
「緑の革命」で内外によく知られるパンジャーブ州は、インドの穀倉地帯。社会的インフラ、所得や教育水準などの観点から、インドにおける先進州のひとつでもあり、各種商工業も盛んだが、やはり農産物からの収益が豊かな経済を支える最も大きな柱。



農業の成功を可能にしているのが、州内に張り巡らされた大小の水路。パンジャーブ州の農業の隆盛を可能にしたのは、効率的な灌漑施設の普及だ。

カテゴリー: economy
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高額紙幣の廃止
11月8日の夕方、日付が9日へと変わるまで、あと4時間というタイミングで、モーディー首相が、現在の高額紙幣(500ルピー札および1,000ルピー札)を廃止することを発表したことは、ニュース等で伝えられているとおりだが、当然のごとく本日のインドでは各所で混乱が起きている。
これらのお札の廃止を受けて、新たな500ルピー紙幣と2,000ルピー紙幣が導入されるとのことだが、いつから流通するのか、全国各地に行きわたることになるまで、どのくらいかかるのかは今のところはっきりしない。今週の金曜日からATMで引き出すことができるようになるという報道はあるのだが、ごく限られた大都市の中心部にあるメジャーな金融機関に限られたことではないだろうか。
New currency notes to be available at ATMs from Friday (INDIA TODAY)
インドにおいて、こうした廃札は初めてではない。ずいぶん昔のことになるが1946年と1978年にも実施されている。前者では1,000ルピーと10,000ルピー紙幣、後者では1,000ルピー、5,000ルピー、10,000ルピー紙幣がそれぞれ廃止されている。ルピーの価値は今とはまったく異なった当時のインドとしては、相当な高額紙幣ということになる。1978年には、1USドル=8.5ルピー(1USドル=190~240円程度)であったので、1ルピーが最大25円ほどの価値があったことになる。つまり1,000ルピーは約2万5千円、5,000ルピーは10万円、10,000ルピーは25万円もの価値があったことになり、もっぱら大きな商取引で用いられるものであって、日常生活では見かけたり、用いたりすることは滅多になかったことと思われる。当時のインドの1人当たりのGDPは、わずか200USドルであった。
今回の廃札と同じく、ブラックマネーや脱税への対策として実施されているが、前回2回と大きく異なる部分がある。まずは、最高額紙幣が1,000ルピー(約1,500円)であること、そして昔とは通貨価値が異なり、所得も向上しているため、500ルピー、1,000ルピーといった額面の紙幣は、一般市民の日常生活で頻繁に用いられる。
これらが廃止となったことで、社会に与えるインパクトは非常に大きく、たとえこれがブラックマネーの追放や不正蓄財への打撃であるという目的を説いたところで、前回2回に較べて一般市民にも及ぶ不都合は甚だしいため、こうした施策が理解を得られるかどうかについては、かなり大きな疑問だ。
今回廃止となった紙幣については、一定期間はATMで預け入れたり、銀行窓口でフォームを記入して交換したり出来ることになっている。昨日、本日流れていたニュースによると、その期間は今年12月一杯、1日に交換できる金額は20,000ルピーまでとのこと。
だが先述のとおり、市民生活に及ぶ影響が甚大であることから、市民自身からはもとより、野党からの激しい批判等により、次第に緩和されていくのではないか?とも想像している。初めはかなりキビシイことを求めていても、反発を受けて、それが次第に緩くなってくるということは、インドではよくある。良くも悪くも民主主義の国である。
※「パティヤーラー4」は後日掲載します。
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パティヤーラー1
アーナンドプル・サーヒブのバススタンドから10時のバスで出て、午後1時半にパティヤーラーに到着した。
どうせ寝るためだけなので、バススタンド近くの500から700Rsくらいの宿に泊まるつもりだったが、パティヤーラーが近くなったあたりで、宿泊施設をスマホで検索してみると、ちょっといいホテルがインドの旅行予約サイトで結構安く出ていること、新しくアカウント作るともらえるクーポンみたいなのを利用すると得なことを知った。普段は予約サイトで宿を予約などしないのだが、中級クラスのホテルの場合は、こういうものを利用したほうが有利なことがあるということが判った。
可笑しいのは、連泊する場合、そのままチェックイン日とチェックアウト日を入れてしまうよりも、一泊ずつで取ったほうが安くなる場合もあること。
バスを降りてから、サイクルリクシャーでそのホテルに向かった。室内も外見に相応しい感じで快適。全館改装したばかりのようだ。これで税サ込で2000Rsを切るというのは、いまの時代、けっこうお得だ。もし連れがいれば、二人でも同じ料金なのでもっと得になる。リュックを背負ってホテルのフロントまで来ていながらも、そこでスマホを操作して予約するというのも間の抜けた話ではある。
〈続く〉
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サダル・ストリートの「ホテルチェーン」
コールカーターのサダル・ストリート。英領期に元々は欧州人地区。20世紀に入ってしばらくするとユダヤ人地区、ベトナム戦争時には赤線地帯、それ以降は安旅行者地区と、変遷を続けてきた。
近ごろはかなりキレイな宿も出てきており、スィク資本でムンバイーを本拠地に、いくつかのホテルを展開するBAWAグループがホテルを開いたりしたのにはちょっと驚いたが、サダル・ストリートの地元資本?によるホテルグループもいくつか宿泊施設を展開している。
オーナーがムスリムのそのグループが運営するHotel Golden Appleが開業して間もないあたりで利用してみたことがあったが、とってもスタイリッシュな内装と施設にビックリした。ウロ覚えだが、2010年か2011年あたりではなかっただろうか。おまけに料金が確か1,200Rsとずいぶんお得なことにも感心したものだ。現在の料金は、2,500Rsくらいからのようだ。
ただし、スタッフの態度はやはり界隈の安宿と同じで、部屋に置いてあるルームサービスのメニューが「ブルースカイカフェ」のものであるのには笑えた。注文すると出前しに来るのだろう。
元々が安宿のオヤジとその取り巻きがやっている?と思うので、手入れもせず、すぐに汚くなって、周囲のボロ宿と同化してしまう「標準化現象」を見せてくれるのではないか?と予想していたが、案外そうでもないらしい。大都市の割には、カルカッタは中級クラスのホテル料金が安めなので、2,500Rsとか3,000Rsくらいのレンジならば、もっといい地区がある。わざわざサダル・ストリートに宿泊する必要はないように思うのだが、まあ、何かと便利な地区ではある。
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インド国鉄客車のクラス分け
宿泊を伴わないチェアカー車両のみを利用する近距離移動(それでも大きな国なので、8時間とか9時間とかザラだが)のShatabdi Express(「世紀急行」の意)から派生したJan Shatabdi Expressの運行が定着してからずいぶん経つ。
Shatabdi Expressのような停車駅が少なく、他の急行列車よりも格段に迅速な移動を可能にした特別急行は、空調付き車両のみで、クラスの位置づけが高いため、当然、運賃もそれに応じて上がる。
普通の急行列車と違い、乗車中にお茶、スナック、食事などが提供されるため、飛行機内でのサービスを思い浮かべてもらえばよい。これは乗車券代金に含まれる。
さて、先述のJan Shatabdi ExpressのJanについては、一般庶民のことを指しているので、より経済的に余裕のない層でも利用出来るようにしたものだ。車内サービスは有料となり、AC無しの車両も連結されている。
基本的には普通車とグリーン車しかない日本と異なり、インドの鉄道のクラスは8区分程度となり、かなり複雑だ。
「8区分程度」としたのは、寝台クラス(長距離列車)と座席クラス(短・中距離列車)は、通常、同じ列車に連結することはない。用途が異なるため、一概に上下に分けることはできないものがあるからだ。
また、同じ最上級クラスの1Aというカテゴリーでも、通常の急行列車と、運行に優先権を持つ特別急行とでは、使用する車両も違うことがあるので、これもまた同一のものとして扱うのは適当ではないだろう。
最上級の1Aの下には、2A、3A(どれもAC付き)と続き、事実上のAC1等、AC2等、AC3等となるが、その下に近距離のACチェアカーなどを挟んで、「1等車」があることに釈然としない人もいるかもしれない。(現在、これが使われる機会は減っているが、要はACなしの一等車だ。)
これほどにクラスが多いことは、植民地時代からの伝統により、国家予算とは別枠の「鉄道予算」を持ち、(確か、現在でも発表となるタイミングさえ、一般の予算と異なる)鉄道大臣が首相、内務大臣に次ぐナンバー3の位置づけとなっているインドの事情がある。
ただし、次の会計年度から通常の国家予算と統合されることになったため、92年間続いた措置はついに終焉を迎えることとなった。
往々にして官業というのは、とりわけ強大な権限を持つところは、「これでもか!」と増殖を重ねていくもの。植民地時代は1等、2等、3等というクラス分けであったが、今のようにクラスが乱立するようになったのは、概ね90年代以降の現象のようだ。エアコン付きの客車が増加したことに起因する。
さて、こうしたクラス分けについて、利用者の側にとっては、経済事情に応じて、安いものを選択できるということもあるが、払う余裕のある人については、車内のアメニティの差に金を払うというよりも、混雑を避けたり、同乗したくない層の人たち(階級社会らしいところだ)を避けたりすることが出来るという需要がある。それにしても客車のクラス分けが多いことについては、効率の観点から整理しなくてはならない時がやがて来るだろう。
乗車クラスの違いによる料金差ははなはだしい。下記リンク先の記事は、2004年の内容なので、料金自体が現在のものとは異なるが、どの程度の差があるのか把握するための参考にはなるだろう。
天国か地獄か、インド列車のしくみ(2) (indo.to)
また、急行列車の種類についても、鉄道旅客輸送の高速化とともに、サービスと利便性向上の両方の観点から、従前の停車駅が少なく、走行に優先権を持つSuper Fastのステイタスを持つ急行とそれ以外、加えてSuper Fastの上を行くRajdhani Express(長距離列車)とShatabdi Express(短距離・中距離)といった構成であったものに加えて、先述のJan Shatabdi以外に、エアコンクラスを安価に提供するGarib Rath Express、停車駅が極端に少ないDoronto Express等といった新しいカテゴリーの急行列車も導入されて多様化が進んでいる。このあたりについても、整理しなくてはならない時期がいつかやって来るかもしれない。Super Fastの上のカテゴリー名が、急行列車の名前になったり、単に出発駅と終着駅が休校列車の名前になったりすることが多くなっている現在、英領時代から続いたSuper Fastのカテゴリーの「Frontier Mail」(ボンベイから現在のパキスタンのペーシャーワルまでを結んでいた。印パ分離後はアムリトサルが終点)のような伝統ある急行列車の名前が、「Golden Temple mail」と改称されたりしたのは寂しい気がする。
これよりも歴史が古く、1世紀以上も運行されており、かつてはボンベイからペーシャーワルまでを結んだ「Punjab Mail」の方は今も健在だ。この急行列車の終着駅はパンジャーブ州のフィローズプルとなっている。
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チャーンドニー・チョウクのヘリテージ・ホテル
デリーのチャーンドニー・チョウクといえば、今でこそ大変混雑した庶民のバーザールとして知られているが、元々はムガル王宮のお膝元のポッシュなエリア。大通りには水路と噴水があり、貴人たちが行き来する地域であったそうだ。ムガル帝都末期から「ムガル朝御用達」のミターイーの店として、伝説の老舗「ガンテーワーラー」が昨年まで営業していた。
ムガル帝国滅亡後も、印パ分離独立でムスリム富裕層がここを離れるまでは、立派なハヴェーリー(屋敷)が建ち並ぶ美しいエリアであったという。インド独立後には、そうした建物の内部は細分化して間貸しされていたり、小さな商店等が入居したりといった具合で、元の姿を想像することさえ難しくなっていたりする。
最近、そんなハヴェーリーのひとつを修復して開業したヘリテージ・ホテルがあるのだが、1泊およそ9,000~15,000Rsという高価格帯。こうした古いハヴェーリーは、まだいくつも残っている。こうした建物の利権関係はとても複雑なようだが、こうした類の宿泊施設が他にもいろいろ出てきたり、そうした中でエコノミーな施設もあったりすると、見どころも多い立地だけに、大変面白いことと思う。
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Trains at a Glance October 2015 – June 2016
インド国鉄の最新版時刻表が更新された。インドの旅行予約サイトの普及により、あまり使い出はなくなったとはいえ、全国の急行以上の列車(および一部の各停)を参照出来る時刻表が、ネットで手軽にダウンロード出来るのはありがたい。本来ならば、毎年7月に発表されるべきものだが、近年は10月更新となっている。
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第四次印パ戦争の足音か
インドがついに一線を越えた。
国内世論と世界的な支持を集めるモーディー政権の自信か、それとも過信か。パキスタンの反応次第では、かなりキナ臭い事態へと発展してしまうかもしれない。
文民政権は越境テロを繰り返す組織を抑え込む力はなく、政府と並立する軍という、二重権力構造のパキスタン。文民政権は、自国領への攻撃を黙認するわけにはいかず、テロ組織のスポンサーでもあり、文民政権とはしばし鋭く対立するパ軍はどのような応対をするのか。
印パ対立という現象面以外に、パキスタン国内でのふたつの大きな権力の相克の行方が大変気になるところでもある。パキスタンで、クーデターによる軍事政権樹立という動きもあるかもしれない。また、インド側にしてみても、一度振り上げた拳をどこで引っ込めることができるのだろうか。
様々な国内問題、外交問題で喧々諤々の議論を交わす民主主義国インドだが、例外は対パキスタン軍事行動。与党・野党を問わず、右から左まで、諸手を上げてのイケイケ状態となるので、ブレーキ役は不在となる。
民生や汚職追放には熱心だが、これまで外交問題にはあまり関心のなさそうに見えたデリー首都圏のAAP政権でさえもこんな具合だ。
第四次印パ戦争開戦は、もうすぐそこまで迫っているのかもしれない。核保有国同士の大規模な衝突へと突き進むことがないよう祈るしかない。
Kashmir attack: India ‘launches strikes against militants’ (BBC NEWS)
India strikes back, carries out surgical strikes on terror launch pads at LoC (THE TIMES OF INDIA)
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ルアンパバーン街歩き 1
利用した宿には朝食がついていたが、クロワッサン、フルーツ・サラダ、コーヒーあるいは紅茶というシンプルなもの。だがクロワッサンは美味しかった。
旧仏領のインドシナ地域では、植民地時代からの伝統で、バゲット作りは盛んだ。それらをフランス式に食べるのではなく、屋台で土地の作法で肉や野菜を調理したものをはさんで売っていたりする。だがそれ以外のパン類については、おそらくこうした観光地での製造が、近年になって盛んになったものと思われる。

バゲットなどのパンを売るベーカリー ルアンパバーンのサッカリン通りには、3 NAGASというレストランがある。洒落たコロニアルな建物はもとより、1952年式のレトロなシトロエンが店の前に置いてあることから、大変目を引く存在なのだが、これを経営しているのは、Accor Hotelsというフランス資本のホテルグループだ。
ルアンパバーンには、他にもちょっとお洒落なレストランやカフェがあるのだが、こうした国際チェーンはもちろんのこと、タイなど近隣国の外食産業も参画しているのではなかろうか。
例えば、いくら旧仏領といっても、国際的に通用するような旨いコーヒー、美しいケーキ類がその当時から存在したわけではなく、やはりこうしたものを伝えたのは、観光化が進むにつれて参入した国外資本(個人による開業を含む)が道を切り拓いてきたはずで、元々この地にはなかった新しい文化を導入することになった。
外来の外食産業がリードすることにより、地場の業者も優れた感覚やサービスの手法を取り入れていく。観光業振興におけるひとつの成功例である。
そんな具合で、観光客が多く滞在するエリアでの外食はけっこう値段も高いので、バックパッカーをはじめとする安旅行者たちは、どこで食事をしているのかといえば、もっと質素な店になる。
ナイトマーケットが開かれるエリア界隈では、ビュッフェ方式の屋台が店開きする。「何でも盛り切りで1万5千キープ」などと書かれており、大皿を手にして、自分でいろいろ盛り付けている西洋人たちの姿がある。
夕刻近くなると、屋台を切り盛りする人たちが、こうした料理をポリバケツに入れて、大八車で運んでくる。一見、生ゴミを運んでいるのか(失礼!)と思ってしまうが、それらを大皿に盛りつけて、賑やかな宴が始まるのだ。こうした需要を見つけて行動する地元飲食業者たちのフットワークの軽さに感心する。
ここでも中国人観光客がとても多いため、漢字の看板もよく見かける。グループでやってくる人たちが多く、客単価も高いようで、なかなかの上客だろう。
このような造りのホテルも少なくなく、コロニアル建築を改修したものであったり、まったく新築のコロニアル風建築であったりもする。いずれにしても快適に滞在できそうで、好感度抜群だ。
〈続く〉
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ルアンパバーンへ
ここしばらく、インドと関係ない国に関する記事が続いており、恐縮である。
久しぶりにドンムアン空港に着いた。2006年にスワンナプーム国際空港が開港にあたり、閉鎖されていた時期もあった。今では、第1ターミナルは国際線用、第2ターミナルは国内線用として、どちらもLCCの航空会社が乗り入れている。
ここからエアアジアのフライトでラオスのルアンパバーンに向かう。ずいぶん昔のことと較べても仕方ないのだが、便利になったものだとしみじみ思う。
ラオスが個人旅行者に門戸を開いたのは、確か1989年あたりだったと記憶している。バンコクで宿泊していたゲストハウスで他の旅行者から「ラオス入れるようになったって!」という話を聞いた。当時は「インターネット」というコトバさえも耳にしたことがなく、こういうことがあった場合、実際に訪れた人から直接話を聞くか、あるいはその国の大使館に行って、本当に個人で観光ヴィザが取得できるのか確認するしかしなかった。
そのとき、私はすでにバングラデシュのダッカへ飛ぶフライトを予約していて、ラオスに長居することは出来なかったとはいえ、とても気になったのでその翌朝にラオス大使館に行ってみた。ヴィザ申請に来ている人たちはさほど多くなく、手続きはすぐに終わり、確か翌日あたりには発行されて、そのまま長距離バスで、メコン河を挟んだラオス国境の町、ノンカーイに出発した。
その頃、メコン河両岸を結ぶ橋の建設について、そういう計画があるということは聞いていたのだが、まだ工事にさえ取り掛かっていなかったように思う。ノンカーイからは、渡し船で対岸のラオスに着いた。草が生い茂る岸辺に、「Duty Free」と看板が出ている免税店があるのが印象的だった。

1989年 渡し船でタイのノンカーイからラオス側の岸辺に着いたとき 
1989年 ラオスが個人旅行者に門戸を開き、メコン河を渡ってビエンチャンに向かう旅行者を待ち受けるタクシー タイのノンカーイにしても、特にどうということのない田舎町だったが、それでも対岸のラオスに着いて、そこから客待ちをしているずいぶん古いトヨタのタクシーで、首都ヴィエンチャンに着くと、時間が40年ほど遡ったかのような思いがした。

1989年 ラオス首都では「自家用車」を目にすることはほとんどなかった。 
1989年 ヴィエンチャンでは社会主義的なイラストの看板をよく目にした。 今では交通渋滞なども発生しているラオスの首都だが、この頃にはまだ自家用車の姿は非常に少なく、「ラオスで初めて出来た信号機」には、見物人が集まっていたりするなど、のどかなものであった。
モンスーン期、当時のラオス首都では、メインストリート以外に舗装道はなく、自転車を借りて郊外まで走ると、車輪がぬかるみにはまって往生した。くるぶし上まで泥に浸かって進まなくてはならないところもあった。
この頃、雨季のルアンプラバーンについては、軍の全輪駆動の車両をヒッチして行くのが定石であった。すでに予約してあったダッカ行きのフライトのこともあったし、ガイドブックもなかったので、首都からそう遠くないところにどんな見どころがあるかも知らなかった。そんな具合で、時間もないので早々に切り上げてタイに戻った。
「美しい古都」として知られているルアンパバーンについては、1995年に町そのものが世界遺産指定されてから、爆発的に訪問者が増えたと聞いており、その後もことあるごとに気になっていた。
今では、タイ、カンボジア、中国、ベトナム、シンガポールなどから国際便が乗り入れており、子連れで気軽に訪れることができるようになっているのだから、世の中ずいぶん大きく変わるものだな、と思う。

ドンムアン空港からエアアジア搭乗。湿度が高く、フル回転を始めた空調から出る空気は白い蒸気となる。 
ルアンパバーン空港へと機体は高度を下げていく。 
ルアンパバーン空港到着 -

コサメット1
バンコクのエカマイ・バスターミナルに向かう。コサメットに行く船着き場バーンペーまでのバスは1時間半後まで無いと言われたが、幸い反対のカウンターではミニバスのチケットを売っており、これは今すぐに出るところとのことで助かった。クルマは、「ミニバス」というよりも、大きめのヴァンであった。
ヴァンの同乗者に台湾人男性がいた。タイ人の運転手は中国語が出来るようで、他の同乗の中国系タイ人のおばあさんとともに、北京語で話している。中国語というのは実に使い出のある言葉だ。台湾人にしてみても、違う国に行って、そこに数世代にわたって暮らしている現地の華人たちと中国語で会話できるというのはなかなか面白いものだろう。
もっとも華人といっても、タイではすっかり現地化してしまって、潮州語等、父祖の言葉は出来ず、当然ながら北京語も出来ないという人たちは多いようだが、それでも中国系の人口が多いだけに、流暢に使いこなす人もまた少なくないようだ。
バーンペー到着は11時前くらいであったか。バンコクから3時間程度であった。船でコサメットに着いたのは、ちょうど正午あたり。この島は、バンコクから近いので、幾度か来たことがあるのだが、前回訪れたのは20数年前だったが、コサメットに渡るバーンペーの船着場周辺の光景がまったく違っているのには驚いた。魚の干物やスルメなどを天日で干している風景の中、突堤脇に小屋があり、そこで船の切符を売っていたように記憶しているが、いまやすっかり立派な市街地になっている。

バーンペーの市街地 
バーンペーの埠頭 実に久々に訪れたコサメットでは、ずいぶんアップマーケットな宿泊施設やレストランがいっぱいで、まったく別世界になっていた。今回は子連れで来ているので、船着き場近くで、何かと便利なサイケウビーチに滞在。至近距離にコンビニが3軒もあり、ATMも沢山ある。

コサメットへ 
コサメットの船着場はずいぶん立派になっていた。 
ちょっとした市街地になっており、コンビニも出来ているのにはビックリ。 
旅行者に必要なものは何でも揃っている。 
今のコサメットには、こんな立派なホテルが沢山ある。 昔のように細い角材の枠組みにベニヤで壁を仕切り、茅葺きの屋根を付けただけの、歩くと建物全体がミシミシと軋む、高床式の簡素なバンガローは、少なくともサイケウビーチからアオパイビーチまで歩いてみた範囲では見当たらなかった。
そうしたバンガローは、独立した部屋ふたつで一棟だったが、当然エアコンなどは無かった。砂だらけのベニヤ床に敷かれたマットに蚊帳を取り付けて、裸電球ひとつが頼りなく点る、蒸し暑く重苦しい空気の中で、どこからか聞こえてくる虫の声を耳にしながら、幾度も寝返りを打つ。やがて汗まみれで、浅い眠りへと入っていく。コサメットに限ったことではないが、タイのビーチの典型的な宿であったと記憶している。
首都圏から近いことから、昔から週末にバンコク界隈から地元の人たちが大挙して訪れていたのだが、バンガローに宿泊しているのはたいてい欧米人、加えてそれ以外の日本人等の人たちであった。タイ人でそうした安い宿に泊まるのは、ギターを抱えた大学生のグループくらいであったように思う。今はカップルや家族連れが、きれいで快適なホテル等に宿泊している。
外国人旅行者の層も大きく変化した。欧米の中高年層が実に多くなったことに加えて、今は中国大陸から来る人たちが大変多く、どこも中文の看板や表示で溢れている。コサメットに着いてから海パン、一緒に来ている私の娘の短パン等を買い物したのだが、いずれも売り子たちが上手くない北京語で話しかけてくる。商談、値段交渉は、私の更に下手くそでデタラメな中国語で終始する。

中国人団体さん。とにかく賑やかでよく食べる。 かつて幾度か訪れたことがあるところでも、ふた昔以上前のこととなると、まったく異なる場所になっているので、初めて訪問するよりもかえって新鮮味が感じられるかもしれない。

大型のレストランが沢山出来ていて、これまたビックリ。 
かつての素朴なムードとはまったく異次元の世界 
夜になっても華やかなビーチ 
ビーチに席を並べた大賑わいのレストラン 
海鮮バーベキューの具の見本 
ちょっといい感じのホテルで、空調の効いたフロントには、こんな高級犬が鎮座していた。 
ビーチ裏手には屋台の集合体もある。 数々の美しい島々に恵まれたタイでは、「屁」みたいなもので、大きな歓楽街のあるパタヤよりはマシという程度かもしれない。さりとて南国の島、タイの国立公園指定されているだけあり、それはそれで風光明媚で素敵な島で、個人的にはかなりお気に入りだ。

変わらないのは海原の風景 
夕暮れ時の浜辺 
今日の日よ、さようなら それに、首都圏から4時間弱でアクセスできる点もいいし、ここから対岸のバーンペーまで渡れば、1日に数本程度、スワンナプーム国際空港への直通バスもある。

大当たりのドリアンで夢心地 〈続く〉

















