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カテゴリー: column

  • 「ロリウッド」にボリウッドの足音が聞こえてくる

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     1965年に勃発した印パ戦争以来、パキスタンではインド映画上映が禁止されているが、人々は主に海賊版等によるレンタルビデオ、VCD、DVD、ケーブルテレビなどといったメディアにより、インド映画によく通じていることは広く知られているところだ。そのパキスタンで今、「インド映画解禁」の動きがあるという。もちろんそれとは並行して強硬な反対意見もあるのだが。
     下記リンク先の記事によれば、パキスタンで1970年には1300もの映画館があり、年間300本もの映画が製作されていたものの、現在では映画館わずか270と見る影もなく、昨年の製作本数はなんと18作品でしかないのだという。この国では映画産業の衰退が深刻な問題になっている。
     その背景にはいろいろな原因があるようだが、インドにくらべてショービジネス界への偏見が強く、才能あるタレントを発掘しにくいことからくる人材不足、隣国インドの映画を締め出した結果生じた保護主義的な環境の中で、競争力が失われたことなども含まれるのではないだろうか。映画界の尻すぼみ状態から資金も不足すれば、優れた演技者や制作者の育成が難しくなることは想像に難くない。ハリウッド、ボリウッドといった呼称にならい、パキスタン映画製作の中心地がラホールであることから「ロリウッド」と呼ばれていても、産業としてはインドのそれと比較して相当脆弱なのだ。
     インド映画が本格的に入ってくることにより、地元映画の「ボリウッド化」が懸念されているというが、パキスタンの映画館そのものが自らの生き残りのためにインド映画を必要としているというのは皮肉な話だ。ハリウッド映画の配給は高価だし、庶民たちには言葉の壁もあるため、やはり頼りになるのはボリウッドというわけだ。
     とりあえず今年末をメドに最近カラー化されたクラシック映画MUGHAL-E-AZAMが上映されようかという動きになっている。

    (さらに…)

  • マスコミ人来たれ!

     東京都内の路上でのこと、手にした地図とにらめっこしては周囲をキョロキョロ見渡している外国人の姿があった。「何かお探しで?」と声をかけてみれば、こちらは土地っ子なのでたちどころに彼の問題は解決。
     風貌から南アジアの人かと見当はついたが、やはりインド人。しばらく立ち話をして名刺をもらったが、ある大手週刊誌記者であった。日本でIT関係の取材をしにきたのだという。
     まさにIT業界を中心にインド人のプレゼンスが目立つ21世紀の日本。やってくるのはそうした職場で働く技術者やその家族たちだけではない。コミュニティの規模が大きくなればこれらの人々の生活のニーズを満たすため食品や日用品その他を流通させたり、テレビ番組や映画ソフトなどのエンターテイメントを供給したりする業者も増えてくる。インド人による日本でのビジネスがそれなりに育ってくれば、それを取り上げるメディアも出てくるのだろう。
     インドのマスコミで、外国の通信社配信の日本関係記事が取り上げられることは少なくない一方、インド人ジャーナリスト自身による日本取材記事はとても少ない。広く世間にモノを言うことを生業とする人たちが積極的に日本の姿をカヴァーしてくれるのはありがたいことだ。日本に縁のない人、来る機会のない大多数の人々を含め膨大な読者たちを対象に全インド規模で「日本体験」を広めることができるのは彼らをおいて他にない。こうした動きは日印間の距離を確実に縮めていくことだろう。

  • テレビで体験 ダージリンのトイトレイン

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     6月16日(木)午後8時から放送のNHKの番組「探検ロマン世界遺産」で、インドのダージリン・ヒマラヤ鉄道が特集される。
     1879年から建設がはじまり1881年に開通したダージリン・ヒマラヤ鉄道。海抜100メートルのスィリグリから2200メートルのダージリンまで全長86キロのルートを走る。開業当時から客車を引っ張ってきたのはマンチェスターのアトラス・ワークス社製の蒸気機関車。オーストリアのサマリング・アルパイン鉄道に次いで、世界で二番目に古い狭軌の山岳鉄道といわれる。
     1999年に世界遺産に指定されてからも赤字続きだ。存続のためにフランス資本へ協力打診の話があった。老朽化した蒸気機関車に代わるディーゼル機関車の投入を検討すればユネスコによる世界遺産の取り消しの警告を受けた。このときはマハーラーシュトラ州のネーラルとマーテーラーンの間を走るもうひとつのトイトレインで使用中の蒸気機関車を慌てて移送するなどいろいろ大変だったようだ。その後、一部ディーゼルのエンジンが導入されているので、この問題については一応の決着はついたらしい。 
     世界遺産とはいえ自然や遺跡などと違い、歴史的背景への価値が認められたものの基本的には鉄道という運輸事業。今後どれほど長きにわたって存続するのかわからない。皮肉ではあるが、やがて消えてなくなるかもしれないがゆえに「遺産」としての魅力がさらに増すともいえるだろう。

  • 槍玉にあがるカリスマ

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     BJP党首のL.K. アードヴァーニー氏は、1927年(1929年とも言われる)に現在パキスタンとなっているスィンド州のカラーチーで生まれた。1947年の印・パ分離前にはカラーチーでRSS(Rashtriya Swayamsewak Sangh) のオーガナイザーとして活躍していた。
     現在のBJPの前身にあたるジャナ・サングが結成されたときからの幹部でもあり、筋金入りの右翼政治家だ。サフラン勢力の重鎮であるとともに、1992年のバーブリー・マスジッド破壊事件等々、様々な大衆政治活動をリードしてきた彼は、常にタカ派の硬骨漢として知られている。
     そんな彼のさきの外遊先での発言が大きな波紋を呼んでいる。訪問先のパキスタンで、同国で建国の父として尊敬を集めながらも、インドでは母国を分離の悲劇へと導いた張本人と認識されているモハンマド・アリー・ジンナーについて、「世俗主義者」「歴史を造った人」などと持ち上げた。極右ヒンドゥー勢力のリーダーの訪パは「成功であった」とされたのもつかのま、帰国した彼を待ち受けていたのはヒンドゥー至上主義団体RSSを中心とした、いわゆるサング・パリワール(以下パリワール)内から噴出する非難の集中砲火であった。
     近年では同じパリワール内にあっても、RSS、VHP(Vishwa Hindu Parishad)といったイデオロギーをリードする団体と、政権党となってから穏健化した(かのように見えた)B JPとの間ではアヨーディヤー問題その他をめぐるスタンスの違いから不協和音が伝えられており、野党に転落してからは党首のアードヴァーニーと元首相のヴァジペイーに対し公然と引退を求める声さえ上がっていた。
     そこにきてこの発言。パリワール内のBJP以外の団体からは「パキスタンが世俗国家だったら、なぜ彼はスィンドからこちらに移住したのだ」「パキスタン人アードヴァーニー」等々の発言が繰り返されているのに対し、あるムスリム団体は彼を擁護する姿勢を表明し、左翼陣営は「彼の発言はまあいいんじゃないか。ただジンナーがわが国を分離させたことについては触れるべきであった」と一定の理解を示す動きがあり、あたかもアードヴァーニー氏ひいてはBJPが一夜にして右翼陣営から鞍替えしたかのような錯覚をおぼえるほどだ。
     今回の一連の動きをうけて、辞任を表明しているアードヴァーニー氏だが、筋金入りの闘士にして老獪な政治家である彼の真意はいったい何であったのか。訪問先でのリップ・サービス、強硬派のイメージを払拭、新たな支持基盤の掘り起こし等々、それなりの計算があったのだろう。
     だが今回の騒ぎによる右翼陣営の混乱、氏の後継問題など何ら利するところはなく、彼の長い政治生活の中で最大の失言にして深刻な誤算であったようにしか思えない。今年11月に78歳(あるいは76歳)になる彼にそう長い時間は残されていない。
     どうも不可解な出来事ではあるが、アードヴァーニー氏もやはり人間。右翼陣営のカリスマ的な指導者も「老いた」ということなのだろうか。
     史実をめぐる歴史認識というものは、国境をまたげば百八十度違うということは珍しくないが、パキスタンとの外交関係そのものだけではなく、インド国内的にも「パキスタン」というカードはいかにデリケートで厄介なものであることがよくわかる。
     ともあれ今回の騒動がどう進展するのか、目が離せないところである。
    L K Advani resigns as BJP President (OUTLOOK)
    Advani refuses to reconsider resignation (Deccan Herald)

  • ちびくろさんぼ

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     幼いころよく読んだ「ちびくろさんぼ」は複数の出版社から出ていたのだが、1980年代末から「人種差別を助長する」との理由で廃刊となっていた。私はこの本のどこが差別的なのか特に深く考えもしなかったが、この本の復刻版(原作の内容が一部割愛されているが・・・)が出ていることに最近気がついた。
     ご存知のとおり著者は1863年にスコットランドのエジンバラに生まれたヘレン・バンナーマン。牧師の父が世界に広がる英領地域を中心とした宣教活動にかかわっていた関係で海外生活が長かった彼女は、1889年にIMS(Indian Medical Service)に奉職する在印英軍付の医者と結婚し、以後30年間にわたってインドで暮らすこととなった。
     バンナーマン夫妻が駐在していたのはマドラス。現地の気温はもちろん当時の生活環境では子育てには問題が多かったらしく、彼らは子供たちを家政婦とともに過ごしやすいヒルステーションのコダイカナルに住まわせており、ヘレンは暇を見つけては彼らに会うため片道二日の鉄道旅行を繰り返していたという。そうした長い道中、子供たちに読み聞かせるために車内で筆を取って書き溜めたストーリーやイラストの一部が、1898年に「The Story of Little Black Sambo」と題して出版されることになった。
     ロンドンで好評を得た後、この本はアメリカでも出回ることになった。しかし版権の管理がきちんとなされていなかったため、著者の描いたものと違う絵に差し替えられて販売されることにつながった。そうした中でいつのまにか主人公の男の子やその家族たちがインド人から黒人に入れ替わってしまったらしい。
     著者自身は初版が出てから一世紀以上にわたって世界中で愛読されようとも、作品について「差別的だ」との批判がなされようとも想像さえしなかったことだろう。
     その「問題」についてはどう決着がついたのか知らないのだが、長く暑苦しい鉄道の旅の最中、離れて暮らすわが子たちのために心をこめて作り上げた原作。登場人物たちがインド人であろうと黒人であろうと、楽しいストーリーを紡ぎ上げた母親の気持ちに一点の穢れもやましい心もあったはずがない。
     この国で半生を送ったバンナーマン夫人、この「ちびくろさんぼ」以外にも子供たちのために数々の面白い話を創り上げたことだろうが、それらは家族の記憶の中に大切に保存されたのだろう。
     政府関係の仕事に従事する夫と専業主婦の妻という当時の在印イギリス人の典型ともいえる夫妻の日々の暮らしはどんなものであったのか、こちらも非常に興味のあるところである。ページをめくりながらしばし19世紀後半の南インドに思いを馳せてみた。
    HELEN  BANNERMAN 1862-1946  .jpg

  • 世界一の大仏プロジェクト

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     カルナータカ州都バンガロールからマイソール方面へ50キロほど進んだラーマナガラムで計画されている「世界最大の仏像」の製作計画に対する環境保護団体等の反発が世間の耳目を集めるようになっている。
     インディア・トゥデイ6月6日号に写真入りで記事が掲載されているのを見た。どこか記憶の片隅にある風景だと思えば、昔の記録的大ヒット映画SHOLAYの舞台であった。取り巻き連中と馬に乗って地域を荒らしまわる大盗賊ガッバル・スィンと若き日のアミターブ・バッチャンとダルメンドラが扮する主役が対峙するインド版西部劇みたいな舞台にまさにぴったり、巨岩ゴロゴロの大地にサボテンならぬ潅木がチョボチョボ生えている広大な景色だ。
     予定されている大仏とは、そのロケーションといい規模といい2001年3月に当時のタリバーン政権により爆破されたアフガニスタンのバーミヤンの石仏を彷彿させるものらしい。こちらは大きなものが高さ55メートルだが、ラーマナガラムで予定されているものは何と217メートルという途方もなく大きなものだ。
     サンガミトラ・ファウンデーションによる「プロジェクト・ブッダ」と呼ばれるこの事業にかかる費用は3億ルピー、500名の彫刻師と2000名におよぶ土木作業員が動員されるという。中央政府の環境・森林省およびカルナータカ州政府の認可を得ているということだが、今後しばらく紆余曲折が続くことになるのだろうか。
     断崖に石仏を彫り出すだけではなく、広報、教育、啓蒙、医療、福祉、観光、商業活動といった様々な活動の拠点となる施設の建設が予定されているという。荒地を耕す以外にこれといって何もない土地に新しい事業が誘致されるということは、地元の活性化や雇用機会の拡大等々、非常に好ましく思えるのだが。表面上は事業主体である同ファウンデーション対複数の環境団体の対立という形をとっているものの、背景には大きな政治勢力の駆け引きがあるのだろう。
     ともあれ大きなものを見物するのは大好きだ。建造にかかる費用以上に価値のあるものになるはずもないが、完成した暁には高さ200メートル超の大仏を眺めにぜひ出かけてみようと思う。さぞ迫力のある眺めに違いない。
    Greens see red over Buddha statue project (The Hindu)

  • 追放される喫煙シーン

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     近年、インドでタバコを吸う人がずいぶん減っているように思う。鉄道その他公共の場所での禁煙化がとみに進んでいるこの国、日本に比較して喫煙率はかなり低いようだが、それでもインドで喫煙が原因とされる病気で亡くなる人の数は年間80万人から100万人と言われる。
     そんなインドの保健省から、今年の8月から(あるメディアには7月とも)映画やテレビで喫煙シーンを流すことが禁止されるとの発表があり、波紋を呼んでいる。
     現在のところ未確認とのことだが、ひょっとするとインドは映像から喫煙シーンを排除する世界最初の国となる可能性もあるらしい。
     今後、スクリーンに登場する悪役たちをどう演出していくのかちょっと気になるところだ。安易に紫煙で斜に構えた役柄や退廃した雰囲気を出すのではなく、それなりの工夫が求められるようになる。禁止以前の古い映画については喫煙シーンが映る際に「タバコは健康を害する」と警告を字幕で流すのだという。
     表現の自由にかかわることとはいえ、映画の大衆性と影響力を考えればそういう判断もまあ是とも非とも言えない気がする。喫煙行為への風当たりがとみに強くなっている昨今である。
     だが下記のリンク先(BBC South Asia)記事中の「今度は暴力を助長するから銃器を見せることを禁止するんじゃないか?」俳優アヌパム・ケールのコメントにあるように、政府によるさらなる干渉を危惧する声もあるのはもっともなことだろう。
     個人的にはタバコよりもある意味同調できる部分がある。近年のボリウッド映画の中で、かなり行き過ぎた暴力シーンが少なくないように感じる。ある程度自粛ないしは規制がなされてもいいのではないかと思うのは私だけではないだろう。
     
    फ़िल्मी पर्दे पर धूम्रपान पर रोक (BBC Hindi)
    Anger at Indian film smoking ban (BBC South Asia)
    Smoking scenes banned on screen as India steps up anti-tobacco war (YAHOO ! NEWS)

  • ビデオ撮影は破格の贅沢?

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     ケララの南沿岸部から州境を越えて少しタミルナードゥに入ったところにあるパドマナパプラム宮殿の入口で入場料とカメラ持込料を支払う。前者が10ルピーで後者は25ルピー。この国でこういう場所でたいていそういうことになっているので、インド人たちは特に何とも思わないのだろう。でも外国人の目からすれば、本来ならば主たる入場料に付随するはずのものに倍以上払うのはヘンな気がする。
     入場券売場の壁には料金一覧表がかかっていた。ビデオ持込料の金額を見て目を疑う。なんと1200ルピーと書かれているからだ。120人分の入場料にして、スチルカメラ48台分の持込料に相当する。「あるところから取る」にしても、ずいぶん法外な金額ではないだろうか。
     おおむね写真撮影よりも撮影者が静止する時間が長いため、スムースな人の流れを阻害するという部分はあるかもしれない。今のインドでは特に貧しい層でもなければ、機種さえ選ばなければ何かしらのカメラは購入できるが、ビデオカメラの場合はまだまだそうはいかないので、特別な贅沢品であることも間違いない。
     だがスチルカメラ自体がピンキリで、安いコンパクトカメラからプロユースの高級カメラまでいろいろある。ハイエンドモデルを手にして撮りまくる外国人は多いし、インド人の中にもそういう人たちをチラホラ見かけるようになってきているではないか。近ごろでは多機能なデジタルカメラの普及により、カメラとビデオの境目が曖昧になってきているのが現状だ。
     ひょっとすると撮影料収入そのものが目的なのではなく、本音はこうした障害を設けることにより機材を持ち込む人を減らしたいのではないか、ビデオ撮影はテレビ局などその道のプロのみが行なうべき行為だと認識されているのではないかと想像したりもする。
     〈原則禁止〉で、思い切り吹っかけた金額を「ハイ、どうぞ」と気前良く払ってくれる人だけは特別に扱おうといったところだろうか。観光客はともかく、そこを取材することを目的に訪れた人ならばこれを支払わないわけにはいかないだろう。
     文化遺産以外でも、国立公園などでもビデオ撮影に関してこんなビックリするような額を徴収するところが少なくないようだ。どうもよくわからないが、管理側する側からみてこの手の機器がそれほど憎いのだろうか。
     スチルカメラ、ビデオカメラの別を問わず、インドでは撮影が許可制となっているところが多い。国有財産となっておらず、まだ個人が所有している宮殿等では、カメラの持ち込みそのものが禁じられているところが少なくないようだ。
     規制する側にはそれなりの論理があるのだろう。しかし国の機密に関するもの、治安・保安上問題のあるもの、信仰にかかわるもの除き、特に制約をかける必要があるとは思えないツーリストスポットでの撮影については、もっと鷹揚になってくれてもいいように思う。  
     宿泊施設や交通機関のみならず、こうした「撮影の自由」もまた立派な観光インフラの一部ではないだろうか。
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  • インドを撮ろう!

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     私たちが日常的に手にするカメラがほぼデジタル化されて久しい。汎用機から高級機種までさまざまなモデルが機能性や画素数を競い合い、短い商品サイクルで次から次へと登場しては消えていく。この流れは間違いなく今後も続くことだろう。
     ひとたびカメラや周辺機器を購入すれば、プリントせずパソコンで眺めている分には「撮る」コストが実質タダになる。手のひらに収まる小さな機種が増えており、また携帯電話にもカメラ機能が内蔵されるようになったので、写真を撮ることが以前よりもずっと手軽に、そして日常的な行為となった。デジタルカメラを手にしたユーザーがシャッターを切る回数は、銀塩時代の三倍以上になったと何かの記事で読んだ記憶がある。
     デジタル写真といえば、ひところまでは画質に満足できるようなものではなく、記録メディアの容量も小さくメガバイト当たりの価格が高かった。ちょっと撮ったらパソコンにデータを落とすか、CDにでも書き込む必要があり余計な荷物や手間がかかるので、旅行には種類やグレードを選ばなければどこでも現地調達できるフィルムを使用する従来のカメラのほうがよほど楽でもあったことがウソのようである。
     デジタルカメラの高画質化と低価格化が並行して進み、メディアも以前よりも安い価格で大容量のものが手に入るようになった。そしてパソコンを介さずメディアを挿入して直接書き込みできる画像データのストレージ機器が市場に出回っている。
     それだけではない。かつてはやたらと画素数にばかり重点が置かれていたのとはうってかわり、カメラそのものの表現力や機能性、そして操作性もずいぶん向上しているようだ。システムの設定等のスムーズな取り扱いはもちろん、電源を入れてからの起動時間、そして連写機能も飛躍的に短くなってきている。ユーザーたちの目的や予算により選択できる幅が大きく広がっている。

    (さらに…)

  • スニール・ダット天国へ召される

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     サンジャイ・ダットの父、インド映画史上に残る大女優であった故ナルギースの夫、1960年代を中心に一世を風靡したスター俳優にして現職のスポーツ及び青年育成大臣のスニール・ダットが、本日5月25日午前3時ごろ、ムンバイの自宅で心臓発作により亡くなった。享年75才、6月6日に誕生日を迎える直前であった。
     1929年、現在のパキスタンのパンジャーブ生まれ。分離独立時にインドに移住し、ムンバイのジャイ・ヒンド・カレッジで学ぶ。ラジオ番組のパーソナリティ兼インタビュアーの仕事を始めたことをきっかけに銀幕の世界に足を踏み入れた。俳優として代表的な出演作には「ミラーン」「ハムラーズ」「マザー・インディア」「メヘルバーン」「グムラーハ」などがある。
     1984年に国民会議派に加入、21年間の政治家生活の間、5回連続で国会議員に当選を果たし、昨年より初めて中央政府大臣職に就くなど、政界でのキャリアも華々しい。
     1981年に「ロッキー」に出演以降、アクション派俳優としての階段を登りつつあった息子サンジャイ・ダットが、80年代後半から90年代前半にかけて自ら引き起こしたドラッグ問題、武器不法所持等々のスキャンダルから立ち直ることができたのは、この偉大な父あってのことであろう。
     近年そのサンジャイと「ムンナー・バーイー M.B.B.S.」で共演すれば「国会会期中にサボッてロケに行くなんて」との声が上がり、昨年12月の津波災害の直後に被災地を視察、「サッカーで気晴らしをすれば」との発言が物議を醸すなど、とかく世間の耳目を集める人物であった。
     本日、遺体が荼毘に付されるのを前にムンバイのサンタクルーズの葬祭場には、政界の大物たちや映画界の大スターたちをはじめ様々な人々が弔問に訪れているようである。
     故人のご冥福をお祈りします。
    Parliamentarian Sunil Dutt is dead (Economic Times)

  • アメリカに渡ったボース

     日本でも「ボーズ」あるいは「ボウズ」として広く知られるアメリカ企業BOSE 。
     私たちがよく目にするスピーカー以外にも主に音響分野で製品開発等をおこなっているが、民生用以外にも宇宙開発や軍事用にもさまざまな技術を提供する頭脳集団でもある。
     創立者のアマル・ゴーパール・ボースの父親、ナニー・ゴーパール・ボースは当時インドの独立の志士であったがゆえに、イギリス当局の追及から逃れるために故郷カルカッタを離れなくてはならなかった。そして向かった先はアメリカ。
     フィラデルフィアで生まれたアマルはやがてマサチューセッツ工科大で博士号を取得した後、同大学の教授となる。そして彼は1964年にBOSE CORPORATIONを設立した。その後この会社はおおいに発展して現在にいたっている。
     優秀な科学者にして経営者でもあったアマル・ゴーパール・ボース氏は、なんと2000年に引退するまで同大学の電子工学の教授を続けていたというからおそれいる。
     アメリカ資本ながらも創立者の出自でインドと縁があるBOSE社。本来は「ボース」のはずが独自の読み方が定着しまっているものの、我々にとって身近なNRI系の会社でもある。

  • 広がる航空路 狭くなる世界 2 広がるネットワークから見えてくるもの

     いきなり格安競争時代への突入してしまったインド国内線市場で、「無理な安売り合戦は続かない」という見方が強い。今後も新しい航空会社による国内線参入がいくつか予定されており、体力のない会社はやがて淘汰されていくことになるのだろう。
     それとは異なる次元での懸念も伝えられている。国内線・国際線ともに急激な増便により、空港のキャパシティを含めたインフラ整備が追いつかないというものだ。またパイロット、メカニック、フライトアテンダント、そして地上職も含めて航空業界で働く人員の確保が難しくなってきており、航空会社間での引き抜き合戦も盛んになっているとのことだ。
     こうした動きの中で空の旅の大衆化が一層進むとともに、国内航空路のハブとして新たに浮上してくる街がある。インディアンエアラインスによる独占体制下では遠回りして乗り継がなければならなかったルートでも、今では他社便によるダイレクトに往来できるケースが増えてきており、料金面以外でも乗客にとっての利便性が向上しつつある。
     このところ成長著しい都市が新しい成長センターとして台頭してきていることの証である。この調子でいくと実態に合わなくなって将来「四大都市」という言葉が使われなくなったり、「四大」の示す都市の名前が一部入れ替わったりすることもあるかも(?)とさえ思うことがある。
     その一方、これまで航空機発着のなかった土地での新空港建設の話は少なく、これはまさにインフラ整備の遅れのひとつの側面だ。広いインドを見渡せば、今なお実現していない未来の有望なルートが埋もれている。料金競争の次には新たなルート開拓により、インド国内航空路線市場が今後まだまだ大きく伸びる余地があるのは言うまでもない。
     ジェット・エアウェイズエア・サハラ等のインド国内線キャリアによる国際線進出が続く昨今、エア・デカンも湾岸諸国へ乗り入れを画策しているという。
     近年は地方空港の国際化が進んでいる。ラクナウやカリカットその他から中東産油国への定期便が利用できるし、ブッダガヤからはバンコク、コロンボへのフライトが飛び立つ。 
     最近、アムリトサルからイギリスやアメリカへの直行便が就航したが、ここからはタリバーン時代のカーブル行きの便も出ていた。国内外を問わずインドをとりまく航空路はにぎやかになってきているわけだ。
     そんな中で「穴場」といえるのは隣国パキスタンそして中国への航空路だろうか。これらの国々との関係改善にともない、ビジネスを中心とする相互の行き来が盛んになるにつれて、いつしかインドの地方空港からこれらの国々の街へと向かうフライトが次々に就航する日もやってくるのかもしれない。
    <完>