
ハイデラーバード旧市街で、ビリヤーニーの名店とされるホテル・シャダーブのすぐ隣には、バドシャーヒー・アシュルカーナーがある。アシュルカーナーとは、文字通り「嘆きの館」の意味だが、第3代目のイマーム、フセインの殉教を記念したものであり、シーア派の大祭モハッラムの際には大変な混雑となるそうだ。
ゴールコンダーのクトゥブシャーヒー朝5代目の王、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーが建てさせた(1594年)もので、ハイデラーバードの街を象徴する歴史的建造物であるチャールミナール(1591年)とほぼ同時期に建設されている。
ムスリム人口が4割に及ぶというハイデラーバードだが、シーア派人口もかなり多いようだ。






カテゴリー: society
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バドシャーヒー・アシュルカーナー
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パイガー墓地(Paigah Tombs)
ハイデラーバードの旧市街からパイガー墓地に行くのはあまり簡単ではなかった。オートの運転手たちがそこを知らないからである。またマクバラー・シャムスルウムラー(Maqbara Shums Ul Umra)と言えば判ってもらえたのだろうか。
ともあれ、こんなときにスマホは役に立つ。グーグルマップで検出して出てきたロケーションに近く、誰でも判りそうな「サントーシュナガル警察署」まで行くことにした。この街では、オートの運転手たちに対する道案内サービスのようなものがあるらしい。運転手が携帯で電話して誰かに行き方を質問、というようなことがしばしばある。運転手がムスリムで、運転中に携帯を手にして話しているのがウルドゥー語なので、その会話内容が判るわけなのだが。最初は誰か知人にでもかけているのかと思ったが、そうではないようなので尋ねてみると、もちろん知らない場所に行く場合に、先方が知る範囲での情報をもらえるともに、道路混雑具合の照会にも使えるということだ。なかなか面白いサービスである。

警察署前のヒンドゥー寺院 しばらく走って到着したサントーシュナガル警察署のゲート近くにいた人に、進むべき方角を確認。警察署付近には南インド様式のヒンドゥー寺院があるが、少し進むとムスリム地区となり、インド北方系と思われる色白で風格のある顔立ちの人々が多い。そうした中高年の人々が立ち話しているところでふたたび道を尋ねて、もう近くまで来ていることがわかった。私の目的地は、ジャマー・マスジッド・クルシード・ジャーの裏手にあるとのこと。

パイガー墓地はこのモスクの裏手 ここは、ニザームの家臣、パイガー一族の墓地。この一族はイスラーム教の二代目のカリフ、ウマル・イブン・アルハッターブの子孫であるとされる大変な名門。ニザームの忠実な家臣として仕えた家柄だが、独自の宮殿や数千人にも及ぶ私兵を持つなど、藩王国内の王国のような権勢を誇った一族であったとのこと。先祖がアラブのクライシュ族から出たとされるムスリムの家系はインドやパーキスターンで他にもあるが、その中でもまったく次元が異なることになる。1960年代に埋葬された人の墓もあり、同家の墓地として割と最近まで使われていたらしい。ムガルやラージャスターンの様式に地元デカンのスタイルを加えたものとされる精緻なデザインで、大変風格を感じさせる墓地である。
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イスラームはインドに学ぶべき
ハイデラーバードでは広くウルドゥー語が使用されていることはよく知られているが、私はてっきりテルグ語社会の中で、インドのムスリムにとっての教養のひとつとしてウルドゥー語が広く理解されていることと思っていたが、実はネイティヴでウルドゥー語を話す人が非常に多いことは知らなかった。
ハイデラーバードのムスリム人口は4割前後と言われ、大都市としては突出したイスラーム教徒人口の割合の高さを示している。とりわけ旧市街を中心に代々ここで暮らしてきたムスリムたちが多いようだが、そうした人たちの中で見るからに北方系といった顔立ちや肌の色の人たちが大勢いることも特徴的だ。デカンのこの地に北インドを移植したかのような観さえあるとしても言い過ぎではないだろう。
ハイデラーバード市街地から出ると、「デカンにやってきたな」と感じるし、市内でも南インド風のゴプラム様式のヒンドゥー寺院からある一角から、ムスリム地区に入ると一気に北インドにワープしたかのような気分にさえなる。
ところで、最近の日本ではイスラーム関係のビジネスが盛り上がりを見せつつあり、ムスリム社会への関心も少しずつ高まりつつある。それは良いことだと思う半面、ムスリム自身によるタテマエの発言をそのまま伝える安易なものに終始していることが気にかかる。
イスラーム理解には、私たち非ムスリムからするとネガティヴに捉えてしまう部分も併せて知ることが不可欠である。世代を越えて皮膚感覚で蓄積してきたイスラームへの理解は深い。付け焼き刃の「イスラームとは」の類よりもはるかに実際的で、タメになるはずだ。
一時滞在のお客さんならば、帰国するまで我慢して、後はニコニコして送り出してしまえば済むのだが、自国で共存していくにはそれなりの覚悟と妥協が必要となる。。
Namaste Bollywood+ 43のレヴューを取り上げた際にも書いたが、イスラームが栄えてきた歴史の長さと、イスラーム教以外の様々な宗教との共存という点からも、イスラーム教やそれを信仰するムスリムの人たちを理解するために、インドという国は私たちにとって非常に優れた教師となることと信じている。
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The British Residency in Hyderabad
ハイデラーバード藩王国時代の英国駐在官の館であり執務場所であった建物。完成したのは1803年なので、今年で築212年ということになる。1949年から、この場所はOsmania University College for Womenのキャンパスのとして使用されており、この建物自体もかつて校舎として使われていた。

植民地時代の絵画に出てきそうな眺め かなり荒廃しているが、建物正面のたたずまいを目にして、アメリカのホワイトハウスを連想する人も少なくないだろう。周囲の熱帯の大きな植生も入れて撮影してみると、植民地期の絵画に出てくるひとコマのような写真になる。近々、本格的な修復の手が入るとのこと。
調度品や家具などはまったく残されていないものの、元々の造りが立派なだけに風格がある。部屋には教室番号のプレートが残されており、たしかにここで講義がなされていたことがわかる。こんな歴史的な建物で授業を受けるとは、これまた壮大な気分で学ぶことができたのではなかろうか。
大学の敷地内にこうした建物が残っているのは、ひとえに建物が大学として転用されたということがあるがそれをこうして見学できるのもありがたい。見学の許可を求めた際に学長と少し話をしたが、この旧British Residencyの部屋のひとつに掲げられている歴代の学長は全員女性。女性のみ留保されている地位のようである。
大学の事務所で、鍵を開けたり案内したりする人を付けてくれるのだが、本来その人は大学職員であり、仕事の邪魔になるのであまりじっくり見学というわけにはいかないものの、訪れる価値大である。
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ラマダーン月がやってきた
イスラーム世界は今月18日からラマダーン月に入り、7月16日までの間、信者たちの間では基本的に日の出から日没までの断食が行われることとなる。飲食はもちろんタバコもダメなので、愛煙家に対してはニコチン切れという、もうひとつの苦難が加わることになる。
このラマダーン月が夏季に当たる(太陽暦ではないので、毎年少しずつ前倒しになってくる)場合、気候の上でかなりキツイことになるのは当然のこととしても、日々の断食の時間については、緯度によって日照時間が大きく異なってくるというジレンマを伴う。
南アジアやアラビア半島では日中のおよそ15時間に及ぶ。それでも充分長いものであるが、
これがロンドンやベルリンではなんと19時間となり、アイスランドのレイキャビクでは22時間にも及ぶ。यहां होगा 22 घंटे का रोज़ा (BBC Hindi ※ヒンディー語記事)
似たような記事がBBCの英語記事にも取り上げられていたが、それによると断食時間が18時間を超える場合は、メッカにおける断食時間に合わせるか、最寄りのムスリム国のそれに従えばよいということになっているとのこと。
Ramadan fasting dilemma when sun never sets (BBC)
この断食だが、信者がこれを実行するにあたって、ムスリムがごく少数派の国々ではなかなか困難を伴うものであろうことは想像に難くない。周囲の理解の程度ということもあるが、とりわけ勤労者にとっては、ムスリムが大半を占める国であれば「そういう時期であるから」ということで、実質の勤務時間が短くなったり、生産性についての許容が甘くなったりという幅が皆無となるからだ。
とりわけ中国においては、政府による断食に対する規制がなされるようだ。これに従わない場合は、具体的にどのような罰則があるのかは解らないが、人権に関わる問題である。
China bans Ramadan fasting in mainly Muslim region (ALJAZEERA)
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ハイデラーバーディー・ビリヤーニー
インド各地で「ハイデラーバーディー・ビリヤーニー」名付けられたビリヤーニーを目にする。ハイデラーバードでビリヤーニーを食べたことがなかったので、漠然と「ビリヤーニーが飛び切り旨いのだろう」と、想像していた。

老舗の「シャーダーブ」
ようやくその街にやってきたので、チャールミナール近くにある老舗のレストラン、シャーダーブで昼食にすることにした。店員たちのぶっきらぼうさもまた「本格的」な印象。ここは、ほぼビリヤーニー専門店らしいので、チキンビリヤーニーを注文。間もなくテーブルに運ばれてきた。
ご飯のなかには半羽のチキンがうずまっており、見た瞬間、食べ切れる量ではないことがわかった。これで170rsとはずいぶん安い。周りのお客はどうしているのかと眺めていると、だいたい二人で一人前注文している。すっかりギヴアップするまで食べ続けても半分くらい残ったので、男性なら二人、女性なら3から4人はシェアして食べられることだろう。味のほうは?といえば、確かに美味であった。だが、好みは人それぞれとはいえ、私自身はデリーで「美味しい」と思えるビリヤーニーのほうがもっと旨いと思う。この料理は出来不出来が大変明確に出るため、上手な店とそうではないところでは天地の差となるし、旨い店でもそれぞれに満足度が異なる。もちろんこの一軒をもってハイデラーバードのビリヤーニーを総括することなどできないので、他のレストランも幾つか訪れて検証する必要がある。
旧市街で幾人かに尋ねたところ、「ここが一番」とのことだったが、確かにバカでかい盛りには大変驚かされた。
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トリプラ州都アガルタラの空港「国際化」へ
東南アジアとの接続ということで、やがてバンコク便就航となるのだろう。アガルタラ空港の「国際化」のプロジェクトが完了する時期は示されておらず、北東インド・東南アジア間の行き来への需要がどれほどあるのかまだ判らないが、これまで世界の果てといった行き詰まり感のあった北東地域が東南アジアへの玄関口になることから、新たな時代の幕開けが期待される。また、これまで漠然と「北東地域」「North East」と一括りに呼ばれていながらも、その実この地域間での協調や連携には欠けていた部分についても、今後修正が求められることになるだろう。
すでにマニプル州のインパール空港は「国際空港」のステータスにアップグレードされており、今後の進展が注目される。マニプル州においては、ミャンマーとの国境のモレー(Moreh)を経由する陸路の輸送ルートによる人やモノの行き来の今後ますますの活発化が予想されるとともに、このモレー経由でインドからミャンマーへの鉄道接続の計画もある。
1990年代以降、減速した時期もいくつかあったが、基本的に順調な経済成長を続けてきたことによる変化の波が、ようやく北東地域にも及ぼうとしているかのようだ。近年は、隣国ミャンマーの民主化による欧米先進国を中心とした経済制裁が解除されたことも有利に作用している。これはインドの北東地域だけではなく、ミャンマー西部にとっても同様で、これらふたつの地域は互恵関係にあるといってもよい。
ただし不安材料も決して小さくない。現在においてとりわけ不安定なナガランド州においては、先行きを見通すことは困難だろう。
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ナガルジュナコンダ
ハイデラーバードを午前9時に出て、クリシュナ河を堰き止めたナガルジュナサーガルダムにより形成されたナガルジュナサーガル到着は正午を少し回ったあたり。この人造湖にある島、ナガルジュナコンダに行く船は1日往復している。ここから1時間ほどかかるらしい。できれば11時半の船で行きたかったのだが間に合わなかった。時は金なり、もう少し早く出れば良かったと反省。

ナガルジュナサーガルダム 今は湖底に沈んでいる、3世紀から4世紀にかけて存在したスリ・パルヴァタと呼ばれた土地では仏教が隆盛を極め、多数の僧院が存在するとともに、大学まであったとされる。インド各地はもとより、スリランカや中国からも仏法を学ぶために多くの人々が集まったとのことだ。そうした遺跡群がダム建設に際して、人工湖の建設により島となるナガルジュナコンダに移築されている。
船着場の近くにはホテルが数件あり、みやげ物屋や食堂などが軒を連ねている。軽い食事を済ませて、船が出る時間よりも少し前にチケット売り場で乗船券とセットになった入域料チケットを購入。

ナガルジュナサーガル ボートに乗り込んで出発を待っていると、柄の悪い手下たちの取り巻きが付いたヤクザの親分?みたいな中年男性が乗り込んできた。カービン銃を手にしている護衛までいて、なんとも物騒な雰囲気であったが、地元ではよく顔を知られている人物のようで、近くに座っている堅気の人たちに愛想よく声をかけたり、小さな子供を抱え上げて、記念写真など撮らせたりなどしている。
ずいぶん変わったヤクザもいるものだと思いきや、昨年アーンドラ・プラデーシュ州から分離したテーランガーナー州の州議会与党の議員であることがわかった。州の分離を推進した政党の議員だけあり、地元の誰もがよく見知っているらしい。農業を生業とする地主出身のようだが、支持基盤は庶民であるらしいことは、英語は得意ではない本人や彼が連れている人たちの様子から見て取れる。今日は彼の取り巻きたちへの「慰安旅行」であるそうだ。

船の中 専業のヤクザではないことはわかったので、船では親分の隣に座らせてもらう。相当酒好きな親分のようで、コーラのボトルに仕込んだウイスキーをぐいぐいやりながら、酒臭い息で
とても楽しかったという「フィリピンでのナイトライフ」とやらのお話が続く。
ナガルジュナコンダに到着 ナガルジュナサーガルの島に着いてから、博物館や周囲の小さな遺跡などを見物しながらも酒を楽しんでいる。酔うほどに声が大きくなってくるが、けっこう気配りの人物であることは、周囲の市民たちとまめに声を交わしていたり、手下たちにも使い走りみたいな若者に命じて水だの何だのを買いに行かせては配ってやっていたりしていることからも窺える。ヤクザな雰囲気とは裏腹に、なかなか気のいいオヤジさんという印象。

仏塔だが復元の状態は好ましくない 親分というものは、威張っているだけでは人はついて来ないので、なかなか大変なのだろう。最後に帰りの船へと向かう中、親分はベロンベロンになっての千鳥足で、おもむろに道端で立ち小便。その最中もカービン銃を手にした二人のSPたちは、きちんとポジションを取って周囲に目を光らせている。この人たちだけは、他の取り巻きの柄の悪い兄さん、オヂサンたちとは一線を画すプロフェッショナルな態度であった。
乗ってきたボートは、島で1時間強ほど停泊した後に、ふたたび湖の岸辺まで折り返す。遺跡は島内の各地に散在しているようで、着いてから最初に博物館を見学した後には、遠くまで足を伸ばす時間は残されていなかった。
移動の足の不便なところでは、早めに計画、早めの時間帯に出発することが肝要である。
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バングラデシュからのヒンドゥー移民に市民権をという主張について
隣国バングラデシュから経済的な理由からインドへ不法な移住を図る人々の流れは絶えず、常に政治問題となっている。
北海道の7割増程度の土地に約1億8千万人の人々が暮らすという人口があまりに稠密すぎるバングラデシュから雇用機会とより高い賃金を求めて、同じベンガル人が暮らす西ベンガル州、おなじくベンガル人たちが多く暮らす近隣州に出ようというのは自然なことでもあるだろう。もちろん彼らが移住する先はこれらに留まらず、インド各地の主要な商業地域や工業地域にも及ぶ。
そもそも同国が東パキスタンとして1947年にインドと分離して独立(その後1971年にパキスタンから独立して現在のバングラデシュが成立)したことが、悲劇と誤算の始まりであり、経済面・人口面での不均衡の根本でもある。
しかしながら、国家の成立には往々にしてその時代の流れに沿った必然と不条理が混じり合うものであり、その枠内で国家意識が形成されていくとともに、国民としての一体感も醸成されていくものだ。
そうした中でも、国境の向こうで異なる国籍が与えられることになった家族や親族に対して、こちら側の者はある種の憐憫の情を抱いたりすることもあれば、羨望の念を持つことも少なくない。同様に、宗教をベースとした分離の場合、ボーダーの向こう側にマイノリティとして残された、こちら側と同じ信仰を持つ者たちに対する「同胞」としての感覚には、社会で一定のシンパシーを共有することになることが少なくない。
ムスリムが大多数を占めるパキスタンにおけるヒンドゥー教徒たちの境遇については、インドでしばしば報じられるところであり、そこにも「国籍」の違いとは別次元の一体感があり、不幸にして異なる国籍を与えられることとなった「同胞」とでも言うような感情がベースにある。
さりとて、イスラームという宗教を旗印に、ムスリム主体の国家の建設を目指した東西パキスタンに対して、宗教的にニュートラルな「世俗国家」を標榜してきたインドとの決して相容れるところのない部分は、例えばカシミール地方の領有に関する両国の主張が平行線であるところにも現れる。
パキスタンと隣接する地域で、ムスリムがマジョリティであることが自国領であることが当然とすることがパキスタンの考えの根底にある。かたや宗教に拠らない世俗国家としてのインドにとっては、イスラーム教徒が多くを占めるからといってこれを隣国のものとするわけにはいかないのは当然のこととなる。現在、両国ともカシミール全域についてそれぞれ自国領であることを主張しているが、イギリスからの独立直後に勃発した第一次印パ戦争ならびに1965年の第二次印パ戦争の停戦ラインが実効支配線として、事実上の国境として機能することにより現在に至っている。
パキスタン建国に際して、多くのムスリムたちが当時の西パキスタンならびに東パキスタンへ流出するとともに、それらの地域からヒンドゥー教徒たちがインドに難民として逃れることになった。しかしそうした動きにもかかわらずインドを捨ててこれらの地域に移住することなく、あるいは経済的に移住することがならず、そのままインドに残ったムスリムたちも大勢いたわけだが、独立後はそうした人々が内政面での不安材料となることを避けるためもあり、インド政府は彼らの歓心を買うために様々な努力をする必要があったことは否定できない。ちょうど、欧州にて共産主義のソビエト連邦と隣接する地域で、高い福祉や社会保障制度が発達することとなったことと似ている部分がないでもない。
それが「世俗主義」を標榜しつつも、独立以降長年に渡って、少数派であるムスリムに譲歩する政策を継続せざるを得なかった理由でもあり、その世俗主義自体の矛盾と綻びであったとも言える。マイノリティとはいえ、規模にしてみるとの世界最大級のイスラーム教徒人口を抱えていることもあり、現実を見据えた上での選択であったはずだ。
しかしながら、このあたりが圧倒的なマジョリティを占めるヒンドゥーたちから成る社会の中での不満を醸成することになったのも事実で、宗教別に定められている民法について1980年代末あたりから、「統一民法」の制定を求める声が高まっていくこととなる。これがやがて90年代にはいわゆる「サフラン勢力」の核となるBJPに対する支持数の急速な伸張へと繋がっていく。
その後、国民会議派を中心とするイスラーム勢力や左派勢力を含む統一進歩同盟(UPA : United Progressive Alliance)とBJPがリードする保守から中道あたりの政党が集結した国民民主同盟(NDA : National Democratic Alliance)が一進一退の駆け引きを続けている。
さて、このほどインドの北東地域では、隣国バングラデシュからの不法移民について、バングラデシュから来たヒンドゥー教徒に対して市民権を与えるべきだと唱えるBJPに対して、国民会議派はヒンドゥー、クリスチャン、仏教徒(要は非ムスリム)の移民に対して市民権付与による保護を訴えるという形で、信仰を根拠とする論争が起きている。
こうした主張はインドの独立以来の国是である世俗主義に対する挑戦であるとともに、とりわけ国民会議派については、大きな方向転換のひとつの兆しであるのかもしれないようにも思える。
同時に、インドにおけるこうした動きについて、隣国バングラデシュ国内に与えるインパクトも少なくないかもしれない。同国内人口の一割近くを占めるヒンドゥー教徒たちの取り込みと捉えることも可能であるとともに、コミュナルな対立が発生した場合に、「インドによる差し金」を示唆する口実にもなろうし、敵性国民として排斥する動きに出ることもあり得ないことではないだろう。
宗教をラインとする国家形成を経てきた国と、世俗主義を国是として歴史を刻んできた国の間で、それなりのバランスが保たれてきた中で、後者が前者と近いスタンスを取ることになることについて非常に危ういものを感じる。
インド東北部におけるこうした動きが現実のものとなるようなことがあれば、やがてインドとバングラデシュの間での国際的な問題に発展する可能性を秘めていることから、今後の進展には注目していきたい。
BJP & Congress Raring to Provide Citizenship to Hindu-B’deshi Migrants (Northeast Today)
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Maggieの危機
かつて米国系の清涼飲料水メーカーが、製品から許容度を越える農薬成分が検出されたということで、激しい批判にさらされたことがあったが、今年の5月以降、スイス系企業ネスレ社のMaggiシリーズのインスタント麺に鉛成分が含まれることが判明したとのことで、各地で次々に販売が禁止されるなど、大きな波紋を呼んでいる。
Maggi sales plummet across India (THE TIMES OF INDIA)
India withdraws Maggi noodles from shops in mounting food-safety scare (theguardian)
鉛の含有に関する許容値が0.01ppmであるところ、17ppmという高い数値であったことに加えて、成分表に記されていないMSGつまりグルタミン酸ナトリウムが多く含まれていることが明るみに出たことが今回の騒動の発端だ。
Maggiブランドのインスタントヌードルは、1982年から現在に至るまで、実に33年間に渡ってインドで親しまれてきた。インド中、どこに行っても雑貨屋や食料品店で見かけるが、手軽に作ることができることから、育ち盛りの子供の好物であったり、一人暮らしの若者たちの定番アイテムであったりもする。また、冬季には外界との陸路ルートが閉鎖となるラダック地方などでは、そうした時期の食堂でもありつくことのできる外食アイテムであるなど、非常に存在感の高いインスタント食品だ。
最近、このMaggiのインスタントヌードルのCMに何本も出演していたマードゥリー・ディクシト、以前出演したことがあるアミターブ・バッチャンやプリーティ・ズィンターといった銀幕のスターたちも、ちょっと困ったことになっているようだ。
Madhuri Dixit gets FDA notice for endorsing Maggi noodles (The Indian EXPRESS)
Court orders FIR against Amitabh, Madhuri, Preity over Maggi row (THE HINDU)
食品類の安全性は、どこの国にあっても非常に大切なものであるが、果たしてネスレがこのような状態であったとしても、他のメーカーの様々な食品、食材、調味料などはどうなのだろうか?という思いもする。加工食品だけではなく、米や野菜のような第一次産品にも不安な要素を抱えている国だ。
私たちの日本で「食の安全」と言えば、その食料のかなりの部分を輸入に依存しており、とりわけその中で中国産のものが多いことから、常々やり玉に上げられることが多いが、比較的政府の管理が行き届きやすい中国と比較して、インドがその方面で安全性が高い国であるということは決してない。
今回、たまたま外資系の大会社の全インドでポピュラーな製品が取り上げられることになったが、この騒動がどのようにして収束を見るのか、かなり関心を引かれるところである。
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Namaste Bollywood+ 43

Namaste Bollywood+ 43 日本における唯一のインドのヒンディー語映画専門誌として知られる「ナマステ・ボリウッド」は、第42号から「ナマステ・ボリウッド+」として有料版に移行、このたび発売された第43号は、新創刊第2号となる。
今号のテーマは「ボリウッドで知るイスラーム文化」である。インドにおけるイスラーム教徒は、総人口13億に迫る(12.5億)巨大な人口を抱えるこの国のマイノリティ集団だが、ここに占めるムスリム人口は1億8千万人に迫るとみられることから、インドネシアの2.5億、パキスタンの1.8億に次ぐ、世界第3位のムスリム人口大国となる。
ちなみにアラビア半島の総人口は、7千7百万人(産油国における人口統計には、出稼ぎ等の外国人の数も含まれることに多少の注意が必要)程度なので、その規模の大きさは圧倒的だ。インド・パキスタン・バングラデシュの3国のムスリム人口を合わせると、その数は4億人を越えることから、イスラーム世界のマジョリティの一角と捉えて間違いないだろう。
また、アフガニスタンやパキスタンにおけるタリバーン運動の思想的なルーツでもあるデーオバンド派が始まったのは19世紀のUnited Provinces(現在で言えば州の分離前のUP州に相当)のデーオバンドでもある。タリバーン運動とは反対に穏健な原理主義として知られ、世界各国に活動を広げるタブリーギー・ジャマアトもこのデーオバンド派から生じたものであり、南アジアおよび周辺地域におけるイスラームに関わる宗教・政治運動に与える影響は大きい。
話は映画に戻る。インドの映画界草創期から現在に至るまで、俳優や監督等の中にムスリムは多く、その他製作や配給に関わるあらゆる映画産業関係者も含めると、さらに大きなものとなる。
昨今の日本では、イスラーム圏から観光や買い物等の目的でやってくる人たちが増えてきていることから、イスラームの作法によるハラール料理への注目が高まるなど、ポジティヴな面での関心の高まりとともに、イスラーム国による日本人の拉致殺害事件からくるネガティヴなインパクトも強く、正と負の両極端なイメージが混淆している状態だ。いずれにしても自分たちとの日常とはほとんど縁のない、理解しがたい人たちというイメージが強いのではないだろうか。
そんな中でも、やはり日本の書店には「イスラムとは」「イスラム入門」「イスラム国の××」といったタイトルの書籍とともに、イスラームについての特集記事を掲載する雑誌等が数多く並ぶようになり、多くの人々が注目するようになってきていることがわかる。
こうした書籍等で取り上げられる「イスラーム世界」の多くは、アラビア半島を中心とする宗教の歴史や文化史、あるいは日本から地理的な近いインドネシアやマレーシアのムスリムの人々のことであることが多く、南アジアのイスラーム教を中心にカバーしているものはあまり多くはない。また、往々にしてムスリムの人の視点に軸足を置いた主観的な「イスラーム観」が語られているように感じる。
南アジアにおけるパキスタン、バングラデシュのようにムスリムがマジョリティを占める国では、イスラームは社会の規範であり、アイデンティティの拠りどころでもあるわけだが、反対にインドにおいては、長い歴史の中で10世紀以降から幾度も大波のように西方から押し寄せてきたイスラームの浸透は、しばしば文化的な侵略として捉えられることは少なくない。
それでも必ずしもイスラーム教は侵略や略奪とともに到来したわけではなく、建築、医療、航海術、生活様式など、当時の先端文化をインドにもたらすものでもあった。たとえイスラーム教徒でなくとも、現在のインドの人々の思考様式、生活習慣、言語等々の様々な方面でイスラームがもたらした文化と日々無縁ではいられない。
先祖代々、ムスリムの人々と隣り合わせで生きてきたため、たとえイスラーム教について批判的な人であっても、イスラームという宗教やそこから生じた思想等に関する知識は非常に豊かで、イスラーム文化への露出度や経験値の高さには測り知れないものがある。
イスラーム王朝による被支配の過去の記憶に対する、19世紀半ば以降のヒンドゥー復古思想の高まり、20世紀に入ってからは英国支配からの独立運動は、マジョリティのヒンドゥー教徒を中心としつつも世俗的な政治思想で人々を率いた国民会議派とムスリムによるムスリム国家の樹立を目指したムスリム連盟との間で深刻な対立を生み、印パ分離独立という結果を見ることとなった。
印パ分離にあたっては、双方から空前の規模の避難民が国境を越えてヒンドゥーが主体のインド側、ムスリムが大勢を占めるパキスタン側へと流入する最中で発生した暴動や虐殺等により、100万人にも及ぶとされる膨大な数の市民が命を落とすという惨事となったことは多くの人々が知るとおりだ。
こうした近代史における大きな出来事が、印パ両国間に今なお横たわる大いなる相互不信の根底にあり、同じくインドにおけるイスラーム教徒、パキスタンにおけるヒンドゥー教徒に対する感情にも反映されて現在に至っている。
しかしながら、インドにおけるイスラームの伝統は今も古典音楽、歌謡、絵画等、文学の芸術分野でも脈々と受け継がれており、これらは「インドの文化」と切り離すことのできない重要な部分を成していることはもちろんのことながら、政治経済の様々な方面でも活躍するイスラーム教徒たちは非常に多い。
ときに緊張をはらんだ対立を生むことがあっても、長きに渡ってイスラーム文化から多大な影響を受けつつ、独自の文化・習慣を持つムスリムの人々と平和裏に共存共栄してきたインドという国は、「イスラーム理解の先達」と表現することができるだろう。
また、イスラーム教徒が大半を占める国ではなく、自国内に「世界最大級のムスリム人口」を抱えるインドだからこそ、イスラームとの関係においてはごく日が浅い私たちが、いかにしてムスリムの人々を理解して共存・共栄していくかということにおいて、学ぶべきことが大変多いことと思われる。それはときに反面教師的なものであったりすることも少なくないかもしれない。決していいときばかりではなく、幾多の辛く厳しい局面も体験してきた懐の深さを持つインドだからこそ、非常に有用な数々の叡智を掘り起こしていくことができるはずだ。
必ずしもムスリム自身からの観点のみではなく、イスラームの伝統や文化に造詣が深い非ムスリムによる視点、これとは反対にあまり好意的ではない意見も併せて、イスラームについて多角的に考察してみることが可能となる。複眼的な視野を持つことは、異文化理解において重要なことだ。
話は戻る。今号はインドというフィルターを通して見たイスラーム文化、イスラームという視点から切り込んだボリウッド映画という大きなテーマ。たとえ純粋に娯楽映画として製作された作品であっても、華やかなスターたちの姿、美しい映像やスリリングなストーリーといった視覚的な部分のみではなく、作品を生んだ土壌や社会文化背景まで広く理解することによって、さらに深く堪能できるのがヒンディー語映画の豊かな世界。
この号に取り上げられたイスラームに縁の深い作品を片っ端から鑑賞して、イスラーム教という宗教文化、政治性、ムスリムの人々について、硬軟織り交ぜたいろいろな側面に触れてみてはいかがだろうか。
蛇足ながら、今回テーマとなっているイスラームとは関係のない内容だが、手前味噌ながら私自身も「ボリウッド眺望紀行」と題した記事をちょこっと書かせていただいている。こちらも併せてお読みいただければ幸いである。
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炎天下のサイクルリクシャー

連日40数度で真夏のデリー。この時期、湿度は低いので木陰に入るとそれなりにしのげるのはいいが、日向で野菜や果物等を行商する人たち、工事等の肉体労働に従事する人たちは本当に大変だ。そうした中で、長いこと強い日差しに照らされてお客を待っていたり、照り返しの強い路上を進んでいったりするサイクルリクシャーもまた、なんと苛酷な仕事かと思う。「熱中症に注意しましょう」などという甘っちょろいことは言っていられない日常だ。

こうした人たちは若者ばかりではないし、総じて小柄で華奢な体格。エンジンが付いているわけではないので、ペダルを漕いだ分しか進まないし、ギアが付いているわけでもない。彼らが身体を強張らせて踏んばっている姿を後ろの客席から眺めていると、「ちょっと代わってやろうか」などと声をかけたくなったりもする。昔と違って、さすがにデリー市内のサイクルリクシャーの男たちは、身なりもずいぶん良くなった。ちょっと洒落た?シャツを着ていたり、ジーンズをはいて漕いでいたりするのだが、ランニングとルンギー姿でそうしているよりも、なおさらのこと暑苦しそうに感じられる。

これから先、まだまだ気温の高い時期は続く。その後、モンスーンがやってきたら、気温はやや下がるものの、強い雨や蒸し風呂のような空気の中での、これまた辛い日々となる。夏の暑さも冬の寒さも厳しいデリー。外で額に汗して稼ぐということはまったくもってたやすいことではない。






















