったBJPが初めて率いた本格的なヤートラー(行脚)だ。このヤートラーは社会に大きな影響を与え、それまで政治的には取るに足らないちっぽけな存在だったサフラン色のヒンドゥー右翼の魅力へ人々の注目が集まるとともに、1992年に起きた「ラーマの生誕地」に建っているとされるバーブリー・マスジッド破壊事件へと雪崩れ込んでいく。
アーヨーディヤーのラーマ生誕地に「ラーマ寺院を再建させよう」という呼びかけにより、それまでは中道左派の国民会議派とそれに対する左派及びその他民主派による綱引き、つまり左寄りの勢力によるパワーゲームであったインド中央政界に、突然「ヒンドゥー右翼」という大きな極を生み出した。それは爆発的な勢いで拡大していった。あたかも地軸が一気に飛んで、熱帯が北極南極になるような、そうした極地が熱帯になってしまうような、大きな変化を生んだのがこのヤートラーだった。ここから10年も経たない1998年にはBJPを筆頭とするNDA(という政治アライアンス)が誕生し、5年間の任期を全うするまでになった。80年代まで大きな中道左派政党(国民会議派)と左派政党が覇を競いあっていた中央政界が、ごくわずかの期間で極右vs中道左派+左派の対立構造になるという、まるで別の国になってしまったかのような激しい変化を生むきっかけとなったと言える。
サフラン色のヒンドゥー右翼勢力による「我らヒンドゥーが主役」というスタンスの「右傾化」については、いろいろ評価の分かれるところだが、この「我らが主役」というスタンスは各方面に及んだ。それ以前は社会の様々なセグメントを大きな樹木のような国民会議派、あるいは左派政党、はてまたその他の民主派政党が代弁するという構造から、そうしたコミュニティー自身が「我ら地域の民族政党」「我らカーストの政党」「我ら部族の政党」「我らダリット(不可触民)の政党」etc.が立ち上がり、あるいは既存の政党がそのように衣替えするといった具合に、大きく包括的な政党任せではない独自の政党を持ち、合従連衡する傾向が強くなっていった。
その結果として、やはり「数こそが力」であるわけで、政界におけるブラーフマンやタークル層のプレゼンスは大きく低下し、数的規模で勝る「OBCs(その他後進諸階級)」に加えて、それまでは数を自分自身たちの中に集結する術を持たなかったダリット、部族が自らの政党を構成して強い力を奮うようになった。州の分割により、たとえばジャールカンドのような部族がマジョリティを占める州になると、州政界では「部族でなければ人ではない」とでも言わんばかりに部族出身者が統治する世界に変貌していくこととなった。
そんなわけで、サフラン化と表裏の関係にある「我らが主役主義」の機運が高まったことにより、結果としてさらなる民主化と大衆化が進行していったとも言えるとともに、そうした機運を高める大きなきっかけのひとつとなった。BJPだが、インド国外では「昔ながらのヒンドゥーの価値観への復古」と誤解している人たちは少なくないが、実はカーストのヒエラルキーとは無縁のニュートラルな組織だ。現在首相を務めるモーディー氏にしてみたところで、OBCs(その他後進諸階級)の中の「テーリー(油絞りカースト)」という出自なのだから、復古主義とは異なる新たに創出されたポピュリズムに基づく政治であることは明白だろう。伝統的に支配階層がリードしてきた国民会議派とは大きく異なるし、共産党のように大衆運動を標榜しつつも、中核となる政治局員は高学歴で家柄も良い「知識階級が支配してきた共産主義運動」のほうが、よほど「保守的で昔ながらのインド」に見えてしまうのだ。
ヒンドゥーのみならず仏教、ジャイナ教、スィク教徒等を含めたインド起源の宗教の信徒たち、そしてこれまではインド政治の周縁部に位置して長らく国民会議派の地盤でもあったチベット仏教徒たちのラダック地方、そして中央政界への反発も強かった北東部にも広く浸透を見せるなどの広がりを見せているなど、その懐の深さも特筆すべきだ。その反面でムスリム、クリスチャンといった外来の信仰を持つコミュニテイーへの冷淡さと敵視を問題とする向きも多く、政治の分断を進めているという批判も多い。
さて、今回のBharat Jodo Yatraだが、インド独立以来最大にして最長のヤートラー(政治行脚)となるものとみられるが、これが同国の政治の流れを力強く変えるきっかけとなるのだろうか。BJP陣営は、このヤートラーについて様々なレベルでこれを非難する声明を出すなど、強く警戒していることは間違いないようだ。
しかしながら国民会議派党内をしっかりと繋ぐことが出来ずにいるラーフル・ガーンディーに、人望も人気も高くない彼がこの重責を担うことができるのかということについては、この際おいておこう。このようなヤートラーを敢行するからには、相当な覚悟と自信があるはずだ。一行が目指す「近未来の自分たち像」は、「21世紀のマハートマー・ガーンディー」と「現代のジャワーハルラール・ネヘルー&サルダール・パテール」か。
それにしても、私たちからしてみると、国会議員たち、州大臣や州議会議員たちが政務を放り出して「半年の行脚に出る」なんて・・・と思ったりするのだが。
近年、というよりもインド独立後、これほどロングランのヤートラーは聞いたことがないので、国会会期中、州議会会期中に彼らはどうするのか、一時的に中断して会議にでるのか、それとも放棄してヤートラーに注力するのか、野次馬的な関心もそそられる。
国民会議派による特設サイト「Bharat Jodo Yatra(インドを繋ごう行脚)」
Shri Rahul Gandhi flags off and joins Bharat Jodo Yatra in Kanyakumari.(カニャークマリーからヤートラー開始時の様子)
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たかが名前、されど名前
大統領官邸からインド門を結ぶ大きな通り「RAJPATH(統治の道)」。界隈には中央官庁が集まっており、まさにインド統治の中心地。この「PATH」は英語の「PATH(パス)※小道、通路」ではなく、サンスクリット起源の「PATH(パト)※道、道路」なので、のどかな散歩道ではなく、権力者が進む「覇者の大道」のイメージ。
英領時代は現在の大統領官邸はインド総督の官邸で、この通りは「KINGSWAY(王の道)」と呼ばれていたものが独立後に改称された。そんな経緯のある「RAJPATH(統治の道)」が「KARTAVYA PATH(任務の道)」に改められるとのニュース。
「王の道」から「統治の道」そして「任務の道」へと変遷。前者ふたつは、お偉いさんがふんぞり返っているような響きがあったが、最新の名前は生真面目なお役人がしっかりとお勤めしているような姿が目に浮かぶ。まさに「物は言いよう」だが、都市名、道路名、施設名の変更が多いインド。
そこにかかる手間や費用もあるのだろうけど、正式名称が変わったところで通称される名前はそのまんまだったりするので、ややこしいだけのような気もする。
それはそうと、デリーが神話の「インドラプラスタ」に改名されるのはいつだろうか。サフラン右翼周辺部から、ときどき観測気球でも上げるかのように、「☓☓の☓☓氏が改名を提言」みたいな小さな記事がメディアに掲載されるが、今のところは大物感のある人物からの提起はないようだ。さすがに首都名ともなると、ハードル高く、息長く準備を進めているのか、いないのか。準備していないことを願いたい。まぁ、個人的には名前はいじらずにおいて欲しいのだが。これはインドの政府が決めること。
話は飛ぶが、サフラン右翼の人たちの認識では、インド最後の王朝ムガル帝国はインド人たちの歴史ではなく、イギリスの前にインドを征服した侵略者たちの歴史。それ以前のイスラーム王朝も同様。「インドの歴史」として私たちが読むものとは、この部分が大きく異なる。つまり彼らにとって、それは「インドで起きた歴史」であっても「自分たちインド人の歴史」ではない。
そんなわけで、名前を神話時代の「インドラプラスタ」への変更を本気で提起するとき、「デリーを我々インド人の手に取り戻した」というような主張となるのは目に見えている。
たかが名前とはいえ、やっぱり名前は大事。そんな日が決して来ませんように・・・。
Rajpath all set to be renamed Kartavya Path (The Indian EXPRESS)
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ザファル・メヘルへ
久々にやってきたデリーでどこに行こうかとしばらく迷ったが、ムガル末期の夏の離宮、そしてムガル朝終焉の地、ザファル・メヘルを訪問することにした。デリーにあるムガル建築の中で、個人的に気に入っているのがここだ。南デリーのメヘローリーにある。


往年の栄華からは比べようもない簡素な離宮。最後の皇帝ザファルは夏の時期をここで過ごすのが好きだったという。周囲がごちゃごちゃと建て込んでいる現在の様子とは異なり、当時はうっそうとした茂みが大地を包んでいたのだろう。小ぶりながらも漆喰で白くきれいに整えられた宮殿で、詩人として、文化人としても知られた皇帝はどんな夏を過ごしていたのだろうか。


またここは1857年に発生した「インド大反乱」がイギリス当局により抑え込まれた後、ザファル、王子、王女とわずかな側近たちが護衛とともに逃れた先。戦乱で荒廃しきった大地で、皇帝一行は離宮への道すがらグルジャル(というコミュニティー)の盗賊に襲撃されて、ラールキラーから持ち出した金や財宝を略奪されるなど、散々な道中であったと伝えられている。


だがそこへの潜伏も、イギリス当局の知るところとなり、駆けつけた軍勢により、皇帝一行は逮捕され、まだ幼少の王子2人を除いた男性の王族たちは殺害される。老齢のザファル自身は后のズィーナト・メヘル、ふたりの幼い王子とともにラングーンに島流し。ムガル朝終焉の地は、まさにこのザファル・メヘルであったことになる。
こちらはザファル・メヘル内の帝国末期の皇帝や嫡子たちの墓。全盛期には妃のためにタージメヘルのような壮麗な建築を残したムガル朝も末期はこんな風にまとめて埋葬された。雑草が茂るのはザファルが埋葬される予定だった部分。英国当局によりラングーンに島流しとなり没したのでデリーには埋葬されていない。

