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カテゴリー: life

  • ナウサリー

    ナウサリー

    スーラトの駅売店でサモーサーとチャーイで軽食。ここから急行でひと駅先にあるのがナウサリー。時間にしてわずか15分で到着してしまう。列車はプラットフォームにゆっくりと進入してきた。

    発車してほどなくナウサリーに到着。この駅構内にも出店している全国規模で鉄道駅に展開する書店A.H.Wheeler & Co.は、19世紀後半の創立。南インドであればHiggin Bothamsが優勢なのかもしれないが。これもまた植民地時代から続く書店で、南インドではよく駅にも出店している。ただしそちらは駅書店専門というわけではなく、ちゃんとした書店のチェーンなのだ。

    A.H.Wheeler & Co.

    ナウサリー駅構内の壁に描かれた鉄道愛を感じさせる絵があった。ガーンディーが率いた「塩の行進」で、人々がダーンディー・ビーチに向かう姿を取り上げたものもあった。

    「塩の行進」が題材の絵

    駅舎から出ると、すぐにジャムーンを売る露店が目についた。みずみずしく、多少の苦みのある芳醇な果実が爽やかで大変美味だ。他のフルーツよりも繊細で、買ったらすぐに食べないとシワシワに干からびてしまったり、薄い皮が破れてグジャグジャになってしまったりする。

    ジャムーン

    駅前の安いダーバー(簡易食堂)を見かけたが、開店したばかりなので店内も食器もピカピカで気持ちが良いので入ってみる。料理もけっこう美味しかった。賑わっている鉄道駅正面付近という立地の場合、年季入ってくると「標準化現象」のため、汚くて不味くなるのが定石。価格以上に清潔にしたり、美味しくしたりする手間は、店側にとってはとても効率の悪い、割に合わないことなので、周囲の同ランクの店合わせるようになってくるわけだ。宿も同じことで、この「標準化現象」は、決してインドに限ったことではない。

    開店したばかりのShiv Restaurant
    シンプルなターリーだが大変旨かった。今のうちだけだろう。

    ここもまたスーラトと同様にパールスィーゆかりの街のひとつ。ジャームシェード・バーグは、彼らの結婚式でよく利用される施設だ。

    街中を散歩していると、パールスィーの偉人、ダーダーバーイー・ナオロジーの像があった。彼はこの街の生まれなのだ。

    ナオロジーの像
    パールスィーゆかりの建物は多い。
    こちらはパールスィーとは関係ないが、建物の一部に昔ながらの美しい意匠が残る。
  • IndiGoが中国便就航へ

    IndiGoが中国便就航へ

    ついに中国へのフライトを就航させるとのことだが、その記念すべき最初の乗り入れ先は、意外にも成都。加えて年内には広州にも飛ばすようになるらしい。

    IndiGo to start flights to China from September 15 (THE TIMES OF INDIA)

    2006年に最初のフライトを飛ばして以来、着実に成長を続けて大きくなったIndiGoだが、
    Jet Airways破綻後は、国内線では最大のキャリアとなった。同社については、こんな本が出ている。

    利用者側からすると、地味な航空会社だ。ウェブサイトも機体もスタッフも何もかもが同業他社のGo Airと区別がつかない(笑)し、自分が予約したのはIndiGoだったか、Go Airであったか?とチケットと取り出して見直さないと、わからなくなるくらいだ。破綻したJet AirwaysやKingfisher Airlinesのように、カリスマ経営者が、「経営の神様」よろしくメディアにもてはやされるわけでもない。

    後者については、ヴィジャイ・マッリャという酒造業から航空業界に進出した派手好きな経営者で、フライトアテンダントを目の醒めるような長身色白な超絶美女で揃え、セクシーな制服を着せて話題を呼んだ。彼女たちが空港通路を颯爽と歩く姿をジロジロと目で追うインドのオジサンたちはとても多かった。

    IndiGoは、といえば、それとは180度異なる地味さで、制服姿はIndiGoなのかGo Airなのか判別しがたく、ジェットエアウェイズのそれにも何となく似ている紺色ベース。チェンナイに本社を置く航空会社だが、北インド路線のフライトに搭乗するスタッフの中に占めるマニプルなど北東州の人たちが占める割合が高いため、日本人みたいな見た目の乗務員が少なくない。北東州のモンゴロイド系の女性たちは、男性たちに較べて目鼻立ちがちょっと違うかのように見えることは少なくないが、これは彼女たちのメイクの方向性がインド人のそれがベースになっているからだろう。眉の描き方、アイシャドウの入れ方を取っても、モンゴロイドの私たちからするとオーバーな感じになるからだ。

    本題に戻る。
    サービスの評判が良いわけではないし、何が良いのかといえば、やはりネットワークの広さから、行きたいところに、悪くない時間帯で飛ばしているという利便性の良さがある。
    またデータを調べてみたわけではないが、定時運行率も高いのだろう。保有する機材数にややゆとりがある?ことも背景にあるのかもしれない。経営陣内部でのちょっとしたゴタゴタが伝えられた時期もあった(最近のこと)が、とりあえず現在までのところまでは堅実にやっているようだ。

    個人的にも重宝しているキャリアなので、今後とも堅実にやってくれることを期待している。けっこう先のフライトの予定も入れているので、Jet AirwaysやKingfisherのように「いきなり明らかになって一気に破綻」なんてことがあったら大変困るということもある。

  • スーラト5  ご当地スイーツ

    スーラト5  ご当地スイーツ

    スーラトといえばガーリー(という菓子)が名物のひとつ。店で「バーダム・ピスタ・ケーサル・ガーリー」を買ってみた。ガーリーはघारी(Ghari)と書く。

    文字どおりアーモンド、ピスタチオ、サフランのガーリー。大変美味だが油脂分が多くて、もちろんとても甘い。ベースとなっているのはミルクと豆の粉。ギーで練って固めてあり濃厚なため、また大きめのミカンくらいのサイズがあるため、すでに大きめの夕飯で腹いっぱいだと、ちょっとヘビーだ。

    こういう菓子を食べる機会が日常的にあると、インドでよく見かける突き出た腹がスイカみたいに大きなオジサンとか、背中の肉が四段くらいになっているオバサンとかになってしまうのだろう。

    このスーラトのガーリーについて、作り方のレシピが紹介されている動画がある。これをご覧になると、だいたいどういう味わいか想像できることだろう。

    スーラトを訪問されたら、ぜひ一度試してみることをお勧めする。

    Surti Ghari (Dry Fruits Flavour) Recipe – सुरति घारी रेसिपी – Priya R – Magic of Indian Rasoi(Youtube)

    સુરતી ઘારી બનાવવાની રીત Ghari recipe || सुरति घारी रेसिपी || Surti Ghari Recipe || festival recipe(Youtube)

    〈完〉

  • スーラト4 パールスィーの病院その他の施設

    スーラト4 パールスィーの病院その他の施設

    先日取り上げたモーディー・アーターシュ・ベヘラーム界隈は、パールスィー地区となっている。

    社会事業、慈善事業が盛んなパールスィーのコミュニティー。このエリアには彼らが建てた病院もあるのだ。古ぼけているが建物を見れば開業した150年前には当時としては高い水準の立派なものであったことが容易に想像できる。街で最初の西洋式総合病院であったのではなかろうか。

    幸い、ここで事務職として働いている人と知り合い、中を簡単に案内してもらうことができた。立派な建物とはいえ、すっかり古ぼけており、今では地域の先進的な病院というわけではないことは一見してわかる。敷地内には職員や医師のための居住施設もある。

    病院から見て道路を挟んで向かい側のブロックは、まるごとパールスィーコミュニティーの施設。ゾロアスター教寺院(先日取り上げたモーディー・アーターシュ・ベヘラーム)、パールスィーのパンチャーヤト(顔役たちの寄り合いというか理事会というか)、パールスィー学校、そして孤児院が入っている。

    パールスィーのパンチャーヤトの建物
    パールスィーの学校
    こちらの建物には孤児院が入っている。

    学校については今やスーラトのパールスィー人口はとても少ないので大半が英語での教育を求めるヒンドゥーその他のコミュニティーの子供たちだそうだ。孤児院については完全にコミュニティー外の地域社会への奉仕事業。

    インドで他に栄えた外来コミュニティー、ユダヤ人、アルメニア人も植民地体制下では支配する側との太いパイプを築き、白人側に深くコミットする人材を輩出した。その中でパールスィーに特徴的だったのは、地元社会へも富を厚く還元することにより、白人の支配層と親密な関係を築きつつも、インド人たちをも敵に回さなかったことだ。

    インド独立ともに立場の悪くなったユダヤ人、後ろ盾を失ったアルメニア人たちの多くはインドを去るが、パールスィー資本は、インド独立をバックアップし続けてくれた愛国資本として、新生インドの体制下で引き続き発展を続けていく。

    実は植民地体制で英国を始めとする支配層の買弁として暗躍したことには変わりはないのだが、世の中か大転換する前から、ちゃんと「保険をかけてあった」とも言える。

    また、ムスリム勢力に追われたパールスィーの先祖たちが現在グジャラート州となっている地域に定住するにあたり、当時の地元の王にパールスィーの統率者が交わした誓い(布教せず、そして新たな母国に尽くす)を守り続けているとも言えるかもしれない。

    パールスィー所有の古い家屋。趣のある建物であることが多い。
  • スーラト3  墓場も面白いインド

    スーラト3 墓場も面白いインド

    これらの風景を目にして、何の遺跡と思われるだろうか。
    実は、「英国人墓地」なのだ。

    場所はスーラト。東インド会社が拠点とした港町のひとつ。私が確認できた、この墓地で最も新しい墓標が1850年のものであったので、まさに英国政府による統治に移行する前、東インド会社が支配した、いわゆる「カンパニー時代」の英国人墓地。墓標を見たところでは、大半は東インド会社軍の軍人とその家族たち。

    そのあたりまでは、英国人でも改宗してヒンドゥーになって、毎朝沐浴したり、プージャーをしたりする後の時代のヒッピー的な英国人も少なからずいたと聞く。
    もちろん、高級官僚やエリートコースに乗っている英国人は、その限りではなかったとはいえ、それ以外で何かしら縁あってインドに渡ることになった、あんまり堅苦しくなくてカジュアルな英国人たちの中には、自国と違う気候、文化、食事の中で戸惑いつつも、「インドってすげー!」と、すっかり感化されてしまう人たちが後を絶たなかったらしい。

    それはそうだろう。今の私たちでも「インドってすごい!」と感嘆しているのだから。当時、「ツイッター」「Facebook」等があったら、彼らのオドロキやインドへの憧憬が多々綴られていたはずだ。
    だが当時の人々は、相当な知識人でもない限り、いわゆる日記のようなものをしたためる習慣もなかったので、現代に生きる私たちが、当時のインドの市井の人たちの日常の喜怒哀楽を知るのは容易なことではない。

    「インドかぶれ」については、1857年の大反乱以降の英国当局による綱紀粛正により、いわゆる当時でいうところの「ネイティヴ(インド人)」と英国人の間の「けじめ」のようなものが徹底されることになった。そのため、墓地についても、その後のものは、このような墓地ではなく、英国人らしいものとなっている。19世紀と20世紀を境にして、「アングロ・インディアン」を示す意味が、「インドで生まれた英国人」から「英印混血の人」と変化していったのには、こうした背景もあるに違いない。

    インドという国は、ごく平凡に観光していても、実に興味深い事柄に満ちているのだ。こんな国は広い世界を見渡しても、他に無いだろう。各地の英国人墓地を巡るだけでも、実は大変面白いインドなのだ。

    〈続く〉

  • FRANKEN WATCH

    FRANKEN WATCH

    「フランケン・ウォッチ」なる聞き慣れない言葉を耳にしたのは、先日デリーの時計店でのことである。その数日前に私が他の店で購入した時計を見た時計店主が言う。
    「面白いデザインだが、フランケン・ウオッチだね。」

    彼が言うにはこういうことだった。
    「HMTはかつてインドのマーケットシェアの大半を占めていたので、あちこちにパーツの在庫がたくさんあった。出回っているモデルの大半が共通の規格で造られていたので、これらをアセンブルしたうえで、オリジナルとは異なる文字盤を作成して売ることは容易だ。時計メーカーHMTがなくなった今でもそういう在庫はあるところにはある。もちろん、中古時計、破損した時計から利用できるパーツを取り出すこともある。」

    もともと高価な時計ではないため、ボディーやムーブメントもHMT社製であることがほとんどだが、出荷されたときと同じ状態ではない、オリジナルのラインナップにはなかった変造版がけっこう出回っており、外観は新しくても中身はポンコツのムーブメントということもあるとのこと。

    ちなみに「フランケン・ウオッチ」という言葉は、腕時計コレクターの間では、ごく普通に使われているもので、クラシック時計の変造品や偽物のことを指すそうだ。
    先日、HMTマニア(インドにはそういう人たちがいるのだ)たちのフォーラムに、この写真を上げてみたら、やはり「これはフランケンである」という回答が出てきた。
    残念な回答ではあったが、コレクターではない私自身は、オリジナルにこだわる必要はなく、デザインさえ気に入ればオリジナルだろうが、フランケンだろうがどちらでも良いのだ、と思い直すことにした。

    ・・・とはいえ、自宅に十数個あるHMT時計を改めてみると、もう30年前に購入したもの、20年くらいになるものなどは、今でも正確に時を刻む。1週間、半月経ってもズレはなかったりする。設計は古くてもさすが日本のシチズンのインドにおけるライセンス生産品だ。

    それに較べると5月にいくつか購入した「HMT Pilotブランドの」「フランケン・ウォッチ」らしきものは、精度がいまひとつだ。やはりアセンブルや調整いかんで、こういうものはズレが生じるのかもしれない。
    リンク先の動画の内容に従えばオリジナルと判断できる30年来の時計は大変正確なので、やはり往年のHMTというのは、なかなか偉大な時計メーカーであったようだ。

    Original vs Franken HMT Pilot watch(Youtube)

    ※「スーラト3」は後日掲載します。

  • スーラト2 ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー

    スーラト2 ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー




    ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー(Dargah Hazrat Khwaja Dana)に参拝。あまり建物としては取り立てて素晴らしいということもないのだが、やはり佇まいであったり、隣に広い墓地があったりするのがダルガーらしいところだ。
    不思議だったのはその墓地だが、もっと沢山ぎっしりと墓があってもおかしくないのだが、かなりまばらなことだ。こういうところに埋葬できる期限でもあるのだろうか。またここに埋葬した場合、定期的に徴収されるお金はあるかと思うが、どういう名目でいくらくらい支払うのだろうか。

    〈続く〉

  • スーラト1  モーディー・アーターシュ・ベヘラーム

    スーラト1 モーディー・アーターシュ・ベヘラーム

    濁った海水の上のさざ波と黒々とした砂州というか干潟というか・・・が大きく広がっている。その黒い砂州には塩田もあり、砂鉄分ともヘドロともつかない土壌の上で作られる塩のミネラル分だか有機分を思うと、工場でケミカルに作られたもののほうがちょっとはマシかねぇ?などとぼんやり思っているうちに、飛行機はスーラト空港のランウェイに滑り込む。

    スーラトの空港に到着

    スーラトの街は想像以上の大都会だった。しかも豊かで華やか。街自体や建物の造りも大きく、まるでムンバイあたりに来たかのような気さえする。先進的だ。

    94年にペストが発生して50名以上が亡くなったり、700名にも及ぶ人々が感染したりするという出来事が起きたのはこの街だったため、なんとなく「物凄く不潔な街」という先入観が刷り込まれていたのだが、このパリッとした清潔感は一体なんだ?とひっくり返りそうになる。

    スーラトの宿泊先

    宿からオートでモーディー・アーターシュ・ベヘラームへ。オートの運転手は、パールスィーの人たちが礼拝から戻るときの姿を見て、ムスリムだかパールスィーだかよくわからないようで、「ありゃ、これはマスジッドかな?いやアーターシュ・ベヘラームと書いてあるからパールスィー寺院だ。」などといっている。確かに装いは見た目似ているし、これがオールドデリーなどだったら、この姿を見るとムスリムであると認識されるだろう。

    ちょうど着いたところでバールスィーの参拝客の人たちが出てくるところであったので、少し話をしてみる。パールスィーの女性たちの中には信じられないくらい美しい人がいる。今日の女性もそうだった。パールスィーでない相手と結婚するとパールスィーではなくなってしまうため、物理的にパールスィーの人たちにはイラン系の形質が引き継がれていくことになる。そのためとりわけ数人集まっていると、パールスィーであることがまちがいないことが見てとれる。ここもまたパールスィーでないと入ることはできないのだが、敷地入口のところまでは入れるので、そこから首を伸ばして敷地内を覗いてみる。

    〈続く〉

  • バスタル観光の今後

    その後もいくつかのハートを回ってみた。どのハートも曜日を違えて週1回の割合で開催されているため、毎日違うハートを見学することは可能だし、品物を売りに行く人たちもそのように複数のハートに出入りしていることは多いようだ。例の青空バーの美人ママも毎週いくつかのハートをかけ持ちしていると聞いた。

    ハートにやってくる独自の装いの部族の人たち。装身具は独特のものが多いが、衣類については、まとい方や着衣の色の傾向は部族独自のものがあるものの、その衣自体は大量生産されて、特に安くマーケットに出回っているポリエステル製のサーリーを使って独自のまとい方をしたり、一部加工して着たりしているようだ。

    昔は部族がそれぞれの村で衣類を作っていたようですが、やはり工業化が進むと安い化繊がたくさん出回るようになるため、部族が手間暇かけて作っていたものは駆逐されてしまうのだろう。これは部族に限ったことではない。

    部族以外、一般の人たちの間でも、かつてはサーリーの柄や模様で地域やカーストが判ってしまう(ラージャスターンやグジャラートなどでは特に)ものであったのが、今は地域やコミュニティーの特色を排したニュートラルな柄が大手メーカーから大量に市場に投入されているため、サーリーを見て「この人は××地域の××コミュニティーの人だ」と言うことはまずできなくなっている。

    またそのサーリーにしてみたところで、今は洋装や「パンジャービー」と俗称されるシャルワール・カミーズ(元々はこれを着る習慣のなかった地域にも広く普及してしまっています)に取って変わられているので、サーリーを着た女性を見かける機会さえも、とても減っている。

    そんなわけで、かつては「着るものはその人の出自を示す」と言われていたインドにおける装いだが、今はあまりそういう意味合いがかなり薄くなっている。

    アーディワースィーの人たちの衣装が前述のようになっている以上、彼らが洋装やパンジャービーを着てハートに出てくる日はそう遠くないだろう。とりわけ若い人たちについては。

    その一方で、今後バスタルが観光で注目されるようになってくると、敢えて伝統的な装いでハートにやってきて、お金を取って写真を取らせて収入の足しにするというようなケースも出てくるだろう。まさにそのために伝統的衣装が復活するという皮肉なことが起きるかもしれない。

    すくなくとも今回私がハートをいくつか回ってみた中では、外国人はもちろんインド人観光客の姿さえ見かけない。ごく当たり前に村から出てきた先住民たちが必要な日用品を得るための場であり村の産物で現金収入を得るための機会、その他の住民にとっては定期市に来る先住民相手に収入を得るチャンス以外の何物でもなく、そこに観光の要素が入る余地さえないように見える。そういう意味では、現在までのところのバスタルのハートは大変貴重なものだ。

    でもこの状況は、今後バスタルが観光化されていく中で、避けられない近未来のこととなると予想される。インドは他にも観光地がたくさんあり、バスタルは「マオイスト」の活動でイメージが良くないため、一気に観光化されることはないにしても、そういう危惧があることは間違いない。

    先住民が占める人口が4割近いこと、インフラの整備が遅れているため、村々でこうした定期市(ハート)の開催が必要であることは今後も変わらないはず。そこに観光化の進展が与えるインパクトは大きなものになるだろう。竹を収穫して加工して裁断して組み上げるという大きな手間をかけて30Rsにしかならないが、伝統的衣装を若い娘さんに着せて、それで写真撮らせればそれくらいの金額が数秒で手にできるわけだが、である。
    また、足にはめるニッケルの輪は、ただ付けていても何の現金収入ももたらしませんが、観光客に売れば、気前の良い人なら500ルピー、1000ルピーくれるかもしれない。

    まぁ、今のところはハートで売り買いする先住民と彼らを相手にする地元の小さな行商人以外は来ていないようで、私たち外国人は、ただの闖入者に過ぎないのだが。

    外国人観光客の訪問が増えてきたら、私が部族の村人であれば「今どきの娘たちは昔のアクセサリー付けたがらないからなあ。家で寝かせていても仕方がないから、ハートにやってくる外人来ていたら声かけてみようか?いくら払ってくれるかなぁ?」とか、「嫁さんのネックレス、売り払うわけにはいかないけど、似たようなのを作れば外人さん買ってくれないかなぁ?今度村の鍛冶屋に安手のやつを頼んでみよう」などと、いろいろ考えることだろう。

  • 部族の村とハート(4) ハートの眺めあれこれ

    部族の村とハート(4) ハートの眺めあれこれ

    通常のインドのマーケットと異なり、品物をドカッと積んで量り売りするのではなく、小さな山にして並べている。先住民の人たちの間で度量衡の感覚がないため、「ひと山でいくら」とするのがわかり易いためとのこと。
    稀にハカリでキロ売りしている人もいるが、それは近年出てきた「新しいやり方」とのことで、まだまだ一般的ではないそうだ。








    部族の女性たちのアンクレットが面白い。ニッケルコインを溶かして作るのだそうです。まだ子供のうちからはめるそうで、当然成長していくと外れなくなる。

    テラコッタの鍋、かまど、炊飯用の釜などを売る部族の女性たち。今のようにアルミやステンレスの厨房用品が出回るまでは、すべてこうした調理器具であったとのこと。そして皿も木の葉を編んだものが使われていたとのことで、身の回りのものすべてが「すぐに、あるいはやがて土に還る」ものであったそうだ。


    こちらは、マフア(という名前の木の花)の蒸留酒を作るための道具。

    謎の干物状のものはタバコとのこと。

    特大のカゴは穀類の貯蔵のために使われる。




    村から何十キロも歩いてハートに到着したおばちゃんたち。こうした部族の人たちは20kmとか30km以上離れたところからも徒歩で荷物を持って来ているとのこと。強靭な肉体を持つ人たちだ。

    この地域の部族の人たちのハートで特徴的なことのひとつに、チャープラーと呼ばれる赤アリとその卵が食用にされることがある。どこのハートに出かけても、葉っぱの皿の上に山盛りになっているのを目にすることができる。


    またドークラー(ロストワックス鋳造)の神や動物の像も地域の特産品のひとつだ。

    2000年11月にマディヤ・プラデーシュ州から分離したチャッティースガル州だが、その南部に位置するバスタル地方は、隣接するオリッサ州西部とともに、部族の人々が占める割合が高く、独自のカラーが強い地域だ。
    〈完〉

  • 部族の村とハート(3) ナングールとナンガルナール

    部族の村とハート(3) ナングールとナンガルナール


    バスタルは、ヒンディー語圏であるチャッティースガル州にあるため、部族の人たちは身内ではそれぞれの部族語で会話しているとはいえ、ハートに出てきている人たちの間で個人差は大きいものの、ヒンディー語でコミュニケーションするのに困ることはあまりない。

    部族の人たちの装身具

    ガイドのAさんと私はヒンディー語で話している(Aさんは流暢な英語も話す)が、彼がいてありがたいのは、ゴンディーその他の部族語への通訳という意味ではなく、地元の文化や習慣に通じているがゆえに、私ひとりで訪れていると、「フレンドリーだった」「カラフルだった」で終わってしまい、気付かなかったであろうことについて、細かくレクチャーを受けられることだ。それにより、不思議かつエキゾチックに感じられたものが、合理的かつ現実的なものとして理解できるようになることだ。
    サゴヤシの樹液の発酵酒サルフィーが入っている。


    ハートに来ている人たちの部族名、居住地域なども教えてもらうことにより、具体的にどういう分布をしているのか、どういう傾向を持つ人たちなのか、なんとなくイメージできるようにもなる。

    例えばこういう眺めである。どこのハート(定期市)にも必ずいるこういう人たち。

    普段、村では手に入らないモノをハートで買うわけなので、現金が必要となるわけだが、地べたに野菜やカゴを並べて販売する人たち以外に、穀類、野蚕の繭などを持参して、こうした仲買人に販売して現金を得るケースも多い。ちょうど私たちが日本から外国に渡航して、とりあえず到着した国の通貨を両替するのに近いイメージだろうか。ハートにおいて、穀類や野蚕の繭は相場が決まっていることから、通貨に近い性格を持つようだ。部族の人たちがハートで買う日用品として大切なものとして、工業製品以外に塩があるとのこと。村では採れないからだ。
    野蚕の繭


    ナングールのハートで、誰かが私のことを呼んでいる。ガイドのAさん以外は私のことを知っている人はいないはずなのだが、振り向いてみると、先日ダルバーのハートの青空バーにいた美人ママさんであった。ご主人は運転手で三児の母だが、週に幾度かハートで酒を売っているとのことだ。

    マーケットはすでに始まっている時間帯だが、まだまだ品物を運び込んでいる部族の人たちは多い。縦に長く行列してハートの広場に入ってくる女性たちがいた。軍隊的に規律正しく見えるのだが、そういう訳ではなく、居住地としているジャングルの中の小道を通るときの動きがそのまま習慣となっているとのことで、確かに横に広がることなく縦一列で移動している人たちは少なくなかった。この人たちを含めて、インドらしからぬ装いと風貌の部族の人たちは多い。

    工業化と大量生産された衣類の低廉化の流れの中、インド各地の衣類の民族色が薄れているのは、チャッティースガルの部族の人たちも同じ。マーケットで安く入手できるサーリーの布を自分たちのやり方で身にまとっている。こういう時代になる前には、もっと異なるいでたちであったことだろう。




    本日もうひとつの訪問先のハートが開かれるナンガルナール村近くの光景。巨大な製鉄所がある。先住民たちの土地をほぼ強制的に収容して得た広大な土地に、民間企業であるターター製鉄に安く譲渡して建てさせたそうで、同義上も手続き上もかなり問題の施設なのだとか。
    民間大資本による製鉄所

    このナンガルナール村は、バトラー(Bhatra)族が主体の村。この若い女性もバトラー族だが、25kmくらい離れたところから重い荷物を持って山道を30kmくらい歩いて定期市(ハート)までやってきたそうだ。


    バトラー族の男性はやや大柄で精悍な顔立ちの人が多く、頭の被り物がなかなかいなせだ。女性もまた豹を思わせるような強靭な感じがする人が少なくない。彼らの装いもまたインドらしくない。ノーズリングは左右両側につけるのがバトラー族の流儀とのこと。











    〈続く〉

  • 部族の村とハート(2) デーヴ・グリー

    部族の村とハート(2) デーヴ・グリー

    一見、何の変哲もない村であっても、寺や礼拝施設に相当するものが、一般のインド社会と大きくかけ離れているものであることに大変驚いた。家の壁などにはヒンドゥーの神が飾られていたり、女性が額にビンディーを付けていたりしていても、実は彼らはヒンドゥーではないのだ。

    結婚観もインド社会とは異なっており、結婚という形式へのこだわりがないのもここの部族社会の特徴らしい。基本的に恋愛は自由で、インドの世間でいうところの不倫で、そのまま子供たちをもうけて家庭を持ってしまったりしても、村落社会で不利益を受けたりすることさえないらしい。

    そんなわけで、村で思春期を迎えた少年少女が親に何も言わずに突然家から姿を消して、どうしているのかと思ったら、離れた村で新婚生活を送っているということは不思議でもなんでもないとのこと。

    こちらはマーウリーパダル村集会所の壁の絵。パッと眺めた感じではヒンドゥー教の神々が村人たちや動物を交えて描かれているように見えるが、題材はヒンドゥー教とはまったく関係ないとのこと。

    だが本来はヒンドゥーとは無関係の地場の神が、地元のヒンドゥー社会の中に取り込まれて、特定のカースト等の間で信仰されるというケースは各地で見られる。

    ドゥルワー族のお寺というか祠というか。要は礼拝・祭祀施設。デーウ・グリー(DEV GUDI)と呼ばれる。こちらはお寺の本殿に相当するもの。屋根がないのは、彼らの神が天界との間が遮られるのを好まないからなのだという。

    続くこちらの画像はふたつの柱の間にブランコがかけられるのだそうだ。祭のときに限られるらしいが。

    そして、ここは催し事が開催される際に、村人たちが酒や料理とともに会合を持つ場所。
    マフア、サルフィーなどの酒は神性を持つものとして、こうした場で提供されるそうだ。なんとなく日本の神社のお神酒が頭に浮かぶ。ビール、ウイスキーなど、バスタルの部族の伝統的な酒とは異なるアルコール類については、神性のある飲み物であるとは見なされないとのこと。これもお神酒と重ねてみると、そういう理屈はわかるような気がする。

    デーヴ・グリーには、コンクリートで作られたモダンなものもある。
    獅子の背後の柱にシヴァ神を象徴するトリシュール(三又の槍)のようなものが描かれているが、これはトリシュールではなく、神の頭と両手を象徴しているとのこと。ヒンドゥー教発生以前からあるものとの説、こうした部族の神のシンボルがヒンドゥー教に吸収されていったというような説もあるそうだ。

    上の画像の2頭の獅子の間の柱に見えるトリシュール状のもの

    デーヴ・グリーのバリエーションでこういうのもある。法輪があるし、スワスティカが描かれており、建物後部にはシカラも建っている。どう見てもヒンドゥー寺院にしか見えないのだが、実はこれもデーヴ・グリーなのだ。本当の祭壇は、この建物の中ではなく、建物脇にあるテラコッタの人形みたいなのが置かれている簡素な基壇。つまりこれが「本堂」ということになる。

    法輪やシカーラーも見られ、ヒンドゥー寺院に見えるのだが・・・。
    上画像の建物の脇にある屋根のない基壇。実はこれが「本殿」である。
    「本殿」のすぐ手前にある木のたもとにある小さな石柱。これもまた神聖の高い重要なものであるとされる。

    30年ほど前までは、ジャグダルプル市内にもデーヴ・グリーがいくつかあったそうだが、今もデーヴ・グリーとして機能しているものはないとのこと。要はこういう感じに寺院化が進展し、今ではすっかりヒンドゥー寺院に化けてしまっているらしい。

    デーヴ・グリーそのものについては、ヒンドゥー寺院と異なり、毎日お参りするようなことはなく、年にほんの数回程度、祭りの際に礼拝施設として使われる程度なのだという。

    〈続く〉