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カテゴリー: economy

  • ジャナクプル1 シーター姫の生誕地

    ジャナクプル1 シーター姫の生誕地

    カトマンズから飛行機でジャナクプルに到着

    ジャナクプルの宿にチェックインして、部屋に荷物を置いてから、ジャーナキー・マンディルに参拝。ラーマーヤナに出てくるシーター姫の誕生地ということになっているこの町で、まさにそのシーター自身を祀る寺院だ。それだけに、ファンシーな感じの装飾とたたずまいである。建物自体はラージプート建築で、ここにいるとネパールに滞在している気がしない。まるでインドに居るかのようだ。

    ジャーナキー・マンディル

    ジャーナキー・マンディルの本堂

    境内に併設されている寺院の博物館では、ネパールルピーで15Rs、インドルピーで15Rsと書かれているが、国境が近いため日常的にインド人参拝者が多いのだ。そんなこともあって、市中で広くインドルピーが流通している。昨年11月にインド政府が高額紙幣(額面500Rs と1,000Rs)の廃止を宣言した際には、かなり困った人たちが少なくないことだろう。

    ネパールルピー、インドルピーでの入場料をそれぞれ表記

    インドに居るかのよう・・・といえば、このあたりの雰囲気としては、ほとんど視覚的にはインドである。ネパールでは普通にヒンディーが通じて便利な反面、返事が英語やネパール語で返ってくることがあったり、『ネパール語は出来ないの?』というコメントが挟まれたりすることもある。そのため、ちょっと気後れするような、申し訳ないような気がしたりすることもある。だが、ジャナクプルに来ると、さすがにそういう雰囲気はない。ゆえに、ますますインドに戻ってきたような気分になる。看板や売られている新聞はやはりネパール語(文字は同じ)なので、やはり違う国にいるのは間違いないという、やや不思議な気分になる空間だ。

    このあたりのマジョリティはインド側のミティラー地方と同じく、マイティリーの人たちで、彼らの言葉「マイティリー」はヒンディーの方言。国境を挟んだ通婚についてもよく耳にする。国境でインド側とネパール側に分かれているミティラー地方だが、文化的にはもちろんのこと、インド国籍とネパール国籍の人たちの往来は自由であるため、一続きの世界だ。

    蛇足ながら、ほとんどインドのビハールみたいに見えるジャナクプルだが、やはりネパールなので、いかにもそれらしい佇まいの寺院も存在している。

    〈続く〉

  • コイル式電熱ヒーター

    コイル式電熱ヒーター

    昔、バックパッカーだったころ、これで毎日お湯(ペットボトルの水を買うお金なかった)沸かしてから水筒に入れたり、朝食用にゆで卵やインスタントラーメンを作ったりするなど、旅行中の必需品だった。タイ製のものはしっかりした作りで長持ちしたのだが、インド製はすぐにコードが断線してダメになった。壊れても、すぐに代わりのヒーターが街中で手軽な値段で入手出来るのは便利で良かった。ときどき感電して痛い目に遭うこともないではなかったが。
    あれからずいぶん長い歳月が過ぎたが、この商品はまったく進化することなく、昔のまんまであることが可笑しいような、嬉しいような・・・。

  • Paytm

    Paytm

    Paytmでの支払いが出来ることを明示した露店

    こんな露店でも電子決済(携帯電話による決済)を扱っているのだから恐れ入る。
    かなり評判の高かった電子決済サービスだが、昨年11月9日の高額紙幣(旧1,000Rsおよび旧500Rs)廃止にともなう紙幣不足で脚光を浴びるとともに、さらに大勢の新規ユーザーを獲得したようだ。
    店頭での支払い以外に、個人間での送金も可能だ。
    電子決済の分野では、日本よりもずいぶん先を行く部分も少なくないインドである。

  • コールカーターの街

    コールカーターの街

    英領期の壮麗な建築物が今もふんだんに残るコールカーター

    文化人類学者の中根千枝氏が、戦後間もない頃に自身のコールカーター等に滞在している。彼女が何かで書いていたが、当時目にしたコールカーターの印象は、今の時代の私たちが感じるものとは相当異なるものであったようだ。

    壮麗な建築物が整然と建ち並び、当時としては非常に良く整備された都市インフラと行き届いた給電があり、中には空調設備が整った施設もあったという。色濃く残っていた英国式マナーと文化的なたたずまい等々に感銘したらしい。インド独立直後のカルカッタは、まだ『先進的な欧州の街』であったのだ。

    分離独立時の東パーキスターンからの難民流入に加えて、その東パーキスターンが西パーキスターンが相手の独立戦争を経て、バーングラーデーシュとして再度独立を果たすに至っては、さらに大きな規模の難民が雪崩を打って流れ込む中で、街中の様子が大きく変わったとも聞く。

    その少し前から始まった基幹産業や銀行などの国有化政策により、大きく左寄りとなった中央政府のスタンスにより、90年代に入るまでは長く停滞が続いたインド経済だが、とりわけ西ベンガル州においては、70年代に共産党が政権に就いてから(2011年の州議会選挙で負けて野党に転じる)は、カルカッタの街は右肩下がりの低迷を続けた。

    知の都コールカーターを擁する西ベンガルは、インドを代表する『革命の都』であったことから、様々な左翼活動家を輩出し、今も労働組合活動が大変盛んな土地柄だが、暴力的な極左勢力マオイスト(西ベンガルのナクサルバーリーで決起したことから、ナクサライトとも呼ばれる)が活動を始めたのも西ベンガル。

    当時のカルカッタ大学にも、これに共鳴するシンパは多かったとのことで、英領期から続く名門大学の学生がかなりの規模で行方不明(警察による検挙)となった過去がある。初期のナクサライトを指揮したマーズムダールはベンガルひとながらもカルカッタ大学出身ではなく、デリー大学の卒業生だが。

    カレッジストリートにあるインディアン・コーヒーハウスも、そうした若き革命家たちも出入りして、闊達に議論を戦わせる場所でもあった。
    コールカーターでは、現在もユニオンや左翼政党による戦闘的なラリーが開かれたりポスターが貼られたりしており、今も革命の都の面影が感じられたりする。

    インディアン・コーヒーハウス
    インド共産党(マルクス主義派)の街角集会
  • サダルストリートを行き交う人々

    サダルストリートを行き交う人々

    サダルストリート

    サダルストリートと交わるフリースクールストリート

    サダルストリート近くでバングラデシュとの間を行き来する国際バスが発着するため、バングラデシュ人たちの姿が大変多い。

    ここ西ベンガルと同じベンガル人はベンガル人だが、このエリアにおいては、やはりバングラデシュからやってきた人たちはひと目でそれと判ることが多いのが可笑しい。

    まずずいぶん頑張ったよそ行き(とりわけ女性)格好であったり、店先をキョロキョロしながら物色していたり、手には大きなおみやげ袋を抱えていたりと、いかにもおのぼりさんといった風情。インド人旅行者がサダルストリートに来ることはあまりないし、地元カルカッタの人たちはこんなところに用事はないので、とりわけ目立つ。

    また、こうした都会で初対面の見知らない店員たちに、いささかの戸惑いもなくいきなりベンガル語で話しかけるのも、いかにもバングラデシュ人たちらしいことかもしれない。都心近くの商業地では、周辺州(ビハールやUP等々)から出てきた人たちが多く、店先で働いているのはベンガル人でないことが多いためである。

    まあ、目立つというか、ここで旅行者として訪問しているインド人みたいに見える風貌の人たちのほとんどがバングラデシュから来た人たちなのだが。

    ストリート界隈で特定の商いを営む人たちの中にも特定のエスニシティがあるようだ。タクシー運転手はほぼビハール、UPから来た人たちのモノポリーなのはオールインディアな現象だが、この地域で両替屋のオーナーにはアングロ・インディアンが多いというのはちょっとオドロキだった。

    ごくなんでもない風景の中にも、ちょっぴり興味深いことが見つかったりするのは、やはりインド亜大陸ならではの面白いところだ。他の国を旅行すると、あ〜景色が良かったとか、飯がうまかった云々で終わってしまうのだが、この亜大陸では、ただ座って雑談していても、いろいろな社会勉強をさせてもらえる。

  • The Cha Project

    いろいろ調べてみると、大いに楽しいカルカッタの旧チャイナタウンだが、それと知らずに通りかかっても、そこが華人が集住していたエリアであると気が付く人はあまりいないのかもしれない。
    あくまでも「旧チャイナタウン」であり、現在は基本的にムスリム地区。華人の姿はほとんど見かけないからだ。
    サダルストリートの東端に面した消防署前で交差するフリースクール・ストリートのほうが、華人経営の食堂、靴屋、電髪屋等々を見かけるくらいだ。
    ただし旧チャイナタウンでは、よくよく眺めてみると、路地裏に華人の古ぼけた同郷会館があったり、いくつかの中国寺院が存在していたりするし、チャッターワーラー・ガリーと呼ばれる小路には、いくつもの華人たちの住居が見えるし、華人の子供たちが地元のムスリムの子供たちとクリケットに興じていたりもする。それでも、どこかで混血しているケースが多いこともあり、西ベンガル州のダージリンあたりから来た家族の子かな?という風に見えたりもする。
    それほど華人の存在感の薄い「旧チャイナタウン」だが、もうだいぶ前から「The Cha Project」というのが活動しており、この地区の華人たちのヘリテージの復興を目指して奮闘中。これにはシンガポール華人その他も協力している。
    その歩みはゆっくりとしたものだが、数年程度の長いスパンで眺めると、その進展には、なかなか興味深いものがあるかもしれない。

    The Cha Project

  • カルカッタ最古の中華料理屋 Nanking Restaurant (南京飯店)

    カルカッタ最古の中華料理屋 Nanking Restaurant (南京飯店)

    元「Nanking Restaurant」

    1924年(1925年?)に開業。往時は相当高級な中華料理屋であったようで、欧州人たちの利用も多かったようだ。時代が下って1950年代あたりになると、当時のインド映画のスターその他の富裕層がよく出入りする人気店だったらしい。
    しかし、1962年に勃発した中印紛争により、インド在住(主にカルカッタ、他に西ベンガル州内、アッサム、メガーラヤの都市部に散在)していた華人たちは、インド公安当局により、ラージャスターンのデーオリーキャンプに送られる憂き目に遭う。
    そうした反中的な機運の中で、南京飯店の経営は傾き、1970年代半ばあたりに店を閉めることになった。
    荒れ果てたとはいえ、今でも相当立派な建物だ。2013年以前は建物の前がうず高く積まれたゴミ類でいっぱいだったのだが、これらが撤去されたため、今回はようやくその前まで行くことができるようになっていた。
    このまま打ち捨てておくには、あまりに惜しいか、今は「安東会館」という看板がかかっているので、華人のコミュニティホールか何かとして利用されるようになっているのだろうか。

  • 知日と親日

    コールカーターを訪問すると、とりわけ年配の方々での間に知日家がけっこう多いらしいことを再確認できる。

    総体的にインドでは日本に対する印象は好ましいものだ。歴史問題がないことから、反日嫌日感情とそれを利用する政治力学は不在である。

    もっとも歴史問題が本当に存在しなかったのか?といえば、そんなことはない。日軍によるアンダマンの空爆はあったし、1936年に英領インドから分離したビルマに在住していた膨大な数のインド人移民たちは、ラングーン、マンダレーなどで甚大な被害を受け、大量の難民がインドに流出。今でもミャンマー在住のインド系の年配者たちの間で、当時の日本の悪行が深く記憶に刻まれている人たちは少なくない。また、インパール作戦ではインド軍は日軍と死闘を展開しており、この地域に住むモンゴロイド系の少数民族の人たちに与えたインパクトは決して無視できるものではない。

    しかしながらビルマ占領とインパール作戦には、インド独立運動の一翼を担ったスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)も日軍とともに参戦している。英国支配の呪縛から祖国を救おうと試みて解放戦争を闘ったINAにとって、日軍は友軍(実態はINA自体そのものが日軍の傀儡であったといえるが)であったため、侵略者としての面が中和されて、後世に残る歴史問題とはならなかったようだ。

    また、インド側にしてみれば、反英活動に忙しかった時代であること、分離独立により、東西パキスタンを失うとともに、両国間で大量に発生した移民の波と、移動のプロセスの中で発生した殺戮の記憶があまりに大きなものであった。マジョリティが住む本土から遠く離れた辺境での出来事についての関心は薄かったし、今も顧みられないということもあるだろう。

    インド人全般に言えることだが、自国の北東辺境部に対するこうした共感意識の欠如は、独立以前から現在に至るまで、北東地域の不安定さの主要因のひとつでもある。

    それはとかくとして、反日感情がないから親日かといえば、そうともいえないものがある。被害を受けた記憶がないから、当然悪い感情を抱くことはなく、概して好意的とはいえ、一般的に日本に対する知識がほとんどないのに、親日的とするのは行き過ぎだろう。

    経済的に繁栄した国(近年は落ち目であっても)であることや日本ブランドの優れたクルマや家電製品などはいいなぁ、という程度の認知で、韓国や中国の人々のように、日本の良い面、そうでない面を相当程度知ったうえでのこととは、まったく次元が異なるのだ。

    ちょうどトルコにおける『親日』感情と同じようなものだろう。紀伊半島沖で難破したエルトゥールル号の救出という歴史上の出来事、宿敵ロシアに戦争で勝ったというような遠い過去の出来事がよく挙げられる。そんな程度のものだ。

    そんな中で、カルカッタやその周辺地域では、インテリ層年配者の間で日本式の菊などの盆栽がなかなか盛んである。戦後日本の復興期に製鉄や造船などに注力していた時代に大量の石炭を輸出した仕事の縁で日本に知己の多い老人、当時の貧しかった日本に将来を託して渡った留学生など、日本と深い繋がりを持ったことがある年配者がけっこういる。

    彼らの時代には、戦前のスバーシュ・チャンドラ・ボースやカレーの中村屋の始祖となったラース・ビハーリー・ボースといったベンガル出身で、日本と近しかった民族主義者や革命家の記憶が新しかったのかもしれないが、年配の知日家を目にすることが少なくないコールカーターだ。

    ここで敢えて『親日』ではなく、『知日』としたのは理由がある。
    ご存知のとおり、韓国や中国には知日家は実に多い。日本への造詣が深いがゆえに、日本の良いところも知る反面、そうではない部分もよく知っている。
    ゆえに知日家ながらも対日(政府への)感情は良くないということは珍しいことではない。

    コールカーターの知日家について、日本についてどのように感じているのかはよく知らないが、親日・反日という感情については、まず日本のことについて、相当程度の知識なり経験があってのものであろうと私は思う。

    そうした意味から、一般的にインドにおいては、それらのどちらでもない、ごくニュートラルなものであると言えるだろう。

  • Paytmなど

    銀行口座がなくても、クレジットカード持ってなくても利用できる電子決済方法が急速に浸透するインド。支払い出来る先も、これまた相当な勢いで拡大しているようだ。
    なかなか興味深いものがあるので、詳しく調べてみてから後日これについて述べてみることにしたい。
    先月の高額紙幣廃止と、それに伴う現金不足も、こうしたサービスの追い風となることだろう。

    電子決済 インドで開花 最大手Paytm 20年までに5億人(日本経済新聞)

  • 廃止された高額紙幣 額面6割差し引いての取引

    インドのムンバイーにある貴金属や宝石類を扱うジャヴェーリー・バーザールの話だが、高額紙幣廃止直後に、高額紙幣の額面を6割も差引いての取引が展開されていたことが報じられている。

    これらは当然、表沙汰に出来ない筋の現金が対象となっているものと思われるが、これに関わる業者たちは、引き取った旧紙幣を一定期間うまく処分出来るルートを確保したのだろう。

    本来ならば、ブラック・マーケットに関わる者たちにとっては危機的な出来事だが、これを逆手に取って、金儲けのネタにしてしまうとは、大したものだ。

    RS 500, RS 1000 NOTES DISCONTINUED: RS 400 IN EXCHANGE OF 1,000 IN ZAVERI BAZAAR (Mumbai Mirror)

  • 強奪された現金の大半が廃止された旧紙幣

    銀行強盗が奪った130万ルピー のうち、110万ルピーは廃止されたお札だったという間抜けなお話。新札交換の需要で現金は充分にあると踏んだか、それとも行けばなんとかなると思ったのか。事件を起こすには、あまりにタイミングが悪かったようだ。

    Jammu and Kashmir Bank robbed; gunmen escape with banned Rs 500, Rs 1000 notes worth Rs 11 lakh (THE FINANCIAL EXPRESS)

  • インドの高額紙幣廃止はネパールにも影響

    11月9日から、インドで500 Rs及び1,000 Rs紙幣が廃止されたことに伴い、隣国ネパールでも、これを巡る問題が起きていることが報じられている。

    もとより同国南側平原部のタライ地域では、インド経済との結びつきが強く、大量のインド紙幣が流通していること、より高い賃金と就労機会を求めて隣国インドで働くネパール人労働者たちが故国に持ち込むインドの紙幣があるためだ。

    これらの中で、今回廃止された高額紙幣が占める割合は当然高く、インド側に出なければ、これらを少額紙幣あるいは高額新紙幣に交換する手立てはなく、1日に交換できる金額も限られているため、保有する人たちに与える影響は甚大だ。

    Demonetisation hits Nepalis living near border with India (The Himalayan)