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カテゴリー: life

  • 映画「ホテル・ムンバイ」

    映画「ホテル・ムンバイ」

    現在日本で公開中の「ホテル・ムンバイ」を観た。2008年11月にムンバイで起きた同時多発テロ事件について、犯行現場となったいくつかのロケーションのうち、タージマハル・ホテルを舞台に主にホテルマンたちの視点からストーリーが展開していく。

    この作品は2018年に公開されたものだが、ホテルマンのひとりで主人公であるアルジュン役で出演しているのは、2008年公開の「スラムドッグ・ミリオネア」の少年ジャマール役だったデーヴ・パテールだと言えば、「ああ、彼ね」と覚えている人は多いだろう。
    大変重たい内容の作品であり、消化しきるにはしばらく時間がかかりそうだ。

    平日の昼間なのに満員であったことから、この作品への注目度はとても高いことがうかがえる。究極の危機の中で、これでもか!とハードなストーリーが展開していき、心臓への圧迫感が大変強いものであった。

    お客のために危険を省みず、これまで体験したこともない過酷な職務にあたるホテルマンたちのプロフェッショナリズムが描かれている素晴らしい作品だ。(ネタバレになるので詳述はしないが、事実に即したシナリオ)

    同時にこれを予備知識なしに観た人たち(事件背景はもとよりムスリムに関する予備知識も)の間で、コミュナルなヘイト感情を掻き立てるのではないかとも感じられるもので、こうした特定のコミュニティ、思想を背景とした事件に係る作品作りというのは、慎重な配慮(主人公に準じる配役で危機一髪のところで最後に命だけは助かったザーラはその名のとおりムスリム女性であることなど)をしても、なおかつ難しいものであると感じる。
    テロリストたちを送り込んだパキスタンを拠点とする過激派組織ラシュカレトイバの名前を聞いたことはあっても具体的にどういう組織なのかを知る人は、日本の観衆(欧米でも)少ないだろう。

    映画の中でも描かれていたが、進行中のテロ事件についてメディアが逐一報じるのもいろいろ問題があると指摘された当時を思い出した。当時、私は日本でもネットで動画配信されるインドのTvニュースで逐一観ていたが、同様にパキスタンでテロ組織もそれを見ながら携帯電話で犯行グループへ指示していたことが判明したためだ。

    このあたりについては、報道の自由との兼ね合いで難しい。事件から11年が経過し、通信環境やガジェットの性能なども飛躍的に向上している。この部分については当時よりも深刻な状況になっているとも言えるだろう。

    親子(同作品は15歳以上という指定がなされている)や恋人同士で観に行くような作品ではないが、ぜひとも鑑賞をお勧めしたい秀作だ。

  • ダーダルのパールスィーコロニー

    ダーダルのパールスィーコロニー

    初めて訪れたが別天地のようだった。清潔で良く整備された公園、パールスィーと思しき表札や屋号を掲げた屋敷やマンション。裕福な空間である。美しい豪邸が建ち並び、ここにあるゾロアスター教寺院も見るからに立派だ。平日の昼間なのに働き盛りと思われる男性の参拝客も少なくないようだ。
    特にみるべきものはないのだが、Five Gardensという5つの公園があるエリアを中心に高級住宅地が広がっている。
    ゴミひとつ見当たらないキレイな通りが印象的だ。
    街路樹は伸び放題になっているかのように見えるかもしれないが、強い日差しを避ける目的があるため、日本における「街路樹かくあるべし」という基準のようなものとは違った存在目的がある。











    アギャーリー(ゾロアスター教寺院)の名前がそのまま地名になっている。

    ゾロアスター教寺院

  • パールスィーのおばあさん

    宿の前からタクシーに乗る際、運転手がやや遠慮がちに「途中まで連れて行かなくてはならない人がいるけどいいか?」と言うので、「ああ、構わんよ」と言うと、やってきたのは高齢のおばあさん。

    見るからにパールスィー(洋装で西洋人のおばあさんに見える)だったが、自身が取り仕切っているビジネスがあるとかで、毎朝この運転手のクルマで出勤し、終業後は同様に帰宅しているとのこと。この方、なんと90歳。

    少し背中は曲がっているものの、実によくしゃべるし、耳も遠くないようだ。
    「そう、日本に行ったときにね、小さい子どもたちまで、みーんな礼儀正しくてね。1983年のことよ。ずいぶん昔のことだから街並みとか変わったんだろうけどね。あなたはどこから?新宿とか今も変わらず賑やかよね。」とマシンガントークにこちらがすっかり圧倒されてしまう。

    おばあさんが降りて行ってから運転手は言う。
    「あの人はね、これまでず〜っと独身なんだ。一度も結婚してないらしい。」
    現在のターター・グループ総裁のラタン・ターターもそうだ。もうかなりの老齢なので生きている限りそうだろう。

    パールスィーの人たちは一般的に高学歴なこともあり、結婚は遅いし、一生独身の人も多い。パールスィー以外の人と結婚すると破門となるとはいえ、実はそういう例も少なくはないこともあり、大いに繁栄しつつも、人口規模は減少しているコミュニテイーということでも知られる。

  • ウドワーダーへ

    ウドワーダーへ

    せっかく近くまで来たので、パールスィー最大の聖地ウドワーダーまで足を延ばす。

    ウドワーダー・アーターシュ・ベヘラーム

    ここにあるウドワーダー・アーターシュ・ベヘラームは、ゾロアスター教最大の聖なる寺院ということになっている。本場イランにおけるゾロアスター教徒の立場は、インドにおける豊かなパールスィーコミュニティの比にならないため、やはりインドにおけるゾロアスター教徒の寺院のほうが格上ということになるのだろうか。私たち異教徒は寺院に入ることはできないが、周辺にある神具屋などを冷やかして歩く。

    「クルシード・ハウス」とあるが、一般的にはムスリム名となっている「クルシード」は、ペルシャではイスラーム化する前から一般的な名前。

    パールスィーの屋敷には見事なものが多く、眺めているだけでも楽しめる。こうした建物に宿泊できるといいのだが。ちょっといい感じの伝統的パールスィー家屋のゲストハウスに尋ねてみたものの、異教徒はお断りとのことであった。世界中からパールスィーが参拝に来るので、ダラムサラ以外にホテルやゲストハウスなども多いのだが、それらの多くはやはりパールスィー専用とのこと。異教徒でも利用できる宿は2軒ほどあるらしいが、敢えてここに宿泊するよりも、酒のあるダマンに宿を取ったほうが良いように思う。何しろわずか12kmしか離れていないのだから。

    ホテルの類は少なくないが、異教徒を泊めるところは少ない。事前に電話等で確認しておいたほうが良いかもしれない。パールスィーの祝祭の時期に当たる時期に宿泊したいならば、事前予約は必須だろう。

    時代がかった屋敷が多い中で、モダンなアパートも見かけたが、オーナーはパールスィーであることを視覚的にも強く主張している。

    パールスィーのアパートであることが一目瞭然
    ダマンからわずか12kmという距離ながらも、オートはグジャラート州/連邦直轄地ダマンの境で乗り換えなくてはならないことが多いようだ。
  • サンジャーン・スタンブ(サンジャーンの柱)

    サンジャーン・スタンブ(サンジャーンの柱)

    Sanjan Stambh

    ダマンから30kmほど南下したサンジャーンにある「サンジャーンの柱(Sanjan Stambh)」へ。

    イスラーム化したペルシャからの難民の流れは決してひとつではなかったのだが、その中でもっとも初期に定住したと言われる人たちが上陸したのは現在のグジャラート州南部のサンジャーン。

    当時の故事として伝えられるものとして有名なものにこういうのがある。
    定住の希望を申し出たパールスィーの人たちの長にサンジャーンの王(支配者)は言った。
    「すでにこの土地には多くの人々が住んでいる。残念ながら、あなたがたに分け与えられる場所はもう無い」
    それを聞いた長は器になみなみと入ったミルクの中に砂糖を次々に入れながら王に申し上げた。
    「かように、器からミルクが外にこぼれることはございません。私どもはあなた方の土地に溶け込んで生きてまいります。」
    長の機知と誓いに心打たれた王は、彼らが王国に居を定めることを許した。

    さて、この柱が建立されたのは後世のパールスィーの人たちによるもので、20世紀初め。敷地内にはパールスィーの人たちのためのダラムサラもある。

    このサンジャーンに今もわずかにパールスィーが暮らしている(20人前後)とのことだ。寂れた小さな町からは、おそらく外に出ていく一方で、新たに入ってくる人はないだろうから、前述の故事により定住した人たちの子孫であると思っても良いのかもしれない。

    ダラムサラ。片田舎にあるため、パールスィーの巡礼宿としてはずいぶん簡素だ。

  • ダマン4  海岸

    ダマン4 海岸

    ナーニー・ダマンの市街地からしばらく北上したところにあるデーヴカー・ビーチ。日本風の松林の中にヤシの木が混じるエキゾ空間。ここは岩場が多いが松の木が生えているエリアと浜の間くらいに海の家みたいなのがいくつもあり、みんなそこで飲んでいる。ほとんど男性客ばかりだ。たいていラムやウイスキーなど、安価に酔える酒をあおっているため、もう昼近くになると、大声で騒いだり、へべれけでフラフラしながら小便に立つ男性たちの姿が見苦しい。平日でこうなのだから、週末はどんなことになっているのかと思うと情けない。酒はスマートに飲もう。

    あまり雰囲気が良くなかったので、ダマンの海岸に戻ることにした。昔の記憶では、ボロボロの穴が開いたようなシャツを着ていかにも貧しげな男たちばかりだったオート運転手の中にも、一見ちょっとしたいいとこのボンボンみたいに見えなくもない身なりと風貌の男の子が、たまーにいたりする近年。特に都会ではそういうのは珍しくはない。それだけ豊かになりつつあるということなのだろう。
    ダマンでは、ご覧のとおりの逆三角のボディービルダー運転手がいた。見た目の筋肉に時間とお金を投資する余裕があるわけだ。庶民の可処分所得の変遷を比較(どういうモノサシで測ればよいのかわからないが)すると、なかなかおもしろいことになりそうだ。

    お客が来ないのでフテ寝しているタトゥー屋。浜にはこういうのが多い。ひどく不衛生そうだし、病気がうつりそうだ。近ごろインドでも若い人たちで入れ墨しているのが増えてるけど、まったく感心しない。入れたら10年後どころか1週間後にでも覆いに後悔しそうなデザインサンプルを掲げている店もある。

    タトゥー屋

    湖かと思うほど穏やかな水面のダマンの海岸。アラビア海に沈む夕陽が大変美しい海岸だ。浜から長く沖に突き出している砂洲があるのだが、潮が引くと仰天するほど遠くまでそれが伸びる。更にはそこから先もずいぶん遠浅なので、かなり遠くまで出た人がくるぶしまでしか水に浸っていなかったりする。満潮の際の水面からすると、潮流は強そうで海水浴には向かない感じであるが。砂は黒く、粒が小さな石のような感じの浜で、昼間はまったくパッとしない。水も茶色で見映えするようなことはないとはいえ、夕陽の時間帯となるとこれが絶景となるのだ。インド人はカナヅチが大半なので、海で遊んでいる人たちは大勢いても、泳いでいる姿はみかけない。

    ダマンのビーチに面した素晴らしいロケーションを占めるサーキットハウス。つまり役人用の宿泊施設。

    夕暮れ時のダマンの眺めは最高だったが、とても残念なことがひとつ。

    ビール瓶の破片が散乱しており、散歩していてもそこここで飲んでいる人たちが平気で瓶を放置していくし、立ち去り際にわざわざガチャンガチャン割っていくグループもあった。飲み終えてから海に投げる奴もいた。

    酒税の低さで、飲酒がダマン観光の主要な魅力のひとつになっているだが、その結果としてのこうしたゴミの散乱は、目に余るものがある。

    浜を歩くと足元でガラス破片がギシギシ、バリバリ鳴る。とても裸足で歩いたり、寝そべったりして日光浴などという環境ではない。サンダル履きで歩くのさえ危険なくらいだ。

  • ダマン3 ポルトガルの名残り

    ダマン3 ポルトガルの名残り

    植民地時代の遺物沢山のモーティー・ダマン(大ダマン)と違って、ナーニー・ダマン(小ダマン)では、いくばくかの家屋と城塞以外はポルトガル時代の建築物があまり残っていないとはいえ、往時を感じさせるメルカード(マーケット)がある。ここでは、ポルトガル人やメスティソのお客相手にポルトガル語をおぼえた土地の物売りたちが商っていたことだろう。

    MERCADO J. M. FALCAO DE CARVALHO CONSTRUIDO 1879とある。

    こちらはナーニー・ダマンの要塞。ダマン・ガンガーがアラビア海に注ぐ河口近くにあり、高い壁に囲まれた敷地内には教会と墓地がある。1961年12月にゴアやディーウとともにインドが軍事力で奪還したダマンだが、ここの墓地を散策すると判るのだが、1980年代くらいまでは墓碑がポルトガル語で記されることが多かったようだ。その後はほぼ英語が使われるようになっている。かつては隣にあった古風なリーディングルームを持つ図書館は取り壊されており、新たに公園を建設中であった。

    ナーニー・ダマンに残るポルトガルの要塞「ST. JEROME FORT」
    要塞内部
    要塞を囲む高い壁の上はこうした通路になっている。かつて歩哨が立っていたのだろう。

    要塞の中にある教会
    要塞内にある墓地

    ダマン・ガンガー河口付近

    徒歩で橋を渡り、モーティー・ダマンへ。ゲートをくぐって通りを進んでみる。ラテンアメリカの街と同様、「セントロ」があり、公園を中心にして、主要な役所、大きな郵便局、立派な教会などが配置されている。

    市役所、郵便局、銀行、教会などが四角い広場に面していて、そこが街の中心となっている・・・というパターンは南米と同じ。ローマンカトリックの聖堂がいくつもあり、インドではなくラテンアメリカに来ているような気にさえなる。ここには刑務所もあるが、立派な建物で歴史的な価値も大きい。

    この公園の周囲に役所その他の大きな公共施設が配置され、「セントロ」が形成されている。

    こちらは、ポルトガル領の1581年から続くダマン市役所。貴重な歴史的価値の高い文書なども保存されているのだろうか。そういう行政資料は当然保管されているべきものであるが、当時の体制が継続しているわけではないため、どこか別の場所に移管されているのかもしれないが、そこのところはわからない。

    438年の歴史を持つダマン市役所

    ゴアと同じく旧ポルトガル領のダマンだが、建物のどこかがゴアと大きく違うと思い、よくよく考えてみると、石材であった。コンカン地方にふんだんにあり、赤茶色のラテライト石。大きな気泡を含むが硬質で、ゴアの建築でふんだんに使用され、畳や建物外の階段のように剥き出しになっているところ、メンテナンスが悪くて漆喰が剥げ落ちているところなどに、その荒々しい石肌が姿を見せる。グジャラート界隈でその石は採れないため、ここでそれを目にすることはない。

    ここの教会では、カメラによる写真撮影は禁止だが、スマホでならばOKと言われる。こういうケースはたまにあるのだが、カメラではダメでもスマホならば良いという論理がよくわからない。商業使用する場合には撮影両を徴収したいが、ケータイならば画質が大きく落ちるのでそういう利用には向かないであろうから可ということなのだろうか?もっとも最近のスマホは、ちょっとしたコンデジを凌ぐ写りのモデルが少なくないのだが。

    教会のミサの時間帯等が貼り出されていた。このあたりのカトリックの人たちとなると、すべてグジャラート語で執り行なうことができるはずだが、他の言語でのミサもあったりするのは、その言葉がわかる、わからない以外の象徴的な意味とともに、そして参列者たち自身の選別の意味合いもあるはずだ。

    意外だったのは、ポルトガル語でのミサの時間帯がけっこう多いことだ。ポルトガル語世代といえば、ダマンがインドに復帰した1960年代初頭以前に教育を受けた人たちで、今では相当な高齢者層だ。

    教会の世話人に尋ねてみると、モーティー・ダマンのフォートの南側に暮らすコミュニティがあり、彼らは老いも若きもポルトガル語でのミサにやってくるとのこと。若い人たちについても「あの人たちは、普通にポルトガル語がわかりますよ」とのこと。

    ちょっと興味がわき、そのポルトガル語での礼拝時間に潜り込み、終わったら突撃インタビューをしてみたいような気持ちになるが、今回の旅行の目的はそこではないし、時間もない。肝心のポルトガル語はまったく知らないので、ホントに通じるのか検証さえできない。

    こちらはダマン解放記念碑。1961年12月のインドの陸海空三軍による電撃作戦(Operation.Vijay)により、ゴア、ダマン、ディーウはインドに復帰、450年間続いたポルトガルによる支配は終焉した。もっとも「復帰」といっても、今でいうところのひとつの国としてのまとまりの「インド」の概念が出来上がる前からポルトガル領であったがゆえに、軍事作戦敢行以前から高圧的に返還交渉を進めていたインドによる「侵略」に対して、ゴア等の市民は戦々恐々としていたらしい。「インドが侵略しようとしている!大変!!!」という具合に。文化も習慣も違う、しかも貧しいインドに征服されるという恐れのみならず、ポルトガル体制下で繁栄していたエリートや官吏などについては、財産や職を失う危機とも映ったようだ。

    ダマン解放記念碑

    軍事力で排除されたポルトガルだが、自国領インドの官吏に対しての面倒見は悪くなかったようで、希望者には当時まだポルトガル領だったモザンビークでの仕事を斡旋したそうだ。(だがこの後モザンビークは内戦に入り、移住したゴア人たちは散々な目にあっている。)
    インド側にとっては輝かしい「解放」であったが、地元側にとっては侵略であり征服であったため、インド政府はこれらの土地を中央政府直下の連邦直轄地とし、情勢を細かくモニターしていくとともに、教宣活動にも取り組むこととなった。(連邦直轄地ゴア、ダマンとディーウからゴアが抜けてゴア州成立したのは1987年)
    日々歴史は刻まれていくが、これを書き綴るのは、常に勝者の側である。

    蛇足ながら軍事作戦前、インドがポルトガル領ゴアの返還交渉がうまく進まない中、インド本土からポルトガル領インドへの物資の移送を禁じて兵糧攻めにしていたとき、ポルトガル領インドと当時のパキスタンとの間の蜜月期間があった。つまり食料等の物資不足に悩むポ料理インドへ、カラチからいろいろな品物が海路で輸送されたのだ。まさに敵の敵は味方という構図だ。

  • ダマン2 飲酒ツーリズム

    ダマン2 飲酒ツーリズム

    海洋性気候で高温多湿のダマン。暑さでフッと気が遠くなりそうなのでバーに入ると、冷たく冷えたびーるが迎えてくれた。この時期、ふんだんに酒類があるダマンだったからよかったものの、うっかりグジャラート州海岸の町を訪れたら逃げ場がないことを実感。

    現在インド首相のモーディー氏の御膝元だけあり、制度を整えて外資誘致に積極的なグジャラート州だが、禁酒州なので自国社員の飲みニュケーション上の障害、そして福利厚生上の問題から二の足を踏む日系企業は少なくないと聞く。飲む、飲まないは個人の問題だが、州法で一律禁止とするのは人権にかかわる由々しき問題だと私は考えている。

    禁酒のグジャラート州から中央政府直轄地ダマンに入った途端、酒屋やバーが沢山目につく。中央政府直轄地という扱いは旧仏領ポンディチェリーも同様で、ゴアも1987年に州に昇格するまでは、この扱いであった。

    英国以外の旧外国領であった地域について、背景となる法制度、文化習慣、教育など他の地域と異なるため、近隣州に編入するのではなく、中央政府が現地の特性を考慮したうえで柔軟な対応をしつつ面倒を見るというもの。

    1950年代にインドに返還されたポンディチェリー、1961年クリスマスに大規模な軍事作戦でゴアとともに奪還したダマンとディーウ。さすがにインド復帰後優に半世紀以上経過しているので、もういい加減こうした経過措置を外しても良いようなものだが、こうした措置がこれほど長く続くと独自の行政区としてのアイデンティティー、積み上げてきた歴史も出来上がってしまうので、近隣州への統合は今後もないだろう。

    そのダマンとディーウだが、1990年代以降、主にインド国内の保養地、とりわけ隣接するグジャラート州とマハーラーシュトラ州からの観光客を大きく引きつけて、それ以前はほとんど無に近かった観光業が振興した。負うところの大半は、税率が極端に低く、結果として安価な酒である。つまり飲酒ツーリズムだ。ダマンの繁華街の食堂、レストランの大半は飲み屋でもある状態の背景には、このようなことがある。そうした店がだいたい朝9時くらいにオープンするわけだが、「朝から酒場が開いている町」というのは、インドでは希少である。

    飲酒について、日本からは考えられないほど制約の多いインドでは考えられない環境だ。
    そのため週末にはグジャラート州からやってくる男性たちによる「飲み会」が朝食の時間帯から展開するのが特徴的だ。「一人飲み」の姿も多く、観光シーズンのピークには、訪れる家族連れも少なくないとはいえ、あまりファミリー向けの訪問先ではないように思える。
    けっこうキレイで快適なホテルであっても、いわゆる「バー」ないしは「パーミット・ルーム」があると「家族連れ向きではない」と言われてしまう。

    そんな呑み助天国でありながらも、風俗店が軒を並べるような環境ではないため、とても健全な雰囲気であるのはダマンとディーウの大きな特徴だろうか。しかしながら、やはりこういう場所なので、実は売春も盛んであるとは聞く。

    ダマンの繁華街。朝から晩まで酒を提供する店が多い。

    隣州で禁酒のグジャラートと異なり、酒の販売が出来るダマンとはいえ、生活文化や倫理観はグジャラート州と大きく変わるはずはない。ダマンっ子は日がな飲んだくれているわけではなく、朝から飲んでいるのは、近隣州からの訪問者たちなのだ。
    ダマンの飲み屋街といってもささやかな規模で、少し外れると普通の住宅地となる。そういうところには飲み屋はないし、酒屋も滅多に見かけない。

  • ダマン1   グジャラート州から越境

    ダマン1 グジャラート州から越境

    ヴァーピー駅にて下車。ここからオートでダマンへと向かう。途中、グジャラート州との境になっている町にゲートがある。そこまでがグジャラート州で、そこから先はユニオン・テリトリー(連邦直轄地)のダマンとなる。

    グジャラート州は禁酒州だが、ダマンに入るといきなり酒屋やバーがあり、あたかも飲酒運転を奨励しているかのように見えるし、グジャラート州への密輸を奨めているかのようにも感じられてしまう。

    グジャラート州から入った途端、境界のダマン側にはバーや酒屋がある。

    グジャラート州とダマンの間には、いくつも往来できるポイントがあるのだが、ここのように街中のゲートが境目になっていて、うっかりしていると気が付かないような場所もあれば、川に架かる橋が境になっていて、視覚的にもそうと判りやいすいところもある。

    ここのように、ひと続きになっている市街地の中にゲートがあるような場所では、普段は静かに家で飲んでいて、仲間たちとおおっぴらに飲んで騒ぎたくなったら、ひょいと境を越えた先でしこたま飲んで、酒臭い息を吐きながら再びボーダーを越えて帰宅というような人は多いことだろう。

  • 野犬と治安

    安全性、治安の良さの指標のひとつとして、野犬の不在という点も加味して良いかと思う。
    深夜や早朝、そして自らの生活圏外のエリアの小路、田舎の村落などを歩いても、野犬たちに取り囲まれたり襲撃されたりするリスクが無いことへの安心感は高い。
    インドでは、ムンバイのような大都会のオフィス街でさえも、界隈の会社などが閉まっている休日ともなると、人気の少ない真っ昼間に犬集団に囲まれ、締め切られた商店の扉を背にして応戦(背後を取られると危ないので)しなくてはならないような事態がある。あるいは夜間早朝の野犬リスクを避けるため、宿泊先を決める際に細い小路をどんどん進んだ奥にある宿よりも、通りに面した宿を志向する必要があったりする場合もある。そんなことから、日本において野犬がいないことからくる安心感はとても大きい。
    徘徊する犬たちの存在は、それ自体が治安に関わるものだと私は考えている。

    世界一安全な都市は東京、大阪は3位 19年版ランキング(CNN)

  • ダーラーヴィーのスラムの再開発計画

    これまで幾度となくこういう話はあったが、都心にこれほどの規模のスラムがあるというのは異常であるため、いつかは無くなる日が来るのだろう。
    ダーラーヴィーは不思議なところで、ひどくボロボロなのに、小規模ながらもピカピカで快適そうなコンドミニアム、これまた小ぶりながらも立派なモール、しっかりした構えのイングリッシュミディアムの学校がポコポコ散在している。「なぜここに?」と思うようなものが。
    スラムにある銀行の支店は他のエリア同様に忙しそうだし、公共トイレもあちこちにある。階段さえなくハシゴで上階に出入りするようなボロ家屋に暮らす若者が、今どきの若い人向けにデザインされたカッコいいロイヤルエンフィールドのバイクを乗り回していたりする。
    スラムとはいえ、さすがに歴史も長いし、都心にあるためここで生み出されるキャッシュも大きいのだろう。
    また「グジャラートの☓☓コミュニティー」「タミルナードゥの素焼き職人集団」みたいな地縁血縁集団が世代を継いで占めているエリアもあり、田舎での生業がこんなところで再現されていたりもする。
    またスラム地域とそうでない地域が、これほどスパッと明確に分かれているのも興味深い。
    他のニュースで、このあたりにスラム博物館とやらができるとか書いてあったが、こうしたスラムの生態について、きちんと記録しておく必要があるだろう。これ自体が貴重な生活文化であり、都市の歴史の一部である。

    再開発に揺れるアジア最大のスラム街 インド・ムンバイ(AFP)

    世界初の「スラム街博物館」、インド・ムンバイに誕生へ(AFP)

  • ダーンディー・ビーチ 「塩の行進」の海岸

    ダーンディー・ビーチ 「塩の行進」の海岸

    1930年にガーンディーが支持者たちを率いて、アーメダーバードのサーバルマティ河のほとりにある彼のアーシュラムから、ここダーンディーの海岸まで25日間かけて実施した「塩の行進」。

    到着翌日にはこの海岸で象徴的に塩を作ってみせることにより、人々に英国による専売の不当さをアピールするとともに、国民自ら塩を作り出そうと世間に訴えた。
    この行進は、ガーンディーの非暴力不服従運動、スワーデーシー(国産品)運動の全国的な展開へと繋がる大きな契機となった。

    ナウサリーに駅からオートでダーンディーの海岸まで往復してみた。街から出ると道の両側が大きな並木が続くインドらしい街道風景が続く。こうした眺めも交通量増加に対応するための道路幅拡張の工事、自家用車でのエアコンの普及などにより、かなり減ってきている。

    このあたりの海岸の土壌ってどこも黒いのは鉄分が多いためだろうか。これがずっと南に下り、コンカン地方になると土壌が赤くなる。このあたりとは地質自体も異なるものと思われる。

    辺りは平坦で何の危険もないと思われるのに、なぜ「セルフィー禁止」の看板が・・・?