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カテゴリー: travel

  • チャウンター・ビーチ3

    チャウンター・ビーチ3

    やがて陽が傾いて夕暮れ時になった。時間の経過とともに刻々と様子を変えていく空。一瞬として天空のすべての色合いが同じ時間帯はない。そうした中、水とたわむれる女性たちのシルエット、家族連れの姿、浜辺をそぞろ歩く人たちの様子がとても絵になる。みんなこのひとときを心ゆくまで楽しんでいる。自転車から降りて、そうした人々を眺めながらビールを傾ける私にとっても至福のひとときだ。

    ああ、時間よ、止まれ!

     

    <完>

     

  • チャウンター・ビーチ2

    チャウンター・ビーチ2

    ビーチ到着は午後1時。疲れて横になりたかったが、とりあえず昼食を取る。よく冷えたビールを飲み干して、ホッと一息。

    ボリューム感たっぷり!
    ビールをグイッと飲み干すと生き返った気分
    さきほどまで足元にジャレついていたネコが、気が付くと寝ていた。癒されます。

    ビーチに出てみると、どこまでも広がるベンガル湾の大海原に解放感!貸自転車屋があったので、ビーチの端から端まで走ってみることにした。想像していたよりも海岸で商う人々の数は多く、砂浜の裏には宿やレストランが散在しているが、まだまだのどかな雰囲気だ。訪れている人々の多くはミャンマーの人たち。ヤンゴンからハネムーンでやってきたという幸せそうな新婚カップルにも出会った。

    ベンガル湾を望む
    ミャンマーを代表するビーチのひとつとはいえ、まだ混雑している感じはない。

    砂浜の南端には、泳いでも渡れそうなほど近いところに島がある。うっそうと茂る深い森になっているが、ここもやがてはリゾートとして開発されてしまうのではないかと思う。このあたりは漁村だが、島に渡るボートを貸していたり、ここからモーターボートで観光客を案内したりする者もいる。

    漁村
    几帳面に並べてある

    彼らは漁民なのか、それとも外から来た人たちなのか傍目にはよくわからないが、漁村から浜に出入りしていること、海によく慣れているらしい様子からも、漁村の住民であると考えるのが妥当だろう。浜では魚を干しているが、ここうした風景もやがては過去のものとなってしまうかもしれない。当分の間、半分は漁業、半分は観光で収入を得るという具合になるのかもしれない。

    目下、経済面でブームになっているミャンマーだけに、このビーチも今後はメジャーな観光地として、ますますいろんなものが出来てくることだろう。それについて余所者である私がとやかく言う筋合いではないし、地元の人々にとっても収入を得る機会が増えることは悪いことではないし、観光をテコに地域社会の振興を図るのは当然のことだ。

    だが都市部から大資本がここにやってきて観光開発するとなるとどうだろうか。漁村がそのまま存続すると思えない。ある人はお客の案内や世話を請け負ったり、スタッフとして雇用されたり、またある者は他所に働きに出るといった具合になるのかもしれない。全国各地から投資機会や就労先を求めて、様々な人々がやってきて、それまでここに暮らしていた住民たちとすっかり入れ替わってしまうという現象は、他国でもよくあることだ。

    地域社会と隔絶したコスモポリタンかつ無秩序な空間が出来上がることとなり、観光公害と呼ばれる様々な社会問題が出現してくることにもつながる。あと5年、10年してから再訪してみる機会があれば、まったく別のところになってしまっているのかもしれない。

    午後の陽射しが眩しい

    <続く>

     

  • チャウンター・ビーチ1

    チャウンター・ビーチ1

    マウラミャインを出た夜行バスは、午前3時少し前にヤンゴンのアウン・ミンガラー・バススタンドに到着。当然、まだ真っ暗ではあるものの、この時間帯に到着するバスは少なくないので、待ち構えていたタクシー運転手たちが集まってきて、続々降車するお客たちに声をかけている。

    ヤンゴンからそのままデルタ地帯の西側にあるチャウンター・ビーチに行くので、市内の西側を流れる河を渡った先にある、もうひとつのバスの発着場、ラインターヤー・バススタンドに向かう。途中、街灯も少なく真っ暗な無人の路上を女性が一人で歩いていたり、女性二人が自転車に乗っていたりする姿をたびたび見かける。これから朝早い仕事に向かうのか、夜遅くまで出かけていたのだろうか。ヤンゴンは、東南アジアの中では治安の良い街ということになっているが、確かにそうなのだろう。

    チャウンター・ビーチに行くバスが出発するバススタンドに着いたが、まだ午前4時前なので真っ暗である。40分ほど待っていると、私が乗るバス会社の事務所兼待合室は、中からシャッターが開けられた。従業員は中に住み込んでいるようだ。2階が住居のようになっているのだろう。事務所の床に寝ている者もある。労働環境としては劣悪だ。

    バスは午前6時発。マウラミャインからヤンゴンまで乗ってきたバスのような快適なエアコン付きの車両を期待して「寝ていく」ことを想定していたが、車内外に散見されるハングル文字からして、おそらく四半世紀くらい前に韓国で走っていたらしいノンエアコンの古いバス。座席を思いきり詰めて設置してあるため、非常に窮屈である。夜行明けにこれはちょっとしんどい。

    ビーチまでおよそ7時間。どこまでも平坦な風景を眺めつつ、涼しい風が窓から入ってくる。それはそれで気持ちが良かったのだが、陽が高くなると次第に暑くなってくる。途中でパスポートチェックが2回あり、そのたびに車掌が車内の外国人、日本人の私、四人のフランス人、イングランド人カップル一組、の旅券をあずかって、車外に降りて行く。

    街道の物売りたち

    広大な田園風景が広がるデルタ地帯をひた走る。集落には高床式住居が多い。2008年のサイクロンではひどくやられたはずであるが、さすがに4年も過ぎているので、少なくとも沿道からはその痕跡は感じられなかった。

    デルタ地帯を抜ける直前の休憩地点で、ここから他のビーチに行くというイングランド人カップルが、バイクタクシーにまたがって出て行った。彼らはやけに荷物が少なく、二人合わせてデイパックひとつ分よりも容量は少ないようだった。あれほど身軽な西洋人はこれまでほとんど見たことがない。

    休憩場所を出ると突如、道路がダートになり、そこから先は丘陵地で、簡易舗装主体のジグザグの悪路となる。斜面を上り、そして下る、そして上るといった具合の繰り返しで、ポンコツのバスが痛めつけられて悲鳴を上げているようなキシミ音がする。

    途中、橋がいくつかあった。最後のふたつは大型車両の車輪の幅に古タイヤのゴムを貼り付けて、舗装風にしてある。一方通行の橋であるため、向こうからのクルマが渡り終えるのを待ってから橋を越える。

    <続く>

  • マウラミャイン

    マウラミャイン

    先日、泰緬鉄道のミャンマー側の終着地点であったタンビュザヤのことについて書いたが、ここへはモウラミャインから日帰りした。

    モウラミャインへは、ヤンゴンから夜行バスで到着。ヤンゴンを出発したのは午後9時。「バス岐阜」と書かれた、日本の中古バスだったが、まだ新しくて快適であった。クーラーの効きも良く、運転席上部に設置されているテレビからは、午後11時くらいまでミャンマーのポップスのビデオが大音響で流れていた。

    ミャンマーで第二の人生を歩む日本の中古バス
    深夜過ぎのドライブイン。乗客のみなさんもお疲れの様子・・・。

    深夜過ぎにドライブインで休憩。空腹感ではあったものの、疲れ切っていて食事する気にはならなかった。30分ほどしてからバスは出発。しばらく寝ていたが、ハッと気が付くとどこかに停車している。クルマがガタゴトと揺れていると、心地よく眠ることができるものの、停まってしまうと目が覚めてしまうのは鉄道と同じ。適度な揺れに身を任せていると心地よいものだからだろうか。腕時計に目をやると、午前3時過ぎを指していた。

    外に出てみると、前方には同じく停まっている車両が数珠繋ぎだ。河を越えてマウラミャインに渡る橋は、夜遅くから午前4時まで閉鎖されているとのこと。現在、モッタマーという町の郊外にいるらしい。まとまった雨が降ったらしく、足元はかなり濡れている。

    午後4時過ぎに、ようやく車列が動き始めた。かなり年期の入った鋼鉄製の橋を渡ると、まもなくマウラミャインのバススタンドに着いた。まだ真っ暗だが、この時間帯に発着するバスはいくつもあるようで、いくつかの店はすでに営業している。バスで一緒だったイギリス人青年のS君と、乗り合いオートをシェアして河沿いにあるホテルを目指す。

    こんな時間帯なので、朝までの間に一泊分取られないかと思ったが、そんなことはなく良心的な宿のようである。とても空腹であったので、部屋に荷物を置いてから近所でこんな早い時間帯から開店していた華人経営の茶屋に食事に行く。コーヒーを啜りながら肉まんを二つ食べて、ようやく人心地ついた。

    ずいぶん朝早くから茶屋に集う人々

    まだ夜明けまでかなりあるのだが、店内はかなり客の入りは良かった。若い人たちはこれから仕事に出かけるのだろう。その他は近所に住む、早起きのご老人たちのようだ。古ぼけた店のたたずまいといい、お客の面々といい、ずいぶん昔の時代にタイムスリップしたかのような気分になる。ホテルの部屋に戻り、エアコンのスイッチを入れる。室内の蒸し暑い空気が次第にサラリとした心地よい冷気に変わっていくのを感じながら、しばし眠りに落ちていく。

    目が覚めると、すでに陽は上っていた。階下に降りると、フロント業務に従事する者、宿代に含まれている朝食の準備にいそしむスタッフ、清掃をしている人たちなど、インド系の顔立ちの人々が多く働いていたが、オーナーは華人であった。英語はあまり上手とはいえないが、話好きでフレンドリーな好々爺だ。

    この場所には、もともとは映画館があったのだという。「映画が好きでね、若い頃には初期の007なんかよく観にきたもんだよ。洋画ばっかり観てたなぁ」とのこと。このホテルの隣も映画館だったとのことだが、そちらは建物がそのまま残っていて、地上階部分が中華料理店になっている。スクリーンと客席があった上階は倉庫として使われているらしい。

    乗り合いのピックアップ。市内のミニバス的に走行するものもあれば、中距離バスのような役割のものもある。

    マウラミャインは、イギリスが上ビルマを平定して統合するまで、ビルマ支配の中心地としていた街だ。河沿いのストランド・ロードには、鉄道敷設前に建設された植民地都市の常として、水際に主要な役所、公共施設、教会、当時の植民地で操業していた大手企業等の立派な建物が連なっている様子を想像していたが、少々期待外れであった。

    確かに水際にいろいろ集中していたことを思わせる片鱗はあるものの、その水際が寂れている。木材が豊富な土地であるため、木造建造物が多かったため、後世にまで残りにくかったということもあるのかもしれない。また、東南アジアから南アジアにまたがるこの地域の中では、比較的後発の植民地であったがゆえに、歴史の重みや格の違いという部分もあるのだろう。

    ストランド・ロード沿いのちょっと素敵な感じの建物。現在は宿になっている。

    だが、河から見てストランド・ロードよりも一本内側にあるサウス・ボーヂョー・ロード(旧名ロワー・メイン・ロード)には、いくつかの立派なモスクがあり、イギリスによる支配とともに、西隣のインド亜大陸から移住してきた人々が栄えた様子がうかがえる。

    KALADAN MASJID

    礼拝の時間になると、どこからともなく立派なヒゲを蓄えた紳士やオニイサンたちが集まってくる。その中のひとつ、カラーダーン・マスジッドは、グジャラート系のムスリムが寄進したと伝えられるもので、ここに集う人たちの中にもグジャラートをルーツに持つ人が少なくない。訪れたときに案内してくれたモールヴィーも、やはりグジャラート移民の子孫であるとのことであった。

    SURTEE SUNNI JAMA MASJID

    植民地期に、英領あるいはその強い影響下に置かれた地域が広がるということは、自国インドと共通性の高いシステムの社会が広がるということなることから、当然の如くインド系の人々が、様々な形で海外に雄飛していくこととなった。インド西部から距離的に近い中東の湾岸地域や東アフリカ、そして東寄りの地域からは東南アジア方面に進出する人たちが多かった。

    西側のグジャラートから見て、亜大陸の反対側に面しているマウラミャインへ渡ってきたのには、それなりに合理性のある理由があったことだろう。あるいは、すでにコールカーターに進出していたクジャラート人たちの中で、更に東進した者もあったかもしれない。

    もっとも、その後1937年のインドからの分離、1948年の独立、そして1962年の軍によるクーデターと続く、当時のビルマの国粋化の動きの中で、次第に不利な立場に追い詰められていくようになった外来の人々は、大挙して父祖の国や第三国に移住していくこととなった。

    そうした人々の移民史やそれぞれの土地での生活史は、インド系の人々のエスニシティや文化を尊重しない現在のミャンマーでは、取り上げられることはないだろう。またそうした歴史はコミュニティの中で次世代へ、細々と口伝されていく程度のことであろう。

    それでも、街にある複数の大きなマスジッドは、この地で繁栄したインド系の人々の栄華を、今の人々の目に見える形で伝えている。

    MOGHUL SHIAH MASJID

     

  • 泰緬鉄道終点

    泰緬鉄道終点

    ヤンゴンから夜行バスでモウラミャインに着き、宿に荷物を置いて少々仮眠してからタンビュザヤ行きのバスに乗り込む。

    混雑していても、そこは人々のマナーの良いミャンマーなので、ガサついた感じはないのだが、窓から差し込む強い陽射しを避けようと、車内窓際の座席で日傘を広げる女性が少なくないのには閉口する。邪魔なだけではなく、危険ではないか!

    このバスは、沿道の人々の貴重な移動手段となっているため、あちこちで客を降ろしては、少し先で乗せてということをチョコチョコと繰り返しながら進むため、行きは3時間もかかってしまった。帰りは乗り合いのピックアップを利用したのだが、その半分の1時間半ほどでモウラミャインに戻ることができたのだが。

    それはともかく、モウラミャインの町に着いた。かつて泰緬鉄道で使われていたという蒸気機関車、ミャンマー側の終着駅であった場所、連合軍墓地などを見物したかったので、とりあえずバイクタクシーにそれらの場所に向かってもらうことにした。

    タイでもミャンマーでも、揃いのベストを着用した運転手たちによるバイクタクシーは各地にある(走行するバイクを見かけないヤンゴンを除く)が、ふと思ったのは、インドにおいては、ゴアのような一部の地域を除けばこうした開業が手軽で、利用者にとっても手頃な交通手段がないのかということ。とりわけ、山間部にあるヒルステーションのように、街全体が斜面にあり、道路は狭くて勾配も急であったりして、バスやオートリクシャーなどが往来できないような土地では、ずいぶん重宝される可能性がある。

    だが、よくよく考えてみるまでもなく、インドにおいては、運転手との距離が近すぎて、身体的な接触があることについては、とても抵抗感があるはずだ。もちろん公共交通機関に関する法的な規制等の関係もあることだろう。私自身、運転手とのこの距離感はどうも馴染めないし、それにタイの若いバイクタクシーの運転手のようにカッ飛ばす者に乗せてもらいたくないので、やはりミャンマーでも落ち着いた感じの中年運転手に頼むことにしている。

    町中から少し出たところに、かつて泰緬鉄道で使われていたという日本製の蒸気機関車がひっそりと置かれていた。C56型のこのタイプの機関車は泰緬鉄道に導入され、第二次大戦が終わってからも、タイ・ミャンマーそれぞれの国鉄で用いられていたという。この車両が置かれているところから、古びた単線のレールが南方向に延びているが、少し先からは茂みの中に消えていく。

    C56蒸気機関車
    おそらく泰緬鉄道のレール

    タイで走っていた機関車のうちの二両は、その後タイから日本に「帰国」し、一両は靖国神社の遊就館に展示されており、もう一両は大井川鐵道にて現役で走行している。

    タイのバンコクから北西方向、カンチャナブリーを経て、タンビュザヤに至った泰緬鉄道は、第二次世界大戦時に日本軍がその建設を決行するより以前から、当時のビルマ(現ミャンマー)を統治していたイギリス当局により、このルートの鉄道敷設の構想はあったものの、地理条件により断念されていたとされる。

    建設にあたり、日本の担当者は5年程度の歳月が必要であると見積もっていたが、日本軍はこれをわずか1年とひと月で強行した。これにより、連合軍捕虜1万6千名ならびにアジア各地から徴用された8万人を超える労働者たちが死亡することとなった。

    この鉄道建設については、デヴィッド・リーン監督による1957年公開のThe Bridge on the River Kwai(邦題:戦場にかける橋)にも描かれており、旧日本軍による苛烈な捕虜虐待と戦争犯罪の一例として、世間でよく知られているところである。

    タンビュザヤ駅

    市街地に戻り、そこから少し西に進んだところには駅舎があった。新しい枕木が置かれていたり、レール上部が光っていることからもわかるとおり、とうの昔に泰緬鉄道は廃線となっているものの、この駅自体は遺蹟化しているわけではない。モウルメインからイェー経由でダウェイに向かうルート上にあり、今でも毎日数本程度の客車や貨物車が往復しているようだ。

    ダウェイへと続く鉄路

    さらに西­方向に行くと連合軍墓地がある。広大な敷地の奥に慰霊塔では、オーストラリアの国旗が掲げられるとともに大きな花輪が捧げられていた。何かの記念日に当たるのか、セレモニーが開かれているようであった。参列している人たちの多く、といっても十数名程度だが、白人の人たちであった。おそらくオーストラリアの人たちなのだろう。リーダー格と見られる人は中年男性、その他は小さな子供を含めた家族連れであった。

    広大な連合軍墓地
    慰霊塔に掲げられたオーストラリア国旗と花輪

    ちょっと話をしてみようかと思ったが、集っている人たちも私も戦争を知らない世代ではあるものの、ここに埋葬されている人々にとって、彼らを散々苦しめた加害国の人間であるがゆえに、非常にためらわれた。結局、声をかけることなくその場を後にした。こうした場でのセレモニーであるだけに、日本人であることを非常に重荷に感じてしまう。

    数多くある墓標の中には、やはり名前がわからず記されていないものも多い。身元がわかっている人物の場合、記されている享年は多くが20代あるいは30代。またある墓標には花が供えてあった。ちょうど開かれていたセレモニーに合わせて、誰か身内の人が訪れたのかもしれない。

    花が供えられていた

    タンビュザヤから乗り合いのピックアップでモウラミャインに戻る。着いたのは午後4時。見物に夢中になったり、適当な食事処が見当たらなかったりで、昼食を抜いたり、ずいぶん遅くなってから食事したりということは多い。

    この日も、ほとんど夕食に近い時間になってしまったが、河沿いにある食堂に入ると、ヤンゴンからの夜行バスで一緒だったイギリス人青年がちょうどビールを飲んでいたので相席する。よく冷えたビールが喉に心地よい。彼と軽食をつまみながら二杯ほど飲んでから、午後8時くらいに付近にある他の場所で待ち合わせて一緒に夕食をすることになった。

    1943年の泰緬鉄道を建設に関わった旧日本軍の人々も連合軍側の人々も、やがてこういう平和な時代が訪れるとは夢にも思わなかったことだろう。すべての人々にとって不幸な戦争、国家の名のもとに敵味方に分かれて命を奪い合うような時代を繰り返すようなことは、今後決してあってはならない。そのためにも戦争の記憶を風化させてはならない、歴史を曲解させることがあってはならない、と私は常々思っている。

  • インドヴィザのオンライン申請

    今年4月からインドヴィザのオンライン申請が開始されている。

    オンラインビザ申請について(インドビザ申請センター東京)

    これにより、申請手続きに出向く手間が省けるのかと思いきや、実はそうではない。

    ウェブ上で必要事項を入力、申請日を確定してからプリントアウト、その申請日に窓口まで出かけてパスポートその他必要物とともに提出する必要がある。受け取りに出向く手間と合わせて、申請者側にとっては利するものは特にない。ウェブ上で確定した申請日は、基本的に変更できないようなので、かえって面倒になったといえる。

    『オンライン化したといっても、ちっとも便利ではないじゃないか!』と思うかもしれないが、もともと申請者の便宜を図るためのものではないのだろう。従前の紙媒体による申請と異なり、申請者の情報を効率的にデータベース化して、出入国管理に役立てようという、当局の便宜を念頭に置いたものであることは明らかだ。

    これによって、申請者個々のパスポート番号や発行日等が変更となっても、はてまた二重国籍を有する個人が複数のパスポートで出入国していたとしても、特定の個人の申請・出入国状況を把握することが容易になることから、テロ等の治安対策はもとより、不法入国等、当局側にとって好ましくない人物でないかどうかをスクリーニングすることが可能となる・・・のだと思う。

    オンライン申請ページを開き、先に進んでみると、申請者名入力の部分のすぐ下の「性別」ところには、male,female以外に「transgender」という区分があるのにはちょっとびっくりさせられる。

    それはともかく、この措置が開始されたばかりであるため、システムそのものに多少の問題があったり、申請センターのウェブサイトでの説明が足りない部分もあったりするのか、申請に出向いたもののオンラインでの入力内容に不備があるとされて、再度出向かなくてはならなくなったという話も耳にする。

    常々感じていることだが、インドにとって通常は特に問題のない日本その他国籍の人々について、こうした手続きの簡素化を進めてもらえないものだろうか。短期の滞在の場合、アライバルヴィザという措置はあるのだが、空港での手続きはスムースとはいえず、どうにかならないものかと思う。

     

  • ヤンゴンの往来にて

    ヤンゴンの往来にて

    往来にバイクの姿がないヤンゴンの街

    訪れるといつも「通りがずいぶんすっきりしている」と思っていた。渋滞がないわけではないが、アジアの大都市の中ではクルマがかなり少ないほうだ。だが交通の密度ではなく、何かが決定的に違うような気がしていた。

    他の旧英領の国々でよくあるように、路肩がゼブラに塗られていたり、コロニアルな建築物が多かったり、ダウンタウンから北に向かうと道路の両側に緑が多かったりして美しいのだが、マレーシアやシンガポールなどでも、そのあたりは似たような感じだし、それらの国々のほうが、ここよりよっぽどキレイに整備されている。

    夕方、ビールを飲みながらロンリープラネットの最新版ガイドブックのヤンゴンのチャプターを開いていて目に入ったのが「Motorcycle free」という見出しの短い記述。何年か前に、軍の高官を乗せたクルマがバイクに乗った者に攻撃されたのがきっかけにより、市内へのバイクの乗り入れが禁止されたとある。

    ミャンマーに限ったことではないが、言うまでもなくアジアの多くの地域でバイクは実用の足である。この国でも、ヤンゴンから出るとバイクは沢山走っているし、バス以外の公共の交通手段がバイクタクシーしかない土地も多い。

    所得水準が向上するにつれて、乗用車を購入するようになったり、あるいは趣味としてのバイクに乗ったりするようにもなるのだが、やはり自動二輪は市民の貴重な交通手段だ。

    バイクが走ることができない分、市バス網が発達しているという部分で埋め合わせされていると考えることはできるが、田舎町と違って格段に広がりのあるミャンマー最大の都市で、自前の交通手段があるかないかで、日々の利便性は比較にならないくらい違うだろう。

    おそらく行政区分によって「ここからバイク進入禁止」などと定められているのだろうが、その境界のすぐ外に住んでいて、バイクを所有している場合、目の前に広がる都市部に乗り入れることができないことにジレンマを感じずにはいられないだろう。「職場までバイクなら10分なのに、通勤時間帯のバスはひどく込み合っているし、回り道するから30分以上かかってしまう・・・」とかいうこともあるだろうし、禁止区域に入ってすぐのところに暮らしている場合など、それとは反対に自宅までバイクで戻ることができないので所有できないなどということもあるかもしれない。

    歩行者としては、クルマの間を縫うようにして飛び出してくるバイクがいないだけで、大通りはずいぶん渡りやすくなるのだが・・・。

    「通りがすっきりしている」と感じたのは、まさにそれゆえのことであったようだ。

     

  • インパールからマンダレー行きのバス

    5月27日から本日29日まで、ミャンマーを訪問したインドのマンモーハン・スィン首相は、首都ネーピードーにて同国のテイン・セイン大統領との間で、二国間関係の強化、とりわけ貿易や投資といった分野に加えて資源開発等に関する話し合いを持った。この場において、インドにからミャンマーに対する5億ドルの借款供与も決定している。首相の訪緬に合わせて、インドの産業界の代表団も同国を訪問するなど、今やブームとなったミャンマー進出について、まさに「乗り遅れるな!」というムードなのだろう。

    両国間を結ぶフライトの増便その他交通の整備も予定されているのだが、とりわけ注目すべきはインドのマニプル州都インパールと、ミャンマーのマンダレーを繋ぐバス路線の開設。当然のことながら、旅客の行き来だけではなく、様々な物資の往来のための陸路交通網の整備も下敷きにあると見るべきであるからだ。インドにしてみれば、自国の経済圏のミャンマーへの拡大はもとより、その他のアセアン諸国へと繋がる物流ルートの足掛かりともなる壮大な構想が可能となる。

    同時に、現在までのところあまり注目されていないが、ミャンマーとのリンクにより、これまでインドがなかなか活路を見出すことができなかった自国の北東州の経済振興にも大きな役割を果たすであろうことは誰の目にも明らかだろう。長らく内乱状態を抱えてきた地域だが、近年ようやく沈静化しつつあるが、特に期待できる産業もなく、中央政府にとっては何かと負担の大きな地域であったが、ここにきてようやく自力で離陸させることができるようになるかもしれない。

    インドとアセアンという、ふたつの巨大な成長の核となっている地域の狭間にあるミャンマーは、これまで置かれてきた状態があまりに低かっただけに、今後の伸びシロは非常に大きなものであることが期待できる。

    先進国による経済制裁が長く続いてきたミャンマーに対する諸外国の直接投資の中で、中国によるものがおよそ半分を占めていたが、隣接するもうひとつの大国インドが急接近することによって、ミャンマーは漁夫の利を得ることになるのだろうか。

    ヒマラヤを挟んで、印・中両国がせめぎ合うネパールと異なり、自らが所属するアセアンという存在があることも、ミャンマーにとっては心強い限りだろう。今後、経済制裁の大幅な緩和、いずれは解除へと向かうであろう欧米諸国のことも考え合わせれば、地理的な面でもミャンマーは大変恵まれている。

    本日、5月29日には、ヤンゴンにて野党NLDを率いるアウンサン・スーチー氏とも会談している。スーチー氏は、学生時代に母親がインド大使を務めていたため、デリーに在住していたことがあり、デリー大学の卒業生でもある。当時、インドの首相であったネルー家とも親交があった。彼女自身の政治思想に対してインドが与えた影響は少なくないとされる。

    印・緬両国の接近は、双方にとって得るものが大きく、周辺地域に対するこれまた良好なインパクトも同様であろう。今後末永く良い関係を築き上げていくことを期待したい。インパールからマンダレーへ、マンダレーからインパールへ、バスは人々の大きな夢と明るい未来を乗せて出発しようとしている。

  • ストランド・ホテルでハイティー

    ストランド・ホテルでハイティー

    シンガポールのラッフルズ・ホテルで供されるようなハイティー(軽食と甘味類のバイキング)を期待して、ヤンゴンのストランド・ホテルへ。

    ホテルのカフェに着いてから尋ねてみると、そういうスタイルではなく、セットになったものをウェイトレスがテーブルに運んでくるとのこと。欧州式とミャンマー式とがあると言われて、欧州式を注文。

    運ばれてきたダージリン・ティーは極上品。続いて出てきた軽食類は、三段になったステンレスの棚状のものに10品程度。どれもひと口サイズのアペリティフ類やケーキ等。まさに「午後の紅茶」といった具合、しめて17ドル。内容や味は悪くはないが、お買い得感はなし。

    1901年開業という、東南アジアを代表するヘリテージ・ホテルのひとつとはいえ、経営母体は、アルメニア人実業家、日本軍による接収、帝国ホテル、国営化、インドネシア人実業家へと変遷している。国営時代に、宿泊はしていないものの、レストランでコーヒーを飲んだ記憶がある。当時は、あまり手入れもされていないようで、非常に古ぼけた印象を受けたが、宿泊費は当時の私でも払えなくはない金額であったように思う。

    現在の経営陣になってからは、大改修が実施されたこともあり、「白人専用」であった開業時の如く、高級ホテルとして再生している。一泊550ドル以上もする。しかし、かなりモダンに仕上げてあるため、重厚な伝統を感じさせるといった具合ではないようだ。器そのものは、由緒あるものであっても、中身は普通の高級ホテルとなっている。

    それにしても、このクラスでありながら、WiFiが利用できるのはグラウンド・フロアーのロビーのみ、というのは如何なものか?他に競合するこのタイプのホテルが市内に不在(ここ以外のアップマーケットな宿泊施設は、今風のモダンなホテル)とはいえ、伝統にアグラをかいているという気がする。それでも、アグラをかくことのできる伝統があるというのが、このホテルの魅力と強みではあろう。

  • ヤンゴンのジャイナ教寺院

    ヤンゴンのジャイナ教寺院

    

    コロニアルな建物のジャイナ教寺院。

    先日述べたサティヤナーラーヤン寺と同じく29th Streetにジャイナ教寺院もある。こちらは信徒である年配のご兄弟が管理人をしている。一人はこの寺院を管理するトラストのプレジデント、もう一人はセクレタリーという形だが、同時にここのプージャーリーでもある

    お二人の話によると、ヤンゴンにて最盛期にはジャイナ教徒の人口は5千人を数えたという。だが今残っているのは二家族だけで、彼らはそのうちの一つであるとのことだ。寺院はコロニアルな建物に入っており、地上階はトラストの事務所、セカンド・フロアーが寺となっている。ファースト・フロアーも昔は祭壇があったとのことだが、今では使われていない。

    すでにほとんどのジャイナ教徒がこの国を去っているため、参拝客はほとんどいないそうだが、ときおりプージャーに参加するネパール人があり、いたく感激してくれるとのこと。しばらく事務所で話を聞いていたが、「さて、そろそろプージャーの時間ですよ!」と上階にある寺院へと招かれた。

    祭壇

    長い白布を左肩から斜めがけに付けてもらい、神殿正面に立ち、真鍮のお盆に灯明を載せたもの(火の数が多いものと少ないものと二種類あり、プージャーの間の節目ごとにセクレタリー氏が取り替えてくれる)を抱えて時計回り動かす。セクレタリーの人が朗誦するマントラを耳にしながら、感激がこみ上げてくる。これまでインドの寺院ではプージャーを背後から見物したこことは幾多あっても、こうした形で主体的な形で参加させてもらったことはなかった。しかもジャイナ教寺院で!

    信徒が二家族しか残っていないという割には、非常に良い状態で保たれている。

    事務所があるグラウンドフロアーとこの階との中間階、つまりファースト・フロアーもかつて寺であったが、今では使われることもなく、備品はすべて処分してしまったとのことだ。それでも奥の壁のニッチには、マハーヴィールの足跡のイメージがあった。

    この地に残る信徒は二家族のみということからも、まさに風前の灯といった具合のようだ。ご兄弟には複数の子供たちがいるそうだが、特にこの寺に関わりを持ってはいないとのこと。「若い世代は物の考え方など違いますからねぇ・・・」と、少々諦めている様子。だがその割には、ずいぶん綺麗に保持されていることには驚いた。国外からの援助でもあるのだろうか。

    「私どもの寺には150年の歴史があります」というご兄弟の言葉が本当であれば、第二次英緬戦争により、イギリスがヤンゴンを含む下ビルマを占領してから10年ほど後には、この寺院が建立されたことになる。多少の誇張が含まれているであろうことを差し引いても、19世紀末近くにはすでに存在していたことと思われる。この寺院は、ヤンゴンにおける「インド人史」の変遷を、つぶさに目の当りにしてきたことだろう。

  • ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    話は前後するが、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに行く前に、ヤンゴンのダウンタウンを訪れた。宿泊先から目と鼻の先だが、ダルガーの名前とおおよその場所をビルマ語で書いてもらうためである。ザファルのダルガーと言っても、通常タクシーの運転手は理解してくれないからだ。

    ベンガル系の人々が集うモスクから出てきた紳士然とした壮年男性に書いてもらった。「これで運転手はわかると思うけど、今行くのならば私が話をするが、後で行くならばこの人に運転手に説明してもらってくれ」と、付近の露店のインド系男性に頼んでくれた。親切な人だ。

    ついでにと、インド人街を散策する。インド人街でも、托鉢している坊さんや尼さんたちの姿は多い。明らかにヒンドゥーと見られる人たちも施しのために路上に出ている人たちが少なくない。朝早い時間帯から路上では茶屋が店開きしている。これまで国外のメディアで伝えられてきた暗いイメージとは裏腹に、とても社交的なムードがある。

    ヤンゴンのダウンタウンのインド人が多い地区で托鉢する坊さんたち

    植民地時代のコロニアル建築の建物に入っているシュリー・サティヤナーラーヤン寺の入口脇に、子供たちのためのヒンディーのレッスンについての貼り紙を見つけた。確かに、この地域では父祖の母国の言葉を使うことができる中高年は多いものの、若年層は理解しない人が少なくない。

    ヒンディーのクラスについての貼紙

    寺の入口にて、ヒンディーで会話している男性たち二人に声をかけてみた。ひとりは近所に住む人でも、もうひとりはこの寺の管理人であった。後者は、おそらく50歳くらいだろうか。先祖はUP出身で、彼自身はインド系移民五世であるとのこと。1962年のクーデター以降、この国の各地から大勢のインド系の人たちが本国やその他の国々に移住したということはよく知られているが、やはりこの街のダウンタウン界隈でも同様であったようだ。

    サティヤナーラーヤン寺

    「昔、このエリアはインド系の人たちばかりで、ビルマ人を見かけることさえ、ほとんどないくらいだったんだ。今とは全然違ったよ、あの頃は」

    ・・・というものの彼自身は、おそらくそのあたりの時代に生まれたと思われるため、実体験として「インド人の街」であったころの界隈を知っているわけではなく、おそらく両親からそうした話を聞かされて育ったのではないかと思われる。だが1962年のクーデターを境にして、インドの言葉(ならびに中国語)による出版が禁じられるなど、言語環境の面でも社会的な変化があったようだ。

    「インド系移民に関心があるならば、ゼーヤーワーディーに行くと面白いと思うよ。あそこではインドから来た人々が今も大勢暮らしている。住民の大半がそうだと言っていいくらいだ。まるで、ビハールやUPにでも来たような気がするはずだよ。先祖がそのあたりから来たっていう人たちがほとんどだし。まあ、主に畑仕事やっているところで、とりたてて見るものはないんだけどなぁ。」

    今回はそこを訪れる時間はないが、いつか機会を得て出かけてみたいと思った。

    南インド系の人たちも混住している。ドーサの露店が店開きしていた。
  • 再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    バハードゥル・シャー・ザファルの墓

    5年ほど前に、「最後のムガル皇帝、ここに眠る」と題して、ヤンゴンにあるムガル朝最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーについて取り上げてみたことがあったが、今回久しぶりに再訪した。

    場所はシュエダゴン・パヤーから比較的近い場所にあるのだが、ザファルのダルガーと言っても、インド系以外の人はわかってくれないことが多いので、ヤンゴンのダウンタウンで、インド系ムスリム男性にビルマ語で書いてもらった紙片をタクシー運転手に見せることにした。

    ダウンタウンからさほど遠くはないところにあるダルガーは、前回訪れたときのような閑散とした状態ではなく、まさに溢れんばかりの人々が集まっていた。何かと思えば、うっかりしていた。今日は金曜日で、昼の礼拝の時間に当たっているではないか。うっかりしていた。バハードゥル・シャー・ザファルは、ムガル最後の皇帝として、また高名な詩人としても広く知られているが、ここミャンマーのムスリムの間では聖人としても崇められており、ハズラトという尊称が付けられている。

    ザファルの本当の墓がある地下の部屋では女性たちが礼拝に参加しているので、入場は遠慮すべきかと思ったが、入口付近にいた男性たちによると、構わないというので墓石を見学する。地下室の天井の一部は吹き抜けになっており、上の男性たちが礼拝しているフロアーでの説法がちゃんと聞こえるようになっている。女性たちは必ずしも頭を覆っているというわけではなく、チャーダルを被っている人はごくわずか。ゆるい感じでいい。説法は主にビルマ語で行なわれているが、時にアラビア語のコーランの朗誦が入る。またときにウルドゥー語での話となることもある。かなり荒々しい口調だが、またしわがれていて品のある声やしゃべりかたではないが、とても勢いと力に満ちた感じがする。

    礼拝が終わるまで待とうと、境内のスナック屋でチャーイを頼む。ここの店主のみウルドゥー/ヒンディー語を理解する。他の人たち、主はに女性たちが働いていて、多少なりともインド系の血が入っていそうな顔立ちだが、言葉は通じない。現在、ミャンマーに暮らしているインド系ムスリムの人たちの間で、ウルドゥー/ヒンディー語が通じる相手とは、インド系コミュニティにどっぷり浸って生活している人たちか、そうでなければ極端に宗教熱心な人、民族意識が強くかつ教養もある人ということになるようだ。

    また、ミャンマー在住のムスリムの大半がインド系であることから、父祖の出身地が異なっていてもムスリムであるがゆえに共有するコトバという認識もあるらしい。すると、自動的に、日本人でもウルドゥー/ヒンディーを理解すると、やはりムスリムであろう思うようで、お茶を飲みながらしばらく話をした男性は、私を「日本から来たムスリム」であると紹介したりする。そうではないことを伝えると、彼らは少々残念そうな表情をしている。

    やがて礼拝が終了した。堂内に入って、風貌からはインド系とは見えないミャンマー人男性と知り合った。50代くらいではないかと思う。顔立ちは普通のビルマ人だが、先祖がインド系で、自身もインド系であると認識しているそうだ。35年間船乗りとして世界中をめぐり、現在ではアラビア語のチューターをしているとのこと。

    金曜日昼間のナマーズが終わってからも、1階にあるザファル、妻のズィーナト・マハルと彼らの娘の墓所(どれもレプリカである)で、モールヴィーが信者たちに説法を続けていた。地下の墓所では、墓にバラの花を降りかけて、カラフルで刺繍入りの布に包まれている墓石に上からもう一枚のカラフルな布をかけている。そして大量の香水を降りかけての儀式が執り行われていた。

    1858年にデリーからこの地に流刑に処され、失意の中で没したムガル最後の皇帝は、今もヤンゴンのインド系ムスリムの人々との絆を保ち、毎週金曜日には多くの人々を集めていることについて、心を動かされずにはいられない。

    金曜日の礼拝を終えて帰途につく善男善女たち