ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: society

  • Namaste Bollywood #44

    Namaste Bollywood #44

    Namaste Bollywood #44

    今年もIFFJ (Indian Film Festival Japan)の時期がやってきた。東京(10/9~23)と大阪(10/3〜22)にてそれぞれ開催され。上映スケジュールについては、こちらをご参照いただきたい。

    Namaste Bollywoodの今号の巻頭特集は、このIFFJ。今年も選りすぐりの素晴らしい作品が目白押しだ。特集記事で紹介されている上映作品の紹介をじっくりと読みながら、どれを観に行くかとあれこれ検討してみよう。また、IFFJと時期が重なるが「マルガリータで乾杯を!(原題:MARGARITA WITH A STRAW)が、10月からシネスイッチ銀座を皮切りに、全国で順次ロードショーが予定されるにあたり、主演女優カルキ・コーチリンのインタビュー記事もあり、こちらも注目だ。

    さて、この号に掲載されている、同誌主宰のすぎたカズト氏による「ボリウッドにおける性描写の変貌」という記事は、IFFJでの鑑賞予定を考える際に大変参考になることだろう。また、1990年代の「インド映画ブーム」でフィーチャーされた作品群、当時いくつも出版されたインド映画の案内書に記されている内容とは、ずいぶん印象が違うことに気付かれるに違いない。

    1990年代以降のインドは激動の時代であり、経済面における社会主義的手法から大きく舵を切っての経済自由化、それにともなう外資の怒涛の勢いでの流入、国営放送による寡占状態であったテレビ放送については、ケーブルテレビ、衛星放送などが一気に普及することにより、外国からのニュースやエンターテインメント等々の番組がお茶の間に突然大量に雪崩れ込むとともに、当時はまだ目新しい存在であった民放各社も、そうしたトレンドをうまくつかまえて、これまでにはなかった新しい番組や映像を視聴者の元に届けるようになった。

    そんな時代が唐突にやってくると、まず最初に感化されていくのは若者たちだ。とりわけ1992年、1993年あたり以降に青春期を過ごすこととなった世代と、それ以前の世代では、物事の価値観、道徳観、性に対する意識等が大きく異なってくるのは当然のことで、もちろんそうした時代の変化は映画作りにも如実に反映されることとなった。時代を代表する作品を眺めてみるだけでも、1980年代から1990年代初頭、1990年代半ばから終盤にかけて、そして2000年代に入ってから現在にかけてと、作品のテーマや映像の質感が大きく違ってくるのは、こうした時代の大きな変化を反映したものであるといえる。

    さて、1990年代の日本で沸き起こった、先述の「ブーム」はかなりバイアスのかかったもので、同じような方向性の作品ばかりが日本に立て続けに上陸していたこと、製作された地域や言語域による違いを考慮することもなく、「インド映画」と荒っぽく括られていたことに加えて、当のインドで製作された映画に関する知識を踏まえない「面白おかしな」解説が、大手メディアで堂々と一人歩きしてしまうとう弊害も少なくなかった。

    今となっては20年ほどが経過しているにもかかわらず、今なおそのときに刷り込まれてしまったイメージが後を引いていることから、ボリウッド映画をあまり観たことがない層においても、「B級以下」「なぜか音楽と踊りばかり」「単純なストーリー」というようなネガティヴな先入観を抱いている人が少なくないことは非常に残念だ。

    だが、幸いなことに、今の20代の映画ファンの多くは、そうした過去のしがらみとはあまり縁がない。インドは若年人口が圧倒的に厚い国であることから、10代後半から30代前半にかけての年齢層が大きなマーケットとなることから、ちょうどこのあたりの年代の人たちは、IFFJで上映される近年のボリウッド映画界のヒット作(今回の上映作品は2013年から2015年にかけて公開されたもの)について、先入観なしに映画を楽しむことができる感性を持っているのではないかと私自身は期待している。

    どこの国の映画も同様だが、作品が製作された国や地域の文化、固有の価値観、社会のありかたなどが色濃く反映されるものだ。これについては日本の映画ファンの多くがニュートラルな立場で鑑賞しているつもりのアメリカのハリウッド映画についても例外ではなく、銀幕の背景にあるそうした諸々の事柄を理解することなしに、ストーリーの中に巧みに張り巡らされている仕掛けや伏線を読み取ることは容易ではない。

    まさにそのあたりを理解するために、Namaste Bollywood誌では、様々な著者による異なる角度からインドの文化面を含めた解説、インドの社会現象が作品に与えた影響や反対に作品が社会に及ぼした効果、ボリウッド映画界内部の動向などを伝えており、インドから遠く離れた日本のファンが、より楽しく、そして深く作品を楽しむことができるようにと情報発信をしてくれているのである。

    蛇足ながら、私も「インド雑学研究家」として、小さな記事を書かせていただいており、今号においては、ある作品で幾度か出てきたムンバイーにある小ぶりながらも美しいモスクについて取り上げてみた。

    Namaste Bollywood誌は、IFFJの会場でも販売されるが、それ以外の購入先については、以下、同誌ウェブサイトをご覧いただきたい。

    Namaste Bollywood

    ※「上海経由デリー行き3」は後日掲載します。

  • 上海経由デリー行き1

    上海経由デリー行き1

    中国東方航空にて、上海経由でデリーに行くことになった。

    インドと中国双方のキャリアによる両国間の直行便が飛ぶようになったのは確か2003年あたりのことであったと記憶している。それまでは4,000kmにおよぶ長い国境線を分け合っている隣国同士を直接結ぶフライトはなかったのである。(香港を除く)

    今では中国に仕事や観光などで訪れるインド人、反対にインドを訪問する中国大陸の人々も増えてきている。印中両国互いの不信感、とりわけ前者が後者に抱くネガティヴな感情はまだまだ深いものの、こうして両国間での経済活動が活発になってくることが、安定した二国関係への一番の方策だろう。互いに依存する部分が多くなればなるほど、相手国にて操業する企業等の活動が盛んになればなるほど、両国の政府はそう易々と相手国に対して軍事的な挑発はかけにくくなる。いわば相手国に預けている資産が増えるほど、軽はずみなことはしにくくなることは、いずこにおいても同じことだ。

    さて、いつも日印両国のキャリアによる直行便あるいはタイ航空、キャセイパシフィック、シンガポール航空などを利用している私にとって、中国経由という選択は初めてだ。乗り継ぎ時間にかかる時間が長かったり、中国では長らく乗り継ぎでも到着時に入国手続き、出発前に出国手続きをしなくてはならなかったりするケースが多くて面倒という思いもあった。

    インド行きのための中国での乗り継ぎについて、かなり遠回りとなる北京経由はともかく、上海での乗り換えはなかなか良い選択肢になるのではないかと思う。近ごろは同一キャリアを利用の場合は、中国の乗換地で出入国しなくて済んだり、荷物も最終目的地までスルーで行くことができるようにもなったりしている。

    また、スカイスキャナー等で検索してみるとわかるが、ピークシーズンの比較的直前でもそれなりにリーズナブルな価格のチケットの入手が可能であることが多いようで、出発の日程が差し迫ってくるまで予定が立たないという場合などに利用できる可能性が高い。

    それはともかく、上海経由で予約してEチケットを印刷してみて、やっと妙なことに気が付いた。「上海には国際空港がふたつある!」

    到着は上海市の東にある虹橋空港、出発は西にある浦東空港である。両者の間には55kmほどの距離がある。日本の成田空港と羽田空港は90kmくらいの距離があるので、その6割くらいと思えばマシかもしれないが、上海の交通渋滞は世界的にも有名だ。両空港間を結ぶリムジンバスは運行されており、利用する航空会社がそのチケットを供給してくれるようだが、乗り換えに5時間半ほどあるとはいえ、道路状況がどんなものだか、かなり気になる。時間を容易に予測できる地下鉄利用のほうが安心だろう。

    上海地下鉄マップ

    国際線は虹橋空港のターミナル1(虹橋1号航站楼)に発着する。地下鉄で浦東空港まで移動するには、虹橋空港の国内線が発着するターミナル2(虹橋1号航站楼)まで、地下鉄10号線で移動して、そこから地下鉄2号線に乗り換える必要がある。

    上海の虹橋空港の到着ロビーを出て右に進んだところ
    道なりに進んでいくと地下鉄駅に
    モダンな地下鉄プラットフォーム
    地下鉄10号線に乗車
    ひと駅先の虹橋空港ターミナル2駅で地下鉄2号線に乗り換え
    地下鉄2号線車内

    路線図上では、あたかも浦東空港まで直通になっているように見えるのだが、実際には広蘭路が折り返し駅になっているため、ここでプラットフォーム反対側から出る支線に乗り換えなくてはいけないことを付け加えておく。

    あるいは、広蘭路の少し手前にある龍陽路から浦東空港との間を結ぶリニアモーターカーを利用することも可能だ。

    こんな面倒があるので、予約の際に気をつけるべきは上海に出入りするフライトが両方とも浦東空港からのものであることを購入前に確認することであることがわかった。通常、上海の国際空港といえば浦東空港だが、日本を含む一部方面のフライトについては、まったく違う場所にある虹橋空港から出るものもあるからだ。私の場合はそのケースにあたる。

    〈続く〉

  • チベットレストラン&カフェ タシデレ

    チベットレストラン&カフェ タシデレ

    日本では珍しい「チベット料理」を看板にするレストランが今年8月にオープンした。チベット系のアイテムを出すネパール料理はいくつもあるのだが、ここはチベット料理専門店を謳い、加えてインド料理も出している。

    店内にはチベット風の装飾がセンス良くあしらわれており、掲げられたタルチョの向こうには、深い青色の澄み切った空が見えてきそうな気がしてくる。

    在日歴14年になるチベット人店主は、生まれも育ちもインドであるため、チベット料理を柱に、インド料理も共存する。厨房で料理しているのはチベット人とインド人の料理人たち。いかにも在印チベットコミュニティの人らしい演出だ。

    都内や日本各地でこれから開催されるチベット関係のコンサートやイベントに関する情報も掲示されている。興味関心があれば、これまで知らなかった面白い出会いのきっかけになるかもしれない。

    まだ開店から日が浅いため知名度は高くないが、やがて知られてくると、フラリと立ち寄ってもなかなか席がない・・・という具合に繁盛するのではないかと期待している。

    ロケーションと連絡先等は以下のとおり。
    Tibetan Restaurant & Café TASHI DELEK
    所在地:東京都新宿区坂町26-21 四谷坂町永谷マンション 1F
    電話:03-6457-7255
    JR四ツ谷駅から徒歩10分
    都営新宿線曙橋駅から徒歩10分

  • 一品8,000Rsの料理

    一品8,000Rsの料理


    ムガル料理の老舗、オールドデリーのKarim’s本店にて食事。

    一頭まるごと焼き上げるのだそうだ

    メニューには、なんと8000ルピーもする「タンドゥーリー・バクラー」というのがある。店員に尋ねてみると、一頭分のマトンをタンドゥールで焼き上げるのだそうだ。

    「週にどのくらい出るの?」と聞けば、「そうそう注文が入るもんじゃないけど、週に3件くらいオーダーが来ることがある。20から25人くらいで分けられるよ」とのこと。

    とてもとても、そんな大きなものを注文できないが、もし機会があればぜひご相伴にあずかりたいものだ。

  • ムシャッラフ元大統領の生家

    ムシャッラフ元大統領の生家

    デリーのダリヤガンジでよく書籍類を購入する。パーキスターンの元大統領パルヴェーズ・ムシャッラフ氏が生まれた地域であり、2005年に彼が大統領在職時に訪印した際に訪れている。

    ダリヤガンジのGolcha Cinemaからデリーゲートに向かって少し歩いた先の右手にある左側の「MEHTA’S」というスナック屋のところで路地を少し入ったところにある。

    Golcha Cinema

    ここで画面左手にある小路へ

    道なりに進んでいくとすぐに袋小路に突き当たる。

    袋小路突き当りに向かって右側がその場所

    現在は新しい建物に建て替わっており、細部の仕上げが進行していた。近年までは荒れ果てたオリジナルの家屋があったらしい。その様子はYoutubeに動画でアップされている。父親はAligarh Muslim University卒業で、当時としてはエリートの部類に入る人物であったが、住まいは簡素であったようだ。

    Pak Prez Parvez Musharraf’s Chilhood Home – Nahar Wali Haveli (Youtube)

    おそらくムシャッラフの幼少時代には、ここの路地で近隣の子供たちと遊んでいたのだろう。界隈はヒンドゥーの人たちやヒンドゥー寺院が多い。印パ分離時に大勢のムスリムたちがパーキスターンに移住するまでは、ずいぶん異なった雰囲気であったことだろう。

  • アーグラーの近くで現代のタージマハル建設中

    元郵便局長のファイズル・ハサン・カードリー氏は、アーグラー近くのブランドシャヘル近郊の村の住民。3年前に亡くなった妻との間に子供はなかった。生前、「私が死んだら誰も思い出してくれる人はいないでしょうね」という妻の言葉に「いや、私が廟を建ててあげる」と答えたとのことだ。

    その約束を実行中のファイズル氏だが、経済面の問題から廟は完成していない。UP州CM(チーフ・ミニスター=州首相)のアキレーシュ・ヤーダヴが資金援助を申し出たりするのは、いかにもムスリム票獲得のためにイスラーム関係者の集会その他に足しげく通う、彼とその父親ムラーヤム・スィン・ヤーダヴが率いるサマージワーディー・パーティー(社会党)らしいところではある。

    ムガル朝第五代皇帝、シャー・ジャハーンが愛妃のために建設したタージマハルとは違い、大理石ではなく焼き煉瓦を積みあげて作る簡素な造りではあるものの、一般人がこうしたものを、私財を投じて建てるというのは大変なことだ。

    58年間連れ添った妻との愛のモニュメント。ファイズル氏が元気なうちに完成することを願いたい。

    Uttar Pradesh Government to Help Retired Man Build ‘Mini’ Taj Mahal in Bulandshahr (NDTV)

    Bulandshahr postmaster builds Taj Mahal in memory of his Mumtaz (Newzstreet)

  • 箱根がピンチ

    箱根がピンチ

    インドとまったく関係のない話で恐縮である。
    8月最後の週末に泊りがけで箱根を訪れてみた。

    箱根観光マップ(箱根離宮)

    箱根山の火山活動が活発化し、「大涌谷周辺の想定火口域から700メートル程度の範囲まで影響を及ぼす噴火が発生する可能性」のため、警戒レベル3となり、入山規制が敷かれていることは常々報道されているところだ。

    この影響により例年になく行楽シーズンの箱根が空いているという話をよく耳にはしていた。直前になってコンタクトしたにもかかわらず、箱根登山鉄道の終点の強羅駅目の前にあり、エコノミーな料金ながらも豪華なバイキング形式の夕食と朝食で人気の宿泊施設が予約できたので訪れてみることにした。

    小田急線で小田原を経由して箱根湯本に到着した時点ではわからなかったが、箱根登山鉄道のプラットフォームで到着電車を待つ時点で、おかしなことに気が付いた。

    「電車を待つ人がいない・・・」

    8月最後の土曜日の午前9時ごろである。普段は週末であれば(箱根は首都圏各地からのアクセスの良さ、温泉場でもあることから、年中「シーズン」であったりする)、それなりの混雑があるものだが、到着した車両のドアが開いて着席すると、車両内にはひと組の家族連れ以外には誰もいなかった。本来ならば、ラッシュアワーの通勤電車なみに混雑していいはずの休日の朝なのだが。
    ほとんど空気を運んでいるような具合の電車は、途中幾度かスイッチバックをしながら高度を上げていく。聞こえてくるのはエンジンのモーター音と車輪の軋む音だけだ。静まり返った途中駅で降りる乗客はなく、乗り込んでくる人もない。

    閑散とした途中駅

    執着駅の強羅もこんな具合

    強羅駅前 休日の午前中とは思えない寂しさ

    出発駅の箱根湯本から40分ほどで終着駅の強羅に到着。ここから早雲台へ行くケーブルカーが接続しているのだが、早雲台から大涌谷を経由して桃源台までを結ぶロープウェイへの乗り継ぎのためにあるがゆえに、そのロープウェイが運休している今、利用する意味はほとんどなくなってしまった。
    出発直前のケーブルカー車内はガラガラであった。

    そのため、強羅駅前から桃源台までの代替バスが運行されているのだが、登山鉄道でやってくる観光客よりも、この案内のために配置されているスタッフのほうが多いように見える。

    桃源台、箱根町、元箱根を繋ぐ遊覧船に乗り込んでみる。もともと少ない乗客の半数ほどが外国人であった。その大半は中国語話者、そして若干の西洋人。話し声が大きいのはやはり中国語での会話であること、周囲の山の景色などから、四川省の九寨溝にでも向かっているような気さえしてくる。

    「海賊船」という遊覧船からの眺め

    箱根町船着場の目の前にある食堂に入ったが、他のところがそうであるように、お客のいない店内で、ただ時間ばかりが過ぎていく。みやげ物屋も同様で、品物が山積みされた傍らでそれを手に取って眺めたり、購入したりするお客が不在。

    宿泊したのは家族連れに人気の宿で、夕食時にはテーブル席の半分くらいが埋まっていたが、それでもこの時期としては大変少ないのだという。流行っているところでさえもこんな具合なので、その他の宿泊施設は目も当てられない状況だろう。

    温泉場が発展してリゾート地化した箱根には、固有の歴史や文化と呼べるものはないため、見るべきものといえば山あいの景色くらいだ。その中でも目玉であった大涌谷が立入禁止となっているため、「とにかくのんびりして温泉を楽しむ」のが正解となる。

    のんびりするといっても、それがなかなか出来ない人たちのために「××美術館」「××博物館」「××ギャラリー」といった、土地に縁もゆかりもないものを、取ってつけたような施設がたくさんある。特に興味も関心も抱くことはできないが、やはりこうしたところに立ち寄ることになる。訪れてみると、それなりに楽しむことはできるのだが、やはりこれらでも訪問者よりもスタッフのほうが多いような印象を受けた。

    宮ノ下駅近くの富士屋ホテルはジョン・レノンが家族で滞在したことで有名。こちらはそのホテル近くの写真館に飾られていた写真

    一番のピークの時期のひとつでこんな有様ならば、週半ばの平日などはどのようになっているのかと心配になる。箱根山の火山活動の状況は、警戒レベル3となっており、噴火による災害が発生する可能性があることを呼びかけているわけだが、統治の経済(ほぼすべてが観光ないしは観光関連に依存しているといって間違いないだろう)にとっては、すでにこの閑散とした状況そのものが甚大な災害であるともいえる。

    今年4月と5月にネパールで発生した大地震の影響により、インドのラダックでも観光客の数が大きく減っていることはすでにindo.toにて伝えたとおりだ。もともと不要不急の観光という目的への出費については、その時々の景気の波に左右されやすく、政治や治安状況によっても大きな変動に見舞われることが多々ある。これらが安定している国においても、気象の変化や災害の発生といった予見できない要因に翻弄されるリスクが常につきまとう。いずれも地元の努力では解決のしようもないのは辛いところだ。
    観光業というものは、まさに水物であることを改めて感じずにはいられない。

  • ラダック やけに訪問客が少ない2015年の夏

    ラダック やけに訪問客が少ない2015年の夏

    ラダックの中心地レーのメインバーザール

    このところ4年続けて7月にラダックを訪れている。この時期はシーズン真っ盛りで、レーの中心部には各国からやってきた外国人観光客、国内各地からやってきたインド人観光客でごった返し、彼ら相手の仕事、土木工事、農繁期の作業のために来ているインド人出稼ぎ人やネパール人もまた大勢来ており、まったくもってどこの土地にいるのだか判らなくなりそうな多国籍空間・・・というのが例年のこの時期であったが、今年はだいぶ様相が違った。

    とにかく外国人旅行者が少なく、同様にインド人訪問客も多くない。「天候の不順により雨が多いこともあるかと思うが、やはりネパールで4月と5月に発生した大地震の影響だろう、それ以外に考えられない」というのが地元で暮らす人たちの大方の意見だ。

    ラダックのシーズンといえば、およそ6月から9月までの短い期間ということが、インドの他の観光地と大きく異なる。5月や10月あたりならばラダックへの陸路は開いているし、その他の時期でも飛行機で訪れることはできるのだが、ラダック地域でアクセス可能なエリアや楽しむことのできるアクティヴィティは限られるため、夏の季節の人気ぶりとは裏腹に閑散とした状態で商売にならないため、店や宿も閉めてしまうところが多い。ゆえに今シーズンの不振はとても痛いという話をよく耳にした。

    観光業は水物だ。現地の状況は決して悪くなくても、政治や経済の動向、隣接する地域(ラダックからネパールまでは1,000kmほどあるのだが、外国から来る人たちにとっては「同じヒマラヤ山脈」ということになるのだろう)での災害などが、如実に影響を及ぼしてしまうという不安定さがある。

    人気の宿はそれでも込み合っていたりはするものの、それ以外では閑古鳥が鳴いているし、とりわけ内外からのツアー客をまとめて受け入れていたような規模の大きな宿泊施設においては、例年の強気な料金設定とは打って変わって、かなり大胆なディスカウントを提供しているところも少なくないようであった。

    トレッキングに出かけてみても、やはりトレッカーの少なさには驚かされた。おそらくヌブラやパンゴンレイクその他、クルマをチャーターして訪問するような場所でもそんな感じだろう。

    インドにあっては西端にあたるラダックでさえもこのような有様なので、今年はヒマラヤ沿いの他の地域でもかなり厳しいものがあると思われる。

  • OLD & NEW

    スマホでタクシーを呼んだり、アプリでオートリクシャーをつかまえるといったサービスは、インドの都会では当たり前のことになって久しいが、ついにサイクルリクシャーも同様に利用できるようになった。チャーンディーガルでの話である。

    ECOCABS Chandigarh

    ECOCABSの創始者であるナウディープ・クマール・アスィージャー氏は、IITデリー校出身の38歳。サイクルリクシャーという古い乗り物とスマホによる新しいサービスの融合が面白い。

    「環境に優しい」というお題目とともに、街中のチョイ乗り、お年寄りの外出などにも役立つことだろう。利用者の身近に良心的なサイクルリクシャーワーラーが入れば、その人物を推薦することができるし、近所のリクシャー引きをアプリで探して呼び寄せることもできるとのこと。

    How it works (ECOCAB Chandigarh)

    リクシャーの利用において、何かトラブルがあればコールセンターも用意されており、運転手の身元が判るだけに、女性や子供の利用にも安心かもしれない。

    地域に根差した、利用客とサイクルリクシャー運転手の双方に対してフェアなサービスとして、今後の進展に期待したいところだ。

  • Markha Valley Trek  The Day 6

    Markha Valley Trek The Day 6

    早朝のニマリン

    カンヤツェ峰の頭の部分が覗いている。

    この日はトレッキング最後の行程となる。

    朝7時に朝食。ここに宿泊の人たちが一堂に集まることになるので壮観だ。当然全員は入りきれないため、時間ずらせて来る人たちも少なくない。ローティー、バターとジャム、チャーイ、ブラックティー以外にポリッジもあり、これがなかなか好評。

    簡単に朝食を済ませてから早々に出発。もし天気が悪かったら、ニマリンでの宿泊者たち全員まとまって行こうということを、各グループのガイドたちの間で相談していたそうだが、晴れ間も見えているまずまずの天気なので、その必要はなさそうだ。よって各自バラバラに出発していく。

    キャンプ場の手前にある川の橋を越えてから上へ上へと斜面を登る。雲で朝日は見えないが、少し登ったあたりから残雪がところどころ見られる。あるいは昨日降った雨はここでは雪だったのかもしれない。最初の登りはけっこう急だが、しばらく登ると少し緩やかになる。そしてコンマル・ラへの最後の斜面はかなり勾配だ。

    コンマル・ラまであと少し

    あとひとガンバリで峠頂上というあたりまで来ると回りは雪だらけになる。今日はカンヤツェも頂上まで顔を出してくれている。天候としてはまずまずである。昨夜の雨がウソのようだ。このあたりはすでに海抜5,200メートル近いので。歩みが遅くなり息が上がる。さりとて苦しいとか大変というほどではないのだが。さきほどの斜面でフランス人の還暦夫婦を追い越したのだが、しばらく峠で写真などを撮影していると、やがて彼らもここにやってきた。

    峠よりも低い周囲の山々からはまるで湯気が立ち上っているかのように雲がかかっている。峠の部分から東側には尾根が伸びていて、その部分はここよりも高くなっており、雪で覆われている。今日のハイライトであり、またこのトレッキングのハイライトでもあるコンマル・ラである。しばらく景色を楽しむ。

    タシはここから携帯で電話をしている。ここまでの村では通じなかったし、昨夜のキャンプ地でも繋がらなかったそうだが、この峠にくると電波が届くらしい。レーに戻るためのクルマの迎えのために連絡している。

    コンマル・ラからのカンヤツェ方面の景色も素晴らしく、心が洗われるようであった。

    カンヤツェ峰

    しばらく写真を撮ったりして過ごしてから、下りに入るが、かなり急な坂を進んでいくことになる。反対側からやってくるトレッカーたちがある。彼らはすべてがマールカーの全行程を行くのかどうかはわからないのだが、おそらくそうなのだろう。私たちが来たルートのほうが少しずつ高度を上げていくことになる分、体力的に楽なはずだ。また、コンマル・ラとニマリンあたりがこのルートのハイライトでもあるため、最初ににここを訪れてしまうと、後が少々退屈なものとなってしまうかもしれない。

    あとはどんどん下るだけと思っていたが、実はこの最後の行程はあまり楽ではなかった。けっこう深い谷間になっている部分も多く、そうしたところでは流れの速い急流を渡渉しなければならないからである。それが連日の雨で増水しているため、膝よりも深かったりする。
    後でレーに戻ってから再会したイギリス人とフィリピン人でキャンプ用品持参でトレックに来ていたカップルによると、彼らはもっと遅い時間帯に通過したようで、腰までの深さのところがあったり、フィリピン人女性のほうは、急流の中で転んでしまったりと、かなり大変だったようだ。

    下りでの小休止
    峠からの細い流れが周囲の湧き水等を集めて、やがて急流となっていく。

    下りの途中、茶屋で休憩
    村々に荷物を運ぶ馬たちもお疲れの様子

    私自身もかなり緊張感を伴うものであった。またその渡渉の回数もこれまでで一番多かった。やっと渡ったと思ったら、またすぐに渡らなくてはならなかったりする。どんどん高度が下がるにつれて、川は周囲の湧き水を加えて大きく、深くなってくるため、さらに厄介になってくる。

    シャン・スムドのあたりまで出た。このあたりは車道が通っているところに近くなるためか、家屋はこれまでよりも立派できれいな感じになる。クルマが入ってくることができるエリアになった。川の左右には広い川床が広がっている。さきほどのような両側を狭い谷に挟まれた中に流れる急流ではなくなるため、渡渉も楽になる。

    このあたりまで下ると川の流れは緩やかになり、身を切るような冷たさではなくなる。

    迎えに来たクルマに乗り込み、一路インダス河沿いの地域に出る。ここまで来るとると、まるですっかり低地に来たかのような気分。またずいぶん景色が開けたところという印象にもなる。これまで歩いて通過したのは、こじんまりした集落ばかりであったので、レーの町など素敵な都会に見えてしまう。

    タシはレーの町の下の端にあたるガソリンスタンドとロータリーがあるエリアで下車。
    これまでの6日間、どんなガイドと過ごすかによって、トレッキングの印象が異なってくるものだが、タシは実に好青年でよく気が付く人でもあり本当に良かった。心から感謝である。

    〈完〉

  • バンコクの爆弾テロに思うこと

    バンコクで、8月17日と18日に発生した爆弾テロ。犯行声明が出ておらず、犯人像も推測の域を出ていないようだが、ウイグル人グループ犯行説に傾きつつあるようだ。
    中国国内で苛烈に弾圧されている彼らの中には、パキスタンで保護を受けて拠点を置いたり訓練を実施したりしているグループもあるという。
    中国は、パキスタンに対して伝統的に「敵国インド」というスタンスからくる共通の利益から様々な援助を与えてきた友好国だ。 近年になってからはアラビア海とインド洋進出の目的からパ国を含めた南アジアのインドを除いた諸国に積極的な働きかけをしている。

    とかく親密な関係にある中パにとっての弱点はまさにこの部分。パ国内に匿われているウイグル人組織の存在。ウイグル人過激派が勢いを得て、中国の不興を買うことになれば、中パ関係に少なからずの影響を及ぼすことになる。

    パキスタンの文民政権にとっても、自らの力の及ばないところで勝手な動きをすることが少なくない軍部とその指揮下にある統合情報部(ISI)には手を焼いていることだろう。また、そう簡単に手出しをすることの出来ない国内の過激な宗教組織やその息がかかった有力政党の存在もある。

    そんな具合で、インドがテロの温床として名指しするパキスタンだが、あながち文民政府の意思とは言えない部分も存在する。パキスタン自身が国内の様々な過激派組織による爆弾テロ、誘拐事件等で振り回されている。そして政府本体と並立する権力としての軍の存在、軍が恣意的に利用する過激派組織。しかしながらも軍部そのものは原理主義とは相容れない組織であることから、軍と過激派が衝突することも多々あるという三つ巴の危うい構造。

    国道上以外にパ国の法律が及ばず、地元の部族の掟が支配する北西部のFATAのようなエリアの存在は、パ国内的には歴史的経緯のある合理性を持つものであっても、国外から見れば外国にも脅威を及ぼしかねない危険な問題だ。

    蛇足ながら、インドとパキスタンの分離は悲劇として形容されるが、この地域を含むアフガニスタン国境エリアを切り離すことが出来たのは結果としてインドにとって良いことであった、かのように見えてしまうのは何と皮肉なことか。

    ウイグル組織犯行説はまだ憶測の域を出ないが、仮にそうであったとすれば、つまり庇護を求めて来タイしたウイグル人たちを中国に追い返した報復のための爆破であったとするならば、ウイグル人過激派に一定の庇護どころか拠点と軍事訓練まで与えているパキスタンをも巻き込んだ問題になっていきそうな気がしてならない。

    Police hunt ‘foreigner’ in deadly bombing of Bangkok shrine (Associated Press)

    ※「Markha Valley Trek The Day 6」は後日掲載します。

  • Markha Valley Trek  The Day 5

    Markha Valley Trek The Day 5

    ハンカルの村のホームステイ先からカンヤツェ(中央の雪山)の眺め

    昼食用の弁当を準備してくれるホームステイ先の女性たち

    ホームステイ先を出発



    午前6時起床。昨夜の雨はすっかり上がった。天気はいまひとつとはいえ、雨ではないのは幸いだ。7時半にハンカルの村を出発して、川沿いを歩いて次第に高度を上げていく。足元に生えている背の低い高山植物を眺めつつ、時にかなり急な勾配があったり、少々緩やかになったりする。マールカー村以降は基本的に登り基調なので、どんどん気温が低くなっていく。



    キャンプを撤収する人たち














    む
    ホームステイ先を出たときにはカンヤツェを仰ぐことができたのだが。それでも谷間の眺めは素晴らしい。これで晴れていたならば、もっと素晴らしい眺めとなるのだろう。
    ニマリンのキャンプサイトに到着

    この日宿泊のテント






    正午前にはニマリンのキャンピングサイトに到着。海抜4,800メートル。私にとって、これまでで最も高地での宿泊となる。テントと寝具は用意されているので、身ひとつで泊まることができる。ここには村はないため、ホームステイできる家はない。キャンピングサイトを運営するのは毎年違う村の人たちが輪番で行なっているとのことで、今年はハンカルの村の住民であるとのこと。

    本日の宿泊先はここしかないため、早めに着いてテントを確保する必要があったのだが、途中の集落にあった茶屋で、ガイドのタシ君が彼のポケットマネーで買ったコーラのペットボトルを他のグループの女性ガイドに渡して何事か頼んでいる。

    先に着いたらテントを確保しておいてね、と頼んだとのこと。翌日、コンマル・ラから下ってからのレーへのクルマに乗ったときもそうだが、タシは運転手と彼と一緒に来ていた娘らしい女の子にファンタを買って渡していた。何かとホームステイ先の子供に小さなお菓子を渡したりしてもいたが、マメな性格なのか、それともラダック人が全般的にそうなのかはよくわからない。

    女性ガイドといえば、ユルツェのような宿泊客の多い家でのホームステイの際には、男性ガイドもいろいろと家の人たちの手伝いをしていたが、女性ガイドや女性ポーターはなおさらのこと、マメにいろいろと手伝いをしている。明るくて溌剌とした性格、大きな荷物を背負って、臆することなく川の急流をジャブジャブと渡っていく行動力と合わせて、お嫁さんにしたいと思う男性は多いのではないだろうか。私がまだ20代かつ未婚であったならば、きっとそう考えることだろう。

    ガイドとしては、女性であるがゆえに月経という、避けては通ることのできない不利な面もある。昨夜のハンカルで同宿であったキューバ人とイタリア人のカップルのガイドは、そのために道中苦しんでいたそうだ。

    午後1時から2時までテント内で昼寝。ぽかぽかと暖かくて気持ちが良かった。
    午後2時過ぎからは、ガイドのタシ君とカンヤツェベースキャンプに行く。斜面を上る途中で雨が降り出したのだが、途中から雪となった。しばらく登ったあたりでは残雪もある。ニマリンから1時間強くらいは上っただろうか。ここだけのことではないが、場所によって足元が泥であったり、岩石の板状のものがゴロゴロしているガレ場だったりする。

    斜面を登るとしばらく勾配が緩やかになったと思ったら、再び急坂になってくる。そんな状態で幾度も緩急を繰り返す斜面を登っていく。最初は遠くに見えていた、本日のキャンプ地がその段のためにやがて見えなくなってきた。




    カンヤツェの氷河下端。山そのものの姿は雲で覆われて見えない。


    カンヤツェを正面に見る下り斜面までやってきた。標高5,000メートルはあるため、息が切れる。ここにはかなり残雪があり、曇り空から降ってくるのは相変わらず雪だ。周囲の高山の上半分にも雲がかかっているので、同じように降雪が続いているのだろう。カンヤツェも下半分のみが見える。谷間を挟んだ正面には氷河の先端。


    ベースキャンプといっても、現在これからアタックする準備をしている登山隊はないので、特にここには何もないし、誰もいない。それにしてもタシは普通に歩いているように見えても実はかなり速い。ラダック人全般に言えることだが、山道でゆっくり歩いているように見えても無駄のない歩き方?のためか、実際にはかなり速いので、ついていくのは容易ではなかったりする。とりわけ下りが速いようだ。同じようなことをかなり昔にボリビアでも感じたことがある。上るスピードはついていくことができても、下るときの速さは山の民ならではのものなのだろうか。

    これまで村のホームステイだったり、キャンピングサイトに宿泊していたりした人たちは私たちと同じルート上を来ているため、しばしば追い越されたり、追い越したりといったときに顔合わせて話をするようになっている。こうした人々が本日は一堂に集まることになるため、賑やかに会話するようになる。食事のときにはトレッキングルート途中の茶屋に使われているような大テント内のテーブルに料理の大鍋が置かれてセルフサービス。マールカーのトレッキング最終日を目前にして、これまで同じルートを歩いてきた人たちとお別れパーティーみたいな具合だ。楽しさのあまり、うっかり失念していて、その際の写真を撮っていないことに後になってから気が付いた。

    たまたま、ここにやってくるまで顔を合わせることがなかった人たちもいた。ベンガル人の3人連れで、国鉄マン、ソフトウェアエンジニア、民間の会社員の男性たち。彼らは写真仲間で、コールカーターで展覧会を開いたり、年に数回、こうした形で撮影旅行をしたりしているとのこと。撮影対象は自然であったり、祭りであったりと様々らしい。趣味でお金にはならないことに対して情熱を燃やし、費用手間をかけることを惜しまないのは、文化を愛好するベンガル人らしい。

    夜は激しい雨となった。強い雨により、ひとつテントが浸水のためダメになったとのことで、午後9時頃からカヤーの村出身のガイドがひとり、私たちのテントにやってきた。この人はフランスの学生団体の案内をしている。元々は、学生時代にパートタイムでガイドをしていたとのことだが、現在では専業でやっているとのこと。オフシーズンの冬には、スノーレパードを観に行く人たちがいて、私たちが初日に通過したルムバクに行くことがあるとのこと。

    テントを打つ雨音、テントが風でばたばたとはためく音などが煩くてなかなか寝られない。時計を見ると、12時、1時、2時、3時・・・。
    ときおり雨が止んだと思うと、ロバがうるさく鳴き始める。雨をしのぐ屋根もなく、まるで寒さに耐えきれずに泣いているかのように思えたりして不憫である。翌朝起きてロバを見てみると、やはり寒いのには違いないのだろう。身体が震えていて気の毒になる。

    夜中、トイレに行きたくなるが、雨は激しいし風も強い。しかもトイレはラダック式トイレのアウトドア版。この天候ではびしょびしょでもあり、想像するのもおぞましい場所である。ゆえに翌朝まで我慢することにした。ゆえになおさらのこと眠れない。
    それに川の状態も心配である。歩いて渡れるのだろうか、と。

    〈続く〉