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カテゴリー: travel

  • U Bein Bridge

    THE GLASS PALACE by Amitav Ghosh
    ミャンマーのマンダレー近郊の町アマラプラにあり、よく写真で紹介される高い橋桁の木造橋である。インドの作家、アミターヴ・ゴーシュの小説『The Glass Palace』の表紙のイラストにもあしらわれており、一度機会があれば訪れてみたいと思っていた。
    U Bein's Bridge
    グーグルでの遠景

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    グーグルでの拡大図

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    下は河かと思ったが湖であった。Thaungthaman湖というもので、乾季には橋の下の大部分が畑になっているが、雨季には水で一杯になるのだという。橋が建設されたのは1849年ということで、1885年にマンダレーが英領化されるよりもさらに前のことである。そしてチーク材で出来た橋として世界最長(1.2 km)ということになるそうだ。
    U Bein's Bridge
    河辺に広がる牧草地や田園風景といったのどかな景観はもちろんのこと、そんな橋が今もこうして人々やモノの行き来に役に立っており歴史的な価値もまた大きい。橋の途中にはいくつかの東屋があり、物売りたちがお客を待ち構えていたり、涼んでいたり昼寝していたりする人たちの姿がある。
    背後に東屋
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    20100612-water.jpg
    だが『橋』としての役割のみについて言うならば、ちょっと考えさせられるものがある。ここを通るのは大人だけではない。子どもたちも通るし、老人だって通る。また夕方以降暗くなってから通らなくてはならない場合だってあるだろう。橋から落ちて命を落とすかどうかはやや微妙なところだが、確実に大怪我をする。場合によっては死んでしまうだろう。雨季で水で一杯のときには溺死する可能性も高い。
    ミャンマーに限ったことではないが、日本のように国民がほぼ誰でも泳ぐことができる(程度の差はあっても)という国はあまり多くないのだ。ただし両端の入り口のところにゲートのようなものがあったため、ある一定の時刻に締め切り、朝決まった時間に開けるようになっているのかもしれないが。
    茹でたカニ
    サーモーサーと小エビのかきあげ
    橋を渡りきったところには二軒ほどの食堂がある。軒先では調理したカニを売っていた。淡水のカニにしてはけっこう大ぶりで上海蟹くらいのサイズはある。茹でて真っ赤になっているカニの甲羅は外してあり、カニミソがたっぷり詰まっていて旨そうだ。小エビのかき揚げも売られており食欲をそそられる。
    近くには寺や学校もある。かなり規模の大きな集落になっているようだ。
    子供たち

  • ワガー国境

    夕方、ワガー国境が閉まる時刻、インド側では国境警備隊、パーキスターン側からはパーキスターン警備隊の見事なヒゲをたくわえた立派な体躯の巨漢たちが威風堂々たる行進と儀礼を行なう。
    互いへの敵意とも感じられる動きや表情とは裏腹に、国境を挟んだ双方の息の合った動きから両者の協調ぶりも感じられるのは興味深い。もちろんこのセレモニーで行進する双方の隊員たちの動作、時間、内容等は、インド・パーキスターン両当局の間で打ち合わせした上で実施される、いわば政治ショーである。
    印・パ分離前、アムリトサルとラーホールの間に位置するごく普通の農村であったワガーは東西に分かれて現在に至る。日々、インド側だけでも8,000人のもの人々が見物に訪れるという人気の観光スポットになっているこの国境。
    デリーを起点に、国道一号線はパーニーパト、クルクシェートラ、ルディヤーナー、ジャランダル、アムリトサル等を経てこの国境に至る。本来国道一号線の終点であったラーホールまではワガーから西へ20kmほど。
    東西に分かれたパンジャーブ地方が再びひとつになることもなければ、同じくふたつに分かれたワガー村がひとつになることも決してなく、今後もずっと両国の境目であることは変わらないだろう。
    しかしこの国境が対立する二国間関係を象徴し、互いに虚勢を張って大上段に構えた雰囲気から、いつの日か誰もが必要に応じて行き来する、単なる行政の区分にしか過ぎないものとなることを願わずにはいられない。仰々しいセレモニーもなく、ここを通過する人々あるいはここを職場とする人以外は訪れることもない、ごくごく普通の国境となる日を。

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  • ああドリアン

    ミャンマー産ドリアン
    フルーツというよりも熟練した生菓子の職人が丹精込めて鶏卵に生クリームを加えて、しっとりとした薄い外皮で包んで仕上げたかのよう。ドリアンという果物はなぜこれほどまでに人工的かつ動物性の味わいなのか?
    口の中に含むと広がるキャラメルソースのような香り。濃厚でしっとりとした陶酔感のある甘み。これほど上質で高級感のある食感の果物を他に知らない。
    だが当たりとハズレで旨さの差異も大きい。充分熟しているかどうかというだけでなく、たとえ完熟であってもちょっと水っぽかったり、逆にコテコテなのに香りも甘みもいまひとつで、レシチンを舐めているような期待外れの個体もある。
    それだけにいいモノに当たったときの幸福感といったらない。
    マレーシア産ドリアン
    ヤンゴンの街角で見かけたドリアン売り。種類の異なる地元ミャンマー産、マレーシア産、タイ産を並べていた。価格はミャンマー産から順に高くなっていくが、その分重量も同様に大きくなっていく。
    ちょっと立ち止まって店先で品定めする人たち。持ち帰って家族と楽しむ様子が目に浮かぶようだ。ゴツゴツとした姿のドリアンの数だけ、幸せな団欒のひとときがあるようでちょっと微笑ましい。
    南インドにも野生のドリアンが自生しているところはあるようだが、普通食用にはされないようで、人知れず朽ちていくのは残念。何かちょっとしたきっかけがあればブレークするのではないかと想像している。
    果肉のちょっとした『ガス臭さ』では、インドの街角で普遍的に見かけるジャックフルーツにも通じるところがあるだけに、彼らもドリアンを愛でる素養は充分持ち合わせていると思うのだが。
    タイ産ドリアン

  • 彼方のインド 5

    ヒルステーションとはいえ、また暑季とはいえ、観光客でごった返すインドのそれとは違い、ピンウールィンは英領期の古いものがほどよく残っている。
    また高原とはいってもほぼ平坦な土地であることから、自転車で巡るのも苦にならず、休暇を過ごすにはもってこいの土地であった。
    ピンウールィンはさておき、ミャンマー全般に言えることだが、またミャンマーの人々に対して失礼かもしれないが、ただインドの隣の国であるということのみならず、インドの北東部にいるかのような気がすることがある。
    モンゴロイドの多い(州によってその度合いは様々だが)北東州のすぐ東に位置しており、インド平地からの移民も多いこともある。加えてインドの様式を取り入れた植民地建造物であったり、旧英領各地でも今でも見られるゼブラに塗り分けられた道路縁石であったりするのは、かつてはインドと合邦していたという経緯のためである。
    ミャンマーの最高学府ヤンゴン大学は、1878年にカルカッタ大学を構成するカレッジの中のひとつとして創設されている。やがて独立したひとつの大学としてラングーン大学として再構成されるのだが、イギリスから独立してからもしばらくの間は、東南アジア随一の名門大学として内外から高い評価を受けていたようだ。
    すぐ東のタイに較べて地理的に近いこともあり、文化的にインドから与えられた影響もかなり強いことは言うまでもない。町中には、同様に本来インドではなかったとはいえ、多かれ少なかれインド文化の影響を受けてきたモンゴロイドの人たちが暮らすインド北東州と共通するたたずまいがあるような気がするのだ。
    仮にイギリスのビルマに対する進出がもっと早い時期から始まっていたら、あるいはビルマ族が人口規模や文化的なまとまりを欠いていたならばどうなっていただろうか。彼らを除けばかなり人口規模の小さい幾多の民族から成るビルマは、現在のインド北東州のうちのいくつかで今でも武装闘争が続いているのと同じように、不満を抱く人々が少なくないながらも、インドという大きな国家の中に従属していたかもしれないとも思う。
    ミャンマー北西部サガイン管区のインド寄り地域には、インドのナガランド州同様にナガ族が生活している。よく民族のモザイクと表現されるインドだが、そのインド世界の外延部にあたる北東州と合わせて、印緬国境を越えて広がる多民族・多文化の回廊地域として捉えることもできるのではないかと思う。
    各民族による自治要求をめぐる運動が活発であることも共通しており、今でこそミャンマーも各武装勢力との和解も進んできているものの、かつては『ラングーン政府』と揶揄された時代もあった。ミャンマー国内で概ねビルマ族がマジョリティを占める地域は管区(Division)、その他の民族の勢力が強い地域は州(State)と色分けされているようだ。
    インド北東部、ミャンマーともに中央の政府によりひとつの国家として治めていくのはなかなか難しい地域でもあるようだ。

  • 彼方のインド 4

    ピンウールィンの駅舎の前にある線路を超えた先には鉄道車庫や貨物用の引き込み線などがあった。そのあたりは鉄道関係者の住宅地域でもある。
    町から見て線路向こうのほうにイギリス人墓地があるとのことだが、それらしきものは見当たらない。通りがかりのインド系とおぼしき男性にイギリス人墓地について尋ねてみる。北東へ走る線路の向こう側に見える大きな教会の脇にあるとのこと。
    そこは今でも現地のクリスチャンが亡くなれば埋葬されている場所とのことで、今では特にイギリス人墓地ということではないらしい。もちろん現在もピンウールィンに数多く暮らすアングロ・インディアン、アングロ・バーミーズの人々が亡くなるとそこに葬られるようだ。
    墓地入口
    自転車で出かけてみると10分くらいで着いた。カルカッタのパークストリート墓地のような立派なものではなく、無数の十字架が並んでいた。ただしよく見てみると墓標のあるものもあり、1877年に豪州で生まれた人のものもある。この人は海外領出身のイギリス人とであるとみて間違いないだろう。独立後もここに残ったらしく、1963年に亡くなったことが記されている。
    古い墓標で今でもちゃんと読めるものは数少ない
    その後、昨日同様にクリスチャン墓地に行く。場所はかなり広いが、あまり大きな墓標はない。ひどく崩れてしまっていたり、文字が読めなくなってしまっているのも多い。
    しかしここは英領としての歴史さほど長くなかったこと、植民地としての格もインド本土の主要な都市と較べて高くないため、英国人墓地といっても、植民地史上あまり著名な人物は埋葬されていないものと想像できる。
    墓地のあまりに荒涼とした様子が不憫であった。
    寂寞とした墓地敷地内

  • VISA ON ARRIVAL@MYANMAR

    ミャンマーのヴィザに関するルールが一部改定されていることに、5月1日から変更されていたことに今更ながら気がついた。それはヤンゴン・マンダレー両空港における、ちゃんとした『オン・アライヴァル』ヴィザ導入である。
    これまで、ミャンマーのヴィザは事前にわざわざ大使館に出向いて取得しなくてはならなかった。あるいは『アライヴァル・ヴィザ』なる制度があり、事前にミャンマー現地にあり、当局から取り扱いの指定を受けている旅行代理店を通じて申請、到着時に『ヴィザを受け取る』というものであった。後者については入国の1か月前くらいには申請しなくてはならなかった。時期によっては運用が停止されていることもあったし、団体客だけという時期もあった。
    どちらにしても入国するに先立って準備をしなくてはならず、『ちょっと時間が出来たから旅行に出よう』と突然思い立ったり、滞在先(主にタイ)で、『ミャンマーに行こう!』と気が向いた翌日あたりに飛んだりするのはなかなか難しかった。そうでなくとも事前に大使館に二度も出向く(申請と受領とで)のは面倒である。
    ASEANの大半の国々では日本を含めた多くの先進国の人々に対して、一定期間の観光目的での滞在についてはヴィザ免除ないしは入国地点で到着時にヴィザ取得が可能という措置を講じていることもあり、特に関心のある人でなければ、あまりミャンマーへ足が向かなかったのではないかと思う。
    基本的には空路からの出入国(ごく一部例外的な部分もあるが)になること、まだミャンマーに乗り入れる航空会社が少ないこと、それも周辺国からのフライトしかないことなど、観光客誘致については障害となる部分は少なくないとはいえ、今後は隣国でフライト数が多く、チケット代金も低廉なタイを経由しての訪問が特に増えることだろう。
    またインド滞在中でコールカーターからヤンゴンを往復するという利用もあるかと思う。ただしインドのヴィザに2ヵ月ルールが導入されたことがネックにはなる。マルチプル・エントリーのヴィザを所持していてもそのまま出国してしまうと2ヵ月間は入国できなくなってしまう。インドのヴィザ取得時に第三国とインド間で出入りする予約の入った航空券と旅程表などを提出することにより、それよりも短い期間でインドに戻ることは可能になるようだが。
    ヤンゴンあるいはマンダレー到着時のミャンマーのヴィザ取得条件等については、Myanmar P.L.G. Travel & Tours Co. Ltd.のブログ『PING LONG 現地生情報』をご参照願いたい。
    ヤンゴンで日付をまたいでの乗り換え需要もあるかといえば、そうではないようだ。現在までのところヤンゴン空港に離着陸しているナショナル・フラッグ・キャリアのMyanmar Airways International (MAI)のフライトは、バンコク以外にはクアラルンプルとシンガポール便のみと寂しい限り。
    ずいぶん長きにわたり経済的に停滞している国への乗り入れ需要が少ないこともあるが、、欧米諸国等による経済制裁下にあるということも大きい。特にアメリカの場合、ミャンマー製品を自国に輸入することさえ禁じており、例えば旅行者が現地で購入した民芸品のような他愛のないものであっても、米国内に郵送することは不可となっているようだ。
    ミャンマー政府は、とうの昔にビルマ式社会主義という国家理念に基づく計画経済を放棄して市場主義経済化を推進、様々な分野における民営化を積極的に実施してきたのだが、この国にとって欧米という大きなマーケットが存在せず、それら先進国からの直接投資を得る機会もまず無いといった、政治的・人為的な要因で浮上の機会を失っているという側面もある。
    そうした中でミャンマーと積極的に経済交流を深めている中国は独り勝ち状態で存在感を高めているというのは皮肉である。
    さて、この新しいアライヴァル・ヴィザの制度が今後安定して運用されることを期待するが、今後この国を訪れる人々の数がどのように推移するのかについても注目していきたい。
    ※彼方のインド 4は後日掲載します。

  • 彼方のインド 3

    どこかの教会からカランカランカランカランと長く連続する鐘の音が聞こえてくる。植民地時代からずっと続いてきたものなのだろう。はるか彼方から渡ってきたイギリス人たちが去ってからも、彼らがこの地に残したクリスチャンたちの間でその信仰はしっかりと根付いているのだろう。
    Purcell Tower
    宿で自転車を借りて市内散策。まずはPURCEL TOWERという時計台のあたりへ。ここは賑わうマーケットとなっている。屋根の付いた大きな市場もあるし、その脇の道路では様々な食べ物の屋台が店を開いている。
    屋台
    このあたりにはインド系の人々も多く、いくつものヒンドゥー寺院やモスクがある。通りを数台のバイクにまたがったスィク教徒の若者たちの姿もある。インド系の人が経営する安宿もあるようだ。そんなわけでこのエリアではインド系の人、とりわけ一軒の店を構えている人物相手ならば、かなり普通にヒンディーが通じる。
    シュリー・クリシュナ寺院
    シュリー・ガネーシュ寺院
    そうした人々が切り盛りする店のひとつに入って腹ごしらえする。ローティーとともにサブズィーやダール等のおかずのターリー。客席で注文を取る男も厨房で大汗かいて働いている人も北インド平原部で見かけるような風貌の人たちであるだけに、インドのダーバーと同じようなものが出てきたが、口にしてみるとかなり砂糖の甘みを感じることに、ここが東南アジアであることを感じる。
    ターリー
    食事を終えてから自転車にまたがると、サドルから突き出ていた金具にズボンが引っかかって裂けてしまった。メインストリートを渡ったところにある屋根付きの市場に行く。インドにしてもミャンマーにしても、身に付けるものが壊れても、修理屋がすぐそこにあるのはありがたい。
    いくつかの仕立屋があった。働いているのは若い女性が多かった。大汗かいて湿った、ところどころ塩を噴いたようになっているズボンを託すのは気恥ずかしいため、どこかオジサンのやっているところはないか?と思えば、ほどなく見つかった。ロンジー(インドでいうところのルンギー)を借りて、ズボンを預ける。
    店の人、Sさんはかなり流暢なヒンディーを話し、英語もなかなか上手な感じである。話すこともなかなか知的で、町角の仕立屋さんというよりも学校教師のような雰囲気がある。ズボンが直ってからもしばらく彼の話を聞いていると、もうひとりインド系の人がやってきた。このKさんは長らくヒンディーを教えることを生業してきたのだという。ミャンマーの学校教育でヒンディーが教えられることはないのだが、個人的に家庭教師や講師として雇われて教えてきたそうだ。
    同胞が集中しているコミュニティで生活していれば自然と身に付いていくものとはいえ、そうではない生活条件の人もある。またミャンマーでのヒンディーは生活や仕事の中での口語が中心である。ヒンディーによる報道等のメディアは原則として禁止されているし、文芸活動も無い等しいだろう。そんなわけで、ビルマ語の読み書きは問題なく(この国の識字率は89.7パーセント。ベトナムとともに後発発展途上国の中では突出している)ても、ヒンディーによる読み書きはできないということが珍しくないようだ。それがゆえにヒンディー教師の需要があるらしい。
    Sさん(左)とKさん(右)
    SさんもKさんもビハールからやってきた移民の四代目にあたる。前者はムスリムで後者はヒンドゥー。どちらも先祖が農業移民としてやってきた。今も昔もビハールは無尽蔵の労働力の供給基地のようだ。多くの場合、数世代経ると先祖の故郷の土地の名前は知っていても、すでに遠縁となった現地の親戚との繋がりは途絶えてしまうが、驚いたことKさんは2000年に訪印して曽祖父が生まれ育ったガヤー近郊の村を訪問したのだという。
    たとえその言葉をヒンディーと呼んでもウルドゥーと呼んでも、そのコトバで話すことがやけに歓迎され、店先で「これ試してみてよ」とミターイーを渡されたりもする。そのコトバがインドではずいぶん隅に置かれているのとはかなり違うようだ。
    もちろん本場同様、社会的に高いステイタスを持たない普段着のコトバであるにしても、『本場』ではごく当たり前で誰もが話す普遍的な言葉であるのに対して、ここでは、ビルマ語の大海の中で、自分たちのコミュニティ内でしか通用しない利便性の低い言語ではあるものの、裏を返せばコミュニティの結束や文化・伝統を維持する民族語としての誇りがあるがゆえのことだろう。
    インド系とはいっても、圧倒的大多数はインドを訪れたことがない。それでも強い関心はあるようだ。デリーやムンバイーの街の様子、現在のラクナウーやパトナーがどんな具合かといったことを少し話すだけで、矢継ぎ早に様々な質問を受けることになる。
    独立後の政策により、とりわけ1960年代以降は、行政・教育等のビルマ語化が強力に推し進められてきたこの国では、意外なほど英語が通じない。また私はビルマ語はまったく知らないので、旅行中は往々にして無言の行みたいになってしまう。それだけにビルマ語の大海の中に点在するインド空間では人々の話がいろいろ聞けて和む。
    メイミョーへのインド系移民の出身地の最たるものは、やはりU.P.こと英領時代のUnited Provinces(ウッタラーカンドが分離する前のウッタル・プラデーシュととほぼ同じ範囲)とビハールが多いそうだ。カマルさんの曽祖父はビハールのパトナーからやってきた人のことで、鉄道建設関係でも、兵士でも役人でもなく、農業移民だったとのこと。今も昔もビハールは労働力の供給基地みたいな感じである。
    他にも祖父が鉄道員だったとか、軍人であったという人たちの話も聞いた。1857年の大反乱以降、それ以前は兵士のリクルート先として比重の高かったベンガルを中心とする東部から、パンジャーブを中心とする西部ならびにネパールのグルカ兵へと比重が移っていったため、後者の場合はそれらの地域を起源とする人たちが多かったのである。
    第三次英緬戦争時にマンダレーに上陸する英軍
    根掘り葉掘り尋ねたりしなくても、なぜあなたがたがここに?と問うだけで、人々は自らの家族史を語り始めるので聞いていてなかなか面白い。
    英領期のインドからの移民の送り出し要因、出向いた先の引き寄せ要因などはいろいろ研究されている。しかしながらここに渡ってきた人々の日々の生活と収入の手段の変遷、何割くらいの人々が契約・赴任期間満了等で出身地に戻ったのか、故郷に帰ることなくここに定着した人々がそれを決めた理由、現地定住以降のコミュニティ形成、故郷との連絡状況、婚姻や通過儀礼等、社会・経済的立場等々を調べると、いろいろ興味深いものが出てくるのではないかと思う。
    20世紀初頭には、ラングーン(現ヤンゴン)の人口のおよそ半分はインド人たちが占め、当時のビルマ最大の都市は文字通り『インドの街』であったこともある。その他ピンウールィン、シットウェー、パテインその他インド系の人々が多数定住しているところは多いが、1937年の英領インドとの分離、1948年のイギリスからの独立、1962年の軍事クーデターいう三つの大きな節目はそれぞれインド系の人々に不利に働いたため、多くの資本や人々がこの国を離れてインドないしは第三国へ移動している。
    インドの一部を成していた時代には、様々な分野の労働者以外に、行政の中堅・下級官吏の多くをインド人たちが占め、軍の将兵の多くもインド人たちであったが、その後彼らはそうした地位から追われることとなり、行政・政治の分野で支配的な立場から姿を消すこととなった。そんなわけでインドの年配者の中で『昔、ビルマで生まれ育ちました』という人に今でもごくたまに出会うことがある。
    せっかくミャンマーまでやってきて、こんなことに関心を持つのもなんだが、やはり「一時期インドの一部を成していたビルマ」である。
    インドとの分離直前のビルマ
    先日取り上げてみた Candacraigをはじめとするヘリテージ・ホテルに転用されたもの以外にも、往時に建設されたバンガローはいくつも現存している。また政府の建物にも英領期のくたびれたものが多く見られる。
    発展から取り残された国であるがゆえに、インドのヒルステーション全般と比較して、植民地期のものがよく残っているといえる。そうしたものが取り壊されることなく、また最近出来た新しい建物に規模の点でも圧倒されることなく、豪壮な威厳を保っていることも特徴であるといえる。しかしそうした状態は、いかにこの国の停滞ぶりを示すものであり、決して文化財や歴史的建造物の保全が充実しているといったものではない。
    目下、ビンルーウィンことメイミョーは、ITシティーとしての発展が期待されているのだという。今のところ町を流してみてITを感じさせるものは何ひとつ見当たらないが、国としてはそういう方針らしい。高原の町ということもあり、インドのバンガロールを小さく小さくスケールダウンしたようなものを目指しているのだろうか。
    〈続く〉

  • 彼方のインド 2

    酷暑のマンダレーからシェアタクシーで走ると肌に当たる風が熱い。それでも比較的なだらかな斜面を上っていくにつれて、熱風の中にときどき爽やかな冷気のようなものがかすかに感じられるようになってくる。
    昼下がりに海抜1,100 mにも満たない場所にあるピンウールィンに到着してみると、さほど清涼な気候とはいえなかった。それでも平地の暑さに較べればまだしのぎやすいことは確かだ。日没後はエアコンなど不要で、ときおりテラスを抜けいく風が心地良く、半袖で快適に過ごすことができた。
    ここでの宿泊先はThiri Myaing Hotel。通称Candacraigと呼ばれている。もともとはBombay Burmah Trading Corporationの保養施設として設立されたときの名称だ。
    Candacraig Hotel
    エジンバラ出身で1840年代にボンベイへと渡り、主に茶葉の取引に携わっていたイギリス人実業家がラングーン(現ヤンゴン)で1860年代にラングーンで設立した、主にビルマとタイのチーク材の取引を行なう歴史的な会社である。現在ではインドのワディア・グループの一部門となり、ムンバイーを本拠地としているが、同社ウェブサイトのトップページ
    を見てわかるとおり、業務の主軸を紅茶、コーヒー、ゴムのプランテーションとしている。
    吹き抜けはこんな具合
    Candacraigはピンウールィンを代表するヘリテージ・ホテルとはいえ、本来は植民地期の会社の施設であり、ホテルとしての伝統や格式などは持ち合わせない。しかしヒルステーションでこうした歴史的な建物に宿泊できるということ自体がちょっと嬉しい。
    ヒルステーションとはいえ、暑季はオフシーズンなので朝食付き一泊25ドルとエコノミーであった。可処分所得の低い国であるため、国内旅行産業があまり発達していないことの証でもあり、インドとはかなり事情が異なる。
    1906年に完成したこの建物は、1948年にこの国が独立した際に国有化されてから農業省管轄下でホテルに転用され、現在では政府系の観光促進機関であるMHTS (Myanmar Hotels and Tourism Services)が運営している。
    ピンウールィンには、MHTSが経営するホテルがあと2軒ある。ひとつは同じくBombay Burmah Trading Corporationの施設であったGandamar Myaing Hotelで、往時はCroxtonと呼ばれていたもので、Candacraigとよく似た様式の建物である。
    Croxton Hotel
    もうひとつはNan Myaing Hotelで、別名Craddock Courtとも呼ばれている。もともと何の建物であったのかはよくわからないが、『しばしば幽霊が出る』という噂があるようだ。
    ただし政府系のホテルであるがゆえに、『ミャンマー政府の手による旅行会社や宿を使わずに民間にお金がいくようにしよう』と唱えているロンリープラネットのガイドブックには、これらを宿泊先としては紹介されていない。ただ見どころとして建物を挙げているのみだ。同社のガイドブックは、タイトルによって著者が違う。そのためチャプターの構成はどのタイトルも共通しているものの、書き手の視点がかなり異なることもよくある。
    ミャンマーのガイドブックについては、あくまでも反政府的な視点となっており、まずは「ミャンマーに行くべきか行かざるべきか」というチャプターさえもある。旅行ガイドブックなので、行くも行かないもないだろうと思うのだが。
    インターネットでの情報源として、THE IRRAWADDYMIZZIMAなど、いくつか優れたニュース関係サイトを紹介してあるのはいいのだが、どれもミャンマー国外をベースとする反政府なスタンスのものばかりだ。ミャンマー政府がどうであるかについては各自が考えるべきものであり、ガイドブックやその著者が押し付けるべきものではないだろう。
    政府、政府と批判しているが、批判されるべきは軍をバックグラウンドとするこの国の政権であり、政府機構そのものではない。1988年の民主化運動の際、デモに加わっていたのは学生や民間セクターの人々ばかりではなく、非常に大勢の政府職員や公共セクターの人々もそれに参加していたことを忘れてはいけない。
    公務員はそこに雇用されている労働者に過ぎない。多くの場合、自らの生産手段を持たないがゆえに、雇用を得るために就職した先がたまたま公の機関であるということである。もちろんその採用の際に何がしかの出費ないしはコネが必要であったとしても。
    そうしたことはともかく、コロニアルなホテルがあるのならばどこの所有だろうが泊まってみたほうがいい。往々にして『政治史』『行政史』に偏りがちな歴史の中で、あまり記されることのなかった在緬の民間イギリス人たちの出入りが感じられる。まさにこの場所で彼らは活動していたのだ。
    宿泊費込みの朝食以外を注文することはできず、昼食と夕食はどこか外に出かけなくてはならないという商売っ気のなさだが、Candacraigはメンテナンスも良く、往時の雰囲気をかなりきちんと残しているように思われるのでなかなかオススメの宿である。
    ここはしばしば映画やドラマのロケにも利用されるのだそうだ。私が滞在しているときにも、グラウンドフロアーで撮影が進行中であった。撮影中には映画のディレクターの父親が同行しており、この人は数年間日本で暮らした経験があるとのことで、日本語のできる人であった。ミャンマー映画についてはよく知らないが、彼によるとけっこう有名な俳優たちが出演するアクション映画なのだとか。
    ミャンマー映画の出演者たち
    演技をしている彼らを照明その他様々な小道具等の担当者が取り囲んでいるが、比較的ゆったりとしたペースで仕事が進行中であった。私はしばらく見物してから外出したが、日中一杯カンダクレイグでの撮影は続いていたようだ。ようやく日没近くなってから終了し、撮影の機材関係の人たちは、チャーターした乗合ピックアップトラックの屋根にまで、人間・機材ともに満載で帰るところだった。映画撮影とはいえ素朴なものであった。

  • 彼方のインド 1

    ピンウールィン特産のイチゴ
    ミャンマーのマンダレーから乗り合いタクシーに乗って2時間ばかり揺られるとピンウールィンに着く。かつてはメイミョーと呼ばれていたヒルステーションである。
    1885年に開始、翌1886年にビルマ最後の王朝であったコンバウン朝を降伏させ、イギリ英領としてビルマを統一するとともに、これを英領インドに編入させることになった。
    その3年後にはメイミョーの建設が始まっている。国土のほぼ中央に位置する高原に設置された英軍の基地の町であったが、夏季には乾燥した灼熱の大地となる中部ビルマにありながらも、海抜1,000メートル前後という立地のため比較的過ごしやすい気候であるがゆえに、インドでのそれと同様のヒルステーションとして発展することとなる。
    開発当初は軍の駐屯地ならびに保養地、のちに文民たちをも含めた避暑地としてのヒルステーションへと発展というパターンは、インドの多くのヒルステーションと同様だ。
    ちなみにメイミョーとは『メイの町』の意味。1857年のインド大反乱を経験したヴェテラン軍人、メイ大佐のちなんだ命名である。今でもアングロ・バーミーズ、アングロ・インディアン、その他のクリスチャンが多い土地だ。
    同様にインド系、ネパール系の住民がとても多いことでも知られている。前者は北インド系が大半だが、中でもパンジャービーは後者の中でグルカ兵としてやってきた人の占める割合が高いネパール系とともに軍人として渡ってきた人々の子孫であることが多いようだ。
    またビハールやU.P.出身者は鉄道建設や農業労働者として来た人々の末裔が高い割合を占めているようだ。ここの人々が言うところのU.P.とは、往々にして現在のUttar Pradeshではなく、United Provinces of Agra and Oudhないしは、1921年に行政区が改名されてからのUnited Provincesである。どちらにしてもウッタラーカンドが分離する前のUttar Pradeshの範囲とほぼ重なるのだが。
    鉄道建設とヒルステーションも非常に縁の深いものがある。避暑地とはいえ政治的にも文化的にも重要性の高い土地であったからこそ鉄道が引かれたのか、あるいはもともとそれなりの規模があったことが需要を喚起したことにより鉄道が敷設されたのか、卵が先かニワトリか?みたいなことになるが、インドでも第一級のヒルステーションでは鉄道によるアクセスが可能だ。
    ダージリンは1878年、シムラーは1898年、ウータカマンドでは1908年に、俗にトイトレインと呼ばれる狭軌のゲージに小型車両が走行する鉄道オープンしている。
    ピンウールィンことメイミョーは、マンダレー管区とシャン州の境目に位置する。19世紀末に開通したマンダレーから北東方面のラーショーへと向かう路線の途中駅である。
    ピンウールィン駅
    同じくマンダレーからほぼまっすぐ北上するミッチーナーが終着駅となる路線の途中駅にはカターという町がある。現在ビハール(当時はベンガル・プレジデンシー)のモーティハーリーで生まれたイギリス人作家ジョージ・オーウェルが警察官として赴任したことのある町である。英国時代には北部辺境地域を臨む前哨地域として大きな意味を持つ場所であったようだ。
    カターの町は、オーウェルの処女作『Burmese Days(邦題:ビルマの日々)』の中ではチョークタダーという名前に変えてある。この小説の冒頭にはオーウェル自身がスケッチした町の簡単な地図が挿絵として掲載されている。
    その地図、また作品の中で描写される町のたたずまいが、今でも当時とあまり変わらずに現在に至っているとのことだ。長らく発展から取り残されてきたことから、意外に古いものがよく残っているということはミャンマーでは珍しくない。今回は訪れてみる時間がないのだが、いつか機会があれば足を伸ばしてみたい。
    イチゴジャムも美味であった

  • ヒルステーション

    家族連れがそぞろ歩いていたり、カップルがいちゃいちゃしていたりする、軽井沢みたいな土地のどこがいいのだ?と言われれば、確かにそうだと頷くしかない。確かにそういう雰囲気に特に何の関心もない。小洒落たカフェやナイトスポットならば、もっといいところが平地の大都会にはいくらでもある。
    結局のところ避暑地であるが、欧州列強の植民地、往々にして熱帯の土地であるが、暑季の耐え難い気候から一時的に逃れるため、あるいは療養などを目的に訪れるためなどに建設された町である。もちろん暑さに参ったのは文民だけではない。ヒルステーションには往々にして相当規模の軍の駐屯地も存在してきた。
    今の時代は、どこでもエアコンの効いているスペースならば暑さを忘れることができるとはいえ、暑季のインドで標高の高いところに来たときのアウトドアでの清涼感は何ものにも替えがたい。だが涼しいだけならば、標高の高いところならばどこでも清涼な気候を楽しむことができるわけだが。
    だがヒルステーションにしかないものもある。それは英領期に築かれた歴史的な遺産とそうした土地であるがゆえの空気である。例えとしては適切ではないかもしれないが、敢えて言ってみれば、広大な中国で漢民族たちはどこにも同じような街を作っている。北京、上海だろうが、非漢民族の自治区(主要都市のマジョリティは漢民族だったりするが)の大都市、たとえウルムチであれ、ラサであれ中心部の街角は酷似している。
    同様にイギリス人たちが築いたヒルステーションは、どこも立地といい、町の佇まいといい、非常に共通するものが多い。『リッジ』があり、『モール』があり、数々の公共の建物や教会、今も残るバンガローその他の個人所有の建物等々が並ぶ。
    たとえ彼らがその地を去って60年以上の歳月が経過しているとはいえ、往時の面影を色濃く残しているものである・・・と言いたいところだが、90年代以降のインド国内での観光ブームによる開発のため、あながちそうとはいえない。とりわけハイ・シーズンに訪れると、そこはまさに日本の軽井沢状態であったりする。
    植民地的な景観の『町並み保存』を訴える向きがあるのかどうかは知らないが、英国的な景観には事欠かないインドにあって、特にそうしたものに興味関心もないであろうことは容易に想像がつく。
    スリランカのヌワラ・エリヤ、マレーシアのゲンティン・ハイランド、旧仏領のベトナムのダラート、旧蘭領であったインドネシアのバンドゥンなどがよく知られており、アフリカにもそうした保養地はいくつかあるが、ヒルステーションが最も発達を遂げたのはインドだ。かつての英国の海外領土の中でも別格で、イギリス本国の植民地省とは別のインド省を通じて支配された地域であり、英領時代のボンベイ管区はアラビア半島で貿易港アデン他の拠点を管轄するなど、言うならば「海外植民地を持つ植民地」のような存在であっただけのことはある。
    また単なる避暑地のみならず、ダージリンやシムラーのように、暑季に行政の中枢が平地から移動する夏の臨時首都といった様相を呈するほどの重要性を持ったヒルステーションは、旧植民地であった南の国々にあっても稀だ。
    なにしろエアコンのない時代であり、医療も発達していなかった時代だ。インドに駐在するイギリス人をはじめとする欧州人たちの死亡率は今と比較にならないくらい高かった。とりわけ暑季は彼らの生命をも左右する、としては言い過ぎであるにしても、政治・行政機能を期間限定で移転するという非効率さと膨大なコストと引き換えにまでして得たかったのが、そうした時期のヒルステーションの気候と環境だ。
    日本の軽井沢や清里がそうであるように、インドの人々にとってもそこは単に避暑地であり商業活動の場である。資本主義の世の中で、需要があれば供給がなされる。それによって訪れる人々は必要なサービスを受け、そこで働く人々は収入を得る。
    そうした中で景観が変わっていくのは当然のことだが、数十年の時間を経てもなお往時の面影を感じられることこそが、ヒルステーションの味わいではないかと思う。
    チャンディーガルからシムラーに向かうルートから枝道に入ると到着するカサウリーは、シムラーが大変込み合う時期でも比較的空いており、あまり商業的に活発な場所ではないためもあって、旧い町並みがよく残っている。ただし歴史的に軍とのつながりが非常に強く、カサウリーのかなりの部分の土地を今でも軍用地が占めているのがやや難ではあるのだが。
    数年前に『カサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷』として取り上げてみたように、インドにおけるビールを含めた洋酒の原点とも言える土地である。ここで創業したダイヤー・ブルワリーは、現在パーキスターンとなっている西パンジャーブ地方のヒルステーションとして知られるマリーでも同様に酒造業を展開していた。
    他にも現在パーキスターンとなっている土地ではラーワルピンディー、クエッタ、インドではシムラーやウーティー、現在ミャンマーとなっているマンダレーといった広範囲にも酒造業の拠点を築くに至った。洋酒文化の伝播という点からもヒルステーションが果たした役割は大きかったといえる。

  • パフラット

    スワンナプーム空港近くのホテルからバンコク市内のチャイナタウン地区の南側にあるパフラットに足を伸ばしてみた。このあたりにはインド系の人々の姿が特に目立つ。
    インド人地区といってもそれらしきエリアはごく限られているものの、グルドワラーを中心に広がる彼らの商業地域でインド系の人々の姿が集中している度合いはかなり高く、パーキスターンやネパールから来た人々も多く出入りしていたり働いていたりする。
    本国や周辺国との行き来もなかなか盛んなようで、『結婚のためパンジャーブから移住した』という雑貨商のおばさんがいたり、ネパール人だという出稼ぎ男性は実のところネパールから英領時代のミャンマーに移住した人の子孫だったりする。
    そんなパフラットのインド人地区では、様々なインド製品が売られていたり、インドにあるようなダーバーや甘いものの店が散在する。
    ターバンを巻いた立派な体格のスィク男性がタイでよくある木造の長屋の中に入っていく。おそらくそこが彼の住まいなのだろう。タイでは屋台を切り盛りする女性が多いのと同様に、ここではインド系の女性たちもよく道端でパコーラーを揚げて売ったり、店先でお客に相手をするなど、日がな客商売で忙しく働く姿が多い。
    前回来たときには、グルドワラーの横で大がかりな工事が進行中で『何が出来るのかな?』と思っていたが、今回訪れてみると『INDIA EMPORIUM』というちょっと洒落たショッピングモールが完成していた。
    India Emporium
    空調が良く効いた建物内に入っているテナントは見たところ半数ほどがインド系の業者たちのようだ。布地、既成品の衣類、装飾品、CD等オーディオ関係の品々などを扱う店が多い。だがそれ以外にインドかぶれ(?)のタイ人たちの神具類のショップなども少なくなかった。どういう人たちが顧客なのだろうか。
    このエリアではインド系の人々を対象にした安宿が多かったが、ちょっとした中級クラスのホテルなども出てきているようだ。
    長らく『ごちゃごちゃとした狭苦しくて暑苦しいところ』であったパフラットのインド人地区も次第にグレードアップしつつあるように見える。

  • バンコク東端のラート・クラバンは未来のツーリストゾーン?

    前回『スワンナプーム空港付近のホテル』と題してバンコクの国際空港近くの宿泊事情を取り上げてみた。
    私自身、その中のひとつであるSilver Gold Garden Suvarnabhumi Airportというホテルを利用してみたので、その感想を記しておくことにする。
    以下のマップで『A』の印が付いているところがそのホテルである。

    大きな地図で見る
    フライトナンバーと到着時間を伝えておくと、出迎えゲートのところで名前を書いたプレートを手にした人が待っていてくれて、ホテル差し回しのワゴンが停車しているところまで案内してくれる。エリアの知名度が低いため、このエリアの大半のホテルにとってお客の無料送迎はほぼノルマのようである。
    ウェブサイトでは『空港まで5分』とあったが、実際には十数分くらいかかるようだ。それでも近いことには変わりはない。
    ごく最近開業しただけあって新築の建物で部屋の中も外もキレイだ。このエリアにいくつかあるこの手のホテルは、たいてい同時期に開業している。一泊900から1000バーツというところが多いようだが、このあたりの値段がうまいところを突いているといえるだろう。
    周囲に見どころはないため、ここを拠点にしてバンコクを観光する人が滞在するとは思えない。空港へ至近という地理的条件から、乗り換え客が大半を占めるいわゆる『トランジット・ホテル』である。
    『明朝の早い時間帯のフライトのため市内に出るのは面倒だ。中級ホテルの料金は支払いたくないが、まあそこそこの宿があれば・・・』という人たちに利用しやすい設定となっている。
    あるいは普段安宿を泊まり歩いている人であっても『明日の朝は早いから、まあ今日だけは・・・』ということで我慢して払うことができる金額かもしれない。
    ホテルから空港まで無料での移動は1時間に1本。零時30分、1時30分、2時30分、3時30分・・・といった具合だ。それ以外の時間帯の場合は自分で料金を払ってタクシーを利用することになる。
    空港が位置するのはバンコク市の東端のラート・クラバン区。最近開発された空港エリアとのことで、周囲は農地以外は何もないのではないかと想像していたが、そんなことはなかった。空港が完成する以前から存在している商業地であるようだ。コンビニ、食堂や屋台、ちょっとした市場などがある。近隣では小ぶりながらもナイト・マーケットも開かれているなど、見どころ以外のインフラは揃っている。今後様々なクラスの宿泊施設が増えるように思われる。
    ラート・クラバンのナイトマーケット
    近ごろのバンコクでのタイ反独裁民主戦線(UDD)の大規模な抗議活動により、観光業はもとより様々な分野で大きな損失を蒙っているタイである。しかしながらこの騒動により、バンコクでの乗り換え客を中心に、都心から遠く離れたこのエリアの宿泊施設に注目が集まり、その名が広がるという効果をもたらしたようである。
    今年8月には空港と市内を結ぶ鉄道スワンナプーム・エアポート・リンクが開通する予定だ。終着駅のスワンナプーム空港からひとつ目の駅ラート・クラバンが最寄駅である。
    空港からは朝6時から午前1時まで運行されるSAエクスプレスによりプラトゥーナーム・マーケットの東にあるマッカサン駅までノンストップにてわずか15分で結ばれる。これはラート・クラバン駅には停車しないが、24時間運行で各駅停車のSAシティ・ラインはここから利用可能でパヤータイまで30分かからず、市内観光にも充分観光にも使える。
    そのため今後は乗換客のみならず、あまり繁華街には泊まりたくないなぁ、という人たちの需要も見込めるだろう。旅行代理店やグレードの高いグルメな店なども進出してくるかもしれないし、タイ各地に向かう長距離バスがお客を拾う場所となっているかもしれない。ともあれ今はこじんまりした商業地の外はのどかな田園地帯。ちょっとしたツーリストゾーンとして拡張していく潜在力を秘めた場所である。
    夕方、市場で買ってきたドリアンをホテルの庭先に置かれたベンチで楽しむ至福のひとときである。今からあと10年も経てば、こんなに静かな郊外であったことがまるで嘘のように騒々しい盛り場になっている様子が目に浮かぶようだ。