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  • 第3回アフガニスタン凧揚げ大会

    アフガニスタン大使館主催の凧揚げ大会というのがあるのだそうだ。2014年から開催されており、今年で3回目とのこと。
    日時は2月28日(日)の午前10時から午後1時まで、場所は東急多摩川線の下丸子駅近くの多摩川河川敷。
    インド、パキスタン、バングラデシュなど南アジアの国々ではポピュラーな凧揚げだが、アフガニスタンでもまた同様に伝統的に人気がある。
    同国では、ターリバーン時代には禁じられていたようだが、その後また人々の間で親しまれているらしい。
    さて、この催しではアフガニスタン式の凧と和式の凧が用意されると告知されている。会場に出向いて凧揚げを楽しんでみたり、そこに集っている在日アフガニスタンの方々とおしゃべりに興じたりしてみると、素敵な休日となることだろう。

    第3回アフガニスタン凧揚げ大会 (在日アフガニスタン大使館)

    ※「クシーナガル滞在2」は、後日掲載します。

  • クシーナガル滞在1

    クシーナガル滞在1

    ネパール国境からゴーラクプルに到着。駅近くのバスの発着場クシーナガルまでは1時間半ほど。本日の宿泊先は、Linh–Son Vietnamese Chinese Templeというベトナム寺院の宿坊。

    ベトナム寺院のお堂

    寄進者の名前のようだ。
    寺院の広報用ポスター
    ベトナム寺院の宿坊

    ここの尼さんとしばらく話したが、すでに27年間もインドとネパールで修行を続けており、普段はルンビニーの同名のお寺にいることが多いのだとか。昨日まで滞在していたルンビニーで、そのお寺の前を通りかかってはいたのだが門が閉ざされていた。尼さんは、「声かければ開けてくれたのに」と言うが、現在ルンビニーを訪れる人が少ないため、あまり開けていないことが多いのだそうだが、そこでも宿泊は可能であるとのこと。

    隣には大きなストゥーパがそびえるミャンマー寺院があり、食べ物はパッとしないクシーナガルで、なかなか美味しいものにありつけるのはその脇にあるYama Caféというベンガル人が経営するお店。クシーナガルに着いたときにはすでに夕方になっていたので、ここで大変遅い昼食を取る。

    ベトナム寺院の隣にはミャンマー寺院がある。

    ミャンマー寺院入口脇にあるYama Cafe
    Yama Cafeで午後の大変遅い時間帯に「昼食」

    そのわずか2時間後にはベトナム寺で頼んだ夕食を僧侶や尼僧と一緒にいただく。ベトナム人ではない僧侶も一名いたが、この人はヒマーチャルのキンナウル地方から来たとのこと。キンナウルには色白で目鼻立ちのはっきりしたアーリア系の人々が暮らす地域もあるが、この人は欧州人のような風貌であった。

    食事はベトナム風の野菜炒めと野菜スープ、そしてご飯、ダールとチーズ、チャパーティーという、越印折衷の菜食料理。地元のインド人の世話人が調理している。尼さんは長年のインド在住の間、これまで幾多の寺や寺関係施設の建設を手掛けたとのこと。小柄で笑みを絶やさないが、とても芯が強くて精力的な人なのだろう。

    この人が歩んできた人生については、マレーシアのメディアで取り上げられている。
    A Vietnamese nun lives out her dream to help the destitute in India (thestar.com)

    地縁もないところで大きなものを造り、それを維持発展させていく外国人僧侶たちには、無一物の行者が持ち合わせない、有能な営業マン的な感覚と政治的能力が求められる。尼さんがここに来た時には小さなお堂がひとつあるだけであったとのことで、「無の中から造り出さなければならなかった」とのことだが、それを自慢することなく、いついつにこの本堂が出来て、宿泊棟が完成したのは何年前のことで、と実に楽しそうに話してくれる。この寺院はクシーナガルで経済的に恵まれない家庭の子供たちのための学校も運営している。

    境内に漢字で書かれた中国人名の寄進者の名前があったり、寺院の英文名に「Linh–Son Vietnamese Chinese Temple」とあることから、ひょっとすると台湾に移住したベトナム華僑(ベトナム戦争中や南ベトナム陥落後に台湾に移住した華人は多い)と関連があるのかと思ったりしたのだが、そうではないとのこと。

    「香港の篤志家の方と知り合う機会を得てね、その方の寄進でお寺を建てることが出来たのよ。その後にも台湾の方とか中国系の方々とのご縁もあったから、Chineseという名前も付けているの。」

    インドで暮らしている人たちにもいろいろあり、仏教界の人々のそれはまた俗世の人たちのそれと違うようでいて、実際にはそうした社会生活、経済生活が必要であり、寺院の維持発展のためにも、俗世と仏門の間の境界は限りなく低いのかもしれない。

    上階には法要等を営むことの出来る広いスペースがあり、それと隣り合わせて尼さんの執務室があり、規模は大きくないが、きちんと整頓されていて、いかにもデキる人のオフィスという印象。

    尼さんよりもひと回り以上年下と思われる僧侶のほうは、ここに来て2年半とのことだが、その前はアメリカにいたとのこと。家族と一緒で、仕事をしていたということだが、それでなぜ今ここにいるのかについては、さすがに尋ねることはできない。

  • 再びネパール・インド国境へ

    再びネパール・インド国境へ

    このあたりの景色はまったくヒンドゥスターン平原と同じだ。霧が出ているのは前日の朝もそうであったが、薄いところもあればいきなり濃くなっているところもある。霧というものはいつもそうだが、かなり濃淡がある。ある地点では道路脇の様子さえもよく見えなかったり、しばらく見通しが良くなったりする。

    走るクルマのないガラガラの道をひた進む。ときたま通り過ぎるのはバイクのみ。中央政府が制定した新憲法が、マデースィー(平原部に暮らすインド系の人たちに不利な内容であることから、これに反対する地元政党がオーガナイズしたチャッカージャーム(交通封鎖)によるものである。

    バンド(ゼネスト)、ハルタール(組織的怠業)、チャッカージャーム(交通封鎖)といった抗議活動はインド譲りのものだが、イギリス植民地時代末期のインドにおける不服従運動で盛んに展開された手法。

    もう何カ月もバスの往来が停止しているため、バススタンドはただの広場にしか見えず、ここがそうだと言われなければ気付かないだろう。

    しばらく進むとトラックが何台か見えてきた。時間を限って、通行が許された工業地帯へ原料を運んだり、製品を搬出したりということがなされているとのこと。やがて無数のトラックの群れとなり、しばし渋滞。先のほうで検問でもあるらしい。なんとかある程度の供給と搬出を確保するほど「政治力」のある企業はまだいいが、そうでないところではもう4カ月も何もできないことになる。ひどい話である。

    通行が許される限られた時間に集中するトラックの群れ

    さらに進んでいくとバイラワに至る。これまでの閑散とした道路とはまったく異なり、クルマがかなり多く、「普通の世界に戻ってきた」という気がする。だが沿道では大きなポリタンでガソリンを商う人たちがいる。インドによるブロッケードによる影響だ。しかしながら、こうした物資の不足とネパール独自の会社の広告があることを除けば、ここがインドと言ってもわからないだろう。

    バイラワーに入った。早朝なので交通量は少ないが、ここまで来るとクルマは普通に走行している。

    国境の町、ベールヒヤーに到着した。ここで朝食のためにおそらくここで一番いい宿泊施設のホテル・アーカーシュ(といっても粗末なものだが)の食堂でトースト、オムレツとチャーイの朝食を頼む。併設されている両替所で、使い残したネパールルピーからインドルピーに交換する。

    国境の町ベールヒヤーで朝食

    ネパール側のイミグレーションには職員以外は誰もおらず、出国手続きは即座に完了。ネパール人とインド人はフリーパスなので、ここに立ち寄るのは私たちのような第三国の人間だけだ。

    国境のネパール側、ベールヒヤーの町

    もう四半世紀以上も前のことになるのだが、初めての海外旅行で、同行した二人の友人たちと、インド側からネパール側に越えたのはこの国境であった。少し町が大きくなったり、建物が増えたりしているのかもしれないが、当時もこんな感じのゴミゴミした町並みであったように思う。確か国境を越えてネパール側のイミグレーションのすぐ脇のゲストハウスに宿泊したと記憶している。翌日の朝に出発して午後にポカラに着いた。途中で見え始めたヒマラヤの雪を被った峰に心躍ったことを思いだす。

    ネパール側イミグレーションでの手続を終えた。ゲートの向こうはインド。

    閑散たる状況は、国境を徒歩で越えた先のインド側の町、スナウリーでも同様だ。シーズンなのにこの状態は異常だ。昨年の大地震、同じく昨年の雨季後半から続く憲法問題による政治問題で、ネパール最大の産業である観光業が、いかに大きな打撃を受けているかということは想像に難くない。

    インド側に入ると、これまた粗末な町並みだが、ネパール側よりも人が多いようだ。またネパール側のように近隣から出てきた山の民の姿がないので、やはり違う国に来たという思いがする。

    ネパール側でもヒンディーは通じるのだが、やはりそこの言葉ではないため、マデースィーの人たちを除けば、当たり前の顔をしてそれで話しかけるのはちょっと気が引けるような思いがする。インド人ではない、明らかに他国の私のような者が、ヒンディーで話しかけると、一瞬戸惑うような素振りを見せる人は少なくないようであった。もちろんそうした人たちでも、程度の差こそあれ、ちゃんと理解するし、にこやかに返事もしてくれるとはいえ。

    インド側に入ると、そういうムードはまったく無くなり、ごく当然のこととしてコミュニケーションできるのだから、やはり「そこに国境がある」だけで、その両側の雰囲気は自然と大きく異なるものとなる。

    国境のインド側に入ると、ブロッケードのため、長蛇の列となっているトラックの果てしない車列が続いている。

    インド側の町スナウリーでは、インドによるネパールに対する封鎖により留め置かれているトラックの長い車列を目にする。

    イミグレーションの少し先に進むと、バスの発着場がある。私が乗ったバスの終着地はバナーラス。私はゴーラクプルで途中下車する。州営のバスなので、時間になるとさっさと出発してくれる。私営のように一杯になるまで客集めするわけではないのがいい。

    バスの終着地はバナーラス。向かって右のヘッドライトの上の黄色地に赤文字の表示で「ワーラーナスィー(バナーラスとも言う)とある。

    前を走るのは、私の乗るバナーラス行きと同時に出発したバス。これもまたUP州営バスで、後部に「スナウリーからデリー行き」とヒンディーで書かれている。

    少々驚いたのだが、ここからデリーに向かうバスもある。これまたこの州の州営バスである。直角シートで窮屈な車内とオンボロ車両。これは20数年前とちっとも変わらないが、こんなバスでデリーまで行くのはさぞ疲れることだろう。

    インド側に入ると、景色も大きくなったように感じるが、これは気のせいに違いない。バスは出発してひた走る。途中一度休憩が入った。最終的にゴーラクプルまでは、3時間半。ゴーラクプル郊外に入ってから渋滞がひどかったり、道路がこれまたひどかったりで、1時間はそれで費やされている。乗合ジープだと2時間程度というので、それを利用するのがベターだろう。

  • 世界最安値のスマホ たったの251Rs!

    世界最安値のスマホ たったの251Rs!

    これは驚愕の安値。わずか251Rs(約420円)でスマホを買えるなんて。Ringing Bellsという2015年に設立されたばかりの無名メーカーから発売されるFreedom251という製品だ。

    画面サイズは4インチと小さく、RAMは1GB で内部ストレージは 8GBと、「だいぶ前のスマホ」といった感じだが、OSはAndroid 5.1 Lollipopで、プロセッサーは1.3GHz quad-core なので、「ちゃんと使えるスマホ」であるようだ。しかも背面だけではなく、全面にもカメラが付いており、自撮りも出来るようになっている。「必要にして充分」なスペックながらも、わずか251Rsで購入できるとは!

    実機に触れていないので何とも言えないとはいえ、背面に大きくあしらわれたティランガー(インド国旗)もまたカッコ良く、破格の安値であることからも、これは「買い」である。

    Freedom 251 First Look (Youtube)

    Everything that is wrong with the world’s cheapest smartphone (Hindustan Times)

  • ルンビニー滞在2

    ルンビニー滞在2

    ルンビニーで数多い各国の仏教寺院の中で、とりわけ気入ったものがみっつある。まずは大きな中華寺。私が入るときに、大きな荷物をゴロゴロさせて出てくる若い旅行者がいた。おそらく中国人だろう。こ本堂に向かって右手に宿坊を含むと思われる事務棟らしき建物がある。とてもきれいで、空調の室外機がいくつも見えるため、真夏でも快適に過ごせるにことと思う。

    最近の中国の勢いを示しているかのようであるとともに、中国にとってもこの国で中国の威光を見せつけるために、資金をふんだんに注いでいるのではなかろうか。ここで、中国の宗教団体が政府の意図とは無関係に行動しているとは思えないので、多分に政府の息がかかり、意図に従う組織ではないかとも思ったりする。それにしてもこの中国寺院は飛び抜けて美しく豪華だ。

    大乗仏教で、日本に近いところから来たものなので、やはり私たちに馴染みの深い雰囲気がある。お堂に置かれた木魚も日本のそれとそっくりだ。僧侶に尋ねてみると中国の深圳から来ているとのこと。僧侶は8名いるそうだ。この方といろいろ話をしてみたかったのだが、英語もヒンディーも理解せず、私の片言の中国語ではせいぜいこのくらいが限界であり、ちょっと残念

    大人に引率された袈裟を来た僧籍の子供たちの集団がどやどやと入ってくる。聞けば、ムスタンから来たとのこと。スマホやタブレットを手にした年かさの者もあり、盛んに写真を撮っている。ちょっと質問すると複数の子たちから元気な返事が返ってくる。ムスタンの人と声交わすのは、今回のボドガヤー以来、私にとって2回目だ。よく知らないが案外社交的な気質なのかもしれない。

    ムスタンから来た少年僧たちの集団
    ムスタンのやんちゃな小坊主たち

    もうひとつは、Gedan Internationalという、欧州で活動するチベット仏教団体が建てたもの。スイス、オーストリア、ドイツ、オランダ、フランス、ハンガリー、チェコ等で活動しているらしい。近年、欧州ではチベット経由の仏教徒となる人が少なくないようだが、その背景にはこのように欧州で活動する教団が増えていることがある。

    アメリカでもかつては禅が東洋の仏教の代表格であったが、今はチベット仏教のプレゼンスが高まっているという。ダライラマが長年続けてきた積極的な外遊により、チベットへの関心が高まったことがあると言えるだろう。
    さてこの寺だが、建物が「蔵欧折衷」になっている。「グレコ・チベット建築」とでも形容できるような、不思議なものだ。僧坊も洋館になっているし、ご本尊にあたるところに通常の仏像があるのではなく、まさにキリストの降誕の図を仏教に置き換えた形で、ブッダ誕生のそれをフィギュアで表現したものが祭られている。

    こんな風変りなチベット寺院はこれまで見たことがなかった。敷地内にふたつの大きなチョルテンがあることを除けば、少なくとも外観からはこれがチベット仏教寺院とは気が付かないだろう。

    ゴータマ・シッダールタ誕生の図。クリスチャンの「キリスト生誕」と似た構図になっている。

    そして最後は、ベトナム寺院を訪問。中国風にひねりをふたつもみっつも加えたような意匠が面白い。中国寺院に曲線を多用したような、独自の味わいは、まさにベトナムらしいところだ。家具などでもそういう部分がある。そしてこういう伝統的なものでは漢字が多用されるのも特徴。実際に読むことができる人はほとんどいなくても、元々は漢字の国であるだけに、伝統として大切にしているのだろう。境内にしつらえてある庭園の橋もまた、ずいぶん曲線的に盛り上がるベトナム式のもので、これまた目を楽しませてくれる。

  • ルンビニー滞在1

    ルンビニー滞在1

    ルンビニーで宿に荷物を置いてから、最初に向かったのは敷地内のチベット仏教寺院、そしてその裏手にあるマーヤーデーヴィ―寺院。ここは寺院というよりも、釈尊が生まれた場所の遺構が保存されているところで、こうしたいい状態でちゃんと残っているというのは感動的でさえある。これは、マーヤーデーヴィー寺院の白い壁の建物の中に保存されており、風雨で劣化しないようになっている。

    マーヤーデーヴィー寺院

    遺構もきちんと管理されている。

    日本、中国、東南アジア他の仏教国の古刹、名刹はもとより、文化や伝統、価値観や行動様式など、仏教が発生していなかったら、現在とまったく異なるものとなっていたわけで、まさにここからそれが始まったということになる。実にありがたいものだ。

    世界遺産登録されている遺跡であるが、ここでは2013年には紀元前6世紀のものとみられる建築物の遺構が見つかっており、誕生した時期に様々な説がある釈尊だが、その生誕年について、より古いものであるとする説に有力な手掛かりを与えることになる可能性がある。

    釈迦の生誕年が早まる可能性も、ネパールの遺跡で新発見(AFP)
    http://www.afpbb.com/articles/-/3003957

    マーヤーデーヴィー寺院の裏手には、沐浴池とタルチョが沢山はためく木があり、思索にふけるにちょうど良い空間を提供している。池のほとりで、タイの僧侶と信徒たちが読経を上げていたが、同じく巡礼で訪れていたブータン人団体の男性が、何を思ったのかお経を唱える彼らに、うやうやしくお布施を渡していた。

    読経するタイの人たちにお布施を渡すブータン人。でもなぜ??

    遺跡公園自体はまだ完成しているわけではないようだが、それでもずいぶん大掛かりで立派なものを作ったものだ。2008年だかにネパール訪問した際、中国が大掛かりな整備に乗り出すという記事を読んだことがあるが、これがそうなのだろうか。まさに中国さまさまである。

    ただしいけないのは、自転車で回らないとあまりに広大すぎて大変なのだが、マーヤーデーヴィー寺院がある側から長い通路を渡って、各国の寺院が建ち並ぶエリアへの移動は、徒歩のみで可能であること。自転車の場合は一度敷地の外に出て、別のゲートから入りなおす必要があることだ。まだすっかり完成したわけではないので、今後このあたりは改善されていくことだろう。

    天上天下唯我独尊

    日本人観光客も多いことと思うが、ボードガヤーと違って日本語が上手な怪しい奴がつきまとうようなことはなく、実に快適に周遊することができる。

    各国から出ている寺院見学するのもなかなかいい。ボードガヤーで感じたように、これらはそれぞれ自国の様式を模倣したインド建材によるものでしかないのだが、それでもこうした形でいろいろ工夫して寺院が出されているということは興味深いものである。

    広大な敷地内に、韓国寺院、スリランカ寺院、ミャンマー寺院、ネパール寺院、様々な宗派等のチベット仏教寺院その他が点在しているが、とりわけタイ寺院の洒落たデザインと美しい祭壇が目に鮮やかだ。

    韓国寺院
    ミャンマー寺院
    ネパール寺院
    チベット仏教系の寺院はかなり多い
    これもチベット仏教系の寺院
    チベット仏教系寺院のマニ車
    タイ寺院
    タイ寺院の堂内

    遺跡公園の最も北にある日本山妙法寺の仏塔とお堂。藤井日達という僧侶が始めた教団で、ストイックさで知られるが、日本ではあまりその名を耳にすることはない。やはり海外での存在感は実に大きく、建立する建物も壮大だ。基本的に活動先の国での「独立採算」でやっていると聞くので、僧侶たちは厳格な修行者であるとともに、大変優れた経営者であるという話も耳にする。現地政財界とのパイプも太いというが、いったいどうやって集金調達をしているのか、いつも不思議に思う。

    日本山妙法寺の仏塔

    ここからは湿原の景色が眺められる。仏塔の上から眺めるとさらに良い。「周囲は鶴の保護区となっており、これらを無料で見ることができる」とガイドブックに書かれているが。ちょうどシーズンであるはずだが。私は視力が悪いためよく見えなかった。

    日本山妙法寺のお堂も拝見する。ボードガヤーのそれと違って、こちらはこじんまりしているが、やはり日本の教団のお寺らしく、ずいぶんキレイにしてあるものだ。勤行の時間帯も書かれており、誰でも歓迎とある。

    日本山妙法寺のお堂

    遺跡公園敷地内にはまだ森林が残っている。かつてタライ地域は深い森に包まれており、北インドから人々が大量に移住したことにより、広大な耕作地に変貌したというが、その森林であったころにはこんな風景が続いていたのではないか?と思ったりする。しかしこういう場所なので、冬で気温が低いのに、蚊が非常に多い。アッサムもそうであった。これが気温の高い時期であれば、蚊の大群に大変悩まされることだろう。

    かつてのタライ地域はこんな森が果てしなく続いていたのだろうか。

    この日の「愛車」
    自転車で走り回っての疲れは、Red Bullで癒す。かつてはタイの肉体労働者の「リポビタ」、いまや国際的なエナジードリンクのブランド
    遺跡公園の外にあるが大掛かりな工事が進行中。日本の神社の鳥居みたいな形だが、周囲に尋ねる相手がいなかったため正体不明・・・
  • クリステンさん

    ルンビニーの華人宿での夕食は、青椒牛肉とご飯を注文。外の食堂よりもずっと高いのだが、やはりここの食事は本格中華なので大変美味しい。現在のネパールの状況を反映して、宿泊客は私を含めてふたりだけ。

    もうひとりの宿泊客は年配のアジア系の女性旅行者。今朝がた一度顔を合わせているのだが、そのときはてっきりここの経営者家族のひとりかと思っていたが、夕食の際に同席して話をして、日系アメリカ人であることがわかった。

    1950年代初頭にハワイで生まれた、クリステンという名前の彼女は、中国人、フィリピン人の血も引いているという。出自がどこであろうと、自由に恋愛して結婚もするのがハワイ流なのだと彼女は笑う。

    もっともハワイで過ごした時間は決して長くなく、ほどなく本土に移住。ここで、第二次世界大戦中に日系人が受けた苦しみを知っている両親は、彼女を徹底的にアメリカ人化することを心に決めたのだとか。家庭の中では英語のみを用い、アジア系コミュニティとも距離を置いて、アメリカ式のライフスタイルを貫いたのだという。

    「まだ戦時中の記憶が生々しくて、日系人への感情も悪かったの。私たちが、独自のカラーで生活していくことができるような雰囲気ではなかったから。」と彼女は言う。

    おそらく本人も努力家であったためだろう。彼女はUCLAバークレー校に入学することで、両親の期待に応えた。当時のアメリカの有名大学では、アジア系はもちろんのこと、黒人系の人さえもほとんど見かけなかったとのことだ。

    クリステンさんは、大学を卒業した後、アメリカと欧州で働き、しばらく前に仕事を引退して、悠々自適の暮らしをしているそうだが、今の時代のアメリカでは、出自が日本の人たちも中国その他の国々から渡ってきた人たちも、それぞれの背景にある言葉や文化をそれなりに守りながら生活していることについて、「いい時代になったものだ」とつくづく感じているとのこと。

    「私の場合は、そういう時代だったから、両親の方針は正しかったと思うし、いい教育を受ける機会を与えてくれたことにとても感謝しているの。おかげで満足のいく暮らしをしてきたし、リタイアした今だって、こうして人生を楽しむことが出来ているわけよね。本当にありがたいことよ。だけども私は日系人だし、中華系でもあるし、フィリピンから来た先祖もあるのに、それらのどこの言葉にも文化にもまったく通じていないことは、やっぱり残念に思うのよねぇ。」

    どこからやってきた人も、世代が違う人も「同じ旅人」。普段まったく接点がなく、旅先のこうした機会にたまたま居場所を同じくしたがゆえに、こうした話を本人から聞くことが出来るのも、自由気ままな一人旅の素敵なところだと私は常々思う。

  • 霧

    窓の外のふんわりした景色を眺めながら、お茶やコーヒーでも楽しむのには、なかなかムードがあって良かったりする。普段の鮮やかな色彩が霧に包み隠されたモノクロームな風景。モワモワした中から、人影や自転車などがジワッと現れてはスッと消えていく様子は幻想的でさえある。

    だが、そんな中で、土地の人たちはのんびり休んでいるわけではなく、慌ただしく仕事に出かけなければならなかったり、運転して移動しなくてはならなかったりする。
    路上の往来といえば、大きな音を立てて走る馬車以外は、私たちが徒歩で進むのと同じ程度のヒューマンなペースであったころには、霧によって視界が遮られることについて、それほど大きな問題はなかったことだろう。

    だが、今の時代は話が違う。霧の中から突然、自家用車やトラックが飛び出してきては、アッという間に姿を消していく。ごく手近にあるものさえも強いソフトフォーカスがかかり、5m先も見えないような日の路上は危険極まりない。外出している限りは、霧が晴れるまでの間、命に関わる一大事がずっと続くことになる。

    濃い霧により、運転者たちは普段よりもかなり速度を抑えているとはいえ、道路では事故が多発する。鉄道のダイヤは乱れ、とりわけ長距離をカバーする列車は、遅れを蓄積しながらノロノロと進んでいく。視界不良から空の便も遅延や欠航が相次ぐ。同じ機体が便名と発着地を変えて全国を飛び回っているので、霧の出る北インド地域外にも、その影響が及んだりする。

    この冬は暖冬とのことで、霧の出る日が例外的に少ないという。こういう天候であることが本当にその地域の環境として良いのか、そうではないのかはよくわからない。だが、旅行している身にとっては、交通の大きな乱れがないことはありがたい。同様にここで暮らす人々にとっても、あまりひどい寒さを感じることなく、霧で不便かつ危険な思いをすることが少ない冬というのは、そう悪いことではないだろう。

  • ルンビニーの華人宿

    ルンビニーの華人宿

    ルンビニーの華人宿「Sunflower Travellers Lodge」

    ルンビニーでの滞在先は、Sunflower Travelers Lodge。安徽省出身のご主人と台湾出身の奥さんと娘、そしてその下で働く中国人の青年が切り盛りする宿である。

    海水の至るところ華僑ありと言うが、海の無いネパールにもこうして華人がいる。開業してから5年とのこと。カトマンズにはすでにかなりの華僑が商売しているが、ルンビニーでもこうやって稼いでいる人たちがいるというのは大したものだ。

    しかしながら、これがインド側であったとすると、中国の人がこうやって仕事することができるかどうかはともかく、中国に対する感情が悪いので、時に危険でもあるだろう。中国と関係が良好なネパールならではのことと言える。

    宿の中には中国語による表示や飾りなどがいろいろあるが、門の外にも中文による看板がいくつかある。簡体字と繁体字が混じっているのはご愛敬だ。また手書きの看板なので、なんだか不格好であったりするが、ここの人が手作りしたものなのだろう。今後、他の華人たちもここに進出するのかどうかは知らないが、推移を見守りたい。

    宿泊客は私とアメリカか来た日系人の年配女性のみであった。今のネパールの問題(昨年の大地震と現在も続く憲法問題)が発生するまでは、大勢の中国人客が出入りしていたとのことだ。早く平常に戻るといいのだが。

    宿に到着して、荷物を部屋に置いてから、まずは腹ごしらえと、昼食を注文したのだが、これが大変美味であった。写真は「牛肉麺」で、肉は水牛肉だが、麺もスープも本場そのものの味わいでおいしい。さすが本場の中国人が調理しているだけに、インドやネパールの人たちが作るものとはまったく別物だ。

    大変美味しい牛肉麺

    夕飯は「宮保鶏丁」を注文した。カシューナッツではなくピーナツを使っているけれども、山椒が効いていて、これまたとても旨かった。「料理がとびきり美味しいね。」と褒めると、宿の人は「本当はもっと大きなメニューを用意していて、他にもいろいろあるのですが、インドによる封鎖が始まってからは、満足に物が入らなくなったので、やむなくこの簡略版にしているのですよ。」とのこと。

    宮保鶏丁も大変旨い。

    ここでかいがいしく働き、ネパール語も流暢、お客の世話から調理や雑用までなんでもこなす中国人の青年と話していて判ったのだが、彼は経営者家族の身内ではないが、ご主人の郷里である安徽省から働きに来ているそうだ。両親は農民で、「若いうちに海外で頑張ってみろ」と送り出してくれたとのこと。

    宿のオーナーは、経営者である安徽省出身の男性と台湾人の奥さんとはまた別人であるとのことで、台湾人でここに在住しているわけではないが、年に数回様子を見に来るのだそうだ。経営者家族の身内で赤ん坊のいる女性もいて、お客はほとんどいなくても、なかなか賑やかな様子。ロビーはそのまま彼らの団欒の場となっており、アットホームな感じもなかなかいい。

    どういう経緯があって、ここで商売を始めることになったのか気になるところだが、「ホテル運営とボランティアをしているのです。」と言う。彼らはキリスト教系の団体に所属しており、早朝からロビー経営者家族とスタッフが集まって、中国語で何か暗誦しては、「アーメーン」「アーメーン」と呟いている。

    そして中国語による讃美歌が始まるのだが、手や顔をリズミカルに動かしながら歌っている。ここにしじゅう出入りしているネパール人も1名いるのだが、中国語も出来るようで、彼らとの会話は中国語であったりするし、中国語の讃美歌も歌う。同様に宿側の人たちがネパール語で讃美歌を歌ったりもしていた。

  • ターンセーンからルンビニーへ

    ターンセーンからルンビニーへ

    ターンセーンのバススタンド

    朝8時発にターンセーンを出発するバスを利用する。来るときと違って、バイラワーに直行するバスを利用するため、ブトワルで乗り換える必要がない。部屋の鍵をオーナーのシュレスタさんに渡して外に出る。朝起きたあたりから外では箒で路上を清掃する音がしていたが、町中のどこでも同様のようだ。この町は本当にゴミが少なく、とりわけ朝の時間帯にはゴミひとつないという印象。

    バンクロードに出てから、斜面の長い坂道を下ったところがバススタンド。8時出発のバスはすでに来ていた。出発時間までしばらくあるので、ヒマそうにしていた運転手にバイラワー到着のおおよその時刻を尋ねると、午前10時半くらいとのこと。到着時間を本日宿泊予定のホテルにスマホで伝える。タクシーを差し回してくれることになっている。

    こちらはブトワルまでしか行かないバス

    こちらがバイラワーまで直行するバス

    バスの表示には、国境のスナウリーまで行くように書かれているが、このバスの終点はバイラワーのバススタンドであるそうだ。出発時刻直前くらいになって、乗客がどかどかと集まり、定刻にバスは発車した。

    マハーバーラタ山脈の山あいの景色を目にしながら、バスはスィッダールタ・ハイウェイを南下して、平地に向けて走って行く。途中で朝食休憩の時間があった。沿道でダーバーがいくつか軒を連ねている場所で、いくつものバスが停車している。

    朝食休憩地
    朝食休憩
    可愛い同乗者たち

    やがて山地から平地に出ると、すぐにブトワルに出た。目抜き通りが国道であるためもあり、ずいぶん立派な街に見える。建物も大きく、新しくて見事な家屋も多いようだ。総体的に裕福なところであるようにも思える。交通の要衝である以外に、何で栄えている街なのかよく知らないが、固有の産業でもあるのだろうか。

    ブトワルの町

    ブトワルの街を出たあたりで沿道にはバイクの長い列が連なっている。ガソリンスタンドの給油待ちの行列だ。インドによる封鎖の影響だが、こんな具合だと、給油するだけで1日がかりになってしまいそうだ。

    給油待ちの非常に長い行列

    たいていの乗客はブトワルで下車。バイラワーまでは閑散とした車内であった。

    ここまで下ってくると、もうネパールにいるという気はあまりしない。入国したときに感じた、「インドでは見かけない企業の広告がある」ということを除けば、インドに戻ってきたかのようだ。

    あと異なるのは、当然ここはインドではないため、地元の人とヒンディーで話すことについて、何がしかのうしろめたさを感じることである。相手もネパール語ならともかく、見るからにインド人ではない第三国の人がヒンディーで話しかけてくる、ということついては、ちょっとした意外感があるようだ。あまり胸を張って話しかけられるという具合ではない。かといって遠慮しなくてはというほどでもないようにも感じられる。

    ネパールの人で、ヒンディーについてはふだんからごく近しい関係であり、日常的に露出が多いため、理解する人、たいへん流暢な人が多いが、そのいっぽう、理解するけれども話すとかなり妙な間違いがあるという人も少なくない。だが、そういうベースがあるので、インドにしばらく暮らすと、インド人と対等に話すことができるようになる。やはり近い関係にある言語というものは有利だ。

    ブトワルを出てから40分ほどでバイラワーに到着した。バススタンド(ここでは「バスパーク」と呼ぶ)に近づいたあたりで、宿から差し回しのタクシーの運転手から電話が入った。もうじきに着くと返事して、少しバススタンドで待ってもらうことにした。

    バスパークに到着。降車口にタクシー運転手が来てくれた。ここまで来ると、あたりの人々の顔立ちはすっかりインド人だし、景色もインドと同じだ。バイラワーの北郊外にあるバスパークから少し南に下ると市街地に入る。このあたりまでは、かなり交通量が多いのだが、右折してルンビニー方面に向かうタウリハワー・ロードに入ると、片側二車線の立派な道路であるにも関わらず、バイクと自転車しか走っていない異様な光景となる。地元政党によるバンドのためで、四輪車は緊急車両、スクールバス等を除き、通行することが許されない。公共バスの往来は、もう4カ月以上も止まっているとのことだ。

    そうしたバスも収益あってのことなので、オーナーや運転手、車掌のようにそれで収入を得ている人たちもそうだが、地元の住民たちも大変である。早くこうした状況が終わるといいのだが、これもやはり9月に制定された憲法問題の決着を見るまでは、そのまま続いてしまうのだろう。この10日間だけ、ルンビニーで開かれる仏教関係の祝祭のため、「外国人ツーリストのみ」を乗せたタクシーは、通行できるようになっているとのこと。

    交通の遮断はさておき、インドによる封鎖については、これによって燃料代が2倍、3倍にもなっていると運転手の話。

    空っぽになっているルンビニーのバススタンドのところで左に折れて、ルンビニーの集落までしばらく走る。遺跡地域はレンガ積みの壁で囲われている。道路右手が遺跡地域だが、左手には宿、食堂や店などが並んでいる。今シーズンは大変なスランプで、どこも困っていることだろう。

  • ターンセーン滞在2

    ターンセーン滞在2

    ネパールで販売されているタバコのパッケージが大変なことになっている。癌になった肺の解剖写真が表裏両面に大きく印刷されているのだ。インド、タイその他でも、パッケージにこのような写真が印刷されるようになっているが、タバコを締め出すのは世界的な流れであり、ブータンのように10年以上も前から国内でタバコの売買自体を非合法とする「禁煙国」さえある。日本のように「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。」と書く程度では甘すぎるといったところだろう。

    タバコの過激なパッケージ

    ポーカラーからインド国境に至る途中にあり、長いバス旅を途中でブレークするのにちょうどいいロケーションのターンセーン、地元の人は往々にしてパルパーと呼ぶが、カトマンズ等から来たネパール人観光客の姿が多い。同様に、本日からの自転車のレースに参加するというネパール人サイクリストたちの姿もある。最近はそういう若者もいるようで頼もしい。だが外国人の姿は想像していたよりもかなり少ない。

    今年5月の大地震、9月から施行となった新憲法の内容に異議を唱えるタライ地域の政治問題、インドによるブロッケード等の問題がその理由なのだろう。地震については、このあたりは影響なかったのだが。空路の出入り口はカトマンズとなるし、やはり敬遠されてしまうこと、カトマンズ盆地その他のメジャーなスポットを訪問したついでにターンセーンを訪れることはあっても、この町が単体で集客できるんけではないので、やはりこういうことになるのだろう。

    近年、日本に留学するネパールの若者が急増しているが、ここもまたそれを斡旋する業者のようだ。

    「安く酔える酒」として人気があるのかどうかは知らないが・・・。
    トラック野郎

    観光業というのは実に水物だ。日本で、今年5月以降の箱根が火山活動の活発化により閑散としていたが、こうした仕事に従事している人たちにとってはとんだ災難だろう。火山活動の鎮静化しているようなので、今ごろは客足が回復していることであろうが。

    昼食は昨夜夕食同様にNanglo Westに行った。

    チキンシズラーを注文

    町を歩いていると、近年の背の高い建築については、壁をチョンと押すと、ただちに崩壊するのではないかという気がする脆弱そうな建物をよく見かける。壁に漆喰が塗られていたり、その上からペンキで処理してあると、まるでしっかりしたコンクリの壁のように見えるが、実際はごくわずかに鉄筋入った柱で組んだフレームと、壁はすべてレンガ積み。重量はあるし、フレキシブルさもないため、地震が発生したならば非常に危険だ。

    少し揺れたら崩壊しそう・・・。

    だが、ターンセーンはいい町だ。ネワール建築が数多く残る落ち着いた町並み、斜面からの眺め、背後の山に囲まれた景色等々、ゆったりとした気分にさせてくれる。町の一角では、真鍮細工を生業にする人たちが集住している地域があり、彼らの仕事ぶりを拝見することができる。

    ターンセーンのカレッジ。立派な建物だ。
    山の斜面に位置するターンセーンは坂の町
    町から南側を見下ろすとこんな具合
    町の北側には山の景色が広がる。
    伝統的な真鍮加工を生業とする人たちのエリア
    真鍮加工の職人さんの手仕事

    ターンセーンにやってくる際、先に訪れるつもりであったルンビニーに行くことが出来なかったので、スマホからルンビニーの宿2、3件に交通について質問メールしてみた。すると直後にひとつの宿から返信があったので電話してみた。ルンビニーからクルマをアレンジするとのことだ。現在、タライ地域の政治問題により、バイラワーからルンビニーへ公共バスは運行していない。地元の人々は日々大変困るだろうが、どうしているのだろうか。

    夕食もNanglo Westに行ってしまった。

    チキンのソテーと水牛肉の炒め物
    キッチンを「魅せる場」として演出しているのもさすがだ。
    満腹になって宿に戻る。
  • RAGS TO RICHES

    グジャラート州のマンジューラー・ヴァゲーラーという60歳の女性は、今から35年前には1日の稼ぎがわずか5 ルピーのゴミ拾いで糊口をしのいでいたという。

    その彼女は現在、400名のスタッフを雇用して、年商1,000万ルピー(1,755万円を稼ぎ出すShri Saundarya Safai Utkarsh Mahila Sewa Sahkari Mandali Ltd (SSSUMSSML)という清掃会社の経営者となっている。インドのニュース雑誌でもこの関係の記事を見かけたが、彼女の息子は現在、医師として活躍しているそうだ。

    底辺の仕事に就いて、やっとのことで日々生き延びているというのが、ごく当たり前の世の中であるし、そうした厳しい境遇ではなく、もっと恵まれた環境にある私たちでも、日々のルーティーンで手一杯で、大きく飛躍することはなかなか出来ないものだ。

    こうした「デキる人」の日常というのは、やはりどこか違うのだろう。本人の才覚や努力はもちろんのこと、常に上昇していく強い意志を持ち、日々改良と工夫を重ねているのだろう。

    This Woman was Once a Ragpicker, Today She Heads a Firm (iDIVA)

    上記の記事によると、彼女がこうしたインフォーマルセクターで働く人たちを組織するアイデアを得たのはSEWA(Self Employed Women’s Association)というNGOとの出会いがきっかけであったとのこと。

    SEWA (Self Employed Women’s Association)

    様々な分野で数多くのNGOが活動するインドだが、そうした民間による自助努力を促す働きかけが盛んであることは、世界第2位の人口大国インドの強みである。