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カテゴリー: politics

  • FRONTLINEはボリシェヴィキ革命特集

    FRONTLINEはボリシェヴィキ革命特集

    現在発売中の隔週刊ニュース雑誌FRONTLINEは、今年で100周年となるボリシェヴィキ革命特集。なんと110ページ以上も占めての非常に力の入ったものだ。さすがはインドを代表する左派ニュース雑誌だけのことはある。
    私自身は電子版を定期購読しているのだが、国内外の出来事や社会現象について、インドの他のメディアとは明らかに違う切り口からの報道、異なる角度から偏執狂的なまでにしつこい分析がなされており、いつもながら非常に参考になる。
    一般的に「ニュース雑誌の内容が退屈なときにはインドは平和」なのだが、そんなときでもFRONTLINEでは、インパクトの強い記事が掲載されている。

    FRONTLINE 12月22日号
  • バーブリーマスジッド破壊から25年

    アーヨーディヤーのバーブリーマスジッドが破壊されてから四半世紀が経過した。このあたりの一連の動きからインド中央政界の潮目が変わった。

    勢力に陰りが見えてきていた中道左派の国民会議派と、その他左派を中心とする勢力との綱引きが争われていた中に、急進するサフラン勢力が割って入ることにより、様相は一変した。国民会議派+左派勢力に対するサフラン勢力+地域民族主義勢力という図式になってきた。それまではキワモノ的な扱いだったサフラン勢力が一気に檜舞台へ立つことになった時代の転換期。

    その後、国民会議派とサフラン勢力を代表するBJPが総選挙で覇を競うこととなるが、前者が政権を握る場合も単独でマジョリティを得ることはなくなっている。現在、国民会議派を中心とするUPA(United Progressive Alliance)とBJPが核となるNDA(National Democratic Alliance)が対抗するふたつの軸である。

    地方政治でも同様に国民会議派の存在感は薄れている。北インドの人口稠密なUP州では1989年12月、ビハール州では1990年3月、インド西部の要衝グジャラート州では1995年3月といった時期を境に、国民会議派政権は生まれていない。

    UP州、ビハール州では特定のカーストやコミュニティを票田とする左派政党が長らく州政界を牛耳ることとなり、前者は今年3月の選挙でついにサフラン勢力が征することとなり、グジャラート州では1995年に国民会議派が政権から陥落してからは、いっときの空白期間を除き、やはりサフラン勢力が政権を維持している。

    Babri mosque: The build-up to a demolition that shook India (BBC NEWS)

  • マオイスト英国人女性の手記

    リンク先は、インドでマオイストとして活動して、1970年にビハール警察に逮捕された英国人女性の手記。

    MY YEARS IN AN INDIAN PRISON (By Mary Taylor)

    当時の西ドイツに研修で滞在中のエンジニア、カルカッタ出身のアマレンドゥ・セーン(共産党マオイスト派の活動家)と結婚したことがきっかけでマオイストの道へ。

    ナクサライト(マオイスト)の創設メンバーのひとり、チャールー・マーズムダールは、なかなかのインテリだったそうだし、幹部にはバラモン層の知識階級や地主層の裕福な子弟だった人たちが多い。

    西ベンガルのナクサルバリで始まった毛沢東主義過激派の狼煙(ゆえにナクサル主義者=ナクサライト)は、他州にも広まったが、やはり指導層はそんな具合だ。頭が良すぎる?のも考えものかもしれない。

    もっとも近年は、マオイストたちの中での「汚職」の例も少なくないようで、活動資金を不動産等に投資して、ジャングルの中で闘争している手下たちをよそに、市街地に豪邸を構えたり、息子や娘たちを都市部のイングリッシュミディアムの進学校に行かせるリーダーたちも少なくないらしい。

    権力というものは、合法なものでも非合法なものでも、やがては腐敗するものなのか。

  • ダージリンのバンド その後

    バンド(ゼネスト)始まってから2ヶ月以上にもなるダージリンだが、地域南西部のミリクでは役所が開いたらしい。
    たちまち、バンドを主導する政党、GJM活動家に襲撃されて、再び扉を閉めるのか、それとも他の地域もこれに続くのかどうかは判らないが。
    物流は止まり、商店はおおっぴらに扉を開けることはできず、近隣の人たち相手に裏口で細々と売買していたり、商品の在庫は尽きて、ずいぶんな高値で取引されていたりと、ロクなことはないようだ。通信の途絶から、学校では新入生の登録が困難となり、携帯電話やネットも不通という状態が伝えられるとともに、ゴミの回収もストップしていることから、衛生面でも大変らしい。市民生活各方面に大きな打撃だ。ダージリンの住民世界からは隔絶された状態にあるとも言える茶園(ダージリンの外からやってきた労働者たちが住居その他の生活丸抱えで暮らしていることが多い)でも、茶園の手入れや収穫などもできない状態で、これまた地域経済には大きな負担となる。
    中央政権の与党BJPは、西ベンガルではGJMと共闘関係にある友党ながらも、今回のゴルカランド運動で、特に肩入れすることなく様子見を続けている。
    これ以外にも、アッサムのボードーランド運動その他、北東地域は分離活動、民族主義活動の巣みたいなところがあるので、あまり深入りしたくはないのだろう。
    俗に言う「グレーターネパールムーブメント」への警戒感もあるかもしれない。

    Defying bandh, office work resumes in Mirik (Millennium Post)

  • 旗の高さを競った末に

    舞台はラージャスターン州のジョードプル。あるムスリム男性がイスラーム教を象徴する緑色の旗を立てたところ、これに対抗して隣家のヒンドゥーのブラーフマン男性も自らの宗教のカラーであるサフラン色の旗を立てる。
    両者は旗の高さを競い、周囲の人たちの注目を集める中、これが次第にエスカレートしていき、ムスリムとヒンドゥー、それぞれのコミュニティの人たちを巻き込んで、ついにはどちらも大きな旗を仕立てて、巨大な竿で両家の屋上に掲げようとするに至る。
    彼らが、それぞれの帰属を象徴する旗を渾身の力で立ててみせると、風にはためくサフラン緑の旗の有様は、その間から垣間見える空の雲の色と合わせて、なんとインド国旗となって、円満に一件落着というオチ。
    導入部分といい、クライマックスに至るまでの描写とスピード感といい、最後のどんでん返しまで、非常に良く出来た作品だ。
    しかしながら、やはり最終的に手打ちとなるのは、あくまでも緑(ムスリム)の旗が下の位置にあり、ヒンドゥーを象徴するサフランが至上というのがミソ。
    モーディー人気の中、BJPがますます影響力を増している世相を反映していると見ることもできる。

    Aameen Jodhpur (facebook)

  • デリー警察のポスターガール

    デリー警察初のポスターガールは、実際にデリー警察に勤務する女性警官とのこと。記事中にあるとおり、彼女は優秀なアーチェリー選手で、ライフルの扱いにも秀でているというナガ族の女性。私たち日本人とよく似た風貌のモンゴロイド系の民族だ。
    彼女が女性警官としての高い資質を認められたこと、加えて容姿にも恵まれているということ以外に、近年の首都で頻発しているインド北東部出身のモンゴロイド系の人たちへの偏見、嫌がらせや暴力行為などに対する抑止としたいというデリー警察の意思があるのだろう。
    多民族国家インドでは、少数民族に対して進学や公部門への就職の際に留保制度といった優遇制度があるものの、市井の人々の間でこうしたマイノリティを見下す傾向は否めないようだ。
    多くの人々の目に付くところで、世の中のために日々頑張っている少数民族の人たちの姿が取り上げられることを通じて、少しでも状況が改善することを願いたい。

    Delhi Police gets its first poster girl (THE TIMES OF INDIA)

  • ゴアの郵便

    ゴアの郵便

    Basilica of Bom Jesus
    Basilica of Bom Jesus内部

    オールド・ゴアのBasilica of Bom Jesusに併設されている博物館を訪れた。ここで植民地時代の遺物や歴代の総督や要人の絵とともに、ポルトガル領時代の郵便に関する展示があり、なかなか興味深かった。
    ゴアとポルトガル間での郵便の往来は1510年に開始されたそうだ。所用6ヶ月ほどで、喜望峰経由の運搬。海賊被害や海難事故により、届かないことも多かったのだとか。
    また1798年3月23日から(日付もきちんと記録されているのはさすが西洋の国)は、ゴア、ボンベイ、ダマン、ディーウ(ここまでは当時のポルトガル領インド。ボンベイは、1961年にポルトガルのカタリーナ王女が英国王室に輿入れの際、イギリスに割譲)、スーラト(現在のグジャラートの港町。ここにポルトガルの東インド会社商館があった。ポルトガルからイギリスに割譲されてからボンベイが急成長することにより衰退) 、モザンビーク、そしてポルトガル本国のリスボンとの間での郵便が開通。
    しかしながらこれは政府間の書簡の往来のためでありも民間人が利用できるようになるまではその後1世紀近くかかったらしい。
    また、英領インドとの間では1822年から始まったらしい。そのいっぽうで、ゴアの地域間での郵便の往来は、1843年から開始されたというから、これはずいぶん遅く感じられる、ポルトガル領インドの通信史というテーマも面白そうで興味をかきたてられる。

    ゴア・ポルトガル間の郵便往来が始まった1510年当時、ここに暮らす大半の人たちにとって、リスボンはまるで宇宙の彼方のようなものであったことだろう。
  • 「THE LAST ANGLO-INDIANS」という本

    「THE LAST ANGLO-INDIANS」という本

    アマゾンのKindle版で読んでみた。アングロ・インディアン全般について書かれたものではなく、著者の祖父母、母のインドでの生活の日々から、母親が南米出身の船乗りと結婚して1960年代に米国に移住するまで、19世紀終わりから21世紀に入るまでを淡々と綴った3代に渡る家族史。

    インドでは中産階級に位置する家庭だが、一家やその一族は、電報局や鉄道勤務だったり、軍人だったりと、いかにもアングロ・インディアン的な勤め人世帯。

    著者が語るに、アングロ・インディアンたちは、土地や家屋を所有せず、多くはアングロ・インディアンたちが多い地域で借家暮らしであったということだが、こうした層の人たちは、多くが転勤族であったことによるのではないかと想像する。アングロ・インディアンの商人層には、これとはまた異なるライフスタイルがあったことだろう。

    勤務先での出世といっても、要のポジションに配置されているのは、本国からやってきた英国人。英国系とはいえども、インド生まれの人たちはローカルスタッフの扱いであったようだ。英国もインドも階級社会だが、アングロ・インディアンの中でも、生業や出自、業種や経済状況などにより、いろんなクラスがあったらしい。

    1929年から1933年にかけての大恐慌の時代には、インドもひどいとばっちりを受けているが、現地在住のアングロ・インディアンも失業して、文字通り家族で路頭に迷う者も少なくなかったのだそうだ。英国系ということで支配層に比較的近いところにいたとはいえ、やはりそのあたりは、文字通りの勤め人なので、極端な不景気に見舞われると大変である。

    家庭料理には、ふんだんにインドらしいメニュー(英国テイストを含んだ)が並び、そのレシピもいくつか紹介されていた。今度、料理してみようかと思う。

    一般のインド人家庭よりは、恵まれた環境にあったようだが、それでも10代の反抗期には、グレてしまったり、勉強嫌いで学校からドロップアウトして、家族から離れてしまう者もあったりと、日本で暮らす私たちの家の中で起きることと、同じようなことが書かれている。

    ただ、衛生状態や医療水準は今とは違うので、著者の母親は幼い頃、チフスで危うく命を落としかけたようだが、その時代には裕福だったアングロ・インディアンの家庭でも、生まれた子供たちがみんな元気に育つということはなかったらしい。

    Kindle読み放題を利用したが、単体で購入しても570円。コスパの高い、英領末期前後のアングロ・インディアンに関する書籍である。

  • ダージリンのバンド開始からひと月

    地元政党GJMが呼びかけたバンド(ゼネスト)が始まってからひと月になるダージリン。すべての商店、ATM、学校、その他諸々が閉まってしまい、救急車、消防車などの緊急車両だけが往来するという事態のようだ。「バンドを呼びかけた」といっても、協力を求められた住民たちには、これを断るという選択肢はない。

    拒否して商店を開けていたり、タクシーやバスを走らせたりすると、GJMの活動家がやってきて、扉や窓を壊したり、放火したり、商店の人たちをぶん殴ったりして、「協力するように説得」するわけである。

    こうした組織的怠業を実行する力があるのは、多くの場合、地域の有力政党で、末端で暴力を働くチンピラたちを養っていたり、あるいはそういうヤクザ者を動員できる人脈を持っている。当然、警察にも顔が利くというか、警察自身も厄介なことに関わりたくないので、まったくのやられ損になってしまう。ゆえに人々は財産の保持と身の安全の確保のため、これに従うことになる。地域の経済活動をすべて止めて、ゴルカランド分離要求のバンドが実施されているからといって、必ずしも地元の総意でこうした活動に参加しているわけではない。

    こうした「非服従運動」は、ガーンディーの時代にも、当時の国民会議派が社会に広く呼びかけて、英国植民地当局に対する抵抗として実施されていた。現場ではこれと同じような感じだったはずで、すべての人々が英国を嫌っていたわけではないが、バンドの呼びかけに従わないと、末端活動家やチンピラたちに店が壊される、商品が略奪される、大ケガさせられたり、悪くすると殺されたりもするので、不承不承従う人もずいぶんたくさんいたはずだ。

    国民会議派の主導により、インドが独立を勝ち得ると、そこは「勝てば官軍」で、街中でまかり通っていた乱暴狼藉や不条理はなかったこととなり、美しいストーリーばかりが紡がれることとなった。

    もしダージリンが西ベンガル州から分離して、独自のゴルカランド州となった暁には、GJMの指導層は、圧政をはねつけて、人々を正しく導いた闘士として、持ち上げられることになるのだろう。

    しかし、反体制派が大手を振って、果敢に体制側にチャレンジできる環境というのは、アジアのもうひとつの大国、中国ではありえないことなので、やはりインドという国は偉大なり・・・という思いはするものの、野党の政治活動があまりに自由というのもちょっと考えものだと思うのは私だけではないだろう。

    Darjeeling: Residents struggle for basic requirements of urban life (THE TIMES OF INDIA)

    ※「ゴアンな料理2」は後日掲載します。

  • ラトナーギリー 2 ティラクの生家

    ラトナーギリー 2 ティラクの生家

    インド独立の志士たちの中でも、ひときわ大きな存在感があったロークマニャ・ティラクはラトナーギリーの出身。彼の生家が「ティラク博物館」として公開されている。(入場無料)

    展示品や写真には、説明書きがいろいろあるものの、マラーティーでの表記しかないのは残念。英語かヒンディーは付けて欲しい。他の地域から来たインド人も困るだろうし、ティラクはマラーティーの人々の英雄ではなく、全インドの偉人である。

    それはともかく、この地域における典型的な伝統家屋がこのような形で保存されているのは良いことだ。最近の建物はレンガとコンクリートで造るので、亜大陸どこでと同じだし、アフリカでも大した違いはない。地元で入手出来る建材で、地元の風土気候に合った建物ということになるのだろう。

  • ラトナーギリー 1 ビルマ最後の王の流刑先

    ラトナーギリー 1 ビルマ最後の王の流刑先

    ラトナーギリーの街は密度が低い割にはダラダラと長く市街地が続いている印象を受ける。静かで落ち着いた感じの住宅地が多いようだ。

    ラトナーギリーの宿泊先

    私がここを訪れた最大の目的は、ティーボーの邸宅の見学。ビルマ最後の王朝、マンダレーのコンバウン朝の王、ティーボーとその配偶者で、美しくも知略、肝略で知られたスパヤラート后が、第三次英緬戦争で王都マンダレー陥落後、マドラスに移送され、再度身柄を移されて生涯を終えたのがここ。

    近年まで、かなり荒れ果てていたと聞いているが、現在は大掛かりな修復の手が入り、工事が進行中。

    ティーボー夫妻とは反対に、インドからビルマのラングーンに送られたムガル朝最後の皇帝、ババードゥルシャー・ザファルは、英国官憲の屋敷で幽閉されたまま生涯を終えたのに対して、こちらは専用の宮殿のような屋敷を与えられたうえに、ラトナーギリーで仏教寺院を建立しており、多少なりとも地域社会との接点はあったらしい。

    ビルマから遠く離れたラトナーギリーで、彼が地元に与える影響はなかったこととは異なり、ザファルについては流刑先が当時の英国が、インド人たちを大量に投入して建設し、インド人がマジョリティを占めていた街、ラングーンであったという環境の違いがあったがゆえのことではある。

    ティーボーパレスは一部博物となっているが、彼とは無関係の古いヒンドゥーの神像が展示されており、生前のティーボー夫妻の暮らしぶりを偲ばせる家具や遺品などは、ほとんど残されていないようだ。

  • 再び炎上 ゴールカー・ランド要求運動 

    1980年代にはゴールカー・ランド分離要求でテロが頻発して、事前にカルカッタなどで発行されたパーミット無しでは入域できない時期もあった。その後は穏やかになっていたものの、西ベンガル平地と分離してひとつの州を創ろうという動きは続いており、今後も同様であろう。やがて、ゴールカー・ランド州が成立する日が来るのではないかと私は考えている。

    元々はチベット系のブーティヤー族(ブータン人とごく近い民族)が支配するスィッキム王国の一部であった現在のダージリン。英領インドに割譲されたことから、ヒルステーションとしての歴史が始まる。

    スィッキムも同様だが、ダージリンでは英領期からネパールの様々な民族が移民として定着し、現在はマジョリティを成すようになった。これがゴールカー・ランド要求に繋がっていく原点。ゴールカー族が中心というわけではなく、様々な民族が集住している現状だが、ネパール系の象徴として、ゴールカーの名前が政治運動で使われているようだ。

    先のゴールカー・ランド要求運動の果実として、1988年に自治組織としてのダージリン・ゴールカー丘陵評議会が成立。西ベンガル州の中では独特なエリアとなっているが、ゴールカー・ランド要求運動の目標は州の創設。闘いは静かに、しかし着々と続いていくこととなった。

    現在、丘陵地区の政治を掌るのは、ゴールカー人民解放戦線(GJM)。ゴールカー・ランド州創設を唱える政治団体はいくつもある中で最大の政党。組織力と動員力を誇り、今回の無期限ゼネストは、その影響力の賜物といえる。

    以前、ダージリンのチョーラースターで、GJMの青年部がオーガナイズする「ファッションショー」を見物したことがある。ステージで、ダージリンに暮らすネパール系の様々な民族の若者たちが、自らの民族の伝統衣装をまとって自己紹介したり、踊ったりするというもの。ネパール系といっても様々なエスニック・グループがある中での「多様性の中の統一と団結」をスマートにカッコ良く演出していた。ステージのセッティングも、カメラワーク(チョーラースターに入りきれない人たちのために、映像を流す大きなモニターが設置されていた)も、明らかにプロフェッショナルなスキルが感じられた。

    最初、事情を知らずに、たまたまその場所に居合わせることになった私は、てっきりクリスマスのために企画された洒落たイベントかと思ったくらいだ。実は政治集会であるということを知って仰天した。

    こうした催しを切り盛りしているのが、茶髪にピアス、手足にタトゥーを入れて、崩れた感じのお兄ちゃんから、いかにもエリート学生然とした若者、一見、政治なんかにこれっぽっちも興味の無さそうなモデル風の美女から、家族で経営するお店をやりくりするおばちゃん(お姉さん?)まで、実に様々な人たちが嬉々として参加していた。ネパール系社会の広範囲からの支持があるとともに、資金面でも強力な基盤があることが容易に感じられた。

    政治集会で怒りを込めたメッセージを聴衆に伝えたり、デモで動員された群衆がスローガンを叫んだりするだけではなく、若者たちが自発的に楽しみながら参加する政治運動の潜在力というのは、相当なものだろう。

    今回の一連の騒動は、そうしたエンターテインメント的なものとはまったく異なるが、地元社会を広範囲に巻き込んで涵養してきたパワーが、ここぞとばかりに発揮されているものであるとするならば、容易に鎮まるものではないことは、想像に難くない。

    Violence returns to Darjeeling, Army deployed (THE ECONOMIC TIMES)