ご神木がここまで来ると、もはやお寺である。
屋根が作られてプージャーリー(司祭)まで鎮座している。
たいした出世ぶりだ。
だがこのあたりがご神木の限界でもある。
道路脇のこうした小さなお寺の類が、門や敷地を構えた寺院にまで発展した例は知らない。
このあたりまでは、地域の人たちの思い入れや成行きなどで実現するのだが、寺院となると時の有力者がカネ、コネとパワーでドカン!と建立するものだからだ。
そうは言っても、これはこれで神々しい。
豪華絢爛な寺院であれ、こうした街路樹上がりのご神木であれ、そこに投影されてきるのは
同じ神である。そうした目に見える象徴を通して、人々ははるか彼方にある神を拝しているのである。
〈続く〉