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カテゴリー: life

  • バングラデシュ横断計画 西ベンガル州都コールカーター発、トリプラー州都アガルタラー行き直行バス運行へ

    遠からず、西ベンガル州都コールカーターとトリプラー州都アガルタラーとを結ぶ直行バスが運行されることになるようだ。隣国バングラデシュを囲む位置にある北東州だが、とりわけ「本土」から見てバングラデシュの向こうに位置するトリプラー州へのアクセスがバングラデシュを横切る形で可能となることによるメリットは大きい。

    これは同時に、本来ならばひとつづきの経済圏であったはずのインド東部地域にバングラデシュという他の国が成立してしまっていることの不条理さの裏返しでもある。

    バングラデシュにおいても、過密すぎる人口とは裏腹に少なすぎる就業機会、乏しいインフラなどから、隣接する地域と断ち切られた形で存在する自国について、「もし印パ分離がなかったら」と思う人たちも決して少なくはないようだ。2014年おけるインドの1人当たりGDPが1,165ドルであるのに対して、バングラデシュは625ドルと、およそ半分でしかない。

    パキスタンとともにインドから分離して英国からの独立を果たした東パキスタン(現在のバングラデシュ)だが、その後に高揚したベンガル人としてのナショナリズムにインディラー・ガーンディー政権下のインドがバングラデシュ成立を強力に後押しした。

    いわばインドの傀儡とも表現できる形でスタートしたバングラデシュだが、その後は決してデリーの意向になびくことなく、独自の国体とナショナリズムを固持して歴史を刻んできた。

    アッサムからの水運、物流は長いこと断ち切られ、歴史や言語、文化や習慣を共有する西ベンガル地域に第一次産品を大量に供給し、それと反対に工業製品の供給を受けるという分離以前には存在していた地域内の分業の機能を国境が阻害する。雇用機会やベターな賃金を求めて向こう側に出る人たちは、同じベンガル人ながらも不法移民ということになる。

    これとは逆に、インド側にしてみても地域の真ん中に、あまり友好的とは言えない国が存在することにより、当然のことながらこのエリアにかかる国防費などの負担を抱えることとなる。独立以来、インド北東部が不安定であることの背景に、その地域の特色ある民族構成以外に、ベンガル北部の頼りないまでに細い回廊地域のみを経て到達できるという、地理的な要因もあるようだ。

    イデオロギーによる国家の分断の悲劇は、固定された格差、域内経済の振興への足かせなどとともに今なお継続中である。コールカーターから、ひとつづきのはずのベンガル地域の北東端にあたる地域への直通バスが話題になること自体が、現状の理不尽さそのものである。

    Direct Bus Between Agartala-Kolkata via Bangladesh (Northeast Today)

  • ロヒンギャー難民(続き)

    つい先日、「ロヒンギャー難民」と題して書いた内容の続きである。

    ミャンマー国内に70万~80万人ほどが暮らすとされるロヒンギャーの人たちは、ベンガル語のチッタゴン方言を母語とする集団ということになっているが、英領時代に現在のバングラデシュを含む当時のインドとビルマ(現ミャンマー)が合邦していた時期に、農業その他の生業のため移住した人たちの子孫が多くを占めるとされる。

    軍政期に隣国バングラデシュに大量に流出した時期もあったことを記憶している方も多いだろう。そのロヒンギャーの人たちが今もなお、とりわけ国際社会復帰を果たした「民主化後」のミャンマーから国外に難民として流出しているのは皮肉なことである。

    対ムスリム感情の悪化もさることながら、同国での市民権を与えられない宙ぶらりんの立場が常に彼らを危機に晒し続けているともいえる。幾世代にも渡り、ミャンマーで暮らしていながらも、ミャンマー政府による「不法移民」という位置づけがなされている。

    しかしながら、北海道の倍程度という国土に1億5千万人以上が住んでいるというバングラデシュ国内における人口圧力から察すると、ミャンマーと隣接するチッタゴン地域をはじめとするエリアから、ミャンマーに相当な規模の越境者たちが、バングラデシュの前身である東パキスタン、はてまた1971年のパキスタンからバングラデシュ独立後もミャンマーに相当規模の移住者があってもまったく不思議ではないという推測も可能だ。このあたりの事情について私はよく知らないし、この類のデータがミャンマー政府から公表されているのかどうかはよく知らないため、私自身の勝手な想像に過ぎない。

    しかしながら、同じくバングラデシュと国境を接するインドの西ベンガル、アッサム州、トリプラ州をはじめとする東部地域に、雇用や農耕地等、要は稼ぎ口を求めてやってくる不法移民は後を絶たず、これが常に大きな社会問題、政治経済問題になっていること、ベンガル人移民が押し寄せる波は、バングラデシュ国内でもチッタゴン丘陵地域で、チャクマーと総称されるモンゴロイド系住民が居住する地域でも様々な軋轢を生んでいることなどから思えば、このような流入が相当規模あるとしても決して不思議ではない。まさにそれがゆえに、ミャンマー政府はヤカイン州周辺に定着しているベンガル系の人々をロヒンギャーと呼び、不法移民と位置付けているのかもしれない。

    果たして、ミャンマー政府が言うところの不法移民(が多く含まれる)ことが事実であったとした場合、このあたりの発信力の弱さで、同国政府は実際の「悪業」以上に大きく損をしている部分があるようにも思える。さりとて、ミャンマーないしは、その前身のビルマ成立以前から居住しているロヒンギャーの人たちに市民権を与えることなく、幾世代にも渡り「違法に定住した外国人」扱いしていること、彼らが難民として周辺の国々に流出していることなどをはじめとする著しい人権侵害に対する非難から逃れることはできないのだが。

  • ロヒンギャー難民

    最近もまたミャンマーからのロヒンギャー難民たちに関する記事がメディアに頻繁に取り上げられるようになっている。

    【ルポ ミャンマー逃れる少数民族】 漂流ロヒンギャ、苦難の道 迫害逃れ、過酷な船旅 (47 NEWS)

    昨年、ロヒンギャー問題で知られるヤカイン州のスィットウェを訪れたことがあるが、かつて英領時代には、この街の中心部でおそらくマジョリティを占めて、商業や交易の中心を担ったと思われるベンガル系ムスリムの人たちのタウンシップがある。そこには同じくベンガル系のヒンドゥーの人々も居住していた。

    スィットウェへ3 (indo.to)

    滞在中にヒンドゥーの人たちの家で結婚式があるとのことで、「ぜひお出でください」と呼ばれていたのだが、その街区はバリケードで封鎖されていて、訪問することはできなかった。
    その数日前に、たまたま警官たちのローテーションの隙間であったのか、たまたま入ることが出来て、幾つかの寺院その他を訪れるとともに、訪問先の方々からいろいろお話をうかがうことができたのだが。

    実のところ、その結婚式には日程が合わず出席はできないものの、同じ方々からもう少し話を聞いてみたいという思いがあり、足を向けてみたのであるが、バリケードの手前で、「ここから先はロヒンギャー地域だぞ。誰に何の用事だ?」と警官たちに詰問されることとなった。

    うっかり先方の住所や名前を口にしては、訪れることになっていた人たちに迷惑が及んではいけないと思い、「いや、向こう側に出る近道かな?と思って・・・」などと言いながら踵を返した次第。通りの反対側から進入を試みてみたが、同じ結果となった。゛

    ロヒンギャーとは、一般的に先祖がベンガル地方から移住したムスリムで、現在のミャンマーでは国籍を認められず「不法移民」と定義されている人たちということになっているようだが、ベンガルを出自とするヒンドゥーもまた同様の扱いを受けているように見受けられた。

    そのロヒンギャーの人たちだが、母語であるベンガル語の方言以外にも、インド系ムスリムの教養のひとつとして、ウルドゥー語を理解すること、またヒンドゥーの人たちも父祖の地である広義のヒンドゥスターンの言葉としてヒンディーを理解することはこのときの訪問で判った。もちろん個人により理解の度合いに大きな差があり、まったくそれらを理解しない人たちもいるのだが。とりわけ若い世代にその傾向が強いようだ。

    アメリカをはじめとする先進主要国から経済制裁を受けていた軍政時代には、ミャンマー国内の人権事情について、各国政府から様々な批判がなされていたが、民政移管に伴い制裁が解除されてからは、そうしたものがトーンダウンするどころか、まさに「見て見ぬふり」という具合になっているように見受けられる。ここ数年間に渡り大盛況のミャンマーブームだが、同国政府の不興を買って、自国企業の投資その他の経済活動に支障が出ることに対する懸念があるがゆえのことと思われる。

  • DARGAH HAZRAT NIZAMUDDIN

    DARGAH HAZRAT NIZAMUDDIN


    せっかくデリーに来たので、ニザームッディーンのダルガーに参拝。スーフィーのチシュティー派の聖者、ニザームッディーン・アウリヤーの墓廟。境内で演奏しているカッワーリーを聴きながら、しばし陶酔の時間を過ごすことができる。ムスリムだろうがヒンドゥーだろうが、はてまた外国人だろうと誰でもウェルカムな包容力がいい。祝祭の時期ではないこともあり、金曜日の割には空いていて、本殿で楽に祈ることができた。清浄な気分になってダルガーを後にする。







    先日、Karim’sのファストフードと題して書いた、南デリーのモールで見つけたファストフード版のカリーム(Karim’s)ではあまりにやるせなかったので、ダルガー参拝のついでにニザームッディーンにあるちゃんとした店舗のカリームを訪れた。しかしながら、カリームではあっても、ビリヤーニーまでもが破格の美味さというわけでもないようだ。もちろん上々の味わいであることは間違いないのだが。

    ダルガーの参道にはずらりと巨大な釜を並べるビリヤーニー専門店が並ぶ横丁がある。このあたりにKarim’sよりも旨いビリヤーニーを出す店がきっとあることだろう。付近にはティッカーやケバーブ、様々なナーンの類などを売る店も多く、これまた食欲を大いにそそる一角である。




  • Karim’sのファストフード

    Karim’sのファストフード

    デリーの1913年創業のレストラン、Karim’sは誰もが知るムガル料理の老舗。創業者カリームッディーンの父はムガル宮廷の料理人であったとされる。デリー市内にいくつかの店舗を展開しているが、南デリーのモール内のフードコートにも出店しているとは知らなかった。

    Karim’s (DLF PLACE, SAKET)

    マトンコルマはプラスチックの使い捨て容器に入り、ルーマーリー・ローティーは目の前にある電子レンジでチン。まったくもってファストフードで寂しいとはいえ、味わいはやはりカリームなのでなかなか旨い。でもそこがまたやるせなかったりする。

    重厚感と軽さのミスマッチ、こういうところに来る人たちが求めるものはちょっと違うので、流行っているとか込んでいるという具合ではまったくないようであった。やはりKarim’sはちゃんとした店舗で食べるに限るのである。

    モールのフードコートのKarim'sはショボいが、それでも旨いのは、さすがという気はする。
  • The Nilgiri Mountain Railway

    1908年に開通したニルギリ山岳鉄道。英国時代に建設され、2005年にはユネスコの世界遺産に指定された鉄道のBBCによるドキュメンタリー作品がYouTubeで公開されている。

    The Nilgiri Mountain Railway (YouTube)

    植民地時代にヒルステーションとして開発されたウーティーへの往来、そこに至る途中にある茶園から茶葉を輸送するなどの目的で開通したこの鉄道にて、1世紀に渡り世代を継いで奉職してきた人たちがいるのは、まさにこうしたヘリテージな鉄道らしいところだろう。今も英国の香りがほのかに残るヒルステーションのウーティーと同様に、それを感じさせてくれるのがこのトイトレインによるウーティーへの往復だ。

    高地にあり、冷涼な気候に恵まれた山岳地であるがゆえに、ひとたび天気が崩れると豪雨となることも少なくない。海洋地域から押し寄せる雨雲をブロックすることになるので、多雨となる宿命がある。崩れやすい斜面を走る鉄道だけに、列車が不通となることもしばしばあるのはいたしかたない。そうした運休時には、鉄道駅は眠ったように静かになるいっぽう、大忙しとなるのが保線関係技師や労働者たちだ。

    車両整備の現場には、この路線初の女性整備士が男性ばかりの職場で額に汗して働いている。娘がわずか生後1週間のときに異動の辞令が出たため、夫とその実家に赤ん坊の世話を頼んでここに赴任してきたという。インドの鉄道職員に産休や育休などの制度があるのかどうか知らないが、業務面ばかりではなく、生活の面でも様々な苦労を抱えている人たちは少なくないことだろう。

    趣のある機関車をはじめとする車両や駅だけではなく、そこで働く人々にもスポットを当てた、鉄道に対する愛情に溢れた素敵なドキュメンタリー作品である。ぜひご鑑賞をお勧めしたい。

  • ナガランド州 女性初の女性オートリクシャー運転手

    先日のパーキスターンのラーホールでの女性による女性のためのオートリクシャーに続き、こちらはインドのナガランド州最大の街、ディマープルにおけるトピック。

    First Woman Auto Driver in Nagaland (Northeast Today)

    社会の様々な分野でよく働くナガ族女性だが、オートリクシャーの運転手となる事例は初であるとのことだ。ラーホールでのそれと異なり、女性客専用というわけではなく、性別に関係なく利用される普通のオートリクシャーだ。

    ナガランド州最大の街が州都コヒマではなく、ディマープルであるのは、山岳地、丘陵地から成る同州で、集落や町は往々にして山や丘の頂上部分を中心に広がる形であるのに対して、ディマープルはこの州でアッサム州境と接するごくわずかな平地部分に位置しており、鉄道や幹線道路が乗り入れる交通の要衝であり、ナガランド州経済の中心地であるからだ。

    そんな環境であること、平地からやってきた「インド人たち」が多いことから、州都コヒマから70km強の距離でしかないにもかかわらず、ここまで降りてくると「インドにやってきた」という印象を受けるほどだ。

    ディマープル市内のオートリクシャーを運転しているのは、大抵は平地のインドから来た人たちということもあり、ナガ族女性運転手によるサービスは、市内を往来する同性のお客からは「機会があれば利用してみたい」と好評を持って迎えられることだろう。ただし、目下、女性運転手はこのToliho Chishiさんのみであるため、なかなか巡り会う機会はないのだが。

  • パーキスターン 女性による女性のためのオートリクシャー

    パーキスターンのラーホール初の女性による女性のためのオートリクシャーのサービスが開始された。同地で環境NPOを運営する女性が始めた事業で、現在操業している車両はまだ1台のみ。

    Lahore gets first women-only auto-rickshaw to beat ‘male pests’ (DAWN)

    女性のエンパワーメントを目指すという目的もあるとのことで、これからの発展を期待したい。しかしながら、同国の中ではリベラルな都会ラーホールとはいえ、女性がこの分野に進出するのはインドよりもハードルが高いといえるだろう。

    もちろん女性運転手によるサービスであるがゆえに、女性利用客からの需要は高いことと思われるが、こうしたサービスを始めることよりも、むしろ今後継続していくこと、そしてこの事業を拡大していることについて、さらに大きな困難が待ち受けているのかもしれない。この「Pink Rickshaw」の今後の展開について、続報をウォッチングしていきたいと思う。

    ラーホール初のこの事例は、パーキスターン初というわけではないようだ。DAWNにこういう記事もある。

    Wajiha, the rickshaw driver (DAWN)

    上記リンク中にあるように、ラーホールのPink Rickshawのような前向きなものではなく、身体が不自由になった父に代わって、わずか11歳の娘が運転するという悲しい話である。せめて何か危険な目に遭わないようにと祈るしかないのがもどかしい。

  • W杯アジア二次予選 アフガニスタン代表

    サッカーのワールドカップのアジア二次予選の組み合わせが決定した。

    日本、シリアなどと同組…サッカーW杯2次予選 (YOMIURI ONLINE)

    非常に有利なグループ(日本・シリア・アフガニスタン・カンボジア・シンガポール)に入ったとメディアで取り上げられているが、そのとおりだろう。また、個人的には組み合わせはともかく、アフガニスタンと一緒のグループに入ったことについて興味深く感じている。

    2011年にアジアカップ一次リーグでシリアと対戦して、2-1と日本が苦戦した相手シリアはともかく、まったくノーマークのアフガニスタンに注目したい。FIFAランキングのシリア126位と同じく、アフガニスタンの135位はどちらも苦しい国情のためもあり、国際試合の機会が希薄であることからくるもので、実力を反映したものとは言えない。

    南アジアで開催された国際大会やアフガニスタン国内リーグなどをネット中継で観戦したことがあるが、南アジアサッカー連盟加盟の8か国(アフガニスタン、インド、スリランカ、ネパール、パーキスターン、バーングラーデーシュ、ブータン、モルジヴ)の中で、アフガニスタンは一線を画す存在だ。

    南アジア選手権においては、2011年大会に大躍進を見せて準優勝、続く2013年大会では見事優勝している。この大会の決勝戦で対戦したのは、2011年大会と同じくインド代表であったが、2-0でこれを下した。ちなみにこのときのインド代表には、日本で生まれ育った日系インド人(父親がインド人、母親は日本人)のMFプレーヤー、和泉新(いずみあらた)選手が出場していた。アルビレックス新潟のサテライト(シンガポールのSリーグ加盟)でプレーしていた選手だが、日本のアマチュアチームを経て、インドのIリーグの名門イーストベンガルに加入後、同じくIリーグのマヒンドラ・ユナイテッドFC、そして現在はプネーFCでプレーしている。

    さて、長年国内リーグを安定的に運営してきたインドをはじめとする国々が出場する大会で、これまでサッカーのインフラもなく、復興に向けてゆっくりと歩みを重ねつつある国の代表が制するというのは尋常ではないが、実はそれには訳がある。

    アフガニスタン国内を横断するトップリーグ「ローシャン・アフガン・プレミアリーグ」は2012年に始まったばかり。それでいながら、報酬を得てプレーする「プロ」選手も少なくない。現状はよく判らないが、少なくとも発足当時、選手たちは年契約ではなく、試合ごとに「日払い」で報酬を受け取るというのが普通であったようだ。もちろん勝敗や個々の活躍ぶりによって受け取る額は変動したのだろう。

    しかしながら、国内リーグの惨状とは裏腹に、海外のクラブにて活躍中で、母国の代表に招集される選手たちの存在と彼らのポテンシャルの傑出した高さがあるのがアフガニスタン代表の特異なところだ。代表選手たちの半数ほどは欧州を中心とする様々な国々のクラブでプレーしており、国外生まれの者も少なくない。

    よって、スタメンで出てくる主力は海外仕込みの選手たちとなるであろうことから、日本が相手にする相手の大半は、本格的なサッカー環境とはほど遠いところで育った「アフガンの地場産の選手たち」ではなく、外国の2部や3部のクラブに所属とはいえ、紛れもない「本場仕込みのプレーヤーたち」であることを念頭に置く必要があり、他の南アジアサッカー連盟に加盟している国々の代表とは格が違うのは当然ということになる。

    地域では突出しているとはいえ、日本代表が圧倒されるケースは想像しにくいが、「意外にいいサッカーをする!」と評価される可能性があるアフガニスタン代表だ。国内が安定して成長が見込めるようになると、今後さらに急伸していく可能性もある。

    アジア二次予選では、ホーム&アウェイ方式で二試合ずつ、合計8試合行われることになるが、情勢が緊迫しているシリアもさることながら、果たして首都カーブル(「カブール」という表記がメディア等で見られるが、ペルシャ文字で「کابل」と綴るので、「カーブル」が適切)で今年9月8日に予定されているゲームが実現できるのか、第三国での開催となるのかについても注目したい。

    安全確保が最優先であるのは当然だが、関係者たちの努力により、カーブルでのアフガニスタン代表のホームゲームが開催されるとなれば、アフガニスタンサッカー界にとって歴史的な快挙となるだけではなく、アフガニスタンのサッカーファン、とりわけ元気な子どもたちへの大きな贈り物にもなる。また、長く続いた内戦でズタズタになった国で、異なる民族の人々が声をひとつにして「私たちの代表」を応援できるということは素晴らしいことだ。

    スポーツが平和のためにできることはいろいろある。勝ち負けだけではない「絆」や「共感」を持つことができることもまた、スポーツの国際大会の大きな意義のひとつだろう。アフガニスタンのサッカーファンにとっては、今や世界的な強豪国の一角となった日本を迎え撃つ「ワールドカップ予選試合」をホームで実現することは、日本がこの二次予選、そして最終予選を制して6度目の本大会に出場する以上に大きな意味のあることだ。勝敗はともかく、これを実現するということは、人々の心に届く、真に勇気ある国際平和貢献となることは言うまでもない。

    はなはだ残念なことであるが、シリアにしても、アフガニスタンにしても、こうした大きなイベントは反政府勢力にとって格好のターゲットとなり得ることは間違いない。スポーツに政治を持ち込むことなく、誰もが心ひとつにして自国代表を力いっぱい声援できる環境を造ることは、思想や主義主張を越えて、FIFAや日本とアフガニスタンサッカー協会関係者たちはもちろんのこと、アフガニスタンの行政、治安当局や反政府勢力等々にかかわるすべて大人たちひとりひとりに課せられた責任でもあるとともに、私たち日本人もまた実現に向けて世論を後押ししていくべきだろう。

    アフガニスタンで、後世に語り継がれる「伝説の試合」が現実のものとなることを期待したい。

  • ニュース雑誌 Northeast Today

    インド北東地域の通称「セブン・シスターズ」。アッサム州、アルナーチャル・プラデーシュ州、トリプラー州、ナガランド州、マニプル州、ミゾラム州、メガーラヤ州のことだが、「充分にインドらしさがある」アッサム州とそれ以外の州では様相が大きく異なる。

    地理的には隣接していながらも、民族的にも文化的にも差異が非常に大きく、それぞれ別々の国であるかのようだ。ヒンドゥー教や仏教に取り込まれることがなかった地域さえある。
    北東地域を総括する共通項といえば、「どれもインド共和国に所属している」ということくらいではないだろうか。

    そんな民族のモザイクのような魅力に溢れる北東地域だが、アッサム州を除けば巷にこの地域の情報があまり多くないのは、同州以外は経済的に重要な地位を占めていないという事情はもちろんのこと、人口が少なく、地元マスメディアのインフラが貧弱であることなどがあるだろう。情報発信力が弱いだけではなく、記事の質や信憑性といった面でも、アッサム州を除く北東地域以外とは比較にならないといって間違いない。

    そんな中で、北東インド地域を包括する月刊ニュース雑誌Northeast Todayはなかなか重宝する。アッサム州の州都グワーハティーをベースとするメディアだが、ヨソではあまり話題にもならない「セブン・シスターズ」各地のニュースを精力的に取り上げている。

    興味深いことは他にもある。誌面で取り上げられる中央政界のニュース、対中国その他の国際関係の記事などが、北東地域の視点から書かれていることだ。

    近年は、MAGZTERで定期購読もすることができるようになっているのだから、インド世界も狭くなったと言えるかもしれない。月刊誌であることから、トピックのフレッシュさの面で不利になることは少なくないため、同誌のウェブサイトのほうも併せてチェックしていくといいだろう。

  • Hooghly Tales

    Hooghly Tales

    かつて「10 SUDDER STREET」で取り上げたように、タゴール家の持家のひとつがここにあった。同家から出た詩聖ラビンドラナート・タゴールがしばらく起居したこともあるというがあったと聞く。そんなサダル・ストリートは、今のような安宿街という趣とはまったく異なる閑静な住宅地であったのだろう。

    大きな商業地域を抱えるチョウロンギー通り界隈に隣接しているが、ごく近くにインド博物館、Asiatic Society、サウスパークストリート墓地のような植民地期の白人墓地があるとともに、由緒ある教会もある。

    また、「サダル・ストリート変遷」で紹介してみたように、19世紀あたりから、ユダヤ人たちも多く居住する時期もあった。著者であり、主人公でもあるSally Solomonという女性が、この作品内で描いた自分自身の子供時代から新婚時代までにかけての物語は、彼女ら家族が居住していたエスプラネード北側のBentinck Street、そして引っ越した先でSudder StreetとMarquis Streetの間に挟まれたTottee Laneで展開していく。

    彼女の先祖はシリアのアレッポから移住したShalom Aaron Cohen。カルカッタのユダヤ人社会では伝説的な偉人だが、彼女の時代にはごくありふれたロワー・ミドルクラスの家庭のひとつとなっている。

    先祖が日常的に着用していたアラブ式の装いや家庭内で使用していたアラビア語は、彼女の世代にとってはとうの昔にエキゾチックな存在となっており、これらは洋装と英語に置き換わっている。これは17世紀初頭から19世紀にかけて、中東地域からインドに移住した、いわゆる「バグダディー・ジュー」と呼ばれる人々に共通した現象で、インドに定着するとともに生活様式が洋風化していったのは、偶然の所作ではなく、商業の民の彼らの稼ぎ口が当時インドを支配していた白人社会にあったからである。

    英領時代のカルカッタの街のコスモポリタンぶり、市井の人たちの暮らしぶりを知るための良い手がかりになるとともに、カルカッタを旅行で訪れた人にとってもなかなか興味深いものとなるのではないかと思う。20世紀前半のサダル・ストリート界隈での暮らしや出来事、ごく近くに立地するニューマーケットの様子などが活写されており、カルカッタで現存する最古の洋菓子店あるいは様式ベーカリーとして知られる「ナフーム」も出てくる。

    サダル・ストリート界隈に、今なお多く残る昔はそれなりに立派であったと思われる屋敷や建物(たいていは内部が細分化されて貸し出されていたり、転用されていたりするが)のたたずまいから、そうした過去に思いを巡らせてみるのはそう難しいことではない。

    Hooghly Tales – Stories of growing up in Calcutta under the Raj (English Edition) [Kindle版]
    著者 : Sally Solomon
    ASIN: B00EYTNNMK

  • 植民地末期ビルマでの暮らしの回顧録 Every Common Bush

    植民地末期ビルマでの暮らしの回顧録 Every Common Bush

    著者である主人公の女性、パトリシア自身の英領ビルマでの生活の回顧録。彼女は1923年にラングーンで生まれて、日本軍の侵攻により1942年にインドに脱出するまで、ビルマで暮らしている。

    彼女の先祖は、1840年代に軍人として赴任した初代(1857年のインド大反乱の際、アラーハーバードで死亡)とその妻、彼らに伴われて渡ってきた二代目となる子供たちがインドに根を下ろした。インドに暮らしてきた家族がビルマに移住したのは主人公の親の代であったようだ。主人公は本国から離れてアジアに移住した家系の五代目であり、植民地で暮らす最後の世代となる。

    彼女の父親は自動車整備工。やがて企業して自らの自動車販売会社を持つようになり、順風満帆な生活を送るが、いつしか事業が不振に陥ってしまう。仕事に行き詰った結果、行政関係の仕事に就くが、独立運動とともに社会不安が高まる中、身の危険を感じて運輸関係の民間企業に転職。

    第二次大戦開始による暗雲はアジアにも着実に影響を及ぼし、日本による真珠湾攻撃のニュースはビルマに暮らす主人公やその家族たちの生活にも暗い影を落とすようになる。

    父は、勤務する運送会社がビルマから中国に至る「援蒋ルート」で軍需物資を運搬するという危険な業務に従事するようになるとともに、子供たちはビルマ中部のシャン高原にあるヒルステーション、メイミョーに疎開。

    1942年、ラングーンに侵攻した日本軍はまもなくビルマ中部以北にも進撃を続ける中、まだ任務から離れることができない父親よりも一足早くインドに脱出。飛行機でチッタゴン、船でカルカッタ、そして鉄道でデヘラドゥーンへと向かい、主人公はしばらく看護婦として勤務することになる。

    すでにビルマから外に出るフライトが無くなってしまった父親は、仲間たちとビルマからインド北東部を経て逃れる決断をしなくてはならなくなってしまう。

    道中、命を落とす仲間たちも出る中、なんとかインドにたどり着くことができた父は家族と再会。家族はボンベイを経て、バンガロールに落ち着くこととなった。

    作品の前半から中盤にかけては、主人公のどかな子供時代と家の中での出来事、彼ら家族を取り巻く人々の平穏な日常と在緬イギリス人たちや地元の人々の様子が描かれている。幼い子供だった主人公が成長していくとともに、植民地ビルマで暮らしていた様々な人たちとの付き合いも深まり、家や学校の外の社会に対する観察力が深まっていく。青春時代を迎えた主人公が、第二次世界大戦の戦況やビルマの独立運動の盛り上がりなどに対して、冷静に観察していた様子がうかがえる。

    植民地在住のイギリス人とはいえ、ワーキングクラス出身で、5世代に渡ってインド・ビルマに在住。決して特権階級などではない主人公たちは、当時のラングーンの社会各層との繋がりは深く、そうした中で巧く世渡りをしていくたくましさを持っていたようだ。家庭内での英語以外に、ビルマ語やヒンドゥスターニー語(現在よりもインド系の人口が占める割合が高かった)をごく当たり前に使用する多言語・多文化環境にあったようだ。

    バンガロールに落ち着いたあたりでストーリーは終わる。その後まもなくインドは独立を迎えることになるが、パトリシアとその家族たちはその後どうなったのだろうか、と少々気になるが、おそらく他の多くの英領インド在住のイギリス人たちがそうであったように、英国に「移住」あるいは第三国に転出し、その後は大過なく暮らしていたがゆえに、こうした本を出版することになったのだろう。

    植民地末期の生活史として貴重な一冊であるが、amazonから手軽なkindle版が出ているので、多少なりとも関心があればご一読をお勧めしたい。