TSUNAMI 

two days prior to the tsunami, marina beach.jpg
 よく晴れた穏やかな日曜日の朝、クリスマス明けののんびりとした空気の中で、突然こんな災厄が振ってかかろうと誰が想像できただろうか。
 昨年12月26日に起きたインドネシアのスマトラ沖地震による津波は、インド洋沿岸を中心に各国に大きな被害をもたらした。このニュースに触れるまで「ツナミ」という言葉が英語の語彙に含まれていることを知らなかった。
 またヒンディー語メディアでも同様にその単語を「スナーミー」あるいは「スーナーミー」として使用していたが、まさにこの災害直後に英語経由で入ってきた新しいボキャブラリーではないかと思う。それだけに多くの人々がこの言葉は日本語であることをよく知っているようであった。
 それはともかくインドネシアやマレーシアのまるで湖かと思うような穏やかな海と各地で見られる水上家屋やマーケット、あるいはインドでも砂浜ぎりぎりにある集落などを目にするにつけて、ここの海はいつもこんなに優しいのだろうか、これが日本ならば台風が近づいて海が荒れただけで、根こそぎもっていかれてしまうだろうに・・・などと思っていたのだが。
 津波の到来でたまたま浜辺に居合わせた多くの人々が命を落としたチェンナイのマリーナビーチ。私もその2日前の同時刻にそこを散歩していたのだから、人ごととは思えない。
 津波はインドの東海岸よりもおよそ1時間遅れで西海岸にも到達したとされる。その朝私はフォートコーチンを散歩していた。名物のチャイニーズフィッシングネットを操る人々の姿をぼんやり眺めたり、朝の涼しく肌に心地よい潮風を楽しんだりしていた。
 朽ち果てたような旧い洋館が立ち並ぶ町中へと足を向けると、道路わきの水路の両側に人々が集まっている。立ち止まって私も覗き込んでみると、特に何があるわけでもなかった。
「急に水位が上がっている」
 普段流れる水量がどのくらいのものなのか見当もつかないが、もうすこしで溢れそうなくらいまできている。
「雨が降ったわけでもないのにな」
 ユダヤ教徒のシナゴーグがあるマッタンチェリー地区へ行ってみた。以前はスパイスの卸問屋ばかり立ち並んでいた通りなのだが、今では観光客相手のカフェ、骨董品やみやげ物を売るも店などがその周辺に密集している。
 その後界隈を見物して歩いていると、通りの家から出てきた初老の男に呼び止められて世間話に付き合うことになった。退職した元学校教員だという彼の口から突拍子もない話が出てきた。
「アジアのどこかで大地震があって、チェンナイでは数百人も亡くなったらしい・・・」
 私はてっきりこの男がちょっとボケているのかと思い、まともに取り合わなかった。


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 やや遅い昼食を済ませてフォートコーチンに戻り、朝散歩してみたのと同じ海岸で砂浜に下りて行き交う漁船を眺めていた。
 すると妙なことに気がついた。静まり返った海面がスルスルと遠くなっていくのだ。
「大潮か?」と思ったが、潮が引くのはこんなに速かっただろうか?
 浜辺のすぐ後ろにあるコンクリートの堤防に上ってそんな光景を眺めていると、しばらくしてから大きな波が押し寄せて狭い浜はあっという間に水を被っていた。波は勢いを失うと反対方向へと加速をつけて引いていき、その後いくつかのやはり強い波が続いた。
 この日の午後にも津波があったと聞くが、後から思えば私が目にしたのはひょっとして小規模ながらもそれだったのかもしれない。
 ホテルの屋上で夕食を済ませて階下に下りてくると、テレビの前に西洋人旅行者たちが集まっている。何かと思って画面に目をやると、濁流の中にプカプカと白いアンバッサダーが浮いている様が映し出されていた。
「南インドで津波」
 まさにそのニュースであった。津波の被害が東南アジアや南アジアの相当広い地域に及んでいることもそのとき初めて知った。
 津波の翌日、朝7時ごろに店やバススタンドなどで新聞を探してみたが、どこもまったくキレイに売り切れていた。やはりこの津波自体が歴史的な大事件であったのと同じく、この日の新聞も後世に残るほどの売り上げを記録していたのではないかと思う。
 日帰りのバックウォーターのツアーに参加することを予定していたのだが、急遽キャンセルしてしたものの、海からある程度離れている地域ならば大丈夫ではないか?と思直し、コタヤムからアレッピーへの乗り合いボートで3時間ほどの短い船旅を楽しんだのではあるが。
 しかしよく考えてみると、バックウォーターとは文字通りの海抜ゼロメートル地帯。水位が上がればあたりの家屋等も水没するし、船に乗っている身にしても逃げ場がないだけに何かあったらやはりコワイ。 
 アレッピーに着いてみると、案の定クイロン行きのバックウォーターの船はしばらく運休するとのこと。もちろん日銭を稼がなくてはならないプライベートのオペレーターたちは「チャーターしないか、安くしとくぜ」なんて声をかけてくるのだが。
 クイロンで約100名、アレッピーは60名ほどが亡くなったとされ、鉄道も長距離を走る急行列車については、こうした海抜の低い沿岸を避けて運行していると新聞は報じていた。
 こういう点はトリバンドラムからの陸上交通も同様だった。津波のため相当な被害が出るとともに、岬の少し先のヴィヴェーカナンダ・メモリアルのある島に観光客たちが津波後にしばし取り残されることになったカニャクマリーへは、地元当局の要請により公営バスは運行をしばらく休止していたが、私営のバスは盛んに走っていた。こんな具合に何かと徹底しないのはいかにもこの国らしいのだが。あと鉄道も普通どおりに往復していた。
 災害まもなく、どこに行っても市内各所で津波被災者への救済を呼びかけるポスター、活発な募金活動、古着の寄付を募る団体などが目に付くようになり、被災地の沿岸にほど近い街道筋では救援物資やボランティアの人々を運ぶヴァンやトラックをよく見かけるようになった。
 現地のNGOはもちろん、地元の民族政党や共産党なども垂れ幕とそれぞれのシンボルマークをかかげた車列を組んで走り去っていく。
 多くの人々の迅速な対応とそれに対する人々の温かい支援を目にして、「インドもなかなかやるではないか」と思うとともに、一介の旅行者に過ぎないので仕方ないのだが、傍観者でしかない自分が恥ずかしくもなった。
 だがメディアで見聞きした救援関係の話の中には哀しくなる話もあった。政府が被災者たちに配るための食料を担当の役人が仲買業者に横流ししている現場を押さえたという報道、またせっかく人々の手に届いてもやはりそれを米穀商に売ってしまうケースが珍しくないとのこと。つまり炊飯用具が失われているために、穀物を受け取っても調理できないので現金に換えてしまうことが往々にしてあるというのだ。
 タミルナードゥ州の海岸を歩いてみると、不思議なことに気がついた。激しく損壊している家屋があるかと思えば、波打ち際からの距離は同じでも少し離れたところにある建物は無事であったりすることだ。平常時でも大きな波が来るポイントとそうでないところがあるように、津波の場合も同じ浜にあっても場所によってインパクトが違ったのだろうか。
 新聞にはこんな話が出ていた。沿岸から数キロ沖合いで漁をしていた人たちは津波が来たことさえ知らなかったのだという。船に魚を満載して岸辺に戻ったときに初めて自分たちの村が洗い流されていることに気がついたということであった。
 津波は発生地点から時速700キロという航空機並みのスピードで進み、浅瀬に入ってから速度を落とすとともに、いきなりに背を伸ばして沿岸を襲うのだという。
 1月9日時点で、被災した各国合わせて犠牲者の数は15万人を超えたというが、まだ行方がわかっていない人々も合わせると最終的にはどんな数字になるのは見当もつかない。
 そんな歴史的な大災害であるにもかかわらず、NEWSWEEKの1月10日号によると、経済的な面から見た損失額は100億円。昨年の中越地震(犠牲者39名)の3割強にしかならないのだという。
 
 被災地域のビーチリゾートで亡くなった外国人観光客たちを除けば、家財道具あるいは命まで奪われた人々の多くは極めて低所得層に属する。まさに貧者を狙い撃ちしたかのような災害であった。
 今回の地震と津波の惨事の犠牲となった方々の冥福を祈るとともに、被災地が一日も早く復興することを願ってやまない。
outer wall of the shore temple damaged.jpg

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