オールドデリーのシールマールの店。高ければ高いほど素晴らしいものになる。一人で来ていると食べきれない。常温でも15日間保存できると言われると心が動くのだが、最近体重増加中なので腹周りの贅肉さんと相談中。





オールドデリーのシールマールの店。高ければ高いほど素晴らしいものになる。一人で来ていると食べきれない。常温でも15日間保存できると言われると心が動くのだが、最近体重増加中なので腹周りの贅肉さんと相談中。








雨季のインドの野菜は宝石のように美しい。とてもぴちぴちしていて魅力的。これらで料理したらどんなにおいしいものが出来上がることかと想像してしまう。
そんな野菜を撮っていたら、手いっぱいの品物を手にしたサブズィーワーリー(野菜売りの女性)が商品のダニヤーを手にして「私も撮りなさい。ほら、こっち」と、いろんなポーズを取りながらずんずん迫ってきた。

ずんずん迫ってくるのはたいてい男性たちなので珍しい。ごくあたりまえの野菜を喜々として撮影している私にいろいろ質問を投げかけてくるので、こちらがタジタジになる。たまに「公式通りでない人」がいるものである。
露店を後にするときも明るい笑顔で見送ってくれた。








インドの政治のデモンストレーションには、単なる往来でのデモンストレーション以外にダルナー(座り込み)、ハルタール(ゼネスト)、ブーク・ハルタール(ハンガーストライキ)等々の手法があるが、最も準備と覚悟が必要なものは「ヤートラー(行脚、行進、旅)」だろう。
本来、ヤートラーは「アマルナート・ヤートラー」「チャールダーム・ヤートラー」等のように聖地を巡礼したり歴訪したりする宗教行為だが、政治におけるヤートラーは各地を歴訪して支持を訴えながら、そして賛同する人たちを巻き込みながら進んでいく政治行脚となる。これは聖地巡礼と同様、基本的に「パド・ヤートラー(Pad Yatra)」となり、長期間に渡る徒歩での移動となるため、これを実施する場合には周到な準備と断固たる覚悟が必要だ。
斜陽の国民会議派がこのたび「バーラト・ジョーロー・ヤートラー (Bharat Jodo Yatra)=インドを繋ごう行脚」、をスタートさせた。明らかに植民地時代にマハートマー・ガーンディーが率いた「バーラト・チョーロー・アンドーラン(Quit India Movement)」を意識したものだ。後者は英国に対してインドを放棄するように求める行脚であったのに対して、今回のものは、「インドに憎しみと分裂をもたらす政治(BJPによる)に反対して、インドのコミュニテイーや地域をしっかり繋いでいこう」というもの。ヤートラー(行脚)を主導するのはラーフル・ガーンディー。全行程てこれを率いるとみられており、彼とその側近がこのヤートラー(行脚)の核となり、総勢120人から150人程度とみられる。
すでにカニャークマリーをスタートしているが、これから12の州を通って終点はカシミールのシュリーナガルまで。150日間つまり約5カ月かけて、タミルナードゥのトリバン、コーチ、ニーランブル、カルナータカのマイソール、ベーラッリー、ラーイチュル、テーランガーナーのヴィクラーバード、マハーラーシュトラのナーンデール、ジャルガーオン、ラージャスターンのコーター、ダウサー、アルワル、UPのブランドシェヘル、デリー、ハリヤーナーのアンバーラー、バンジャーブのパターンコート、J&Kのジャンムーといったところが主な経由地で、最後はスリーナガルで行脚を終える予定。距離にして3,570kmという壮大なものだ。
こうしたヤートラーがどんな効果を生むかといえば、インド現代史においては大きな役割を担ってきたといえる。ガーンディーが幾度となく繰り返したヤートラーで、それまで存在しなかったと言える「我らインド人」というナショナリズムを醸成させて独立へと向かう大きなうねりとなっていった。
大きく時代が下ってからは1990年9月から10月にかけて実施されたラーム・ラト・ヤートラー(ラーマの神輿の行脚)の影響力は凄まじかった。当時は小政党だったBJPが初めて率いた本格的なヤートラー(行脚)だ。このヤートラーは社会に大きな影響を与え、それまで政治的には取るに足らないちっぽけな存在だったサフラン色のヒンドゥー右翼の魅力へ人々の注目が集まるとともに、1992年に起きた「ラーマの生誕地」に建っているとされるバーブリー・マスジッド破壊事件へと雪崩れ込んでいく。
アーヨーディヤーのラーマ生誕地に「ラーマ寺院を再建させよう」という呼びかけにより、それまでは中道左派の国民会議派とそれに対する左派及びその他民主派による綱引き、つまり左寄りの勢力によるパワーゲームであったインド中央政界に、突然「ヒンドゥー右翼」という大きな極を生み出した。それは爆発的な勢いで拡大していった。あたかも地軸が一気に飛んで、熱帯が北極南極になるような、そうした極地が熱帯になってしまうような、大きな変化を生んだのがこのヤートラーだった。ここから10年も経たない1998年にはBJPを筆頭とするNDA(という政治アライアンス)が誕生し、5年間の任期を全うするまでになった。80年代まで大きな中道左派政党(国民会議派)と左派政党が覇を競いあっていた中央政界が、ごくわずかの期間で極右vs中道左派+左派の対立構造になるという、まるで別の国になってしまったかのような激しい変化を生むきっかけとなったと言える。
サフラン色のヒンドゥー右翼勢力による「我らヒンドゥーが主役」というスタンスの「右傾化」については、いろいろ評価の分かれるところだが、この「我らが主役」というスタンスは各方面に及んだ。それ以前は社会の様々なセグメントを大きな樹木のような国民会議派、あるいは左派政党、はてまたその他の民主派政党が代弁するという構造から、そうしたコミュニティー自身が「我ら地域の民族政党」「我らカーストの政党」「我ら部族の政党」「我らダリット(不可触民)の政党」etc.が立ち上がり、あるいは既存の政党がそのように衣替えするといった具合に、大きく包括的な政党任せではない独自の政党を持ち、合従連衡する傾向が強くなっていった。
その結果として、やはり「数こそが力」であるわけで、政界におけるブラーフマンやタークル層のプレゼンスは大きく低下し、数的規模で勝る「OBCs(その他後進諸階級)」に加えて、それまでは数を自分自身たちの中に集結する術を持たなかったダリット、部族が自らの政党を構成して強い力を奮うようになった。州の分割により、たとえばジャールカンドのような部族がマジョリティを占める州になると、州政界では「部族でなければ人ではない」とでも言わんばかりに部族出身者が統治する世界に変貌していくこととなった。
そんなわけで、サフラン化と表裏の関係にある「我らが主役主義」の機運が高まったことにより、結果としてさらなる民主化と大衆化が進行していったとも言えるとともに、そうした機運を高める大きなきっかけのひとつとなった。BJPだが、インド国外では「昔ながらのヒンドゥーの価値観への復古」と誤解している人たちは少なくないが、実はカーストのヒエラルキーとは無縁のニュートラルな組織だ。現在首相を務めるモーディー氏にしてみたところで、OBCs(その他後進諸階級)の中の「テーリー(油絞りカースト)」という出自なのだから、復古主義とは異なる新たに創出されたポピュリズムに基づく政治であることは明白だろう。伝統的に支配階層がリードしてきた国民会議派とは大きく異なるし、共産党のように大衆運動を標榜しつつも、中核となる政治局員は高学歴で家柄も良い「知識階級が支配してきた共産主義運動」のほうが、よほど「保守的で昔ながらのインド」に見えてしまうのだ。
ヒンドゥーのみならず仏教、ジャイナ教、スィク教徒等を含めたインド起源の宗教の信徒たち、そしてこれまではインド政治の周縁部に位置して長らく国民会議派の地盤でもあったチベット仏教徒たちのラダック地方、そして中央政界への反発も強かった北東部にも広く浸透を見せるなどの広がりを見せているなど、その懐の深さも特筆すべきだ。その反面でムスリム、クリスチャンといった外来の信仰を持つコミュニテイーへの冷淡さと敵視を問題とする向きも多く、政治の分断を進めているという批判も多い。
さて、今回のBharat Jodo Yatraだが、インド独立以来最大にして最長のヤートラー(政治行脚)となるものとみられるが、これが同国の政治の流れを力強く変えるきっかけとなるのだろうか。BJP陣営は、このヤートラーについて様々なレベルでこれを非難する声明を出すなど、強く警戒していることは間違いないようだ。
しかしながら国民会議派党内をしっかりと繋ぐことが出来ずにいるラーフル・ガーンディーに、人望も人気も高くない彼がこの重責を担うことができるのかということについては、この際おいておこう。このようなヤートラーを敢行するからには、相当な覚悟と自信があるはずだ。一行が目指す「近未来の自分たち像」は、「21世紀のマハートマー・ガーンディー」と「現代のジャワーハルラール・ネヘルー&サルダール・パテール」か。
それにしても、私たちからしてみると、国会議員たち、州大臣や州議会議員たちが政務を放り出して「半年の行脚に出る」なんて・・・と思ったりするのだが。
近年、というよりもインド独立後、これほどロングランのヤートラーは聞いたことがないので、国会会期中、州議会会期中に彼らはどうするのか、一時的に中断して会議にでるのか、それとも放棄してヤートラーに注力するのか、野次馬的な関心もそそられる。
国民会議派による特設サイト「Bharat Jodo Yatra(インドを繋ごう行脚)」
Shri Rahul Gandhi flags off and joins Bharat Jodo Yatra in Kanyakumari.(カニャークマリーからヤートラー開始時の様子)
大統領官邸からインド門を結ぶ大きな通り「RAJPATH(統治の道)」。界隈には中央官庁が集まっており、まさにインド統治の中心地。この「PATH」は英語の「PATH(パス)※小道、通路」ではなく、サンスクリット起源の「PATH(パト)※道、道路」なので、のどかな散歩道ではなく、権力者が進む「覇者の大道」のイメージ。
英領時代は現在の大統領官邸はインド総督の官邸で、この通りは「KINGSWAY(王の道)」と呼ばれていたものが独立後に改称された。そんな経緯のある「RAJPATH(統治の道)」が「KARTAVYA PATH(任務の道)」に改められるとのニュース。
「王の道」から「統治の道」そして「任務の道」へと変遷。前者ふたつは、お偉いさんがふんぞり返っているような響きがあったが、最新の名前は生真面目なお役人がしっかりとお勤めしているような姿が目に浮かぶ。まさに「物は言いよう」だが、都市名、道路名、施設名の変更が多いインド。
そこにかかる手間や費用もあるのだろうけど、正式名称が変わったところで通称される名前はそのまんまだったりするので、ややこしいだけのような気もする。
それはそうと、デリーが神話の「インドラプラスタ」に改名されるのはいつだろうか。サフラン右翼周辺部から、ときどき観測気球でも上げるかのように、「☓☓の☓☓氏が改名を提言」みたいな小さな記事がメディアに掲載されるが、今のところは大物感のある人物からの提起はないようだ。さすがに首都名ともなると、ハードル高く、息長く準備を進めているのか、いないのか。準備していないことを願いたい。まぁ、個人的には名前はいじらずにおいて欲しいのだが。これはインドの政府が決めること。
話は飛ぶが、サフラン右翼の人たちの認識では、インド最後の王朝ムガル帝国はインド人たちの歴史ではなく、イギリスの前にインドを征服した侵略者たちの歴史。それ以前のイスラーム王朝も同様。「インドの歴史」として私たちが読むものとは、この部分が大きく異なる。つまり彼らにとって、それは「インドで起きた歴史」であっても「自分たちインド人の歴史」ではない。
そんなわけで、名前を神話時代の「インドラプラスタ」への変更を本気で提起するとき、「デリーを我々インド人の手に取り戻した」というような主張となるのは目に見えている。
たかが名前とはいえ、やっぱり名前は大事。そんな日が決して来ませんように・・・。
Rajpath all set to be renamed Kartavya Path (The Indian EXPRESS)

久々にやってきたデリーでどこに行こうかとしばらく迷ったが、ムガル末期の夏の離宮、そしてムガル朝終焉の地、ザファル・メヘルを訪問することにした。デリーにあるムガル建築の中で、個人的に気に入っているのがここだ。南デリーのメヘローリーにある。


往年の栄華からは比べようもない簡素な離宮。最後の皇帝ザファルは夏の時期をここで過ごすのが好きだったという。周囲がごちゃごちゃと建て込んでいる現在の様子とは異なり、当時はうっそうとした茂みが大地を包んでいたのだろう。小ぶりながらも漆喰で白くきれいに整えられた宮殿で、詩人として、文化人としても知られた皇帝はどんな夏を過ごしていたのだろうか。


またここは1857年に発生した「インド大反乱」がイギリス当局により抑え込まれた後、ザファル、王子、王女とわずかな側近たちが護衛とともに逃れた先。戦乱で荒廃しきった大地で、皇帝一行は離宮への道すがらグルジャル(というコミュニティー)の盗賊に襲撃されて、ラールキラーから持ち出した金や財宝を略奪されるなど、散々な道中であったと伝えられている。


だがそこへの潜伏も、イギリス当局の知るところとなり、駆けつけた軍勢により、皇帝一行は逮捕され、まだ幼少の王子2人を除いた男性の王族たちは殺害される。老齢のザファル自身は后のズィーナト・メヘル、ふたりの幼い王子とともにラングーンに島流し。ムガル朝終焉の地は、まさにこのザファル・メヘルであったことになる。
こちらはザファル・メヘル内の帝国末期の皇帝や嫡子たちの墓。全盛期には妃のためにタージメヘルのような壮麗な建築を残したムガル朝も末期はこんな風にまとめて埋葬された。雑草が茂るのはザファルが埋葬される予定だった部分。英国当局によりラングーンに島流しとなり没したのでデリーには埋葬されていない。


昨日、インド海軍航空母艦「INS ヴィクラーント」2代目が就役。インド初の国産空母である。式典にはモーディー首相も出席し、新たなインド海軍旗が発表された。1950年以来長年使用されてきたセント・ジョージズ・クロス、つまり白地に赤十字のイングランド国旗でもおなじみのあの柄の右上にインド国旗をあしらったデザインの使用が終わり、十字を外して左下にマラーター王国のシヴァージーの紋章に獅子柱頭と海軍スローガンとあしらったものであり、インド海軍の新時代の幕開けを演出している。



好調となっている国内線とは裏腹に今も減便が続く国際線。成田空港の国際線ターミナルは今も閑散とした状態。空港内の店などもひところよりは営業しているところが増えたとはいえ、まだまだ「コロナ禍」といった風情だ。



これまた久しぶりのエアインディアにちょこっと搭乗してみただけで、「今年2月に民営化して以降、こうなっている」などと、おこがましいことを言うつもりはない。それでも大変気になったことがいくつかある。
・年配で貫禄あるパイロットはどこへ行ったのか?
・くたびれた感じの客室乗務員のオジサンはどうしたのか?
・声が大きくて押し出しの強い客室乗務員のおばちゃんはどうしているのか?



たまたま東京・デリー便だけ、フレッシュなスタッフが揃ったというのならばよいのたが、これまで労組が強くて、職員たちが長く勤めやすかったため、民間航空会社のフライトのパイロットやアテンダントの「親世代」みたいな人たちがモソモソと働いていたことを思うと、まるで別のフライトであるかのようだった。


ゲートに集合するパイロットはまだ若くて精悍な感じの人たちだったし、客室乗務員は男性はイケメンマッチョ、女性は美形のモデルさんみたいで、映画やドラマにそのまんま出演できそうな感じ。応対もとても丁寧。こういう人たちは新たに採用されたのか、それとも同じTATA経営のVISTARAからの横滑りなのか?
ひさびさのエアインディア搭乗ということで、経験豊富な中高年だらけで一種の「安心感」みたいな雰囲気を当然のごとく期待していたが、少なくとも私が利用した東京・デリー往復便は、ごく当たり前の民間航空のフライトであった。

しかも出発が30分遅れたのはいいとして、到着は定刻よりも1時間半早まったので、てっきりデリーではなく、どこか別の空港に不時着するのか?とすら思ったくらいだ。東京・デリーの移動がこんなに速かったのは初めて。
これはコロナ禍による減便のため、成田のサテライトを出てから滑走路までが驚くほどすぐだったり、到着するデリーでも着陸待ちで旋回させられることがあまりない?ためかもしれない。そんなこんなで、あれやこれやと回想しているうちに、アッという間にデリーに着いてしまった。

ごく当たり前であるがごとく、コロナ前同様に混雑している空港からはプリペイドタクシーで市内へ。車窓から見える風景はまるで2019年のコロナ前の眺め。誰もマスクしている人は見当たらない。まるでコロナなんて無かったかのようだ。一時はロックダウンが実施されたり、デルタ株が流行した時期にはおびただしい死者が出たりと大変だったはずなのに。立ち直りの早さはインドらしいところだ。
パハールガンジにあるいつもの宿に着いた想像していたよりも西洋人客がいるし、界隈にもそうした姿がある。家族連れもある。しかし誰もほぼマスクはしていない。日本以外の多くの国々ではそういうところが多いだろう。ぜひ見習いたいものだ。
とりあえずAirtelのSIM購入。有効期間1ヶ月のプリペイドだが、利用期間の更新も可能。ネットは毎日1.5GB使えるとのこと。つまりひと月で45GBも利用できる。しかも国内電話は無料。
コロナ前以来のインドに来てとても興奮するが、パッと見た感じは以前と特に変わった様子もないので、まるでコロナ前にタイムマシーンでやってきたかのような気さえしてくる。
すでに昨年10月から団体旅行への観光ヴィザ発給が再開し、翌月11月からは個人旅行者に対しても同様に再開した後、順調に観光客受け入れが拡大しているインド。
2020年3月に、それまで発行された各種ヴィザが効力停止となるという前代未聞の出来事があったが、その際には有効期間が5年と長いe-visa(観光)も無効化されている。
こちらについては今年3月に再度有効化されたというインドのイミグレーションによる発表もあったが、インドでは何があるかわからないし、担当官の胸三寸でいろいろ起こりえるため、再度取得しておくのがベターに思える。もちろん現在ではe-visaもコロナ前同様に5年間有効なものが発行されている。申請方法については、こちらによくまとめてあるので参考にされてはいかがだろうか。リュウサイさんという方による「インドいかへん?」というブログ内にある。
また8月7日までは、日本からの渡航の場合は他の多くの国々からの場合と異なり、出発前72時間以内の陰性証明書の提出が求められていた。これについてもこちらのように、医療機関ではない検査専門機関による証明書を公費の補助を利用してごく安い費用(1,000円強程度)で取得する方法がネットで共有されていた。医療機関でこれを取得する場合、下手すると2万数千円にもなることがあるため、大変貴重な情報であった。陰性証明書については、もはや求めている国はごくわずかになったとはいえ、日本のように様式まで特定している国もあれば、おおらかな国もあるなど、スタンスは様々なので、いわゆる「格安PCR」業者の証明書が受容されるのかどうかは、誰かに聞かないとわからないだけに、こうした情報を提供してくれる筆者のkana7ko8 さんのような存在はありがたい。
だが8月8日以降は日本からの渡航の場合も陰性証明書は求められなくなり、他国からの渡航の場合と同様に、インドにおける事前検疫登録システム「Air Suvidha」に事前申請するだけでよくなった。これとて陰性証明書は不要となってもワクチン接種証明書はアップロードする必要があったが、現在はすでに求められてはいないらしい。ただし公式にはワクチン接種証明書の提示が求められることになっているため、証明書または電子証明書は持参することとしたい。
そんな具合で、現在のインド渡航に係る手続き等については、「Air Suvidha」への登録を除けばコロナ前と同じになっている。
問題は日本に帰国する際に必要となる陰性証明書だが、こちらについても9月7日以降はワクチン接種3回済んでいることの証明書を所持していることを条件として不要となる。これにより、コロナ前とほぼ同様になると言ってよいだろう。
臨時便しか飛んでいなかった頃には、郵便すらインド宛のエアメールが利用できなくなり、「船便あるいはサーフェスメールのみ」という時期もあるなど、一時期は「月と同じくらい遠くなった」と思えたインドが、再び身近なものとなってきた。
出張や赴任等で費用会社持ちの場合は気にすることはないのだろうが、個人が自費で旅行に出かける場合には、残るハードルは今も続く減便に加えて、原油価格高騰に伴う燃油サーチャージがあまりに高くなったことによる航空券代金ということになるだろうか。コロナ以前には繁忙期でも中国東方航空などで中国の街を経由すれば、他キャリアよりも比較的予約しやすく、しかも安く日本・インド間を往復できたものだし、日本・タイ間を毎日何便も飛んでいたLCCのフライトでバンコクまで飛び、そこからカルカッタまで他のLCCの往復を利用することもできたのだが、現在はその限りではない。
今後、原油価格が落ち着いていくことを願うのはもちろんのことだが、各国間の往来の需要がコロナ前の水準にまで高まり、各社のフライトの頻度が高まるとともに、各路線にLCCを含めた多数の新規参入が続くというような状況になることに期待しよう。

パキスタンのスィンド州カラーチー市南部にあるジンナー病院裏手に暮らしているというタミル系のおぱあさんへのウルドゥー語によるインダビュー動画。印パ分離前に父母がマドラス近くのアガラムという村から来たとのと。もともと農民の出身だそうだ。「アガラム」については、ググッてみると、チェンナイの西側に出てくる。今はチェンナイメトロの路線が近くを通っているため、チェンナイの郊外といった具合なのだろう。彼女自身はカラーチーで生まれたという。
彼女は自身のムルガン信仰について、そして現在はコロナで支障が出ているがと前置きしたうえでの祭事について、信仰と食生活の関係などを話している。このあたりにはタミル系の90家族が暮らしており、その他「裏手には25家族か30家族くらいいる」とのこと。クリフトン・ビーチとチンナー・クリークと呼ばれる入江の間に半島状に伸びた陸地にジンナー病院が立地しているため、おそらく「裏手」というのは入江の北側で大きな市街地になっている部分のことを言っているのだろう。
パキスタンに暮らしていて特に困ることなどないという。決まったコミュニティ内で見知った人たちとの間で暮らしていること、インドでの居住経験はない(幼い頃に両親とともにアガラム村を訪問したことはあるとのこと)ため、比較のしようはないはずとはいえ、どこの世間でもそんなものだろう。タミル人だから、ヒンドゥーだから、ここではああ不便!などということはあまりないはず。とりとめのない雑談ではあるものの、こうしてよく喋る人はインド・パキスタンには多い。
インタビューの最後に出てくるヒンドゥーの男性は、おばあさんのいつもの参拝先繋がりの人で、息子さんの友人でもあるそうだが、この人もタミル系なのかどうかは言及されておらず、なぜここに出ているのかよくわからないが、たぶん「俺も写して」とかなんとかでしゃしゃり出て来たのだろう。インド・パキスタンではこういう人はよくいる。
グジャラート州のワドナガル駅。モーディーが子供時代に父親を手伝ってチャーイを売っていたというティーストールは、ある意味聖地みたいなものらしく、彼の生い立ちを伝える本や雑誌などにもよく出てくる。
駅でチャーイを売る子供が長じて首相になるという立身出世ストーリー、しかもお金にはクリーンなイメージと合わせて、インドの庶民の琴線に触れるのがよくわかる。
たぶんこのティーストールを訪れたら、そんな気持ちが理解できるのではないかと思う。
マハーラーシュトラ州のコールハープルのアカーラー(道場)を見学したことがあるが、ここは強豪を輩出する名門らしく、極めてガチなところだった。
コロナ禍で寄附は減り、大会も開かれなくなるので賞金収入はなくなるわ、罹患者も増えるなどで、8ヶ月も休業していたそうだ。昔の安旅行者のドミよりもさらに狭苦しいところに詰め込まれての集団生活なので、クラスターでも起きれば全員道連れだろう。加えて2021年には洪水被害もあり、さんざんなコロナ禍だったらしい。
もちろん今は活動を再開しているそうだ。近所の人たちも暇つぶしによく来ているし、見るからに強豪といった感じのペヘルワーンたちの取り組みも間近に見ることができるためお勧めである。
あしたのジョーの丹下段平みたいな風情の親方がどっかり腰掛けて睨みを利かす中で、黙々と取り組みが進行していくストイックな空間だ。

インドにはいろいろ見どころがあるが、早起きしたらアカーラー(道場)を見学するのが好きだ。アカーラーというのはインド式レスリング「クシティー」の道場。ペヘルワーン(レスラー)たちも様々で、道場によっては田舎から住み込みでやってきて頑張っている若者たちでいっぱいのガチなところもあれば、通いの青年たちもいる道場もあり、「クシティー」だけでなく、国際式のレスリングも同時にやっているところもある。
また数は多くないが女性を受け入れている道場もある。デリーのチャンダギー・ラーム・アカーラーは、そんな中のひとつで、娘を連れて見学に行ったことがある。当時小学生だった娘は自分と同年代から始まって成人まで、様々な年代の女性たちが黙々と取り組みを行っている様子に目を丸くしていたことを思い出す。
映画「Dangal」ではないが、こういうところから国際式に転向して五輪に出場したり、女子レスリングでも世界を舞台に活躍する選手たちを輩出している「クシティー」の世界。
伝統的なのは、土というか砂地というかのリングで、文字通り泥だらけになって闘う男たち、それを厳しい眼差しで見ている威厳のある親方。リングに対して緩衝地帯やロープなどの安全装置もなく、コンクリートの柱や壁のある升の中での取り組みで、「頭打ったらどうするのか?」とハラハラしながら見学したりする。
日本で言えば「相撲部屋」みたいな風情だが、小学生くらいの子供たちも練習に励んでいるアカーラーもあれば、各種スポンサーを得て「ガチ中のガチ」で、精鋭を集めて切磋琢磨しているアカーラーもある。こういう世界は、日本で今だに根強い「スポ根主義」と親和性が高いと思われるのだが、なぜかここにフォーカスを当てたドキュメンタリーなどは目にしたことがない。「ド根性インディア」とかなんとか題して、こういうところでガチで精進する若者たちのことを取り上げたら、けっこう評判になるのではないかと思うのだが。
ガチのアカーラーの住み込みペヘルワーン(レスラー)たちになると、ゴリラみたいな体格をしているが、彼らの食生活はヴェジ。もちろん乳製品はふんだんに提供されるとともに、エネルギー源としてナッツ類はこれまた大量に与えられるそうだ。
Youth of Varanasi do not like GYM | Kushti | Akhara | Varanasi Kushti (Youtube)