煽る政府と暴走するメディア

今回はインドと関係のない話題で恐縮である。先週土曜日に初めて耳にした『豚インフルエンザ』の話題だが、その後の急速な展開には大いに戸惑っている・・・というよりも、日本のメディアによる取り扱いやこれに対する社会の反応について、大いに疑問を抱いている。
4月28日までの報道によれば、メキシコでこのインフルエンザの感染によるものと疑われる死亡例が152件であることが目を引くが、その他の国における感染者は、アメリカで64人、カナダで6人、スペインで2人、ニュージーランドで3人、イスラエルで1人、コスタリカで1人の感染が確認されている(その他の国における推定感染者を除く)とのことだが、実際のところどういう病気なのかはよくわかっていないようだ。
先述の報道の時点では、メキシコにおける死亡例の多さが注目されているものの、その他の国ではまだ死亡例は報告されていない。また症状は通常のインフルエンザと同程度で、患者は順調に回復しているとのこと。
何故、同じ型のウイルスでも、メキシコとその他の国々でこうも違うのか、まだその理由はよくわかっていないようだ。現地の医療事情や地域的な要因、つまりインフルエンザが頻繁に流行する地域ではよく見られる型のウイルスによる流行であっても、普段それとあまり縁がない地域では大きな被害をもたらすことがあるという。
日本で馴染み深い(?)A香港型のインフルエンザの流行により、2002年にマダガスカルで、5,000人の患者中、死者374人という惨禍をもたらした例がある。当地でこの型のウイルスにかかった経験が少なく、免疫が低い人々に広まったこと、栄養状態や医療の普及状態などといった要因も絡み合い、重症化する例が多くなったとされる。もちろん今回のウイルスは、私たちにとっても新型であるとされるわけだが、地域的には人々の持つ耐性に差があったりすることはあるのかもしれないという説もある。
メキシコとそれ以外の国において、ウイルスが悪さをする程度が違うことだけではない。メディアの報道とそれを目にした人々の反応にも、国や地域によってかなり温度差があるようだ。日本の対応は、ご存知のとおり非常に厳格である。
もちろん死者が大量に出てからでは遅いわけで、その前に被害を限定的に封じ込めよう、またその被害が及ばないように水際で阻止しようという意図はよくわかる。だが今回のインフルエンザについて、メキシコ以外で感染した例においては、毒性がそれほど強いものではないことがほぼわかっている今、これほどヒステリックになる必要があるのか、こうした対応に伴う高い代償を払ってまでそういう姿勢を取ることに合理的な理由があるのかどうか疑問なのだ。
日本のマスメディアにも問題があるようだ。『言葉の壁』のため、大多数の人が読むのが自国の日本語メディアに限られるので、テレビのニュースや新聞記事等の論調にいとも簡単に『洗脳』されやすい。日本において、それらメディア自体の均質性が高いため、どこも同じようなことを書きたてる。そのため、情報が統制されている状態に近いともいえるかもしれない。
言葉の壁以外にも、日本語圏自体が人口1億2千万を越える大言語圏であり、しかもこれの言語圏が日本国内に限定されるといって差し支えないものであるがゆえに、日本語による報道自体がほぼ同じ傾向に集約されやすいということもあるかと思う。


特定の事柄に関心が集まっているときに、それをさらに煽るような内容の見出しに人々の注目が集まる。それを狙ってとかく目を引く写真やヘッドラインを多用することにもなり、物事の事実上の進展以上に人々の心の中の不安が高まることになる。
そうした環境下、企業その他横並び意識が強く、どこかが極端な対応を決めるとそれに続く傾向がある。それをまた自国メディアが大きく報じるので、さらにその連鎖は続き、過剰な対応のスパイラルへとつながっていく。
確かに新しいタイプのインフルエンザが登場した。それが次第に各地に飛び火していることも私たちが耳にしているとおり。しかし幸いなことに一部の国、つまりメキシコを除いては、発症しても通常のインフルエンザと同じとのことで、ここ数年懸念されていた鳥インフルエンザH5N1の流行とは違うことはほぼわかっている。
メディアは、そして行政も『冷静な対応を』とは口にするものの、その実『怖いぞ、危ないぞ』と、実態よりも仮想をより強大で手ごわいものに見せようとしているように感じる。前者は視聴率や売り上げのため、後者は鎮静化した際に手柄をより大きなものに見せるため、あるいは何か後で槍玉にあげられることがないよう、必要以上に神経質にこまごまと、手を尽くして対処したというアリバイ作りなのではないかと感じる。
今回の一連の出来事は、ちょっと騒ぎすぎだと思う。しかしながら公の責任ある立場の人が、『心配ないです。ただのインフルエンザです。かかっても多分死にはしませんよ。まず治ると思います』などと発言すれば、それこそ集中砲火を浴びて社会的立場を失いかねない雰囲気がある。
狂騒状態を尻目に、私たちは何をすればいいのか。『木を見て森を見ず』とはまさにこのことではないだろうか。ウイルスなので、いつ何時変異したものが出てくるかわからないが、各市民にそれ相応の予防手段やかかってしまった疑いのある場合の対応策を広める必要があるとはいえ、いつものインフルエンザに対する心構えを胸に健康な生活を心がける必要がある。また日本国内で発生した場合、どういう対応をするのか充分に検討して備える必要があるが、やみくもに不安を煽り立てるべきではないだろう。
極端な比較かもしれないが、エボラ出血熱ほどの非常に恐ろしい病気ではない。少なくともメキシコ以外において、実質ただのインフルエンザなのであるとすれば、ちょっと騒ぎすぎではないだろうか。日本の厚生労働大臣自身も記者会見で、きちんと治療すれば治る病気でタミフルが有効であることを明言している。今回流行しているインフルエンザがどの程度の毒性を持つものであるか早期に見極めたうえで、その対策を見直すべきであろう。
それ以前に私たちが恐れていたタイプのインフルエンザとは、その危険性においてどうも違うようなのだ。もちろん、それでは何故メキシコにおいては、伝えられているような大きな被害が出ているのかについては今後つぶさに検証される必要があるのだが。またウイルスであるがゆえに、今後どのように変異していくのか追跡する必要はある。
狭い中で次々に扇動されてどんどん不安がエスカレートしていくこの群集心理のようなものにこそ、私は危険なものを感じる。かつて日本が犯した戦争への道という過ちも、こんなメカニズムがその根底にあったのではないかとさえ思う。ひとたび焚き付けられて、群集の中から得体の知れない大きな意思が頭を持ち上げてくると、誰もそれを止めることができなくなる。たとえそれが合理性を持つものであろうとなかろうと、人々は自らの思考を停止させて、それがあたかも唯一絶対の真理であるかのように盲従し、それに対して異論を唱えるものがあれば、即座に排除する動きに出るのだ。
今、私たちが気をつけなくてはならないは、新型インフルエンザだけではない。今回の場合、むしろそれ以上に、扇動、焚き付けの後にむくむくと姿を現してくる目に見えないモンスター、つまり暴走する群集心理ではないだろうか。病気の流行に対して怒った群集が街中で乱暴狼藉を働くという意味ではない。自らが造り出してしまったこのモンスターの命ずるがままに、たとえその合理性があろうとうなかろうと、私たちの生活が縛られ、無駄な作業や対策に膨大な資金が浪費され、そのツケを払わされるのは私たちなのだ。これに対して個々の判断をもとに意見することは叶わない。ただただ思考停止して盲従するのみ。
果たしてこれでいいのだろうか?

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