ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: column

  • 美しすぎる大臣の訪印

    美しすぎる大臣の訪印

    7/27にインドのクリシュナ外相と会談したパーキスターン外相ヒナー・ラッバーニー・カル氏

    今年2月に『美しすぎる大臣?』として取り上げたヒナー・ラッバーニー・カル氏。ちょうどその時に同国の内閣改造時にパーキスターンの外務副大臣に相当する職に抜擢されており、ひょっとしたら将来大化けするかも?と思ったのだが、意外にもその日は早くやってきた。

    しばらく空席になっていた外務大臣の職に任命されたのが7月19日。翌日20日には就任の宣誓を行なっている。同国初の女性の外務大臣であるとともに、34歳と最年少での就任だ。パーキスターンのリベラルな顔として、今後しばらく目にする機会が多いことだろう。

    就任直後に彼女はPTVの独占インタヴューに応じている。華やかな見た目に似合わず、落ち着いた低い声と自身に満ちた口調でシャープに応対している。演説もかなり上手いのではないかと思われる。

    PPP Hina Rabbani Khar Sworn In As Foreign Minister

    7月27日にデリーに到着し、45歳年上のインドのS.M.クリシュナ外相と会談。その後マンモーハン・スィン首相、ソーニアー・ガーンディー国民会議派総裁、BJPの重鎮L.K.アードヴァーニー、スシマー・スワラージ等とも会談している。

    また在デリーのパーキスターン・ハイコミッション(大使館に相当)では、インドのカシミール地方で分離活動をしている指導者たちとも面会をしている。

    今回のパーキスターン外相のインド訪問において、特に大きな成果があったわけではなく、かといって何か深刻な摩擦が発生したということもない。両国側とも粛々と日程をこなして、7月29日にはパーキスターンの指導者が訪印する際のお決まりのコースのひとつになっているアジメールのダルガーに参詣した後にパーキスターンに帰国している。

    インドのメディアでは、印パ外相会談について、あるいはインドの他の指導者等との会談についての報道はもとより、スタイリッシュで若くて美しく、身分の高いパーキスターン人としてセレブ的な扱いもしていたのがとりわけ新鮮であった。日刊紙を複数購入して関係記事目にしてみると、彼女の『美』に関するものがずいぶん多い。インターネット上にもそうした調子の記事等がいくつも出ている。ヒナー・ラッバーニー・カル氏には、『重厚なオジサン政治家』にはあり得ない、グラビア的な輝きとヴィジュアルな魅力がある。

    Hina Rabbani Khar’s date with India (NDTV Photos)

    彼女のファッションについての話題も沢山見受けられた。日刊紙上では、イギリスのケンブリッジ公爵夫人キャサリン(ウィリアム王子夫人)よりもセンスが上、などと書いている記事も見かけた。

    Hina Rabbani Khar fashion statement

    Meet Pak’s youngest and stylist foreign minister, Hina Rabbani Khar

    年齢的にも閣僚クラスとしては異例の抜擢であり、インド側としても彼女が突然、今年2月にパーキスターンの外務副大臣相当職にされてからようやく、『ヒナーってどんな人?』と云々されるようになった。これまで全くノーマークの人物である。

    これまでにない若い世代の大臣であることによるしがらみの無さ、類まれな美貌とファッションセンスと相まって、インドでは好意的に迎えられるとともに、隣国との間の友好的なムードを醸し出す効果があったといえるだろう。

    だが、出自が大地主層にして政治エリート家族の一員ということはあるものの、パーキスターン政界という、極めてマスキュリンな社会の中で若くしてめきめきと頭角を現してきたヒナー・ラッバーニー・カル氏は、ただのセレブではないし、無垢なお嬢様でもなければ、世間知らずのお姫様でもない。自分の父親かそれ以上の年齢の大物たちを相手に堂々と渡り合うことができる女傑なのだから、とりわけインドのメディアは鼻の下を伸ばしている場合ではない。

    彼女の姿に、故ベーナズィール・ブットー氏の面影が見える気がするのは私だけではないだろう。今後の大きなポテンシャルを感じる。

  • ヒマラヤンフェアーNEPAL2011

    暑い盛りの8月6日(土)と7日(日)に、東京都千代田区の日比谷公園大噴水広場にてヒマラヤンフェアーNEPAL2011が開催される。時間は8月6日が10時から19時まで、8月7日は10時から17時まで。

    昨年、一昨年は「ネパールフェスティバル」として開催していたもので、在日ネパール人会のメンバーが中心となって運営しているだけに、日本在住のネパールの方々の参加も多い。

    東京では年間で最も気温が高くなる時期なので、熱射病にはくれぐれもご注意を!

  • 航空性中耳炎

    中耳炎になった。小学生だったころ以来である。当時は風邪を引いては耳もおかしくなっていたものだが、今回は飛行機に乗ったことが原因である。

    航空性中耳炎について耳にしたことはあり、航空機の乗務員の間でしばしば発生する職業病のようなものということは知っていた。機内の気圧の変化により、耳の中が痛くなることがあるが、その際にあくびや唾を飲み込むなどしてうまく耳抜きができないままになっていると生じる不具合である。

    気圧の変化といっても、上昇時つまり耳の中の気圧が周囲よりも高くなる際よりも、下降時に鼓膜の内側の気圧が、その外側よりも低くなるときに起きやすいという。

    飛行機が着陸態勢に入るというアナウンスの後、飛行機がどんどん高度を下げていく中、耳の中がツーンと突っ張った感じになった。いつものようにあくびをしたり唾を大きく飲み込んでみたりする。普段ならば耳の中が「バリバリッ」と音を立てて元に戻るところだが、今回はカゼを引いていて鼻がひどく詰まっているためか、左側の耳にはまったく効果がなかった。

    飛行機が滑走路に着陸してターミナルまでゆっくりと動いている最中もその状態は変わらず、市内に出て宿に荷物を置いてもまだ同じ状態が続き、数日経っても回復しなかった。

    プールや海で泳いでいて耳の中に水が入ったときの様子に似ている。おかげで左耳の聞こえかたが悪くなっている。障子一枚隔てた向こうからの聞いているような感じだ。

    これではいけない、と耳鼻科医に診てもらっているところだが、なかなか治らない。診察の際に左の鼻から、耳に繋がる耳管に空気を通してもらうと、かなり痛みを伴うがなんとか通気できるようになる。

    するとしばらくの間はすっきりと聞こえるようになるのだが、またすぐに塞がってしまうような感じになる。塞がっているといえば、鼻腔から耳にかけて空気がスムースに通るようになっていなければならないとのこと。そこが塞がってしまうから気圧の調整がうまくいかず、耳の中の気圧が外気よりも低くなったままになってしまう。

    すると鼓膜の内側に水が溜まってきてしまい、いわゆる滲出性中耳炎を発症する。これがいわゆる航空性中耳炎が起きてしまうメカニズムであるとのことだ。

    やれやれ・・・。

  • インド人講師の英会話教室

    日本国内どこに行っても英会話教室の広告を見かける。多くは『ネイティヴの講師』を売りにしていて、アメリカ、イギリス、オーストラリア他の『英語を母語とする』人々が教えることになっている。

    だが英語の教員という点では、インド人もなかなか評判がいいことをご存知だろうか。産油国方面で英語を教える、英会話を教えるといった仕事に就いているインド人は昔から少なくないようだ。

    また、実はあまり広く知られていないようだが、インドの隣国ブータンは1970年代から学校教育の場で、国語のゾンカ語以外の教科は英語で教えるようになっている。その教育の英語化を導入するにあたり、当時まだ英語を自由に使うことのできる現地教員の数がとても少なかった時期に、非常に大きな役割を果たしたのは同国の要請により、大量に派遣されてきたインド人教員たちである。

    そんなわけで、英語教育の分野で実績のあるインドで、現地の英語教職者を使って、日本人に対してインターネット経由でオンラインレッスンを行なう英会話教室がある。

    MOA (MINATOMO ONLINE ACADEMY)

    インドの教育資源を活用した面白い試みであり、こうした事業の今後の進展にも注目していきたい。

  • 古い写真の記憶

    写真やアルバムは本人や家族にとって大切なものだ。年月を重ねるにしたがってその価値や重みを増していく。 その画像に写っている『現実』がどんどん遠いものとなっていくからだ。

    大人になってから眺めてみる子供時代の写真、今では年取った親の若いころの写真、社会に出てからずいぶん経ってから、ふと開いてみる学生時代の卒業アルバム、そこには今とは違う自分や家族や友人たちの姿がある。

    どれも懐かしい思い出に満ちている。時間の経過とともに記憶の中で特に良かった部分が、非現実的なまでに増幅して思い起こされるものだ。 そうした昔の写真は、さらに時を経てそこに写っている個人やその家族のみならず、そこに記録された時代を知る貴重な手がかりとして、万人にとって価値あるものとなってくる。

    インドの古い写真をブログ的に取り上げているOld Indian Photosというサイトがある。1850年代から1970年代にかけての写真が取り上げられている。セピア色の画像の裏に繰り広げられていた当時の日常、そこに写っている人々はすでにこの世に無く、その個々を知る人さえない忘却の彼方に去って行った過去もある。今とはずいぶん違う景色、現代とは異なる装い人々の姿から当時の世相や習俗が伝わってくる。

    想像力たくましくして、色褪せたモノクロームの写真に『記憶された』風景の背後に思いを馳せたい。撮影者の目の前にあった当時の日常生活、彩り豊かな失われた昔日をゆったりと眺めてみたい。そこには人々が歩んできた歴史があり、それは言うまでもなく今の私たちの時代に繋がっている。

  • 暴力以外のアフガニスタン報道

    アフガニスタンに関するニュースといえば、戦争やテロといったネガティヴなニュースが大半を占めているが、なんだかホッとする記事を見かけた。

    Ten facts you may not know about Afghanistan (BBC NEWS SOUTH ASIA)

    ブズカシの競技の様子を伝えるビデオ、携帯電話の普及、マッチョな気質とは裏腹に詩をたしなむ文化と豊かな食の世界、世界最古の油絵が描かれた国・・・といった事柄が簡潔にまとめられている。

    インド世界のすぐ外側にありながらも、かつて西欧のバックパッカーたちがこぞって訪れた観光地としての過去とは裏腹に、ずいぶん距離感をおぼえる国だ。

    上記リンク先の記事の内容をカバーした番組が7月6日にBBCで放送されたようである。これからもまだまだ混乱は続くようではあるが、一日も早く市井に生きる普通の人々の顔が見える、もっと身近な国となることを祈りたい。

  • Trains at a Glance 2011年7月改定版

    日々が過ぎ去っていくのは早いもので、2011年もすでに半分以上が終わってしまった。インドにおいて7月は鉄道時刻表改定の時期だ。例年のごとく国鉄のウェブサイトにこれがPDF形式でアップロードされている。

    Trains at a Glance (July 2011 – June 2012)

    なお今年5月から7月までの夏季特別列車の時刻表も閲覧できる。

    All India Summer Specials Time Table (April-July2011)

    インターネットでの鉄道予約といい、ウェブで閲覧できる時刻表といい、かつて列車の予約が大仕事だった時代がまるでウソのようだ。

     

  • ゴアのDempo S.C.にアリエル・オルテガ加入か?

    ゴアのDempo S.C.にアリエル・オルテガ加入か?

    アリエル・オルテガ

    サッカーの話題である。

    インドのI-LeagueのDempo S.Cが元アルゼンチン代表のアリエル・オルテガ獲得に向けて交渉中であるとのことだ。成功すればI-Leagueにおける空前のビッグネームが加入することになる。

    Dempo SC in talks with Argentina international Ariel Ortega (goal.com)

    オルテガといえば、『マラドーナ後』のアルゼンチンのナショナルチームのMF陣を代表する選手であった。小柄ながらも爆発的なスピードと変幻自在のテクニックを兼ね備えた天才的ドリブラー(同時にボールを持ちすぎる選手という印象も強い)として知られてきた。

    祖国アルゼンチンのリバープレートを振り出しに、スペインやイタリア等の名門チームを渡り歩いてきた彼もすでに37歳。すっかり盛りは過ぎてはいるものの、彼の華麗なプレーはインドのサッカーファンたち(地域的に限られているが)を魅了するだろう。

    こうした非常に高いレベルの中盤選手のイマジネーション豊かなプレーは、サッカーというスポーツの面白さや醍醐味を、インドのそれとはまだ縁遠い人々へと伝える大きな力となり得る。

    ただ気がかりなのはチームのグッズ販売収入の20%前後を求めていることが交渉の上でネックになっているとのことで、本当に加入へと事が運ぶのかどうかは今のところ不明。

    またこれまで幾度も所属クラブのマネジメントと衝突したり、試合のフィールドでもトラブルをしばしば起こしたりしている、なかなかの暴れん坊だ。サッカー新興国・・・というよりも、それ以前の段階にあるI-Leagueのクラブが、果たしてオルテガをうまく手なずけることができるのかどうか?という不安もある。

    オルテガ自身にとっては、もしDempo S.C.に加入することになれば年齢的におそらく彼のサッカー人生をそこで終えることになるだろうが、この移籍話が実現すれば、Dempo S.C. はもとより、I-Leagueやそのファンたちに対するとても素敵な贈り物ということにもなる。J League草創期に鹿島アントラーズでプレーしたブラジルのジーコのことをふと思い出した。

    ぜひ話がうまくまとまることを期待したい。

    Ariel “El Burrito” Ortega (Youtube)

     

     

  • テロリズムの種

    テロリズムの種

    このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

    アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

    この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

    反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

    彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

    そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

    蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

    ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

    アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

    だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

    インドの記念切手

    ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

    時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

    舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

    それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

    もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

    だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

    作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

    この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

    蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

     

    1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

     

     

    バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

    バーングラーデーシュ国鉄路線図

    歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

    バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

  • タイ 下院総選挙迫る

    タイ 下院総選挙迫る

    投票日を7月3日に控えたタイの下院総選挙。前評判では海外に滞在しているタクシン元首相が操るタイ貢献党が現在の与党の民主党をわずかにリードしているとのことで、再び政権交代ということになるのだろうか。辛くも民主党が持ちこたえたとしても、今後の政局はかなり苦しいものとなるとの見込み。

    2008年の黄色いシャツがシンボルの反タクシン派であるPAD(People’s Alliance for Democracy民主市民連合)によるバンコクの空港占拠、2010年に起きたそれと逆の立場の赤シャツがトレードマークのタクシン派UDD(National United Front of Democracy Against Dictatorship反独裁民主戦線)がバンコク市内で繰り広げた大規模なデモ活動とそれに対する政府側の弾圧といった非常に大きな出来事は記憶に新しいところだ。

    まさにそれらふたつの対立する勢力が真っ向から衝突するのが今回の選挙だが、結果はどうあれ国民和解への道のりは遠いものと思われる。

    カッコいいアピシット首相

    それはさておき、ハンサムな風貌で知られるアピシット首相はもとより、勝てばタイ初の女性首相となるインラック・チナワット氏(タクシン元首相の妹)もまた相当な美人。おかげでタイの政治にまったく興味関心のない筋からも注目されている今回の総選挙のようである。

    美貌のインラック・チナワット氏
    インラック氏(右)と並んで写る妹のピントンガ氏もまた大変な美人
  • ブータンのロイヤル・ウェディング

    ブータンのロイヤル・ウェディング

    ブータン国王と婚約者のジェツン・ペマさん

    今年4月29日にイギリスで行われたウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんの結婚式は、国外にも広く放送されて注目を浴びたが、インド亜大陸北部のヒマラヤの王国ブータンでも今年10月にロイヤル・ウェディングが予定されている。

    2008年6月に父君の退位に伴い王位に就いた現在31歳のジグメ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王が選んだお相手は、王族・貴族ではない民間人のジェツン・ペマさん。イギリスのリージェント・カレッジで学ぶ前には、インドのヒマーチャル・プラデーシュ州のヒルステーション、カサウリー近くにあるローレンス・スクール・サナーワル、その前には西ベンガル州のカリンポンのミッション・スクールで学ぶなど、インドとの縁も深い女性だ。

    残念ながら結婚式の様子をテレビで拝見する機会はなさそうだが、2008年から立憲君主制に移行した新しいブータンの顔として、今後も注目していきたい。

    His Majesty announces Royal Wedding (bhutanjournals.com)

  • 虫屋台

    虫屋台

    久しぶりにバンコクのカオサン通りに来てみた。

    特にここで何か用事があるわけではない。だが一時滞在の外国人という流動的かつ季節や時勢によって大きく増減するお客を相手に、これまた多くはこの場所において一時滞在的なタイ人その他の商売人たちが、様々な工夫を凝らした仕事をしているのを見物するのが楽しい。

    もちろん昔からずっと同じ場所にて家族で商っている人たちもあるのだが、そうした人たちは少数派である。そもそもカオサン通りは1980年代以前までは米穀類の問屋街であり、目と鼻の先には王宮その他バンコクの観光名所が目白押しというロケーションに目を付けた現地女性が、外国人向けの民宿を始めたのがそもそもの始まりであったという。その後は次から次へと安宿、飲食店、旅行代理店その他の旅行者向けの商売をする人たちがこの通りを占めるようになった。

    バンコクの繁華街どこでもそうだが、カオサンもとりわけ流行り廃りは早い。いつ訪れても雰囲気は同じようでも、お店はずいぶん入れ替わっていることに気がつく。視界を遮るものが多く、雑然としているためそうとは気付かなかったりするのだが、いつの間にかビルが丸ごと建て替わっていたりもする。

    カオサンに高級な感じのリゾートホテルが出来ていた。泊まるならば、このホテル余りのバンコクではけっこういいところが安く出ていたりするので、市内のまともなところに宿泊したほうがいいと思うのだが。とりあえず何でも手近に揃うというメリットがあるので、利用する人は案外少なくないのかもしれない。

    昨年の同時期に見かけたアップル製品の専門店は姿を消していた。iPhone, iPad, iPhone, そしてアップルのノートパソコン等が展示されていて、店内ににはそこそこ人が入っていたものの、やはりバックパッカーのゾーンにアップル製品は高価格過ぎたのだろうか。

    カオサンでは昔からタトゥー屋はあったが、それらがずいぶん増えていることに改めて気付かされる。いろいろなデザインのサンプルを手にして、旅行者たちに手当たり次第に声をかける男たちがいる。それほどタトゥーが西洋人の若者たちの間で一般化しているということだろうか。もちろん日本人の間でもそうした傾向はあるのだが。

    何の屋台かと思えば昆虫専門

    食べ物や飲み物等の様々な屋台が出ているカオサン通りだが、夕方になると昆虫専門屋台も出ている。飼育用ではなくすべて食用で、すでに調理済みだ。タイでもイサーン(東北)地方ではもともと昆虫を食用とする例は多いが、もちろんここでは好奇心旺盛な外国人たちが顧客である。

    イナゴ
    タガメ、甲虫、何かの幼虫

    タガメ、何かの幼虫、甲虫、イナゴなどいろいろあるが、すべて素揚げになっている。極め付きはサソリである。けっこう大きなサソリが他の虫と同じように揚げてあり、黒々テカテカと光っている。写真を撮りに寄ってくる人も多く注目度は抜群。

    サソリの姿揚げ

    見た目はグロテスクだが、調理しているのはタイ人なので、試してみると案外美味なのではないかと思う。だが私自身は、昆虫を口にすることに対してとても抵抗感があるのでやめておく。

    いい商売になるかどうかはさておき、西洋人のバックパッカーたちの中で、これらをトライする人は少なくない。仲間や彼女の前で豪胆なところを見せてやろうといった気負った感じの若い男性が多いようだ。あるいは酔った勢いでといったところだろうか。もちろんこれらを「旨いから食べたい」という動機を持つ者はまずいないので、当然そういう具合になる。

    サソリを食べて「醤油の味しかしないなあ」などと仲間に言う者、ビールを片手にイナゴをつまむ者・・・。だが1, 2回ほど齧ってみれば、それで満足してしまい、習慣的にこれら好んで食すリピーターはほぼ皆無だと思う。カオサン通り彼らの顧客はタイでの定住者ではなく一時滞在者なので、次から次へと新たにこの場所にやってくるため、商機は無尽蔵である。

    ある意味『コロンブスの卵』のようなものかもしれない。こうした屋台が外国人たち相手に売れるはずがないと思うのがごく当たり前のところだ。だが近ごろは食に対してオープンな人たちが増えているのか、あるいは単に客層が好奇心に溢れる若い世代が大半であるためかもしれない。屋台のお兄さんは『案外売れているぞ』と手応えを感じているのではなかろうか。

    かといってこれが大当たりすることもなさそうなので、お客が飽きてきたらさっさと違う品物を売り始めるに違いない。カオサン通りに出入りする商売人たちは、様々なアイデアと機知でいろいろ試行錯誤している。彼らのフットワークの軽さが面白い。