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カテゴリー: travel

  • ナガランド 4 コノマ村

    ナガランド 4 コノマ村

    山の上の街州都コヒマから平地にあるナガランド最大の街ディマープルへと続く国道39号線を途中で逸れると未舗装のひどい悪路となる。モンスーン期には小型車での走行は不可能となり、バスかスモウ(大型の四輪駆動自家用車)のようなクルマでなければ通行できなくなるという運転手の言葉に頷くしかない。

    ターター社の小型車インディカにて、文字通りバンバン跳ねながらの走行。幾度も車内天井に頭をぶつけてしまう。こういうタイプの車両で移動するような道ではない。クルマが壊れるのではないかと思うくらいだ。窓を閉めているものの、車内はどこからか侵入してきた土埃でたちまち一杯になる。 ジャングルの中のダートのようなひどい道を進んで1時半半くらいでコノマの村が見えてきた。縦に長く、斜面に広がるこの村は、両面の斜面に家々が張り付いている。まるでコヒマをそのまま小さくしたかのようだ。どこまでも丘陵地が続くナガランドでは、町や集落はたいてい小高いところに造るもののようだ。

    ナガランドの村は小高いところにというのが定石らしい。
    日中は人々の姿が見えない村

    ずいぶん静かな村であった。そもそも村の主であるはずの人々の姿がなく、突如として蒸発してしまったかのようで気味が悪い。まったく人気のない村の中を進んでいくと、ようやく幼い子を遊ばせる母親の姿があってホッとする。

    村の中には伝統的なナガの家屋は一軒もないようで、コヒマ郊外にあるような感じのごく普遍的な木造の家屋が大半で、これらに加えてインドの他の地域にあるような普遍的なレンガ積みの建物が少々といった具合。村のあちこちに展望台のようなものがあり、そこがちょっとしたスペースや広場のようになっている。焚き火の跡もあり、夕方そのあたりに人々が集ったりするのだろう。

    共同の水場がいくつもあり、近隣のより小さな村から出てきた学齢期の子供たちを住まわせるホステルもあることに加えて、村の中の細い路地のかしこに小さなゴミ箱が設置されており、チリひとつない清潔な環境であることにびっくりした。想像していたよりもずっと文化的だ。それぞれに政府のプロジェクトで作ったことを示す記号らしきものが書かれていることから、活発な反政府活動が続いてきたナガランドだけに、政府が民生の向上に対する貢献をアピールするためのプロパガンダ的な要素があるのかもしれない。

    広場を中心にいくつかの家屋が集合しているものもある。一族で暮らしているのだろうか。そうしたひとつで、少年、青年がいた。こういう村でもちゃんと英語を話す人がいるのはナガランドらしいところだ。食事中であった彼が言うには、人々は朝早くから田畑に出て仕事をしているため、日中の村の中には幼い子供を持つ母親くらいしかいないとのことだ。

    比較的大きな村ではあるものの、店らしいものは見当たらない。村人たちは日用品をどうやって調達しているのだろうか。衣類などは町に出て購入するにしても、石鹸、洗剤、調味料といった毎日使うようなのは、どこかでまとめ買いしておくのだろう。

    村は細い丘の上にある。真ん中を縦貫する階段の通路があり、周囲をぐるりと回る道路が囲んでいる。インドのどこでもそうだが、村を訪問する際に嫌なのは犬だ。町中に住んでいる犬たちと違って、ヨソ者に慣れていないため盛んに吠え付いてくるし、これまたしつこい。太陽が高いうちのコノマの村はほとんど無人状態だ。野犬たちの群に囲まれたら、素手だとちょっと危険かもしれないと思い、カバンから折り畳み傘を出しておいたが、一匹の野犬もいないのが意外であった。州都コヒマでも妙に野犬が少なく、人を見かけると逃げるように迂回してしまう姿を目にして、ちょっと不思議に思っていたが、そのあたりについては、後日触れることにする。

    家屋の中には、英語で売りに出しているということを書いた紙が貼られているものがあった。こういうところで、つまりアンガミー・ナガの村であるがゆえに、他所から関係のない人が移住してくることはないだろう。だが、もしこの村が観光化されていくことがあれば、マナーリーのヴァシシュトのようになるのではないだろうか。

    最初は地元の人々がゲストハウスや食堂などを始めて、外国人その他の観光客の出入りが増えてくると、地元の人々もこなれてきて、他所からの商売人も入ってくる。そうしたところで雇われて働く人々にはナガ以外の人たちも入ってくる。そうしたプロセスを経て、いつしか他所の人々も含めた小さなコスモポリタン的な集落になり、観光客たちが「沈没する」場所になっていくようなこともあるかもしれない。RAPが恒久的に不要となれば、インド長期滞在旅行者たちが集う場所となることが予想できる。彼らは何か特別なものが、何か特に見るものがなくても、こうした牧歌的な風景の中でゆったりと時間を過ごすのが好きだからだ。

    村の周囲には段々畑や棚田が広がる。インド人たちの姿はない。見かけるのはナガの人々だけである。インド人たちと違い、外国人が来てもチラチラと見てはいるものの、好奇心剥き出しに近づいてくることはない。大人も子供も、こちらが声をかけると、はにかみながら返事をしてくれる。

    村の中心部にあるバプティスト教会前の広場には、戦争で亡くなった人たちに対する慰霊塔がある。この戦争とは、旧日本軍の侵攻ではなく、ナガの独立戦争のことである。石碑には死者の名前が刻まれており、上部には青地に星と虹を描いた「ナガランド国旗」が描かれている。

    内戦による戦死者たちへの記念碑

    政府の様々なプロジェクトが実施されているこの村の玄関口に、こうした記念碑が建立されていることにいささか驚いた。だが、こうした村の中にあるこうした石碑は、たいていナガの言葉で書かれているもののようだが、これは英語で記されている。ひょっとすると、和解を演出するために行政側が建てたのでは?と疑いたくなる余地もある。

    それでも、コノマの村も内戦とは無縁ではなかったこと、ここから多くの戦士を出していることがわかる。内戦時代にはとても危なくて近づくことはできなかった場所なのかもしれない。内戦が激しかった時代には、州内を走るトラックやバスは前後に軍用車の護衛をつけてコンボイを組んで山道を走っていたという。それも上り坂で速度が落ちたところを襲撃されていたという話を聞いたことがある。

    ナガランドは、総体として和平への方向にあり、それが進展してきたがゆえに、こうしてRAP無しで入域できるようになっているわけだが、これが恒久的なものであって欲しいと願いたい。

    <続く>

  • ナガランド3 コヒマ戦争墓地

    ナガランド3 コヒマ戦争墓地

    War Cemeteryからコヒマ市街地を望む

    坂道の街、コヒマの街並みを眺めるのに絶好のロケーションにコヒマ戦争墓地がある。インパールのものと同様、ここも第二次大戦時の日本軍によるインパール作戦により亡くなった兵士たちを埋葬してある墓地だ。英連邦戦争墓地委員会(CWGC:Commonwealth War Graves Commission)が管理しているという点も同じならば、墓標のタイプも同一である。

    ただ違うのは、インパールでは死亡日ごとに固めて埋葬されていたが、ここでは所属連隊ごとになっている点だ。それでも亡くなった日はたいてい特定の日付に集中していることから、それらの日に大きな戦闘があったものと理解できる。

    インパールの墓地同様に、ここでも地元の連隊以外に、亜大陸各地の連隊所属の兵士たちはもちろんのこと、当時の英領インド以外のイギリス植民地から派遣された兵士も多かったことが墓標からわかる。カナダから来た兵士の名前もあった。無理を承知で作戦を敢行した旧日本軍兵士だけではなく、防衛する側にとっても非常に重要かつ困難な戦いであったことを示している。

    インド兵の墓標はほとんどがムスリムだが、一部にグルカ兵の名前もある。スィクやヒンドゥーのインド兵死者については、墓地の最も奥にある石碑に所属連隊ごとに氏名が刻まれている。彼らが火葬されたことも記されている。兵士以外にも軍医、運転手、その他軍属の仕事をしていた人たちも墓標や石碑に名前が刻まれている。

    欧州系の兵士とともにインドのムスリム兵士の墓標も多い。
    当時英領であったマレー半島の連隊から派遣されて亡くなった英兵の墓標。
    墓を作る習慣のないヒンドゥー兵士、スィク兵士については、個々の名前を記した記念碑がしつらえてある。

    墓地の出口付近に掲げられていた一文が胸を打つ。

    WHEN YOU GO HOME

    TELL THEM OF US AND SAY

    FOR YOUR TOMORROW

    WE GAVE OUR TODAY

    無為な戦争のために命を落とさなくてはならなかった当時の若者たちはさぞ無念であったことだろう。攻撃を仕掛けた側の兵士も、防衛していた側の兵士も。

    第二次大戦に従軍した世代の人々がとうの昔に社会の第一線から退き、しかも大半が鬼籍に入りつつある今、あの戦争のことを一人称で語る人は身の回りにほぼいなくなっている。残酷な事実も血生臭い現実も、時間の経過とともにリアリティーが失われていき、過去の歴史の中のひとつの叙事詩のようになりつつある現在、NHKアーカイブスのような映像・音声による記録は貴重なものとなっている。

    [証言記録 兵士たちの戦争]インパール作戦 (NHK 戦争証言アーカイブス)

    http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210021_00000

    戦争という過ちについて、私たちの世代はもちろんのこと、更に後世の人たちもこれを美化することは決してあってはならない。

    <続く>

  • ナガランド2 キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村

    ナガランド2 キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村

    コヒマの早朝

    朝早く6時くらいに目覚めても、すでに陽はすっかり上っている。さすがインド最東端エリアだけのことはある。まず外出して、この街で一番高いホテルということになっているジャプフー・ホテルに行く。もともとはジャプフー・アショークと呼ばれていたアショカグループのホテルであったが、5年くらい前にナガランド政府系の会社に売却されたとのこと。公営の施設が民間に売却という例はどこの国でも近年多いが、反対に民間施設を公営企業に売却というのはあまりないように思う。

    ホテルへの道すがら、あるエリアでインドの平地から来たとおぼしき人々が道路脇に大勢立っている様子が目に入る。やがて一台、また一台とトラックがやってきて、彼らを乗せて出て行く。おそらく工事現場等で雇われている人たちだろう。見るからに経済活動が低調で、地元の人々に就業機会があまりなさそうなコヒマだが、3K的な仕事場で下働きをする人々は他州から来た人々が多いようだ。他州とは北東インドの外の地域、大概はビハール、UPの両州のことである。

    クリスチャンが多いナガランドでは、トラックもそれらしい仕様になっている。
    トラックが頭上に頂くのはジーザス。

    同行のL君は、目下抱えている仕事の関係があり、私と同じくコールカーターで契約したプリペイドのvodafoneのネット接続プランが、コヒマではまともに使えないことがわかったため、Wi-Fiが利用できることになっているジャプフー・ホテルのネット接続環境の検証のために訪れた。ロケーションとしてはベストだ。街中で最も標高の高いところに鎮座するナガランド警察本部の真正面にある。周囲の眺めはもちろんのこと、給電の優先度も高いはずだ。だがレセプションその他の従業員の緩慢な動きは、やはり政府系のホテルという感じがする。とりあえずここのレストランで朝食を取ることにした。

    仕事の締め切りが迫っている関係で一日中ホテルに缶詰めになるL君には申し訳ないのだが、私は一人で観光に出かける。本日向かうのは、キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村だ。どちらもコヒマから南下してマニプル州境に向かう道路沿いにある。

    キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジは、文字通りナガランドの生活文化を再現したテーマパークである。ナガランド州の主要民族であるナガ族には、アンガミー、アオ、コニャク、レングマー、ローター等々、様々な支族があるのだが、そうしたコミュニティの様々な家屋がしつらえてある。屋根の材料がよしずであったり、石板であったりといろいろある。壁材も竹、木材、竹のようなものを編んだもの等、いろいろなバリエーションがあることがわかった。だが残念なのは、部族ごとの特徴や生活文化の違い等を説明する案内文や博物館のようなものもないことだ。それぞれの家屋には部族名の表示はしてあるのだが。そのあたりがある程度把握できるようにしてもらいたいものだ。

    ちょっとイマイチのキサマ・ヘリテージ・ヴィレッジを後にして、キグウェマ―の村に行く。さきほどのヘリテージ・ヴィレッジで見たような伝統的な家屋があることを期待していたが、そうではなかった。道路に面したところに垣根のようにして薪が積んであることを除けば、インドの山間のどこにでもあるような感じの村である。ただ家屋のたたずまいはこのあたりらしく、東アジアをも彷彿させるような感じではある。

    さほど人口が多いとは思えない村だがいくつもの教会がある。人々の家屋のたたずまいに比して、教会の建物は外から見る限りではなかなか立派だ。ナガランドでは、バプティスト系の教会がとても多いようだが、国外からの資金流入もあるのではなかろうか。村から遠くコヒマの街を望むことができる。村の周囲には段々畑が広がる。

    村では工事をしているインド人(北インド人)労働者たちの姿があり、声をかけてみるとビハールからとのこと。ナガランドでは地元の人たちに仕事がないが、こうして外から来る人たちの姿は多いようだ。だからといって地元の雇用機会を奪っているとは言えないのかもしれない。インド各地で共通していることだが、ビハールから来た労働者たちは、地元の人々がやりたがらない汚れ仕事等を低賃金で引き受けてくれていることを忘れてはいけない。

    夕方、コヒマに戻る。宿泊先のホテルがある地域は、コヒマの街そのものの起源のコヒマ・ヴィレッジと呼ばれるエリアであり、こんなゲートがしつらえてある。

    コヒマ・ヴィレッジのゲート

    坂道を上った先のほうには、T – Khelなるものがある。元々、コヒマ・ヴィレッジには、D (Dapfütsumia) Khel、L ( Lhisemia) Khel、P ( Pfüchatsumia) Khel 、T (Tsütuonuomia) Khelと四つのKHELがあり、住民たちはその四つのKHELのいずれかに所属することになっており、現在でもその活動は盛んであるそうだ。Khelとは、町内会的な役割加えて、同属会とか結社のような性格もあるようだ。

    T – Khel入口

    <続く>

  • ナガランド1 コヒマ到着

    ナガランド1 コヒマ到着

    インパールのClassic Hotelにて、利用した部屋の二人利用での宿泊費は、種々の税金が加算されておよそ3,000Rs(約4,700円)なのだが、この価格帯のホテルとしてはあり得ないほど、サービスやマナーが優れていた。いくつかのタイプの部屋があり、料金はこちらをご参照願いたい。

    同行しているL君は「インパールで一番のホテルということは、政治家や実業家その他の要人の利用も多いんじゃないかな。だから従業員への教育がしっかりしているんだと思う。」と言う。まさにそのとおりなのだろう。宿泊、食事は言うに及ばず、立派な会議室や宴会場も用意されている。2009年開業と新しく、客室が快適であることはもちろんのこと、階下のレストランもリーズナブルかつ美味でとても良かった。今、私の記事を読んで下さっているあなたが、インパールを訪れることがあれば、ぜひこのホテルに投宿されることをお勧めしたい。辺鄙な地方ではあるものの、『州で随一』のホテルが、この程度の料金で利用できるというのも、あまりないことである。

    朝食を済ませてから、ホテルの界隈から出発するナガランド州都コヒマ行きのバスに乗り込む。バスは宿近くの交差点あたりから午前8時発の予定であったが、乗客が集まって発車したのは結局9時くらいになった。周囲を山に囲まれた盆地にあるインパール市内を出たところで、時間的には出発から20分ほどのところで、バスはいきなり休憩時間に入り、運転手や乗客たちが食事を始めてしまったので、ちょっとびっくりした。これは朝食ではなく、中途で食事できる場所がないため、これは昼食なのだという。この場所には二軒のレストランがある。

    市内を出たと思ったらいきなり昼食休憩

    この日、コヒマまで6時間ほどの行程の中で、他州と違って街道沿いにいくつか食堂が軒を並べているような場所はなかった。私とL君は、乗車前にインパールのホテルの朝食バフェでたらふく食べてきたばかりであったので、やけに早い昼食をパスした。

    40分くらい停止した後、バスは出発する。運転手が食事を終えて、チャーイをすすって、タバコに火を点けて紫煙を燻らせて満足したあたりで、運転席のドアをガチャリと開けて、クラクションを鳴らして『出発するぞ!』と乗客に招集をかける専制君主的な態度は、全インド共通のものである。

    今回、ひとつ気掛かりなのは、『専制君主』が手慣れた感じのオジサンではなく、そもそも免許取得年齢に届くかどうかといった外見の、非常に若い運転手であることだ。今日のバスは、インパール始発、コヒマ経由でディマープルまで行くものだ。

    この食事の場所から山地に入る。しばらくは上り坂だ。道路はかなり悪く、揺れが大きい。ときおり軍用車両を見かける。複数の車両が固まって走っており、兵士たちは防弾チョッキを着ている。また銃を背負うのではなく常に前に構えており、走行中の車両から複数の兵士が天井の窓から上半身を出して、銃を外に向けて警戒していることなどから、他州の軍駐屯地ののんびりした雰囲気とはまったく違う。

    どこまでも続く丘陵地

    山間の道をバスは進んでいく。ヒマーチャル・プラデーシュ州のような急峻な崖を想像していたが、もっとゆるやかな丘陵地であった。だが道路の交通量は、ヒマーチャルに比較して格段に少ない。途中の町々は、やや大きめのものはあったものの、相対的に発展から大きく取り残された貧しい地域であることは明らかだ。スィッキムやヒマーチャルと地理条件には少々似たものがあるとはいえ、ずいぶん遅れていることが見て取れる。沿道には、 長距離バスが停車して食事を取るような安食堂さえ見当たらない。

    どのあたりからナガランドなのかと思っていたが、マニプル州都のインパールからナガランド州都コヒマまでの全行程6時間のうち、ナガランドの州境を越えたのはコヒマ到着の1時間前であった。チェックポストがあり、「ナガランドへようこそ」と書かれたゲートがあった。そこからしばらく走るとコヒマの街が斜面に見えてきたのだが、コヒマ到着まで1時間近くかかった。山間部なので道路が大きく迂回しているためだ。

    コヒマはかなり大きな街だ。ここに来るまでの山間部では他のインドの地域とは異なる感じの家々があった。・・・と言っても、ナガ族独特のスタイルの家屋があったわけではなく、木造の三角屋根の建物という意味)が大半であった。だが街に入ってくると、シムラーやダージリン等、他のヒルステーション同様の街並みとなる。現代のインドの建材と工法で建てるので、結局そういうことになるのだろう。

    ホテルはRazhu Pruという、何と発音するのかよくわからないホテル。ナガの言葉はローマ字で表記されるが、ウムラウトが付いていたりすることから、発音はなかなか複雑なのかもしれない。68年前に建てられたというクラシカルな洋館である。

    ロビー周りはなかなかいい感じに飾ってある。

    チェックインしてから部屋に荷物を置いて外出。斜面を下るとマーケットがある。しばらく散策しているうちに日が沈み、辺りは暗くなってくる。そして周りはすっかり真っ暗になってくる。つまり街灯がないからだ。まだごくわずかに開いている店では蝋燭を点している。どこも行くところがないし、帰り道もわからなくなるので、そそくさと宿に戻る。

    街の中心近くだが、街灯はほとんど無いため、陽が沈むとそのまま闇に包まれてしまうのが困る。

    宿ではナガ式の夕食を注文する。ブタとチキンの煮物、そして何か発酵調味料のはいっているスープ、ご飯とデザート。発酵した味の正体が何だかよくわからない分、旨いのか、そうでもないのか、ちょっと微妙な感じだ。

    ナガ料理の夕食

    夕食前にはネットが繋がっていたものの、その後はまったくダメになった。Vodafoneの3G通信のUSBスティックを持参のノートパソコンに挿しているのだが、州都でありながらもまったくもって不安定である。その後、長い停電があった。窓の外に見える向こうの斜面の街並みでは煌々と灯が点いている。翌日歩いてみてわかったのだが、政府機関、軍施設、有力政党の事務所等がある地域であった。

  • マニプルへ6  マニプリー・ターリー

    マニプルへ6  マニプリー・ターリー

    市内中心に戻り、カングラー・パレスに行く。1891年のアングロ・マニプリ戦争で破壊されるまでは、マニプルでマジョリティを占めるメイテイ族の王の宮殿であったのだが、今は特に見るべきものは残されていないようだ。

    背後はただの廃墟であった。

    民族文化の象徴的なものであるはずのこの場所だが、荒れ放題の宮殿跡地、近年造られたらしいコンクリート造の寺・・・。あまりの無頓着ぶりに、地元の歴史や文化に対する政府(中央政府も地元政府も同様に)の姿勢が垣間見えるような気がする。インドにしても、中国にしても、突出して巨大な文明圏の周辺地域の文化は、往々にしてかように軽視されていくことになるのだろうか。市井の人々にも、それらを保護して育てていく力も経済力があるはずはないので、仕方ないことかもしれない。

    マニプルに来るまで知らなかったのだが、メイテイ族独自の文字がある。私たちにとって見慣れない文字だ。インドにあっても、州外でこれらを目にする機会はまずないだろう。

    本日の観光とはあまり関係ないのだが、インパールではガソリン等の燃料の供給が不足しているらしく、ガソリンスタンドはどこも長蛇の列であった。

    ガソリンスタンドは長蛇の列

    夕方、ホテルのレストランでマニプリー・ターリーを食べた。通常の外食では、地方料理はあまり出していないようである。ここでも前日から注文しなくてはならなかった。どんな食事かといえば、結局は品数がターリーである。遠目にはインドでよくある料理風なのだが、近寄って眺めるとこの地方独自のアイテムが沢山あることに気が付く。汁物が竹の葉を折って作った容器に入って出てくるのも風雅な感じで良い。

    見た目美しく、味わいもまた美味なマニプリー・ターリー

    特徴的なのは、料理に使われている油の量が少ないこと、味付けに豆や魚を発酵させたものが使われていることである。乳製品はおそらくあまり使用されていないのではないかと思われる。インドらしからぬ味覚で、東南アジア的、あるいは東アジア的ともいえる臭みのある食事については、韓国人のL君と日本人の私にとっては判りやすい味であったが、地域外からやってきたインド人や西洋人は苦手かもしれない。ともあれ、私たちにとってはグルタミン酸たっぷりの素晴らしい味わいであった。

    あまりに美味であったので、これからインパールを訪問される方があれば、ぜひお試しいただきたい。レストランは、インパール一番高級、すなわちマニプル州でも最高級(それでも二人で宿泊して3,000Rs)と思われるHotel Classic内のClassic Caféというレストラン。サービスもとても良いが、午前中から夕方までの時間帯には、『ミス・ノースイースト』と形容したくなる絶世の美女がフロアに出ている。

    マニプル発のニュースは、インド国内でも州外ではほとんど見かけないので、日々どんな事柄がトピックになっているのか、なかなか知る機会がない。それでも、やはりインドなので英文メディアには事欠かず、インターネットでも日々発信している。

    以下、マニプルの英語メディアの代表的なものである。

    E-PAO

    The Sangai Express

    HUEIYEN LANPAO

    Imphal Free Press

    Kangla Online

    マニプル州に多少なりともご関心のある方は、時々覗いてみるといいかもしれない。

    <完>

  • マニプルへ5 インパール戦争墓地

    マニプルへ5 インパール戦争墓地

    インパール市内に戻り、インパール戦争墓地を訪れる。ここは英軍(ならびに連合軍)側の墓地だ。中国国民党軍への援蒋ルート遮断のため1944年に実行に移されたインパール作戦は、あまりに杜撰かつ無謀なものであったということが後世の評価として定まっている。

    だが1941年から1942年にかけての旧日本軍によるマレー作戦、シンガポール攻略、同時期にビルマへの強襲といった立て続けの攻撃により、これらの地域から駆逐されるという辛酸を舐めてきたイギリス側にとっては、非常に強い恐怖を持って迎え撃つことになったことは想像に難くない。

    強敵の旧日本軍による侵攻であることとともに、彼らがスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)とともに進軍してきたということは、当時独立機運が頂点に達しつつあったインドの内政面でも大変憂慮されるものであったはずだ。

    そうしたこともあり、当時の英軍は各地から兵力を増強して、総力戦で当たったことが墓石に刻まれた墓標からもうかがえる。埋葬されている兵士たちは、地元インドの様々な連隊所属のインド兵、グルカ兵たちとともに、遠くマレーシア、ローデシア、東アフリカに駐留する連隊からやってきたイギリス兵、各地植民地軍の地元兵の名前もある。

    アッサム連隊所属の兵士
    ガルワール連隊所属兵士
    パンジャーブ連隊所属の兵士
    ハイデラーバード連隊から来た兵士
    亡くなった兵士がヒンドゥーであったことを示すシンボルが彫られている。
    ユダヤ教徒の兵士
    マレーシアのカメロンハイランド連隊所属兵士
    ケニア連隊兵士
    東アフリカ出身の黒人技術者
    北ローデシア(現ザンビア)連隊の兵士
    イギリス本国兵士
    イギリス本国兵士

    墓石は亡くなった日付ごとに並べられていることから、どの日に大きな戦闘があったのか、おおよそ判るようになっている。その中で所属連隊ごとに配置されているのだが、中には中国人の名前もあった。どういう経緯で戦闘に参加することになったのかわからないが、香港の植民地軍出身か、あるいはビルマで英軍と共闘していた中国国民党軍関係者だったのか?

    中国人の名前が刻まれている。
    無名戦士の墓標。クリスチャンであったことを示す十字架だけがアイデンティティだ。

    この墓地は英連邦戦争墓地委員会(CWGC: Commonwealth War Graves Commission)が管理しており、見事なまでに美しく整備されている。

    <続く>

  • Galaxy Tabその後

    Galaxy Tabその後

    Galaxy Tab

    先日、コールカーターでGalaxy Tab GT-P1000を購入したことについて書いてみたが、その使用感について触れてみたい。

    タブレットPCとしての機能・動作については、同じアンドロイドOSを搭載している他機種との違いといえば、せいぜいハード面でのスペックの差による動作感の違いくらいしかないだろう。また日本国内で購入したものと異なる点として、定評のある電子ブックリーダーのi文庫など、いくつかのアプリケーションがインストールできないといった点はあるものの、基本的には同じである。

    これを購入した理由として、タブレットPCとしての機能に加えて、SIMフリーの携帯電話機として利用できることと、3G回線が利用できることにより常時ネットが利用可能であることあった。これらの役割を兼ねて、画面が電子書籍を読みやすく、携帯しても邪魔にならない7インチ程度となると、韓国のGalaxy Tab以外にはインドのReliance社の3G Tabくらいしか思い当たらないため、選択の幅はかなり狭かったのだが、結局前者を選択して充分満足している。

    3Gで使用できるマップ機能はとてもありがたい。ガイドブック等に地図のない街を訪れた場合、歩いたり自転車を借りたりして回れるような小さなところならば構わないのだが、郊外に出かけたりする際に位置関係がわかるとそれはそれで楽しいし、人口百数十万から数百万規模の大きな街だったりすると、かなり助かる。

    これらに加えて、現時点のインドの通信環境において、こうしたスマートフォン/タブレットPCにて、3G通信をガンガン使ってしまうと費用がかなり割高になってしまうのが難ではあるが、テザリング機能とアクセス­ポイント機能があることも好ましく思える。

    テザリング設定画面
    Galaxy Tabをアクセスポイントとして、他のデジタルデバイスをWi-Fi接続することもできる。

    元々、アンドロイドOSには、こうした機能が標準装備されているのだが、スマートフォンでのデータ通信が定額で提供されるのが普通であり、これらの急速な拡大で回線がパンク寸前にある日本では、キャリアを通じて販売されているモデルの場合、これらの機能が利用できない仕様になっている。

    日本で、最近はテザリング機能を売りにするスマートフォンが出てきているが、それらはキャリアの3G回線ではなく、抱き合わせで契約させているWIMAX回線でテザリングするようにしてある。

    これが電源アダプタ。かなり大型である。

    充電方法に少々難がある。かなり大きくてかさばる専用の電源アダプタ以外からは充電できない(正確に言うと、できるのだが4倍くらい時間がかかる)ことだ。USBケーブルでPCやUSBコンセントに接続して充電しようとすると、宵の口から朝までかけてようやく満タンという具合になってしまう。

    もっともこれに対して、日本ではGalaxy Tab 充電USBアダプタというものが販売されている。これをUSBケーブルの先端に付けると、ちゃんと通常の時間で充電される。同様のものがインドでも販売されているかどうかは確認していないが、専用のアダプタがあまりに大きいので、これはぜひ手に入れたい。

    Galaxy Tab 充電USBアダプタ

    こうしたデジタル製品の世界で諸事情の変化は急速だ。私が購入した直後にリリースされた後継機Galaxy Tab 7.0 Plusは、発売当初から先代機の販売期間末期と同程度の価格設定となっているのが少々悔しい。すぐに出てくる新型機はかなり高価であろうと踏んだため、すでに生産終了になった型落ち機種を購入したのだが。タブレットPCの価格競争が激しさを如実に反映しているのだろう。

    インドでこれよりもはるかに低価格にて、同様の環境(タブレットPC+通話機能及び3G通信)を手に入れることも可能だ。そのひとつが以前書いたReliance社から出ているReliance 3G Tabであり、もうひとつがSpice GlobalのSpice Tab Mi-720だ。これらインド製のものは、安いなりに造りがチャチではあるものの、『どうせデジタル製品なので末永く使うわけではない。もっといいモノが出ればそのときに買い替えるのだから。』と割り切ってしまえば、これらを選択するのも悪くないかもしれない。

    当然のことながらどちらも初期状態では日本語環境はないが、SamsungのGalaxy Tab同様にAndroid Marketから日本語のIMEをダウンロードして組み込めば、普通に日本語での入力等できるようになるはずだ。だがGSM通信環境下、つまりCDMAの通信環境での利用も視野に入れている場合、SamsungのGalaxy Tabならば問題ないのだが、RelianceとSpice Globalの場合は対応していない可能性が高いので、購入される際には店頭等でご確認願いたい。

    ※『インパールへ5」は後日掲載します。

  • マニプルへ4 Japan War Memorial

    マニプルへ4 Japan War Memorial

    モイランの町の食堂で簡単な昼食を終えて外に出るとクルマがいない。運転手の携帯にかけてみると、『警官に移動を命じられまして・・・』などとブツブツ言いながら、店の前に戻ってくる。どうせ小一時間くらいはヒマになるとみて、テキトーにフラついていたのだろう。

    ともあれ、携帯電話の普及は、こうした運転手たちにとって、得意先(ホテル、旅行代理店その他手配師等)から話がダイレクトに飛び込んでくる効果があったり、私たちのような一見の客が「それじゃあ明日もよろしく」と依頼したりすることもありえるなど、より多くの仕事の機会を得ることを可能にしたといえる。同時に、運転手としての仕事の中での空き時間の自由度が増したという副次的な効果も生んだということにもなるだろう。

    Japan War Memorialの記念碑

    国道150号線でインパールに戻る途中にあるJapan War Memorialを見学。この場所にあるのは、気まぐれでも地価が安い(市街地から遠く離れている)からでもなく、まさにこの場所が戦跡であるからだ。War Memorialのすぐ裏手に通称「レッド・ヒル」と呼ばれる丘があるが、往時の日本軍はここに一時的な拠点を構え、道路と反対側のより小さな丘には英軍が集結していた。この狭いエリアで両軍入り乱れる熾烈な戦闘が展開された。両軍の大勢の兵士たちが血を流したことから、レッド・ヒルと呼ばれるようになったのだという。

    「レッド・ヒル」と呼ばれる背後の丘

    比較的新しい現代的なモニュメントは平成6年に造られたものだ。日本の建築会社が施工したことを示すプレート等がはめ込まれている。清掃は行き届いているものの、おそらく建造されてからきちんとしたメンテナンスはなされていないのだろう。かなり荒れている印象だ。

    「レッド・ヒル」から見て道路を挟んだ向こうにある丘に英軍が陣取ったのだとか。

    その背後には、モニュメント建造以前からの慰霊塔があり、日本軍の残した砲身も残されていた。砲身に刻まれている文字は錆で消えかかっているが、それでも何とか「大阪・・・昭和16年・・・」と、部分的に読み取ることはできる。

    慰霊塔
    旧日本軍が使用していた重機
    「大阪・・・昭和16年・・・」とかすかに読める。

    ここの管理人は話好きな人で、いろいろ話してくれた。もちろんこの人は戦時を知る世代ではなく、人々から伝え聞いた二次情報、三次情報なのだが、当時の戦闘の事柄はもちろんのこと、ここを訪れる日本の戦友会の人々のこと等について、いろんな予備知識を披露してくれた。

    後世の私たちから見れば、無益な戦争のため、不幸にして往々にして若い年齢で亡くなった兵士たちに善悪の区別はない。出身国の異なる同年代の人々が、戦場という場所でたまたま敵味方に分かれて対峙したばかりに、上官の命令に従って殺戮を繰り広げるという理不尽さ、戦争という国家による愚かな過ちが今後繰り返されることがないように願うばかりである。

    だが過ちであったということ自体が風化してきて、日本が過去にかかわった戦争やそれにまつわる犯罪行為を美化するかのような風潮が高まりつつあることについて、懸念を抱かずにはいられない。

    日本で、原爆記念日、終戦記念日といった時期にさしかかると、テレビでは戦争にかかわる記念番組が放送されるのは毎年のことだが、今や戦争体験を自らのものとして一人称で語ることのできる人がとても少なくなった。こうした世代が社会の第一線から退いて長い時間が経過していること、その体験を伝える声が世の中の人々に届かなくなって久しいことも大きな要因のひとつだろう。

    慰霊塔の碑文
    慰霊塔の碑文
    慰霊塔の碑文

    インパールのJapan War Memorialには、かつてインパール作戦に従軍した兵士たちの様々な思いが詰まっているに違いない。この地で無為な戦闘のために大切な命を失った両軍の関係者たちに黙とうを捧げたい。

    慰霊碑

    <続く>

  • マニプルへ3    ロークターク湖

    マニプルへ3 ロークターク湖

    アレンジしておいたクルマで郊外に足を伸ばす。朝から夕方まで一緒に過ごすことになる運転手なので感じの良い人だといいなと思っていたら、まだ若いがきちんとした男性であった。

    インパールから南へ45kmのモイランという町に向かう。実は昨日のフライトで上空から眺めると湖に妙な輪がいくつもあることに気が付いていたのだが、それが何という場所なのかわからなかった。

    本日、訪れることにしていたロークターク湖について、L君がGoogleの衛星写真で検索してみると、面白い景色が見えるという。画面を覗いてみると、それがまさに昨日の飛行機から見えた湖らしい。沢山の浮島があり、それが観光名所にもなっているということは知っていたが、こんな風に円状のものが、それこそ無数にあるとは想像さえしなかった。中には家屋のようなものが建てられている浮島もある。

    ロークターク湖全景 湖水上にポツポツと何かが広がっている様子が見て取れる。
    無数の輪がそこここに見られる。
    拡大するとこんな具合。家屋のようなものもある。

    ロークターク湖沿いにはいくつか集落があるが、ちょうどINA戦争博物館があるとのことであったので、モイランを選んだ次第であるが、この日が月曜日であること(インドでは通常月曜日は博物館の休館日)をうっかり失念していた。博物館の前まで行きながらも、その中を見ることなく退散。INAとは、第二次大戦末期にインパール作戦にて、旧日本軍とともにこの地に部隊を進めてきたスバーシュ・チャンドラー・ボース率いたインド国民軍のことである。

    INA戦争博物館

    近くにある湖を見渡すことのできる展望台があるという島に向かう。モイランと島はコーズウェイで繋がっている。 クルマの窓の外ではなにやら大きな作業が進行中であった。植物類の塊のようなものを沢山水揚げして岸に投げ出してある。多数の船や重機を動員しての大仕事だ。一体何が行われているのか、このときはよくわからなかったのだが。

    島のかなりの部分を軍施設が占めているようであったが、運転手はチェックポストで了解を得てクルマを坂道に乗り入れる。道の左右には軍人たちの住居が建ち並んでいた。小高くなったエリアで湖を見渡してみてわかったのだが、さきほどGoogleの画像で見たほど多くの浮島があるわけではなく、ここに来るときに目にした大掛かりな作業は、そうした浮島を除去するものであることがわかった。

    期待していたとおりの眺めが広がる方角もあったが・・・
    浮島がすっかり撤去されて『普通の湖』になっている部分も大きかった。

    そもそも、この湖の浮島は漁撈と耕作目的であるのだが、湖の保全という観点からはいろいろ問題があるようだ。水質の関係はもとより、こうした人造物が増えていくことにより、水深が浅くなってしまったり、悪くすると湖そのものが湿地化してしまったりする可能性等が挙げられる。

    そんなわけで、現在ではこうした目的で浮島を造ることは、特に定められたエリアを除き禁止されているとのことだが、これが守られないため当局が強制撤去に出たということのようだ。確かに湖の保全ということも大切なのだが、浮島による漁業と農業というのもまた他にあまり類をみない貴重な生活文化であることも間違いないので、ちょっと残念な気もする。

    正直なところ観光資源に乏しいこの地域にあって、ロークターク湖を見物に来る人たちの目的は、湖水に無数に浮く世にも稀な円状のこの浮島を見ることである。貴重な観光資源としても、地域の典型的な湖上での生業の保存という観点からも、これらをどこかに保存しておくことは意味のあることであるはずだ。

    <続く>

  • マニプルへ2    軍の突出した存在感

    マニプルへ2 軍の突出した存在感

    物々しい警備は、市内でも同じであった。

    通称『Seven Sisters』と呼ばれるインド北東部七州(アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、トリプラー、ナガランド、マニプル、ミゾラム、メガーラヤ)では、民間人の生命と財産を守るという目的により、治安維持に関する軍による大幅な関与を認めるAFSPA (Armed Forces Special Powers Act) つまり軍事特別法が適用されている。

    これにより、本来ならば警察が責任を負うべき分野において、令状無しで軍による捜索、逮捕、拘留尋問等が認められており、騒乱の被疑者と見られた市民への発砲や殺害も可能となっている。当然のことながら軍関係者による恣意的な拘束、拷問、レイプといった犯罪行為が正当化されてしまう下地があり、そうした形での統治の正統性が問われるとともに、人権上の観点からも大きな問題である。

    そうした背景がある北東州では、アッサム州にしてもトリプラー州にしても、市街地や沿道で警備している軍人の姿は珍しくないのだが、マニプル州都での彼らのプレゼンスはやたらと大きなものに感じられる。人口密度が薄いインパールの街で軍車両に乗って警備している兵士たちの数が多い。兵士の多くは黒いマスクを装着して顔がよくわからないようにしていることからも、まるで戦地にいるかのような重装備の者がやたらと多いことからも、この地域の治安状況がうかがえるような気がする。

    インドの他地域にも、パンジャーブ州やヒマーチャル州のように、国境地帯であったり規模の大きな軍駐屯地があったりするエリアはあるが、前述のAFSPAが適用されて、軍が市民に対してこうした権限を持っていることはない。そもそも市民の側にしてみても軍はパーキスターンなり、中国なりといった国境の向こうからの侵略に対する盾であるということを認識している。

    北東州の場合は、こうした軍人たちの銃口が向けられている先は、敵対する外国ではなく、地元に住む市民たち(の中に潜む武闘派の反政府勢力)であるということが大きく異なる。前述のパンジャーブ州においても、かつてカリスターン運動が盛り上がり、流血事件が続いていた時代には同様の措置が取られていたのだが。

    人々のおっとりとした様子、何か尋ねようと声をかけると、フレンドリーな笑顔で丁寧で親切な応対をしてくれる人が多いことなどから、そんな厳しい状況にあるとはにわかに信じ難いものがある。

    ホテルのベランダから眺めたインパール市内。広がりはあるが密度は薄い。

    とりあえずホテルに荷物を置いて繁華街に出る。通称イマー・マーケットという市場に出かける。通りを挟んで、生鮮食品、乾物、衣類、日用雑貨等々と、販売されている物ごとに売り場が区分された、三棟にわたる大規模な屋根付き商業施設だ。『イマー(母)』という言葉が示すとおり、売り手が女性だけだ。人懐こくて気のいい感じのおばちゃんたちが多い。かなり人出が多い割には、ザワついた感じがしなくて物静かなのは、このあたりの民族性なのだろうか。

    売り手はどこも女性ばかり。買い手も多くは女性であった。

    イマー・マーケットの建物。同じ造りのものが通りを挟んで三棟並んでいる。

    この大きな建物は、一昨年11月にオープンしたもので、まだとても新しい。市街中心にあり交通至便であることに加えて、充分なスペースを確保した快適な環境であることから、行商人たちがこういう場所に自分のエリアを確保するのは、なかなか大変なことらしい。オープン間もないころの地元英字新聞ウェブサイトに、その関連の記事が出ていた。

    Govt in a bind over Keithel seat allocation (The Sangai Express)

    このあたりはインド東端に位置するだけに、デリーあたりに較べると日没が1時間半あるいはそれ以上早い。陽が傾いてくると、売り子たちはそそくさと店じまいを始める。お客もサーッと潮が引くように家路についている。マーケットの前からサイクルリクシャーでホテルまで帰るが、さきほどまでそれなりに賑わっていた商業地も、多くの店が扉を閉めていて人通りも少なくなっている。無数の裸電球や蛍光灯が灯る中で、活発に売り買いが繰り広げられるような具合ではないようだ。

    ホテルのフロントの人が言うには「インパールには、いわゆるナイトライフというものはほとんどありません。」とのこと。「禁酒州ということになっているので、おおっぴらに飲む場所はありませんし、陽が沈んだらみんな帰宅するんですよ。」

    たしかに、この街では夕方日没とともにほとんどが閉まってしまうようだ。夕方7時過ぎともなればすっかり深夜の雰囲気だ。午後9時を過ぎると、宿泊している部屋が面している大通りを走るクルマさえほとんどない。いかにも軍監視下の街といった感じがする。

    ここの良き市民たちにとって、人気の少ない場所で、この地では治安維持に関して大きな権限を与えられている軍人たちにイチャモンつけられたら、このうえない恐怖を味わうことになるのだろう。生命の危険に直結する一大事だ。

    <続く>

  • マニプルへ1   インパールに飛ぶ

    マニプルへ1 インパールに飛ぶ

    コールカーターから飛行機でマニプル州のインパールへ飛んだ。一般の日本人の間で、この州都の名前は、具体的にインドのどのあたりにあるのか知らなくても、第二次大戦末期の旧日本軍による『インパール作戦』によって広く記憶されているが、長らく観光目的の訪問先としては認知されていなかった。

    以前は、マニプル、ナガランド、ミゾラムの三州について、RAP (Restricted Area Permit)を取得する必要があった。ちゃんと手間かけて準備すれば取得可能なものであったが、申請に際しては何人以上のグループでないといけないとか、RAPを取得した全員が一緒に行動しなくてはならないなどといった面倒な条件があった。必要な人数を揃えることができなくても、現地のツアーに参加するという手もあったのだが、これがまた金額の張るものであった。加えて、RAPは各州ごとに取得する必要があったこともあり、ちょっと思いついてこの地域にフラリと出かけてみるという具合にはいかなかったのだ。

    そんなエリアだが、十数年前くらいまでは、ある目的でナガランドやマニプルを訪れる日本人年配者はかなりいたらしい。かつてインパール作戦に従軍した元兵士たちによる戦友会が慰霊のために盛んに訪問していたようだ。だがそうした戦争世代の人たちも高齢化しているため、インド東部でも隣国のミャンマーでもこうした人たちの姿を見ることはほとんどなくなっているのだが。

    RAPの取得が義務付けられていていた背景には、インド独立以来長らく続いてきた活発な分離活動が背景にあるわけだが、そうした状況もかなり落ち着いてきてようやく恒久的な和平が期待できるムードになりつつあること、中央政府・州政府ともに内乱時代には、ほぼ存在しなかった観光業の振興を画策していることもあり、2011年1月1日からとりあえず試験的にRAP無しでの入域を認める運びとなっている。このまま特に問題がなければ、アッサムやメガーラヤなどのように、いつでも自由に訪れることができるようになるのだろう。

    今回の旅行は、韓国の親友L君と同行である。コールカーターからIndiGoのフライトを利用。新興のLCCキャリアの割には、かなり地味なイメージのある会社だが、フライトアテンダントは、ボンドガールのような派手な美人であった。機内誌の片隅に機内スタッフ募集の求人広告が出ている。LCCのこうした現場スタッフというのは、若くて魅力的なうちにコキ使われるだけの仕事だろうから、旧来からの航空会社の社員と違って、自身がキャリアを積んで長く務められるようなところではないような気がする。

    ともあれ飛行機は離陸した。インパールまで1時間程度のフライトだ。コールカーターを出てからバーングラーデーシュ上空を通過して東へと向かう。平原部を過ぎるとようやく山並みが見えてきた。インドのトリプラー州あたりに入ったのだろう。

    機内から眺めるトリプラー州(?)上空の風景

    機内では、私とL君の隣の席の女性が声をかけてくる。アーンドラ・プラデーシュ州在住であるとのことだ。インパール近郊にある実家に帰郷するところであるとのこと。

    インド北東地域のモンゴロイド系の女性に限らず、在インドのチベット系女性にも共通して言えることだが、化粧がインド式であるため、同じモンゴロイド系である私たちから見ても、かなりエキゾチックな風貌に見える。後者については、中国で見かけるチベット女性たちとずいぶん違った印象を受けるくらいだ。まるで人種そのものが違うかのように。

    乗客の大半は風貌からしてマニプル州の人々のようだ。男女ともに総じてかなり小柄の人たちが多い。そのため身長170cm台前半の私もL君も、この中ではかなり大柄ということになってしまう。スウェーデン、デンマーク等、スカンジナビア半島の人々が日本を訪れるとこんな具合なのだろうか。

    眼下にかなり規模の大きな街が見えてきた。上空を旋回して少しずつ下降していき、国道150線沿いにあるこの空港に着陸した。荷物を受け取る前に、専用のデスクで外国人は形式的な登録手続きをさせられる。パスポートに入域の証のスタンプも押された。

    空港では大勢の出迎えが来ていた。地元スポーツ選手団の出迎えだ。機内に非常に体格が良く、揃いのジャージ姿の女性たち数人組みが乗り合わせていたのだが、彼女たちはウェイトリフティングの大会から帰郷した選手たち。翌日の新聞で彼女たちが写真入りで取り上げられていた。

    こじんまりしたターミナルの外に出ると、そこにいる大半の人たちはモンゴロイドの風貌だ。動作もゆったりとしていて、のんびり落ち着いた感じを受けるのだが、空港敷地内でかなりの人数のインド兵(マニプルの人たちも『インド人』だが、ここで言う『インド兵』とは北東地域外出身の軍人のこと)が厳しい表情で警戒している様は、ちょっと信じ難い気がする。

    武装した兵士たちは、いつでも銃弾を撃つことができる体勢で警備しており、軍用車両の上から上半身を突き出して警戒に当たっている姿もある。いかつい装甲車も辺りを走り回っており、ずいぶん物々しい雰囲気であることにちょっと驚きながら、オートリクシャーで市内へ向かう。

    <続く>

  • レストラン兼美容室

    レストラン兼美容室

    幾世代もこの街で暮らしてきた華人たちの姿が珍しくはないコールカーター。多くは個人事業主であり、レストラン、靴屋、ドライクリーニング屋、美容室と理髪店、皮なめし工場、醤油その他中華系食材製造業等の業種が多い。

    おそらく、レストランを経営しつつ、家族が美容室も営んでいるといった例はけっこうあるだろう。だがひとつの店舗(?)で、異なる業種を同時展開されるというのはあまりないように思う。向かって左側がレストラン兼バーである。

    Jimmy's restaurant & Grace Beauty Parlour

    ぎっしりと建て込んだ場所にあるため、果たしてレストランと美容室が本当に同居しているのかと不思議に思う方もあるのではないかと思う。ひょっとして、向かって右側の美容室で働いていることになっているキレイな女性が淫靡なサービスをする風俗店ではなかろうか?といった具合に。

    だが、実のところはれっきとしたレストランで、味やサービスもけっこう評判がいい。同居している美容室もちゃんとしたもののようだ。

    中印紛争前、この街に華人たちがまだ大勢住んでいて、先日取り上げた中華朝市が毎日開かれているエリアが丸ごとチャイナタウンであった時代のことなど想像もできないが、インドの他の街にはない華人たちの個性と活気に満ちた街角がそこにあったことだろう。