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カテゴリー: politics

  • 「英雄」 バガット・スィン

    「英雄」 バガット・スィン

    デリーからパンジャーブ方面に向かう列車に乗る。

    途中のクルクシェートラ駅には、バガット・スィンの大きな胸像があった。町には、彼を記念したバガット・スィン公園などもある。

    Bhagat Singh

    パンジャーブ出身(現在パキスタン領となっているファイサラーバード近郊の村)で、スィク教徒の両親のもとに生まれた。社会主義に傾倒した革命家であり、1920年代に要人殺害や議事堂爆破事件などで拘束され、1931年に処刑台の露と消えた人だが、独立後のインドでは、誰もがよく知る憂国の志士、独立運動家ということになっており、彼を主人公とする映画もいくつか作られている。

    彼について書かれた本を読んでみたことはあるが、若気の至りで暴走した人物としというのが正直な感想。インド人には言えないが、今でいうところのテロリストでは?思う。

    政治主導の後付けで、英雄化されてしまうと、いろいろ齟齬が生じることもある。生地のパキスタンでは、彼の反英活動について、どのような評価がなされているのかは知らない。

    政治主導の英雄化といえば、さらに時代を遡った1857年の大反乱を「インド最初の独立闘争」とするのも奇妙で、反乱時に英国への忠誠揺るがず、鎮圧に大きな功績を残したスィク教徒たちの部隊、英国を強力に支持したスィクの藩王国は、国賊みたいなことになってしまうので、非常に収まりが悪くなる。

    過去の出来事は、現在のそれとは背景が違うため、「インド兵が英国兵と戦った」という一面だけで、反植民地闘争とするのは無理がある。

    歴史の再評価というものは、どうも胡散くさい。

    親族も反英活動で投獄された筋金入りの一族であったこと、当時としてはスマートなインテリ、非常に若くして処刑(享年23歳)されたことに加えて、イケメンでもあったため、ビジュアル的には持ち上げ易い要素もあったのだろう。

    ムスリムで同じような活動に従事していた人たちもいたはずなのだが、ここから時代が下るとパキスタン建国運動に収斂してしまうので、バガット・スィンの時代に「インド独立」を志向していたムスリムの「志士」たちは、現在のインドであまり名を残さないことになってしまう。

    2001年にパキスタンのテロ組織とともにデリーの国会襲撃事件に係わり、死刑となったカシミール分離活動家のアフザル・グルーなどは、彼の背景も事件への関与も、まさにバガット・スィンと同じにしか思えない。

    どこが違うかといえば、インドは独立したがカシミールはおそらく今後もインドから分離することはないと思われるので、彼が肯定的な評価をされることはない、というところだろうか。

    もちろん、こんなことはインド人に対して口には出来ないが。

  • The Church of St. James

    The Church of St. James

    The Church of St. James

    英印混血の風雲児、ジェイムス・スキナーが建てさせた英国国教会の教会。
    スコットランド人の父と同じく、軍人の道に進む。

    混血児への東インド会社軍での待遇の低さから、これに加わらず、マラーター王国の軍勢に外国人傭兵として参加してキャリアを築く。

    やがてマラーター王国が英国と対立(その後戦火を交える関係に)するにあたり、他の英国系の兵士とともに解放逐(インド各地にあった様々な王国で、英国その他欧州人の傭兵や顧問は少なくなかった)され、東インド会社軍へ。

    会社軍では、彼の名前を冠したSkinner’s Horse (Skinner’s Cavalry)という精鋭の騎馬連隊を創設して自ら率いる。輝かしい戦果を上げてきたこのSkinner’s Horseは、1857年の大反乱後、東インド会社が解体され、イギリスのインド省が統治を引き継いでからのインド軍、さらには独立後のインド陸軍にも連隊の名前を変えつつ引き継がれた。

    スコットランド出身のスキナー家は、ジェイムス以降も、インドに根を下ろし長らく軍に仕えている。1960年代には、伝統あるSkinner’s Horseを前身とする連隊を、なんとジェイムスの玄孫、ロバート・スキナーが率いるという歴史的な偶然(?)が実現しており、第二次印パ戦争で出陣している。ロバート自身は、1990年代に亡くなった。

    教会の中には、ジェイムス、Skinner’s Horse、ロバートその他のスキナー家や彼ゆかりの碑文、時代ごとのSkinner’s Horseの幹部の名前や階級などを記した石碑なども壁にはめ込まれており、非常に軍事色が濃く、しかも特定の連隊を記念するために建てられたかのような教会が他にあるのかどうかは知らない。

    教会の祭壇のすぐ手前には、「ジェイムス・スキナーここに眠る」と、彼が埋葬されている場所を示す大理石板もあるなど、まさにスキナーの独壇場といった風情で、実に風変わりな教会。スキナー自身の強烈な個性と自己主張を今の時代に伝えているかのようだ。
    これらをカメラに収めたかったが、あいにく敷地内も建物内も撮影禁止。

    この教会が面している通り、Lothian Roadを南下すると、British Magazine跡がある。イギリスの弾薬庫跡で、1857年の大反乱の際、ここに蓄えられた弾薬を巡り、イギリス側と反乱軍との間で激しい戦闘の舞台となった場所だ。ここが反乱軍の手に渡るのを防ぐため、爆破されたことから、現在残されているのは、当時の弾薬庫のごく一部のみ。

    British Magazine

    通りをさらに下ると、LothianCemeteryという、大反乱前の英国人墓地がある。あまりに崩壊ぶりがひどく、今後整備されることを望みたい。

    Lothian Cemetery
    墓碑
  • 第四次印パ戦争の足音か

    インドがついに一線を越えた。

    国内世論と世界的な支持を集めるモーディー政権の自信か、それとも過信か。パキスタンの反応次第では、かなりキナ臭い事態へと発展してしまうかもしれない。

    文民政権は越境テロを繰り返す組織を抑え込む力はなく、政府と並立する軍という、二重権力構造のパキスタン。文民政権は、自国領への攻撃を黙認するわけにはいかず、テロ組織のスポンサーでもあり、文民政権とはしばし鋭く対立するパ軍はどのような応対をするのか。
    印パ対立という現象面以外に、パキスタン国内でのふたつの大きな権力の相克の行方が大変気になるところでもある。

    パキスタンで、クーデターによる軍事政権樹立という動きもあるかもしれない。また、インド側にしてみても、一度振り上げた拳をどこで引っ込めることができるのだろうか。

    様々な国内問題、外交問題で喧々諤々の議論を交わす民主主義国インドだが、例外は対パキスタン軍事行動。与党・野党を問わず、右から左まで、諸手を上げてのイケイケ状態となるので、ブレーキ役は不在となる。

    民生や汚職追放には熱心だが、これまで外交問題にはあまり関心のなさそうに見えたデリー首都圏のAAP政権でさえもこんな具合だ。

    第四次印パ戦争開戦は、もうすぐそこまで迫っているのかもしれない。核保有国同士の大規模な衝突へと突き進むことがないよう祈るしかない。

    Kashmir attack: India ‘launches strikes against militants’ (BBC NEWS)

    India strikes back, carries out surgical strikes on terror launch pads at LoC (THE TIMES OF INDIA)

  • 国民会議派最後の切り札 プリヤンカー・ガーンディー

    国民会議派最後の切り札 プリヤンカー・ガーンディー

    これまで選挙のキャンペーンなどで表舞台に立つくらいであったが、ようやく「専業」の政治家となるプリヤンカー・ガーンディー。退潮の悩む国民会議派にとって、最後の切り札が、ついに登場することとなった。

    国民会議派のリーダーシップを母親ソニア・ガーンディーから引き継ぐには、いまひとつ指導力と魅力に欠けるラーフルは、彼女の兄。

    プリヤンカーは、メディアへの対応も落ち着いて、年齢の割にはずいぶん貫禄がある。物腰、スピーチ、風貌どれを取っても、大物の片鱗を感じさせるとともに、祖母のインディラー・ガーンディー元首相のイメージとダブるものがある。古くからの国民会議派支持者たちの間でも、もうだいぶ前からプリヤンカーの政界進出は大いに期待されていた。

    今後の彼女は、国民会議派の選挙の指揮を執ることになる。かつて「ネルー王朝」と揶揄された国民会議派を一手に取り仕切るようになるのは、ラーフルではなく、妹のプリヤンカーかもしれない。曽祖父ネルー、祖母インディラー、父親ラジーヴに続いて、彼女が将来インドの首相の座につく日が来るかもしれない。

    BJP政権で一気に右傾化したインド中央政界だが、今後「インディラーの再来」プリヤンカーで、巻き返しなるか?まずは来年前半に予定されているU.P.州の州議会選挙に注力することになるが、地方政界で最も重要な州のひとつであるだけに、ここでつまづくと、国民会議派における彼女のキャリアが出だしで大きく傷がつくことになる。

    彼女にとっては「家業」の国民会議派。政治手腕は未知数ながらも、プリヤンカー・ガーンディー自身に弱点があるとすれば、夫でビジネスマンのロバート・ワドラーの巨額の不正取引疑惑と個人的な不人気。知的で清廉なイメージのある彼女とは正反対の評判の配偶者をめぐる動向は、「政治家プリヤンカー」にとって大きなリスクとなる。

    It’s official: Priyanka Gandhi a full-time politician now, to head Congress’s UP campaign (India Today)

    The Only Gandhi Left: To play to win, Congress can make this audacious move with Priyanka Gandhi (THE TIMES OF INDIA)

    ペヘルガムへ 2は後日掲載します。〉

  • ダッカのテロ事件

    7月1日の現地時間午後9時半にバングラデシュの首都ダッカのグルシャン地区で発生した襲撃事件は、翌日2日朝に政府が治安部隊を投入して終結させた。事件の詳細は今後、更に明らかになってくるはずだ。実行犯のうち1名が生きたまま拘束されたことも、真相解明に繋がることと期待したい。

    事件発生直後からネットで流れてくる様々な情報を目にして、とても気にかかっていたが、2日の朝に強行突入が進行中であることを知るに至った。ネット以前の時代と違って、こうしたニュース等が刻々と世界中に伝わるようになっているため、こうした凶行を実行するグループにとっては、効果的に恐怖を拡散するのに都合が良い環境になってしまっている。

    今世紀に入る前までは、こうした事件で人質を取って立てこもるにあたり、実行犯の組織やグループなりの主張を世間に伝えるとともに、仲間の解放なり、身代金の要求なりといった条件闘争が展開したものだが、今は凄惨な暴力行為を各国メディアで流させることが目的となっているのも空恐ろしい。

    同様に、こうした事件に際して、地政府や治安当局の対応も、人質となった方々の生命を最優先するというよりも、こうした犯行を企てる組織への見せしめ的に、武力によって一気呵成で叩き潰す(前述のとおり、取引条件が出てくるわけではなく、激しい暴力行為を実行することそのものが目的になっているので、致し方ないのではあるが・・・)のが常道となり、相手との対話や交渉の余地がなくなっているのも心配だ。

    ダッカのポッシュなエリアでまさかこんなことが起きるとは誰も想像もしなかったはずだし、たまたま居合わせたばかりに巻き込まれてしまった方々は本当にお気の毒で、言葉も見つからない。

    そのいっぽう、テロの標的となったバングラデシュについて、非常にネガティヴなイメージが定着しないかと気になったりもする。

    パリでテロ事件が起きた際に、「なんとひどいことを」と人々は思っても、だからといって「パリは危険だ」「訪れるべきところではない」というようなイメージを抱いた人はいないだろう。

    バングラデシュは、人口稠密で、決して豊かではないが、一般的には治安に問題があるわけではなく、世界で最高に親日的な国のひとつであり、日本に対して「熱烈に片想い」してくれている、数少ない国のひとつでもある。

    僕らがテロ行為を憎むのと同じく、バングラデシュの人々もテロを心から憎み、こうした理不尽な攻撃の被害を受けている立場であることをメディアには伝えてもらいたいと願う。

  • シュリーナガルへ

    シュリーナガルへ

    以前、シュリーナガルを訪れたのは1988年。この前年3月に実施された州議会選挙における不正疑惑を発端として、従前から根強かった反インド感情を背景に、抗議活動から武装組織へと発展していったのが80年代末から90年代のこと。

    現地の反政府組織を通じて、隣国パーキスターンによる干渉もあり、泥沼化の一途をたどることとなった。血を血で洗う抗争、爆弾テロ、誘拐・殺害事件等々の暴力に対応すべく、これを力で抑え込もうとした治安当局による市民への拷問を含む人権侵害は、この地でインドに対するさらなる不信感を高めるという皮肉な結果となり、負の連鎖が続いていた。

    風光明媚なカシミール最大の産業であった観光業は、当然の結果として惨憺たる状態となる。この地をロケで利用することの多かったインドの映画産業も、治安の悪化を受けて、山あいのシーンの撮影地をヒマーチャル・プラデーシュ等に移している。

    カシミールの手工芸品という国内外で引き合いの多い優れた品物さえあれば、どこでも仕事ができる商売人たちが、インド各地にこの取り引きのために拡散していくこととなった。隣国ネパールのカトマンズなどで、こうした商品を手掛ける商売人たちは、この時期に進出したというケースが多いようだ。

    私が前回ここを訪れたときは、暴力の嵐が吹き荒れるようになる少し前であったため、特に危険があったわけではないのだが、人々と話をすればするほど、「これから何か起きるかもしれない」と感じさせる不穏な空気はあった。

    ようやく2000年代に入ってしばらくしたあたりで平和のきざしが見られるようになり、2007年あたりから内外の観光客が足を向けるようになってきている。

    ただし、かつてのような身の危険はないとはいえ、ひとたび何か政治的な問題が発生すると、一気に燃え上がり、政府側はこれに対して迅速に手を打つので、何も知らずに訪れた観光客は、「知らないうちに何か起きていて、あっという間に外出禁止令が敷かれていた」という状況になってしまうことがしばしばあるようだ。

    AFSP (The Armed Forces Special Power Act)という特別法が敷かれている地域であるため、そうした摩擦は少なくない。このAFSPは、治安維持と共和国としての統一を図るための苦肉の策とも言えるものだが、「世界最大の身民主主義国家」を自負するインドにおける「マイノリティの民族主義運動とせめぎ合う民主主義の限界点」が如実に現れているものでもある。このような特別法が北東インドでも敷かれている。

    しかしながら、久しぶりに訪れるシュリーナガルの湖の景色は、やはり素晴らしいものであり、しつこい商売人たちを除けば、人々は温厚かつ友好的である。この地に真の平和が訪れることを願わずにはいられない。

  • ムガル最後の皇帝 バハードゥル・シャー・ザファルの墓所

    ムガル最後の皇帝 バハードゥル・シャー・ザファルの墓所

    ムガル最後の皇帝ザファルの墓はミャンマーのヤンゴンにある。

    バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー (indo.to)

    ザファルは、ウルドゥー詩人としても高名だが、一部ではスーフィーの聖人としても崇められている。彼が埋葬されている場所は、その聖人としてのザファルを祀るダルガー(聖者廟)となっており、金曜日にはヤンゴン在住のインド系ムスリムたちが多数出入りする。シュエダゴォン・パゴダから南へ1.5kmほど進んだところにある。ここにそのロケーションを示すリンクを示しておこう。

    1857年に発生したインド大反乱の名目上の旗印として担ぎ出された当時のムガル皇帝であったザファル。同年9月にイギリスは王宮であったラールキラーを陥落させる。数日後にデリーがイギリスに制圧後すぐに捕らえられ、王妃ズィーナト・メヘルと嫡子のミルザー・ジャワーン・バクト、そして側室の子であるミルザー・シャー・アッバースとともにデリーからビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)に島流しとなる。ザファルは1862年に同地で亡くなり、秘密裡に埋葬された。

    イギリス当局は流刑先にあっても元皇帝の死後における影響力を危惧し、その後30年間ほどこの場所を立ち入り禁止した。そして亡骸が埋葬されている地点を正確に示すことはなかった。そのため「このあたりに埋められたらしい」といった程度の情報しか人々は知ることができなかったようだ。時の流れとともに、事実を知るわずかな人々もこの世を去っていく。

    やがて1935年にようやくバハードゥル・シャー・ザファルの子孫にあたる人物が運営していたムスリム団体による管理が認められ、この地所が政府から引き渡される。その後長らくムガル最後の皇帝の正確な埋葬地点は不明だったが、ようやく1991年にレンガ積みからなるオリジナルの墓石が地下から発見されることとなった。その年にインドの援助により礼拝所が建設されることとなり、現在の姿となっている。

    さて、異国で失意のうちに生涯を閉じることになったムガル最後の皇帝ザファルだが、大反乱が起きる前、すでに墓所がデリーに用意されていた。以下の画像がそれである。

    上の画像左上から右下へ

    アクバル・シャーII
    (在位1806 年~1837年)
    第16代ムガル皇帝 (バハードゥル・シャー・ザファルの父)

    シャー・アーラムII
    (在位1760年~1806年)
    第15代ムガル皇帝(バハードゥル・シャー・ザファルの祖父)

    バハードゥル・シャー・ザファル(バハードゥル・シャーII)
    (在位1837年~1857年)
    第17代ムガル皇帝
    ※墓石がなく、雑草が生い茂っている部分

    ミルザー・ファクルー
    バハードゥル・シャー・ザファルの跡取りになることが決まっていた王子。大反乱が起きる前年の1856年にコレラで死亡

    この墓所の外観は以下のような具合だ。

    これは、南デリーのメヘローリーにあるザファル・メヘルという離宮内にある。父であり、先代の皇帝であったアクバル・シャーIIの時代に建築が開始され、ザファルが完成させた。ザファルは、この場所がお気に入りであったようで、しばしば狩猟や余暇を楽しむためにここを訪れていたという。

    現在では南デリーの市街地となっているが、1960年代くらいまで、このエリアには何もなく、原生林に囲まれていたらしい。だが、ザファルがデリーに生きていた時代から、この離宮に隣接するダルガー(クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーの聖者廟)は、デリーに存在する最古のダルガーのひとつとされるため、このあたりには何がしかの集落があったのだろう。ザファル・メヘルから、そのダルガーの飾り立てられたドーム部分が覗いている。(下の画像右側)

    ちなみにイギリスによるデリー制圧後、ザファル一行が捕らえられたとされるのは、このメヘローリー界隈。当然、その現場はザファル・メヘルかその付近であったと考えるのが自然だ。

    全盛期には数々の素晴らしい建築を残し、皇帝や妃の死後のために壮大かつ流麗な廟を建てたムガル帝国も、末期では皇帝の亡骸も離宮の中で簡素に葬られるのみであったことに、帝国の栄枯盛衰を想わずにはいられない。タージ・メヘルやフマユーン廟に負けず劣らずの歴史的価値がこの簡素な墓所にあるとも言える。

  • 燃える土地 ジャリヤー

    ジャールカンド州の州都ラーンチーから東に位置するダンバード地区の西ベンガル州境附近のジャリヤー(झरिया)は英領期から長きに渡って炭鉱で栄えてきた土地。最寄りの鉄道駅はダンバード・ジャンクション。ここはシャターブディー・エクスプレスその他のメジャーな列車が停車する大きな駅だ。

    現在、インドでは製鉄業を中心に、燃料の2/3は石炭が使用されるという。インド自身、世界第三位の石炭産出量を誇るが、実にその3/4はここから採掘されている。ここではCoal India Ltd.やBharat Coking Coal Ltd.といった、この分野ではインドを代表する大きな政府系企業が操業している。

    400平方キロメートルの面積に75もの炭鉱があるというほど集中しているが、そのエリアには100万人超の人口を抱えていることも特筆される。この地域では、石炭の埋蔵量が豊富であることだけではなく、地表近くに鉱脈があることでも知られており、それがゆえに採掘が容易である。ゆえに違法採掘が絶えないだけではなく、住民たちの中で炭鉱労働に従事してはない人たちも簡単に石炭を採取しては売りさばくといった形で、家計の足しにしていたりする例も数多いという。

    この地域に住む人たちは部族民が中心だ。しかしながらこれを取引するのは地域外の人たちである。地下資源に恵まれながらも、外界から搾取される存在であるという矛盾がある。
    こうした土地なので、政治で暗躍する人たちや炭鉱マフィアたちのパワーゲームが常時展開する暴力的な風土もあるらしい。

    地表近くに鉱脈があることによる利点と同時にデメリットも大きい。河川や土地の汚染はもちろんのことだが、住宅のすぐ脇から火が噴いていたり、100年以上も続いている燃焼により、地下が空洞となることから地盤が陥没したり、その上にあった建物が崩壊したりなどしているとのことだ。これによって廃線となった鉄道路線もあるとのこと。参考記事のリンクを以下に付しておく。

    India’s Jharia coal field has been burning for 100 years (CNBC)

    健康被害もまた甚大なようで、石炭で潤うことにより、田舎の部族中心の社会としては例外的に栄養問題がほとんどないとされるようだが、採掘と地下の燃焼による大気汚染による呼吸器疾患を抱える人々の割合が異常に高いとされる。

    観光で訪れるような場所ではないが、街から少し出ると石炭採掘現場があり、蔓延する違法採掘現場はマフィアが取り仕切っているため、カメラやビデオなどを回すとかなり高い割合でトラブルに巻き込まれるという話もある。

    ジャリヤーを取り上げたドキュメンタリー番組はいくつもあるが、下記リンク先が特に秀逸なので閲覧をお勧めしたい。

    INFERNO: JHARIA’S UNDERGROUND FIRES (PSBT INDIA)

  • スリナガル・レーを結ぶ道路は今季4月20日前後に開通予定

    スリナガルとレーを結ぶ道路は、今シーズンは4月第1週にオープンする予定であったが、積雪とこれに起因する雪崩の発生により、4月20日前後に延期となったとのこと。

    これもただ座して待つのではなく、この戦略上重要な地域の道路を管理するBRO (Border Roads Organization)の作業員たちによる懸命の努力が継続されている結果、なんとかそのあたりには開通に持ち込むことができるであろうと見込まれている。積雪地帯では、しばらくの間、片側通行となるようだ。

    Srinagar-Leh highway to reopen in last week of April (India Today)

    ラダックの観光シーズンといえば、6月~9月くらいまでで、他は閑散とした状態になるが、道路開通して間もないこの時期に訪れたならば、ピークのシーズンからは想像もつかない眺めを体験できることだろう。

    西にパーキスターン、北に中国が控える軍事的な要衝だが、雪に閉ざされた状態が解消するのは、インドを含めた三国がせめぎ合うこの地域ではいずこも同じであり、陸上大量輸送が可能になるこの時期から、隣国への侵入や小競り合いなどが始まることにより、緊張が高まる。インド北部の要を守るために配置されている軍人たちにとっても、忙しいシーズンの到来だ。

  • ビハールが禁酒州に

    昨日からビハールは禁酒州に移行。しかしU.P.州では酒税率の削減により、酒類が安くなる。生活習慣が大きく異なるわけではなく、隣り合う州なのに。アルコールに起因する社会や生活の問題、酒という個人の楽しみと製造・販売の利権、どちらも票になるので、政権が社会のどのあたりの歓心を買おうとしているかによって転ぶ方向が違う。州ごとの自治性の高さからこうしたコントラストが生まれてくる。

    Complete ban on alcohol in Bihar from today (The Indian Express)

    Liquor prices come down in UP after state govt slashes excise duty on alcohol (India Today)

    禁酒となっても、闇であちこち流通していることだろう。インドでは、他にも禁酒州はいくつかあるが、ブラックマーケットではかなり高い値段で取引されているかといえば、そうとも限らないようで、政府に税を払わずに売りさばくので、酒が合法な州よりも安く手に入るということもなきにしもあらず、のようだ。

    こちらは2007年にindo.toにアップした記事だが、これはグジャラート州の酒に関するもの。当時、禁酒を見直す動きがあったものの、現在までのところ、この情勢には変化なし。

    グジャラート州 酒類解禁への道 (indo.to) ※2007年2月の記事

  • 80年代イランの切手

    80年代イランの切手

    初めてイランを訪れたのは、ホメイニー師が亡くなってからすぐあたりであった。別に切手を集める趣味があるわけではなく、旅先で記念切手?を購入するということは、後にも先にもなかったのだが、この類の切手だけは有名であったので手にしてみたかった。

    1979年に発生したアメリカ大使館占拠記念

    1988年に起きた米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾
    交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難

    当時のイランでは、大きな役所等の壁に「アメリカを打ち倒せ!」みたいなスローガンと勇ましいプロパガンダ画などが描いてあるのを目にした。

    最初の切手はアメリカ大使館占拠記念、次は米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾、三番目は交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難。
    ・・・といっても、イラン政府による「官製反米姿勢」とは裏腹に、イランの一般の人々の間で、こうした反米感情が渦巻いているわけではなく、極めて穏健かつゆったりとした人たち。

    急進的な近代化を推し進めたパフラヴィー朝に対する宗教勢力を中心とする保守勢力に、これとは異なる側面、つまり王朝による強権的な支配、利権構造、腐敗などを苦々しく思っていた市民たちが、変革を期待して肩入れした結果、革命が成就することとなった。

    しかしながら、王朝が倒れてからは、大多数の市民が期待したような方向に向かうわけではなく、今度は宗教勢力が大衆を強権支配するようになった。きちんと教育も受けていないならず者みたいな者たちが、政府の治安機構で用いられ、新しい政権が示したコードに従わない者をどんどん処罰していく。

    さらには「革命の輸出」を警戒する中東近隣国との関係も悪化し、「ペルシャ湾岸の衛兵」的な立場にあった王朝が倒れることにより、欧米からも強く懸念される存在となり、大産油国でありながらも経済は悪化していったのがこの時代。

    そのため、市民の多くは「王朝時代は悪かったが、今もまたひどいものだ」と呻吟する社会が当時のイランであったわけで、それなりの資産とツテのある人たちはアメリカその他に移住していくこととなった。

    東に隣接する南アジア社会に較べると格段に高い生活水準と立派な街並みなどから、当時の私なぞは、あたかも東ヨーロッパに来たかのような気分にさえなったものだ。イランの人々の風貌はもちろんのこと、当時の地味な装い、イスラーム革命により、1979年に王朝が倒されてからは、経済面では社会主義的政策を取っていたこともあり、そんな雰囲気があったともいえるかもしれない。

    当時は、観光目的で三カ月以内の滞在については、査証の相互免除協定があったので、日本人である私たちがイラン入国に際してヴィザは不要で、イランの人たちが日本に来る際にもそうであった。    
          
    つまりイラクとの戦争が終結したあたりから、イランから日本に出稼ぎに来る男性たちが急増したのは、ちょうどこのあたり。東京都内では、ヤクザみたいな恰好?したイラン男性たちをしばしば見かけて、イラン旅行中にはいつでもどこでもお世話になった紳士的かつ親切な人々の姿とのギャップにちょっとビックリしたりもした。でも、当時日本に出稼ぎに来ていた人たちの大半は若者だったので、故郷の地域社会の縛りが解放されて、ちょっとツッパッてみたい年ごろだったんだろうな、と思う。

    当時のイランではNHK連続ドラマの「おしん」が吹き替えで放送されていたようで、各地でよくそのストーリーについて質問された。だが私はその「おしん」とやらをまったく見ておらずよく知らないので、逆にイランの人たちに尋ねる始末であった。(笑)人気ドラマにしても芸能人ネタにしても、自分の興味のない部分についてはまったく知識を吸収できないので、ときに困ることがある。この部分については、今になってもまったく治っていない。

    そんなイランがこれから大きな変化を迎えようとしている。これまで長く長く続いた冬みたいな時代であったのかもしれないが、ホカホカと暖かく素敵な春を迎えるようになることを願いたい。

  • スーチー氏とNLD

    先のミャンマー総選挙で勝利し、平和裏な政権交代により、与党となるNLD (National League for Democracy)。本来ならば党首のアウンサンスーチー氏が大統領に就任すべきところ、ご存知のとおり不条理な憲法規定により、子息が英国籍であるため資格がないことになるため、「代役」として腹心が大統領候補となった。

    ミャンマー スー・チー氏側近が大統領就任か (NHK)

    期待値があまりに大きいこと、同様に国外からのそれもまた過大であることから、スタートからかなり厳しいものがあるように思われる。軍政を継いだ前政権が経済、外交、民生の各分野で、予想外にいい仕事をしてしまったことも更にハードルを上げている。

    政権への批判者として高い支持を集めた人物が必ずしも為政者として有能なのかいえば、必ずしもそうではない例が多い。また、現在の彼女の年齢も気にかかる。

    加えて、私たちを含めて、およそ大衆というものは、短期間で目に見える効果を期待しがちであり、野党もそのあたりを攻撃してくることはもちろんのことで、大衆はそれにうまく乗せられてしまうのが世の常。

    「スーチー氏」という「ブランド」には、なかば神格化されたといってよいほどのイメージがあり、政治の世界の泥仕合や合従連衡のかじ取りが求められる政権党のリーダーとして、これまでの批判者という立場から為政者にスイッチした瞬間から、内外からのブーイングや痛烈な批判を受け止めなくてはならない。

    当然のことながら、華々しい実績もあり、キレ者が多い前政権、つまり軍服を脱いだ新世代(旧軍政期から見ての)実力者たちは、強烈なカウンターパンチを用意していることだろう。

    「スーチー氏に任せれば大丈夫」というムードと期待感こそが、スーチー氏にとってウィークポイントなのではないかと思う。

    また、ビルマ族以外の少数民族が暮らす「州」(概ねビルマ族がマジョリティの地域は「管区」、少数民族の占める割合が高い地域は「州」という区分になっている。概ね前者は英国時代に直接統治した地域、後者は割拠していた藩王国を通じて間接統治していた地域ということになる)については、今後「民主化」の中で、州の自治権強化を求めることになるのが筋だが、大胆な行政改革が求められる。

    軍政時代には民族運動を武力で押さえつけていたが、これに対してスーチー政権はどのような対応に出るのか?というところで、注目していきたい。インドやネパールのように、「民族のモザイク」の土壌だけに、叡智が試されるところである。彼女がこれまで選挙戦での協力関係以外に経験のないこの部分は、NLD政権にとって相当な危険を秘めているということになるだろう。