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カテゴリー: economy

  • ルアンパバーン街歩き 1

    ルアンパバーン街歩き 1

    利用した宿には朝食がついていたが、クロワッサン、フルーツ・サラダ、コーヒーあるいは紅茶というシンプルなもの。だがクロワッサンは美味しかった。

    旧仏領のインドシナ地域では、植民地時代からの伝統で、バゲット作りは盛んだ。それらをフランス式に食べるのではなく、屋台で土地の作法で肉や野菜を調理したものをはさんで売っていたりする。だがそれ以外のパン類については、おそらくこうした観光地での製造が、近年になって盛んになったものと思われる。

    バゲットなどのパンを売るベーカリー

    ルアンパバーンのサッカリン通りには、3 NAGASというレストランがある。洒落たコロニアルな建物はもとより、1952年式のレトロなシトロエンが店の前に置いてあることから、大変目を引く存在なのだが、これを経営しているのは、Accor Hotelsというフランス資本のホテルグループだ。

    ルアンパバーンには、他にもちょっとお洒落なレストランやカフェがあるのだが、こうした国際チェーンはもちろんのこと、タイなど近隣国の外食産業も参画しているのではなかろうか。

    例えば、いくら旧仏領といっても、国際的に通用するような旨いコーヒー、美しいケーキ類がその当時から存在したわけではなく、やはりこうしたものを伝えたのは、観光化が進むにつれて参入した国外資本(個人による開業を含む)が道を切り拓いてきたはずで、元々この地にはなかった新しい文化を導入することになった。

    外来の外食産業がリードすることにより、地場の業者も優れた感覚やサービスの手法を取り入れていく。観光業振興におけるひとつの成功例である。

    そんな具合で、観光客が多く滞在するエリアでの外食はけっこう値段も高いので、バックパッカーをはじめとする安旅行者たちは、どこで食事をしているのかといえば、もっと質素な店になる。

    ナイトマーケットが開かれるエリア界隈では、ビュッフェ方式の屋台が店開きする。「何でも盛り切りで1万5千キープ」などと書かれており、大皿を手にして、自分でいろいろ盛り付けている西洋人たちの姿がある。

    夕刻近くなると、屋台を切り盛りする人たちが、こうした料理をポリバケツに入れて、大八車で運んでくる。一見、生ゴミを運んでいるのか(失礼!)と思ってしまうが、それらを大皿に盛りつけて、賑やかな宴が始まるのだ。こうした需要を見つけて行動する地元飲食業者たちのフットワークの軽さに感心する。

    ここでも中国人観光客がとても多いため、漢字の看板もよく見かける。グループでやってくる人たちが多く、客単価も高いようで、なかなかの上客だろう。

    このような造りのホテルも少なくなく、コロニアル建築を改修したものであったり、まったく新築のコロニアル風建築であったりもする。いずれにしても快適に滞在できそうで、好感度抜群だ。

    〈続く〉

  • ルアンパバーンへ

    ルアンパバーンへ

    ここしばらく、インドと関係ない国に関する記事が続いており、恐縮である。

    久しぶりにドンムアン空港に着いた。2006年にスワンナプーム国際空港が開港にあたり、閉鎖されていた時期もあった。今では、第1ターミナルは国際線用、第2ターミナルは国内線用として、どちらもLCCの航空会社が乗り入れている。

    ここからエアアジアのフライトでラオスのルアンパバーンに向かう。ずいぶん昔のことと較べても仕方ないのだが、便利になったものだとしみじみ思う。

    ラオスが個人旅行者に門戸を開いたのは、確か1989年あたりだったと記憶している。バンコクで宿泊していたゲストハウスで他の旅行者から「ラオス入れるようになったって!」という話を聞いた。当時は「インターネット」というコトバさえも耳にしたことがなく、こういうことがあった場合、実際に訪れた人から直接話を聞くか、あるいはその国の大使館に行って、本当に個人で観光ヴィザが取得できるのか確認するしかしなかった。

    そのとき、私はすでにバングラデシュのダッカへ飛ぶフライトを予約していて、ラオスに長居することは出来なかったとはいえ、とても気になったのでその翌朝にラオス大使館に行ってみた。ヴィザ申請に来ている人たちはさほど多くなく、手続きはすぐに終わり、確か翌日あたりには発行されて、そのまま長距離バスで、メコン河を挟んだラオス国境の町、ノンカーイに出発した。

    その頃、メコン河両岸を結ぶ橋の建設について、そういう計画があるということは聞いていたのだが、まだ工事にさえ取り掛かっていなかったように思う。ノンカーイからは、渡し船で対岸のラオスに着いた。草が生い茂る岸辺に、「Duty Free」と看板が出ている免税店があるのが印象的だった。

    1989年 渡し船でタイのノンカーイからラオス側の岸辺に着いたとき

    1989年 ラオスが個人旅行者に門戸を開き、メコン河を渡ってビエンチャンに向かう旅行者を待ち受けるタクシー

    タイのノンカーイにしても、特にどうということのない田舎町だったが、それでも対岸のラオスに着いて、そこから客待ちをしているずいぶん古いトヨタのタクシーで、首都ヴィエンチャンに着くと、時間が40年ほど遡ったかのような思いがした。

    1989年 ラオス首都では「自家用車」を目にすることはほとんどなかった。

    1989年 ヴィエンチャンでは社会主義的なイラストの看板をよく目にした。

    今では交通渋滞なども発生しているラオスの首都だが、この頃にはまだ自家用車の姿は非常に少なく、「ラオスで初めて出来た信号機」には、見物人が集まっていたりするなど、のどかなものであった。

    モンスーン期、当時のラオス首都では、メインストリート以外に舗装道はなく、自転車を借りて郊外まで走ると、車輪がぬかるみにはまって往生した。くるぶし上まで泥に浸かって進まなくてはならないところもあった。

    この頃、雨季のルアンプラバーンについては、軍の全輪駆動の車両をヒッチして行くのが定石であった。すでに予約してあったダッカ行きのフライトのこともあったし、ガイドブックもなかったので、首都からそう遠くないところにどんな見どころがあるかも知らなかった。そんな具合で、時間もないので早々に切り上げてタイに戻った。

    「美しい古都」として知られているルアンパバーンについては、1995年に町そのものが世界遺産指定されてから、爆発的に訪問者が増えたと聞いており、その後もことあるごとに気になっていた。

    今では、タイ、カンボジア、中国、ベトナム、シンガポールなどから国際便が乗り入れており、子連れで気軽に訪れることができるようになっているのだから、世の中ずいぶん大きく変わるものだな、と思う。

    ドンムアン空港からエアアジア搭乗。湿度が高く、フル回転を始めた空調から出る空気は白い蒸気となる。
    ルアンパバーン空港へと機体は高度を下げていく。
    ルアンパバーン空港到着
  • コサメット1

    コサメット1

    バンコクのエカマイ・バスターミナルに向かう。コサメットに行く船着き場バーンペーまでのバスは1時間半後まで無いと言われたが、幸い反対のカウンターではミニバスのチケットを売っており、これは今すぐに出るところとのことで助かった。クルマは、「ミニバス」というよりも、大きめのヴァンであった。

    ヴァンの同乗者に台湾人男性がいた。タイ人の運転手は中国語が出来るようで、他の同乗の中国系タイ人のおばあさんとともに、北京語で話している。中国語というのは実に使い出のある言葉だ。台湾人にしてみても、違う国に行って、そこに数世代にわたって暮らしている現地の華人たちと中国語で会話できるというのはなかなか面白いものだろう。

    もっとも華人といっても、タイではすっかり現地化してしまって、潮州語等、父祖の言葉は出来ず、当然ながら北京語も出来ないという人たちは多いようだが、それでも中国系の人口が多いだけに、流暢に使いこなす人もまた少なくないようだ。

    バーンペー到着は11時前くらいであったか。バンコクから3時間程度であった。船でコサメットに着いたのは、ちょうど正午あたり。この島は、バンコクから近いので、幾度か来たことがあるのだが、前回訪れたのは20数年前だったが、コサメットに渡るバーンペーの船着場周辺の光景がまったく違っているのには驚いた。魚の干物やスルメなどを天日で干している風景の中、突堤脇に小屋があり、そこで船の切符を売っていたように記憶しているが、いまやすっかり立派な市街地になっている。

    バーンペーの市街地

    バーンペーの埠頭

    実に久々に訪れたコサメットでは、ずいぶんアップマーケットな宿泊施設やレストランがいっぱいで、まったく別世界になっていた。今回は子連れで来ているので、船着き場近くで、何かと便利なサイケウビーチに滞在。至近距離にコンビニが3軒もあり、ATMも沢山ある。

    コサメットへ

    コサメットの船着場はずいぶん立派になっていた。
    ちょっとした市街地になっており、コンビニも出来ているのにはビックリ。
    旅行者に必要なものは何でも揃っている。
    今のコサメットには、こんな立派なホテルが沢山ある。

    昔のように細い角材の枠組みにベニヤで壁を仕切り、茅葺きの屋根を付けただけの、歩くと建物全体がミシミシと軋む、高床式の簡素なバンガローは、少なくともサイケウビーチからアオパイビーチまで歩いてみた範囲では見当たらなかった。

    そうしたバンガローは、独立した部屋ふたつで一棟だったが、当然エアコンなどは無かった。砂だらけのベニヤ床に敷かれたマットに蚊帳を取り付けて、裸電球ひとつが頼りなく点る、蒸し暑く重苦しい空気の中で、どこからか聞こえてくる虫の声を耳にしながら、幾度も寝返りを打つ。やがて汗まみれで、浅い眠りへと入っていく。コサメットに限ったことではないが、タイのビーチの典型的な宿であったと記憶している。

    首都圏から近いことから、昔から週末にバンコク界隈から地元の人たちが大挙して訪れていたのだが、バンガローに宿泊しているのはたいてい欧米人、加えてそれ以外の日本人等の人たちであった。タイ人でそうした安い宿に泊まるのは、ギターを抱えた大学生のグループくらいであったように思う。今はカップルや家族連れが、きれいで快適なホテル等に宿泊している。

    外国人旅行者の層も大きく変化した。欧米の中高年層が実に多くなったことに加えて、今は中国大陸から来る人たちが大変多く、どこも中文の看板や表示で溢れている。コサメットに着いてから海パン、一緒に来ている私の娘の短パン等を買い物したのだが、いずれも売り子たちが上手くない北京語で話しかけてくる。商談、値段交渉は、私の更に下手くそでデタラメな中国語で終始する。

    中国人団体さん。とにかく賑やかでよく食べる。

    かつて幾度か訪れたことがあるところでも、ふた昔以上前のこととなると、まったく異なる場所になっているので、初めて訪問するよりもかえって新鮮味が感じられるかもしれない。

    大型のレストランが沢山出来ていて、これまたビックリ。
    かつての素朴なムードとはまったく異次元の世界
    夜になっても華やかなビーチ
    ビーチに席を並べた大賑わいのレストラン
    海鮮バーベキューの具の見本
    ちょっといい感じのホテルで、空調の効いたフロントには、こんな高級犬が鎮座していた。
    ビーチ裏手には屋台の集合体もある。

    数々の美しい島々に恵まれたタイでは、「屁」みたいなもので、大きな歓楽街のあるパタヤよりはマシという程度かもしれない。さりとて南国の島、タイの国立公園指定されているだけあり、それはそれで風光明媚で素敵な島で、個人的にはかなりお気に入りだ。

    変わらないのは海原の風景
    夕暮れ時の浜辺
    今日の日よ、さようなら

    それに、首都圏から4時間弱でアクセスできる点もいいし、ここから対岸のバーンペーまで渡れば、1日に数本程度、スワンナプーム国際空港への直通バスもある。

    大当たりのドリアンで夢心地

    〈続く〉

  • 怪しい求人広告

    怪しい求人広告

    デリーの街角にて。
    「五ツ星ホテルで仕事をして、無学から学卒へ」
    などと書かれた貼り紙。
    「食事無料、チップと残業代。300、600、800 (ルピー?)日払いにて」
    とあり、携帯番号が書かれている。
    実際にかけてみると、どんな仕事が用意されているのだろうか?
    似たような貼り紙で、「大都会で仕事」だの「海外で働いて高収入を」といった具合のものもよくあるが、オイシイ話はそう転がっていないもので・・・。

  • 燃える土地 ジャリヤー

    ジャールカンド州の州都ラーンチーから東に位置するダンバード地区の西ベンガル州境附近のジャリヤー(झरिया)は英領期から長きに渡って炭鉱で栄えてきた土地。最寄りの鉄道駅はダンバード・ジャンクション。ここはシャターブディー・エクスプレスその他のメジャーな列車が停車する大きな駅だ。

    現在、インドでは製鉄業を中心に、燃料の2/3は石炭が使用されるという。インド自身、世界第三位の石炭産出量を誇るが、実にその3/4はここから採掘されている。ここではCoal India Ltd.やBharat Coking Coal Ltd.といった、この分野ではインドを代表する大きな政府系企業が操業している。

    400平方キロメートルの面積に75もの炭鉱があるというほど集中しているが、そのエリアには100万人超の人口を抱えていることも特筆される。この地域では、石炭の埋蔵量が豊富であることだけではなく、地表近くに鉱脈があることでも知られており、それがゆえに採掘が容易である。ゆえに違法採掘が絶えないだけではなく、住民たちの中で炭鉱労働に従事してはない人たちも簡単に石炭を採取しては売りさばくといった形で、家計の足しにしていたりする例も数多いという。

    この地域に住む人たちは部族民が中心だ。しかしながらこれを取引するのは地域外の人たちである。地下資源に恵まれながらも、外界から搾取される存在であるという矛盾がある。
    こうした土地なので、政治で暗躍する人たちや炭鉱マフィアたちのパワーゲームが常時展開する暴力的な風土もあるらしい。

    地表近くに鉱脈があることによる利点と同時にデメリットも大きい。河川や土地の汚染はもちろんのことだが、住宅のすぐ脇から火が噴いていたり、100年以上も続いている燃焼により、地下が空洞となることから地盤が陥没したり、その上にあった建物が崩壊したりなどしているとのことだ。これによって廃線となった鉄道路線もあるとのこと。参考記事のリンクを以下に付しておく。

    India’s Jharia coal field has been burning for 100 years (CNBC)

    健康被害もまた甚大なようで、石炭で潤うことにより、田舎の部族中心の社会としては例外的に栄養問題がほとんどないとされるようだが、採掘と地下の燃焼による大気汚染による呼吸器疾患を抱える人々の割合が異常に高いとされる。

    観光で訪れるような場所ではないが、街から少し出ると石炭採掘現場があり、蔓延する違法採掘現場はマフィアが取り仕切っているため、カメラやビデオなどを回すとかなり高い割合でトラブルに巻き込まれるという話もある。

    ジャリヤーを取り上げたドキュメンタリー番組はいくつもあるが、下記リンク先が特に秀逸なので閲覧をお勧めしたい。

    INFERNO: JHARIA’S UNDERGROUND FIRES (PSBT INDIA)

  • インドのケータイ電話

    有名ブランドのショールームに立ち寄ると、ずいぶん高価で高性能なスマートフォンが並んでいるし、知人たちの中にはかなり頻繁にこうしたモデルを買い替えている人たちもある。単価が高いだけに、さすがに都市部では購買力の高い人たちが多いものだなと感心したりもする。バスやメトロ車内で着席していても立っていても、液晶画面に目を落としている姿は万国共通のものとなっている。

    安価なモデルも広く出回っていること、もともと中古品の取引も盛んであることなどから、さほど所得が高いと思われない層にも広く浸透していて、若い年代のオート運転手たちもフェイスブックなどに投稿していたりする。加えて、廉価なプリペイドのプランも多いがゆえに、インドのケータイ市場は非常に民主的?であったりもするし、デュアルSIMつまりSIMを2枚挿入して使い分けることができるモデルもまた多い。

    そんなインドのケータイを価格、OS、各種スペック別に俯瞰することができるサイトのひとつにこういうものがある。

    snapdeal

    当然のことながら、価格帯ごとに各メーカーの主戦場が分布している。インドのように携帯電話のランニングコスト(新規回線契約や通話にかかるコスト)が廉価な国であれば、普段の通話用にガラケー、データ通信にスマホと、2台持ちしても負担にならないのがいい。ガラケーについては、使いやすそうなモデルが1,000Rs前後で豊富に用意されており、まさに庶民の味方という感じがする。

  • ビハールが禁酒州に

    昨日からビハールは禁酒州に移行。しかしU.P.州では酒税率の削減により、酒類が安くなる。生活習慣が大きく異なるわけではなく、隣り合う州なのに。アルコールに起因する社会や生活の問題、酒という個人の楽しみと製造・販売の利権、どちらも票になるので、政権が社会のどのあたりの歓心を買おうとしているかによって転ぶ方向が違う。州ごとの自治性の高さからこうしたコントラストが生まれてくる。

    Complete ban on alcohol in Bihar from today (The Indian Express)

    Liquor prices come down in UP after state govt slashes excise duty on alcohol (India Today)

    禁酒となっても、闇であちこち流通していることだろう。インドでは、他にも禁酒州はいくつかあるが、ブラックマーケットではかなり高い値段で取引されているかといえば、そうとも限らないようで、政府に税を払わずに売りさばくので、酒が合法な州よりも安く手に入るということもなきにしもあらず、のようだ。

    こちらは2007年にindo.toにアップした記事だが、これはグジャラート州の酒に関するもの。当時、禁酒を見直す動きがあったものの、現在までのところ、この情勢には変化なし。

    グジャラート州 酒類解禁への道 (indo.to) ※2007年2月の記事

  • Gatimaan Express

    現在のインド国鉄で最速(最高時速150km)となるガティマーン・エクスプレスが、本日4月5日から運行開始される。デリーのハズラト・ニザームッディーン駅からアーグラー・カント駅までの185kmを100分で走行するというもの。ハズラト・ニザームッディーン駅からの下りは午前8時10分発、アーグラー・カント駅からの上りは午後5時50分発。
    実質、タージマハル観光専用の列車のようで、タージマハルが閉まっている金曜日は運行されず、週に6往復となる。運行にはモダンな客車が導入され、飛行機のシートのように、前座席背面には液晶モニターが設置されるようだ。
    インド国鉄における「最速」については、革新的な技術が導入されるわけではないようで、シャターブディー急行がこの区間で途中停車駅ひとつ(マトゥラー・ジャンクション駅)で2時間から2時間15分程度で走行するのに対して、ガティマーン・エクスプレスはノンストップで走破することと、ダイヤの調整の結果であると思われる。

    India’s fastest train to debut on Tuesday (THE TIMES OF INDIA)

  • 80年代イランの切手

    80年代イランの切手

    初めてイランを訪れたのは、ホメイニー師が亡くなってからすぐあたりであった。別に切手を集める趣味があるわけではなく、旅先で記念切手?を購入するということは、後にも先にもなかったのだが、この類の切手だけは有名であったので手にしてみたかった。

    1979年に発生したアメリカ大使館占拠記念

    1988年に起きた米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾
    交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難

    当時のイランでは、大きな役所等の壁に「アメリカを打ち倒せ!」みたいなスローガンと勇ましいプロパガンダ画などが描いてあるのを目にした。

    最初の切手はアメリカ大使館占拠記念、次は米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾、三番目は交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難。
    ・・・といっても、イラン政府による「官製反米姿勢」とは裏腹に、イランの一般の人々の間で、こうした反米感情が渦巻いているわけではなく、極めて穏健かつゆったりとした人たち。

    急進的な近代化を推し進めたパフラヴィー朝に対する宗教勢力を中心とする保守勢力に、これとは異なる側面、つまり王朝による強権的な支配、利権構造、腐敗などを苦々しく思っていた市民たちが、変革を期待して肩入れした結果、革命が成就することとなった。

    しかしながら、王朝が倒れてからは、大多数の市民が期待したような方向に向かうわけではなく、今度は宗教勢力が大衆を強権支配するようになった。きちんと教育も受けていないならず者みたいな者たちが、政府の治安機構で用いられ、新しい政権が示したコードに従わない者をどんどん処罰していく。

    さらには「革命の輸出」を警戒する中東近隣国との関係も悪化し、「ペルシャ湾岸の衛兵」的な立場にあった王朝が倒れることにより、欧米からも強く懸念される存在となり、大産油国でありながらも経済は悪化していったのがこの時代。

    そのため、市民の多くは「王朝時代は悪かったが、今もまたひどいものだ」と呻吟する社会が当時のイランであったわけで、それなりの資産とツテのある人たちはアメリカその他に移住していくこととなった。

    東に隣接する南アジア社会に較べると格段に高い生活水準と立派な街並みなどから、当時の私なぞは、あたかも東ヨーロッパに来たかのような気分にさえなったものだ。イランの人々の風貌はもちろんのこと、当時の地味な装い、イスラーム革命により、1979年に王朝が倒されてからは、経済面では社会主義的政策を取っていたこともあり、そんな雰囲気があったともいえるかもしれない。

    当時は、観光目的で三カ月以内の滞在については、査証の相互免除協定があったので、日本人である私たちがイラン入国に際してヴィザは不要で、イランの人たちが日本に来る際にもそうであった。    
          
    つまりイラクとの戦争が終結したあたりから、イランから日本に出稼ぎに来る男性たちが急増したのは、ちょうどこのあたり。東京都内では、ヤクザみたいな恰好?したイラン男性たちをしばしば見かけて、イラン旅行中にはいつでもどこでもお世話になった紳士的かつ親切な人々の姿とのギャップにちょっとビックリしたりもした。でも、当時日本に出稼ぎに来ていた人たちの大半は若者だったので、故郷の地域社会の縛りが解放されて、ちょっとツッパッてみたい年ごろだったんだろうな、と思う。

    当時のイランではNHK連続ドラマの「おしん」が吹き替えで放送されていたようで、各地でよくそのストーリーについて質問された。だが私はその「おしん」とやらをまったく見ておらずよく知らないので、逆にイランの人たちに尋ねる始末であった。(笑)人気ドラマにしても芸能人ネタにしても、自分の興味のない部分についてはまったく知識を吸収できないので、ときに困ることがある。この部分については、今になってもまったく治っていない。

    そんなイランがこれから大きな変化を迎えようとしている。これまで長く長く続いた冬みたいな時代であったのかもしれないが、ホカホカと暖かく素敵な春を迎えるようになることを願いたい。

  • ダッカの高架鉄道建設 東急建設が受注

    かつてはサイクルリクシャーの洪水となっていたバングラデシュのダッカの往来。その頃はエンジンの付いた乗り物といえば、市内バス、トラック、シェア乗りが主体のオートリクシャーくらいのものであったのは今や昔。世界有数の渋滞で知られるようになっている。
    こうした状態は途上国のいずこの大都市も避けては通れない道だ。


    Traffic Jam at Dhaka in Bangladesh (Youtube)

    この解消策としてバイパスや立体交差の建設、車線の拡張などが実施されることになるのだが、同時に徒歩で移動する人たちの路上交通によらない運輸手段の整備が必要となってくる。それが地下鉄であったり高架鉄道であったりするわけだ。
    さて、このほど東急建設がダッカのMRT(Mass Rapid Transit)としての高架鉄道建設を受注。総延長20kmに及び市内を南北に縦断する形で敷設されるのだとか。
    工事が開始されると、完了時までは現在の渋滞に更に拍車がかかった状態になるかと思うが、2021年に予定されている全線開通以降は、今とはかなり違った様相となっていることを期待しよう。

    東急建設、バングラで鉄道工事受注 日本企業で初(日本経済新聞)

    ダッカ市に高速高架鉄道! 渋滞緩和へ向けて進む都市計画(JICA)

  • GoAir ムンバイー・レー便、バンガロール・ポートブレア便就航  3月27日から

    GoAir ムンバイー・レー便、バンガロール・ポートブレア便就航 3月27日から

    このところ好調なGoAirがさらに新たな路線を追加する。今年の3月27日からムンバイーからレー(レーからムンバイーへのフライトはスリナガル経由)への便、そしてバンガロールからポートブレアへのフライトが就航する。いずれも毎日一往復となる。

    双方ともに観光需要に特化した便であるといえる。商用でのニーズが占める割合が高い都市間のフライトに較べて、休暇時期や季節によって需要が大きく変動するので、チケット価格の上げ下げの幅も相当広くなるはずだ。
    今後の運行スケジュールについては、座席の埋まり具合を見極めたうえで、ダイヤ改正の時期にシーズンによる増便・減便といった調整がなされていくことだろう。

    どちらにしても、これらの目的地への直行便がなかった都市からの就航となるため、新たな需要を掘り起こすことになる。それぞれの出発地である都市、その周辺地域に住んでいる人たちの場合、乗り換えなしで行くことができるという気楽さから、「行ってみようか!」という気になることは往々にしてあるだろう。

    費用面でも従前のようにムンバイーからデリーに飛び、デリーからレー行きのフライトに乗るとか、バンガロールからチャンナイ、コールカーターあるいはムンバイーまでの飛行機を利用して、さらにそこからポートブレアに向かうよりも安くなるであろうことから、こうした気分を後押しすることになりそうだ。「愉しみのための旅行」においては、「簡単で価格も安い」という要件が作用する部分は大きい。

    また、厳冬期のレーについては、デリーの濃霧によりダイヤの乱れが頻発したり、ときにはデリーの空港自体が閉鎖されてしまうこともある。とりわけレー行きの便のスケジュールは、たいてい早朝出発となっているので、テリー首都圏やその近くに住んでいる場合を除けば、デリーからよりも距離があり当然運賃も割高になるとはいえ、この時期の天候が安定しているムンバイーから出発したいと思うことだろう。

    冬季は陸路による外界への交通手段がなくなってしまうので、デリーの気象条件によりフライトがキャンセルとなってしまった場合の次善の策として、ムンバイーに出ることが可能となることはありがたい。とりあえずムンバイーに出てしまえば、インドのどの方面にも乗り換えてアクセスすることができる。

    もっともレーを中心とするラダック地方を訪れる観光客は夏季に極端に集中し、インドの他の地域とはケタ違いに寒さが厳しい冬季にわざわざ訪れる人はとても少ない。前述のとおり外界への陸路が閉ざされてしまうだけではなく、ラダック地域内でも道が閉ざされてアクセスできなくなるところが多いためでもある。そんな具合なので、ムンバイー便が就航しても冬季の観光客が増えることにはならないかもしれない。そもそもムンバイー・レー便は冬季も運行されるかどうかについては、今のところよくわからない。

    ラダック地方やアンダマン・ニコバール地域の人々にとっても、フライトで直接結ばれる都市が増えることにより、これらの土地における最大の産業である観光業のマーケットが拡大するという点からも好ましく、同時に自身が外界に出る際の選択肢が増えることにもなる。

    ただし、どちらにおいても、外からやってくる人々が増えるということが地元に与えるインパクトは大きい。土地の人々が先祖伝来の文化や美しい自然の保護に働きかけるとともに、そうした場所を訪れるよそ者である私たちも、こうした部分を尊重し、共存共栄していくことができるよう努めたいものだ。

  • スイス 最低収入保障制度導入なるか?

    本日は、インドとはまったく関係のない話題で恐縮である。

    今年、スイスで導入されようかというBasic Incomeと呼ばれる最低収入保証制度。このBasic Incomeというアイデアはかなり古くからあるようで、それ歴史についてはこちらをご参照願いたい。

    さて、仕事の有無に関係なく支給されるBasic Incomeだが、スイスにおいて給付されようとしている金額は、毎月成人には2500米ドル相当、子供には625米ドル相当のものなので、これは大きな金額だ。

    Switzerland Will Hold The World’s First Universal Basic Income Referendum (fastcoexist.com)

    右派は労働意欲の減退、左派は福祉政策の後退を懸念しているのだとか。最終的には国民投票で成否が決まる。

    財源大丈夫なのか?と不思議ではあるものの、夫婦と子供二人で、毎月6250米ドル相当が支給されるとなると、あまりに魅力的だ。

    だが、もし導入されたらさっさと仕事を辞める人が激増・・・ということにはならないようで、そういう人たちはわずか約2%という予測が出ている。

    SWITZERLAND: Only 2% of people would stop working if they had a basic income (BIEN)

    日本円で30万円の月収が保障されたとしても、日本よりもかなり物価が高く生活費(ただし教育にかかる費用は政府が手厚く支出しているので個人の負担はとても小さい)がかかること、導入されても、いつまで続くかわからないし、みんなが仕事をやめてしまうと、維持出来ないシステムなので、大半の人々はこれまで通りに仕事を続けるらしい。それでこそこのシステムが維持できるという訳でもある。

    よく、「欧米では・・・」などという下りを見かけるが、言うまでもなく、「欧」と「米」とでは、社会制度、とりわけ福祉や社会保障のありかた、労働者の権利擁護といった部分が大きく違う。両者が似ているのは「人の顔」くらいのものだろう。

    収入保証の考え方はともかく、欧州では手厚く、取得率も非常に高い勤労者への有給休暇制度も、なんと米国では法定ではなく、各事業所の判断。民業への政府による介入を極端に嫌うのは、市場の見えざる手により、適切に調整されるという思想というか幻想によるものだ。

    わずか800万人強という少ない人口の割には、旅行先で見かけるスイス人は多く、インドでもよく出会うのだが、とりわけ若いバックパッカーたちにとっては、このBasic Incomeという制度は大変魅力的かもしれない。

    これを頼りに旅を続ける?ということが可能であるかどうか(自国に居住していなくても受給出来るのかどうかは不明)はさておき、長旅を終えてから帰国後に直面することになる暮らしについて、経済的な不安を抱えることなく再スタートを切ることができる。

    人口が少ないながらも勤勉かつ着実に経済成長を続けている富裕な国であるがゆえに可能なことではあるが、貧富の格差拡大が社会問題になっている日本においては実現可能ではなくても、Basic Incomeという考え方については、私たちも学ぶべきではないかと思う。

    ※ゴーラクプル2ば後日掲載します。